10月の短編小説

10月の小説アイキャッチ 秋物語
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10月1日  コーヒーの日

「いらっしゃいませ」

 わたしは小さなカウンターだけのコーヒーショップを経営している。毎日おいしいコーヒーを淹れ、喫茶以外にわたしが厳選して取り揃えた豆を販売する店である。

 わたしの店の特徴といえば“本日のコーヒー”に使われている豆の種類をあえて開示しないようにしていることだろう。お客さんに味覚と風味の新しい体験をしてもらうのが目的なのだ。

「どっこらしょっと」と男はカウンターの一番奥の席に座った。「今日こそは当てさせてもらうぞ」

 そこが彼の定位置なのだ。男は中年をとうに過ぎ、現在はサラリーマン時代の蓄えと年金で暮らしているらしい。髪の毛は薄く、白い口髭をたくわえている。精悍せいかんな顔立ちはハンサムな部類と言っていいだろう。

 本日のコーヒーをずばり的中させると、コーヒー代はサービスになるのがこの店の特徴だ。ただし、これを当てるのは至難の業だ。いままでに的中させたことがあるのは、このカウンターに座った常連の男だけなのである。

「いつものやつ」と男は本日のコーヒーを注文した。コーヒーを味わいながら、持参した新聞と文庫本を午前中いっぱいを費やして精読する。これが男の日課なのである。

 わたしは微笑みながら頷くと、サイフォンの用意を始めた。

 いつぞや誰かと世間話をしていたときに、男の前職が、ある有名な商社でコーヒー豆の買い付けも担当していたようなことを耳にした。どうりでコーヒーの味にも詳しいはずだ。

 コーヒーの味を決定するのは豆の種類だけではない。焙煎の仕方でも変わってくる。コーヒー豆はもともと薄い緑色をしていて、それに熱を加えることで茶色がかった色になり、あの独特な香りを出すことができるのである。

 焙煎の仕方には大きく分けると浅煎り中煎り深煎りの3つになるが、細かく分けると8つになることはご存知だろうか。

 浅煎りには2種類あり、ライトローストシナモンロースト・・・・・・これはアメリカンで使われる煎り方だ。中煎りにもミディアムローストハイローストの2種類がある。喫茶店や家庭で使われるのはこの煎り方が多い。深煎りはもっと複雑に分けられていて、シティローストフルシティローストフレンチローストイタリアンローストで、これらはエスプレッソやカフェオレ、アイスコーヒーなどに主に使われる苦味の強い煎り方である。

 そして豆の挽き方でも味が変わる。挽き方は大きく分けて5種類ある。

 極細挽きはエスプレッソに最適だ。細粗挽きは水だしコーヒー向け。中細挽きはペーパードリップやコーヒーメーカー向き。中挽きはサイフォン、ネルドリップに向いている。そして粗挽きはキャンプやアウトドアで直火にかけて抽出するパーコレーター(濾過器のついたコーヒー沸かし器)などで使用される。

 うちの店で使うのは、ほぼ中煎りの中細挽きだが、味の変化をつけるために微妙にそれらを変えている。お客はそれを踏まえた上でブレンドされた豆の種類を言い当てなければならない。

 豆には3大原種というものがある。市場に出回っているのはアラビカ種カネフォラ(ロブスタ)種リベリカ種の3種類だ。その内のリベリカ種は全体の1%に満たないし、カネフォラ種は缶飲料などの原料に使われることが多いので、喫茶店ではほぼアラビカ種が主流と言っていい。

 さて、肝心なのは豆の種類だ。いくつか上げてみよう。
ブルーマウンテン』はジャマイカの豆で、上品な口当たりと優雅な香り、苦味や酸味、甘みのバランスが絶妙な豆だ。“コーヒーの王様”とはよく言ったものだ。
キリマンジャロ』はタンザニア(東アフリカ)の豆で、深いコクと豊かな酸味があり、バランスがよく軽いテイストの豆だ。
モカ』はエチオピア(東アフリカ)やインドネシアの豆で、フルーティーな香りが特徴。
コナ』はハワイの豆。豊かな酸味とキレがある。香りがさわやかな豆だ。
マンデリン』はグアテマラ(東アフリカ)、インドネシアの豆。華やかな酸味とコク、甘い後味が特徴。
ブラジル(サントス)』南米の豆。苦味と酸味、コクが調和していて、全体としてやわらかい味の豆だ。
コロンビア』これも南米の豆で、コクと酸味、豊かな香りを楽しめる。以上が代表的な豆の種類だ。

 余談になるが、『トラジャ』というコーヒーがある。これはインドネシアのトラジャ地方で採れる豆で、クリーミーな香りと豊かな香りの強いコクと優しい苦味のあるコーヒーだ。これはストレートで飲むべきものだから、うちの店ではブレンドには使用しない。

 わたしはチラッと男を見ると、あるちょっとした悪戯いたずらを試みたい衝動にかられた。さきほどコンビニで買ってきたブレンドコーヒーを彼に飲ませたらどんな顔をして、どんな回答をするだろうか。もちろん、「冗談です」とちゃんとしたうちのブレンドも用意しておくつもりだ。

 わたしは何気ない顔をして、カウンターの下に忍ばせておいたコンビニのカップコーヒーを、温めておいた店のカップに移し替えて男の前に置いた。コーヒーカップから白い湯気が立ち昇っている。

 男は新聞を読みながらそれを口に運ぶと、ピタリと動きを停めた。

 やはりな。ひと口でわかってしまったようだ。わたしはちゃんとしたコーヒーカップを手に取って苦笑いする。

「失礼しました。これは・・・・・・」

「きみ。これはハイローストしたブラジル豆をベースに、コロンビア、キリマンジャロ、それにマンダリンを少々ブレンドしたものじゃないかね。濃厚な苦味とコクにさわやかな酸味が加わり、後味に甘味があって香りが豊かだ」

「あの、実は」

「ううむ・・・・・・今までこの店で飲んだコーヒーの中では一番おいしい!」

10月2日  望遠鏡の日

「おや、あれは」

 おれはその日、先日盗みに入った家でいただいた望遠鏡をのぞいていた。それは古風な造りの望遠鏡で、なにか価値があるように思えて金品と一緒に勝手に拝借してきたのだ。

 試しにマンションの3階の窓から、望遠鏡で向かいの市営住宅を覗いてみたのである。

 夕方だからどこの部屋も夕飯の支度で忙しいらしく、主婦がキッチンでなにやら料理をしている姿ばかりが目に入ってきた。その中のひとりに、飛び切りの美人がレンズの中に映った。そしてその美人の背後でなにやらしゃべっている男がいる。

「お、あれは・・・・・・」

 そこに映っていたのは、以前おれを逮捕して留置場にぶち込んだ刑事だったのだ。

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

たつさんの奥さんは超美人だそうですね」と若い岡本おかもとが言う。

 二人の男が歩いている。

「ああ。だが以前、辰のやつが検挙した女スリなんだけどな」と年配の刑事が答えた。「間違ってもこの話は本人の前では言うなよ」

「え、そうなんですか。気をつけます」岡本が驚いた顔をする。「でも、ひと山終えて、こうやって夕食に呼んでくれるなんて、辰さんはアットホームな家庭を築かれたのですね」

「まったくだ。うらやましい限りだよ。岡本も、どうせ捕まえるならああいういい女にしろよ」

よねさん。捕まえる意味が違いますけど」

「どっちも変わらねえよ。おれ達刑事にとっちゃ、一生心に残ることだ。お、着いたぞ。あそこの3階の角部屋が辰さんの家だ」

「楽しみですね」岡本が微笑んだ。

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

 刑事と女は何か言い争っているようだ。

 刑事が女を背にして冷蔵庫の前で屈んだ。ビールでも出すつもりなのだろう。その時、女が何かを両手に持ち、刑事の後頭部に向かって振り下ろした。刑事は右手を伸ばしたまま崩れ落ちて行った。女はトドメを刺すように、二度三度と刑事の後頭部めがけて何かを叩きつけた。刑事はまったく動かなくなった。

 ふいに女が振り向くと、窓に向かって歩いて来てあたりを伺うように視線を走らせる。そしてなんと一瞬おれと目が合ってしまったのだ。女の鋭い視線が、レンズを通しておれの片目に突き刺さる。おれは思わずのけぞっていた。女の部屋のカーテンが思い切り閉められた。

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

 呼び鈴が鳴った。

「はあい」にこやかな女の声が返って来て鉄製のドアが開いた。「いらっしゃい」エプロン姿の艶子つやこが笑顔で出迎えてくれた。

「どうも奥さん」米さんが深々と頭を下げる。「今日はお招きに預かりましてありがとうございます」

「あら、かたいご挨拶は抜きにして、どうぞお上がりになって」

「おじゃまします」米さんと岡本が会釈をして入っていった。「辰さんは?」

「主人は今、ちょっと買い物に出かけていて」

「そうですか。すみません、ご主人のお留守にお邪魔したりして」

「いいんですよ。すぐに戻るから先にやっててくれって言ってましたから」

 キッチンからいい匂いが漂ってくる。

「すき焼きですか」思わず若い岡本がつばを飲み込む。

「お口に合いますかどうか・・・・・・」

 艶子はリビングに二人を通した。「どうぞ座っていてください。いまビールをお持ちしますから」

「どうかお構いなく」と米さんが言った。

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「見られたか」

 おれは望遠鏡をテーブルに置いた。心臓がドキドキ脈を打っていた。荒くなった呼吸を整える。

 どうする?あの刑事は息絶えたかもしれない。放っておくか。でもあの女に顔を見られたかも・・・・・・。いやこっちは望遠鏡だ。しかも夕闇だ。

 あの刑事になにか恩でも受けたのか?受けた・・・・・・確かに受けた。あの刑事は更生するように便宜を図ってくれた。いままでにあんな親身に考えてくれる刑事はいなかった。今ならまだ間に合うかもしれない。

 くそ!匿名で通報するだけなら・・・・・・。

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「これはまたいい肉ですな」米さんが赤い顔をして歓喜の声を上げる。ビールで酔っているのである。

「それにこの豆腐がまたいい」

 岡本も食べ盛りの学生のように箸が止まらない。

「おい岡本。そんなにがっつくな。辰さんの分がなくなるぞ」と米さんが岡本をたしなめる。

「それにしても辰さん遅いですね」岡本が肉を頬張りながら言う。

「だいじょうぶですよ」艶子が微笑む「主人の分はちゃんと取ってありますから、ぞんぶんに召し上がってくださいな」

 そういうと、艶子は米さんと岡本にビールを注ぎ足した。

「申し訳ありませんな。こういう仕事をしていると、普段ろくな物を食べてないんで。とくにこいつは」と米さんは岡本を指さした。

「ほんと、張り込みのときにはパンと牛乳ばっかりですからねえ」と、岡本は笑った。

 ほぼ鍋が空になった頃である。突然米さんの携帯電話の着信音が鳴りだした。

「失礼」

 米さんが携帯を持って玄関に移動する。

「はい。え?いま辰さんの家ですけど・・・・・・。そんなまさか」

「どうしました」

 岡本が心配そうに声をかけてきた。

「奥さん。この家、ちょっと調べさせていただけますか?」

 艶子の表情が消えた。

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

 私服警察官に両腕を拘束された女が連行される姿が見える。市営住宅の薄暗い壁は、何台ものパトカーや救急車の赤色灯の点滅で赤黒く染まっていた。

 覆面パトカーの後部座席に乗せられそうになった女の美しい顔が一瞬おれを仰ぎ見た。「覚えていろよ」女の眼がそう言ったように見えた。

 おれは望遠鏡を降ろして、そそくさと引越しの準備を始めた。

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「米さん。風呂場に辰さんの遺体が隠してあったなんて・・・・・・」岡本が青い顔をする。「そんなことも知らないでご馳走を食べていたぼくたちはどうなるんでしょうか」

「岡本・・・・・・おれたちは知らなかったんだ。処罰はあるまい」米さんは腕を組んで天井を仰いだ。「しかしどうして凶器がみつからないんだ?角ばった鈍器のようなものがあるはずだろう」

「窓から煉瓦を捨てるなんてできませんよね。その時間ぼくたちが下を歩いていたんだから」

「お前、何か気がつかなかったか?」

「いえ、とくに。やけに豆腐が多いすき焼きだとは思いましたけど・・・・・・まさか」

「あの豆腐、おれたちが食う前はカチカチに氷っていたのか!全部食っちまったぞ」

「ぼくたちは証拠隠滅のために利用されたってことですか」

10月3日  登山の日

「どうして山に登るのですか。そこに“”山があ~る”から・・・・・・なんてね。あ、失礼しました」リポーターのアップからカメラが引いて女性を映し出した。「“山ガール”というのはあなた方のような方を言うのですね」

 テレビのリポーターが山道でそれらしき女性を捕まえてマイクを向けたのだ。

「そうデース」と森口沙奈絵もりぐちさなえはにこやかに答えた。

「どうすればあなたのような“登山女子やまガール”になれるのでしょう?」

「簡単ですよ。帽子、シャツ、タイツ、スカート、トレッキングシューズを揃えればいいんです。しかもなるべくカワイイのを選んで!」

「ほう」テレビリポーターはメガネを押し上げて興味津々といった顔でマイクを近づけた。「それらを選ぶコツとかあるんでしょうか?」

「ありますよ。なんでもいいって訳じゃありませんから」

「たとえば」

「そうですねえ。まず下着選びは意外と大切なんです」

「どういうふうにでしょう?」

「汗を吸うだけではだめなんです。いつまでも濡れていたら、汗が冷えて体調を崩してしまうでしょう。だから水分を拡散してくれる下着が大切なの」

「なるほど、山では汗をかいたからといって、ひと前で着替えるわけにもいきませんものね」

「そうです。もちろん、アウターやその下に着るものは防寒、防風、防雨を視野にいれて選びます。フードがあるとカワイイけど、かさ張ってしまうのでアウターとミッドレイヤーの両方がフード付きにならないように注意しますけど。それから山は寒暖の差が激しいですから、脱着しやすいものがいいですね」

「リュックはどうですか?」

 リポーターが沙奈絵の背負っているリュックを指さす。

「大きさはもちろん大切ですけど、ウエストベルトの長さなんかも気にして身体にフィットするものを選びます」

「重たい物を下に入れるのですよね」

「逆ですよ」沙奈絵は笑った。「意外かもしれませんが、重いものを上に詰めた方がバランスがとれて歩きやすいんです」

「へえ、それは知りませんでした」

 リポーターがわざとらしく驚いた顔をした。

「でも最もたいせつなのは登山靴かもしれません」

「靴ですか」

「山道を歩くときは疲れにくくするために、とにかく通常時に履く靴よりもさらにジャストサイズでフィットしていることがとても大切なんです」

「本日は本当にありがとうございました。最後に登山女子にとって、困ったことなんかがあったら教えていただきたいのですが」

「そうですねえ・・・・・・ふだん道でひととすれ違ってもあまり挨拶とかしないじゃないですか。でも、山だと“こんにちは”を1日100回ぐらい言わなければならないんですよ。とくに中年おじさんはふだん若い女性と話す機会が少ないせいだと思うのですけど・・・・・・」

「ああ、わたしも中年だから気持ちはよくわかります」

「中にはストーカーみたいに一緒に行動しようとするおじさんもいるので閉口します」

「ありがとうございました。森口さんでしたっけ。これからどちらへ?」

「あの・・・・・・ちょっとお花を摘みに・・・・・・」

「おや、それはいいですね。是非同行させてください」

「結構です」

「そんなこと言わないで」

「だめです」

「どうしてですか?」

「女子のお花摘みっていうのはオシッコのことだから!」

10月4日  探し物の日

 わたしが友人の部屋を訪ねたのは、そろそろ秋の気配が感じられる頃のことだった。

「なに。泥棒でも入ったのか?」

 そう言いたくなるほど、彼の部屋はいつになく乱雑に散らかっていた。まるで正月のおせち料理でもひっくり返したかのようなありさまだ。

「ああ、勇作ゆうさくくん。いいところに来たね。手伝ってくれないか」

「なにを。破壊工作をか?」

「そうじゃないよ」彼は苦笑して言った。「探し物だ」

「ほう。また何か失くしたのかい」

「そうなんだ」

 彼は途方に暮れた顔をしている。

「気軽な気持ちでとりあえずどこかそのへんに置いたんじゃないのか?」

「いや」

「それじゃあ、失くしでもしたら大変だ。ちゃんとしまっておこう・・・・・・と、しまったところを忘れちまったとか」

「そうかもしれない」

「もしかして、なにかやろうとしていた最中に違うことをやりはじめて、最初にやろうと思ったことをすっかり忘れてしまったとか」

「ああ、それよくやるんだよね」

「それとも、収納に自信があるきみは、防犯のために時々収納場所を変更した・・・・・・ところがそれが頻繁すぎて、最後に収納した場所をすっかり忘れてしまったというオチか」

「いや、それがさ・・・・・・」

「じゃあ何なんだよ?」

「探し物をしているうちに、自分が何を探していたのかすっかり忘れちゃったんだよ」

「・・・・・・」

10月5日  檸檬・教師の日

楠木くすのき先生。お願いしますよ」教頭の竹林たけばやしがわたしに目を向ける。「藍田あいだをこっぴどく叱ってやってください。なにしろあいつは担任のあなたのことしか言うことをきかないようですからね」

 中学校の職員室で、わたしは教頭の机の前で頭を下げていた。

「なに、楠木先生の責任じゃありませんよ。藍田翔太しょうたの家庭環境に問題があるのでしょう」

「申し訳ありません」

 わたしはうつむきながら教室に戻った。

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 放課後、藍田翔太を用務員室に呼んだ。職員室に呼ぶと、外野の先生たちが彼を刺激して挑発しかねないと考えたからだ。

「ご無理を言ってすみません」

 わたしは用務員に詫びた。

「いえいえ、楠木先生も問題児を抱えてたいへんですな」用務員は頭の禿げ上がった、気のいい老人だった。「しばらく校内を見回りしてきますから。あとはよろしくお願いしますよ」と言って出て行った。

 わたしはパイプ椅子に座って翔太に向き合った。

「藍田君。また喧嘩したんだって?」

「・・・・・・」

 翔太はそっぽを向いている。

「あなたはボクシングをやっていたのよね。お願い。卒業するまで喧嘩はしないって誓って欲しいの」

「・・・・・・」

「そうでないと・・・・・・」

「先生クビになる?」

 翔太がわたしの目を見た。

「わたしのことなんてどうでもいいのよ。このままだと、きみが学校にいられなくなっちゃうじゃないの」

 翔太の切れ長の目がじっとわたしを見つめていた。

「わかった。約束する」

 翔太が頬を赤く染めてそう言った。

「ありがとう」わたしは翔太の両手を掌で握って言った。「お願い・・・・・・ね」

 翔太は真っ赤になって頷いたのだった。

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 その日、わたしは2クラス分の試験の採点をして帰路についた。もう秋なので暮れかかった高い空に、渡り鳥の群れが黒い影を作って山に向かって流れて行くのが見えた。

 近道して帰ろうと思ったのがいけなかった。そこは他校の生徒が溜まり場にしている場所だったのだ。かすかに煙草の匂いがただよっている。わたしは教師という立場から、ひとこと注意を促すことにためらいはしなかった。

「あなたたち、中学生よね。煙草はまだ早いでしょう。もう家に帰りなさい」

 すると岩影のように見えた塊が動き出した。

「うるせえよ、ババア」

「それより中ボーに小遣いのひとつも恵んでくれよ」

「なんかスゲー美人じゃね。おれ、大人の階段登ってみたいなー」

 最近の中学生は体格もいい。7、8人はいるようだった。わたしは危険を感じて後ずさりした。すると、何人かが走り出してわたしの退路を塞いでしまった。わたしは完全に包囲されたのだ。

「やめなさい。こんなことをしていいと思ってるの」わたしは叫んでいた。「わたしは〇×中学の教職員ですよ!」

 すると影は動揺した風もなく、暗闇に白い歯が浮かんだ。「先公だってよ」口の中で潰れた笑いが漏れてきた。「そうか。あんた、おれたちの敵ってわけか」

 黒い影は一斉にわたしに向かって、まるで猿が餌に飛び掛かるかのように襲いかかって来た。

「ひぃぃぃ!」

 その時悲鳴が上がった。後ろの3人が横倒しに倒れたのが分かった。

 わたしの前に、疾風のように細長い人影が現れた。

 前方から襲いかかる暴漢に対し、その人影は一旦屈むと目に見えないパンチを繰りだしたのだった。風を切る音がして、連続してぶ厚い肉がハンマーで叩かれたような音と共に、バタバタと暴漢達が地面へと沈んで行った。ほんの一瞬の出来事だった。ひとりの人間が、あっという間に暴漢たちを叩きのめしてしまったのである。

「あの・・・・・・」震える声でわたしはその影に向かって言葉をかけた。

 切れ長の目が闇に光った。次の瞬間、わたしはその影に唇を奪われていた。微かに柑橘の香りがした。わたしは電気が走ったような衝撃を受け、硬直して身体を動かすことも、その影から逃れることもできなかった。

 どのぐらい時間が経過しただろう。気がついた時にはわたしはその場にへたり込んでいた。遠くからパトカーのサイレンが近づいて来るのがわかった。

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

 翌日職員室に入ると、校長と教頭が用務員と何か話し込んでいる。何かが起きたのだ。わたしの一件だろうか。

 そうではなかった。どうやら夜中に誰かが職員室に忍び込んだ形跡があるというのである。

 藍田翔太は学校から姿を消した。

 わたしの机の上には、檸檬れもんがひとつひっそりと置かれていた。

10月6日  夢をかなえる日

「あなたの夢をひとつだけかなえてあげましょう」

 魔人がぼくの目の前に立って言う。

「夢をかなえるって?どんな夢でもいいの」

「もちろんだとも。わたしに不可能はない」

「ほんとうかなあ」

「わたしを疑うのか」

「だって、おじさん見るからに胡散臭うさんくさそうじゃん」

「失礼な。これでも魔界では結構、名が知れた存在なのだぞ」

「おじさん。名前はなんていうのさ」

「ムダーシャ」

「無駄あじゃ?」

「そうではない。ムダーシャだ」

「ふうん。じゃあひと晩考えておくから、あしたの朝7時にまた来てくれるかな?」

「かしこまりました。それでは明朝参上します」

 そう魔人が言うと、白い煙が立ち昇った。煙が晴れたとき、そこにはもう誰もいなかった。

「これは現実だろうか。ううん、まあいいか。とりあえず何か夢を考えよう」

 ぼくは世紀の美女と結婚する。大金持ちになる。レーサーになってF1で優勝する。ノーベル文学賞作家になる。ロック・スターになって世界中を演奏して周る・・・・・・などいろいろと夢が膨らんできた。ふだんぼんやりしているぼくは、あまりに頭を使ったものだからその晩はぐっすり眠ってしまった。

 ぼくは夢をみた。なぜか身体が宙に浮いて、青空を飛行していた。下界が見える。みんな通勤通学の時間なのだろう。速足で歩いている姿が見える。

 すると急にオシッコをしたくなってしまった。そこでズボンを降ろし、空から下界に向かって盛大にオシッコを放出したのだ。ワオ!そこを歩いているのは憧れの女性ではないか。でもぼくのオシッコの雨は止めどなく降り注いで、彼女の頭上にも時ならぬ土砂降りになって降りかかってしまっているのである。最悪だ~。

 ぼくはガバッと布団から起きた。やばいこの歳でオネショをしてしまった。

 そこへ魔人ムダーシャが現れた。

「ではあなたの夢をかなえましょう」

「え?ちょっ、ちょっと待って。どういうこと?」

「ですからあなたの夢を現実にしてあげるのです」

「ぼくの願いを叶えてくれるんじゃないの?」

「何を言っているのです。願いなんてひとことも言ってないですよ。さきほどあなたが見た夢を現実にしてあげるのです」

 ・・・・・・頭上でぼくの悲鳴を聞いたひと。すぐに逃げてください!

10月7日  ミステリー記念日

「近年この界隈で不審死が多いのをご存知ですか」

 ブロンク警部は後ろ手に調度品を眺めながらそうぼやいた。ここはぼくの探偵事務所である。

「不審死?」

 ぼくは読んでいた新聞を降ろして、パイプをくわえた。

「そうなんだアレン。そのほとんどは心臓麻痺で片付けられている」口髭をいじりながら警部がこちらに向き直った。「それも影で暗躍していた極悪人ばかりだ」

「法の網をくぐり抜けて犯罪を繰り返す連中のことかい」

「そうなんだ」

 警部がぼくのデスクに近づいて来る。「ずる賢くて警察の手には負えない連中だよ」

「わかった」ぼくはパイプをくゆらせながら言った。「だれかが殺人の依頼を受けて殺しているのではないかと・・・・・・そう言いたいんだな」

 ブロンク警部はあいまいに頷いた。

「探偵料は支払えるのかい」

「公費では難しいのだが・・・・・・それなりに調査費は持っているのでね」

 警部は額の汗を拭っている。

 ぼくは微笑んだ。

「まあいいだろう。明日署にそれらしい調書があったら観せてもらえるかい」

 警部がにんまりと笑う。

「そう言うと思って」ソファーの上のブリーフケースから何冊かの報告書を取り出した。

「これはまた準備のいいことで」

「アレン。どうせきみは暇なんだろう?」

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

 調書によると、死亡した人たちには外傷らしきものは存在していなかったという。そして一様に健康状態は良好で、患っている持病もなかった。当初は毒殺が疑われたが、検視の結果、体内からそれらしき物質を発見することはできなかったという。

 ただしブロンクが疑うのも無理はない。死亡したのは法で裁くことができなかった極悪人ばかりである。麻薬の密売人、連続婦女暴行魔、闇金融業者、人身売買などで逮捕されては証拠不十分で釈放されている者ばかりなのである。

 ぼくは考えた。仮にこれが殺人だとしたら、次に狙われるのは誰だろう。ぼくは裁判所に行き、近年裁判で無罪になった極悪人を調べてみることにした。

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

「あらアレン。どういう風の吹き回し。あなたが証人以外で裁判所に来るなんて」

 ぼくの知っている裁判所の秘書官のテレサはブロンドの超美人だ。タイトなスーツとスカート、それにピンヒールを履きこなし、真っ赤な唇が官能的である。

「ちょっと調べて欲しいことがあってね」

「だめよ。いくらアレンが有名な私立探偵だって、裁判記録は手続きを経て閲覧することになっているの。分かっているでしょう」

「じゃあテレサ。こうしないか。今日のランチをぼくがおごる。きみはボーッとしているぼくにひとり言をつぶやく。ぼくは呆けたように口をポカンとあけたまま空を眺めている」

 テレサがいたずらっ子のようにぼくの顔を覗き込む。

「わたし、たまにはフランス料理のコースが食べてみたいなあ」と言って片方の瞳を瞑ってみせた。

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 テレサの情報によると、めぼしい人物は3人。

 借金のはげしい取り立てにより、両親を自殺に追い込んだ高利貸しの男。保育士でありながら、影で子供たちに性的虐待を繰り返していたとされる男。不慮の事故で夫を相次いで亡くす度に、どんどん大金持ちになっていった女。

 マークするとしたら、どの人物だろう。ぼくはコーヒーを飲みながら、じっくり思考にふけっていた。その時電話が鳴った。ブロンク警部からだった。

「どうだね。捜査の具合は?」

「そうですね。まだなにも」

「そうか。わたしの取り越し苦労かもしれないから、あまり気を張らんでいいからな」

「ありがとう警部。ひとつ意見を訊いてもいいかな」

「なんだ」

「もし警部が殺人依頼をするとしたなら、悪どい金貸しと、幼児虐待の保育士、保険金目当ての殺人者のうちの誰を始末したい?」

「なんだって。そりゃあ、一番この世に生かしておきたくないやつだろうな」

「保育士?」

「おれならな」

「ありがとう」

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

 保育士の名前はロバートと言った。

 ぼくは朝6時に起床すると、ロバートを四六時中見張ることにした。ロバートは無罪になったところで、さすがにもとの保育所には勤務できないらしく、現在は隣町の保育園で仕事を請け負っていた。

 どこか薄暗い感じのする男だった。

 一週間尾行を繰り返して彼と接触した人物は3人。花売りの少女と新聞配達の少年、それに車椅子の老婆であった。どれもロバートを殺害するような気配すら見当たらなかった。これは空振りかもしれない。また最初に戻って捜査をやり直す必要がありそうだ。

 そうだ、今晩テレサでも誘ってバーでバーボンでも一杯飲みに行こう。そんなことを考えていると、ロバートが道で車椅子の老婆とすれ違うところが見えた。

 老婆が挨拶をすると、膝の上から茶色い毛糸の玉が地面に落ちてしまった。きっと編み物の途中だったのだろう。ロバートは微笑を作って老婆の毛糸の玉を拾いあげようと屈んだ。ロバートの後頭部に老婆が手を伸ばす。ロバートはそのまま動かない。老婆は毛糸をたぐり寄せると、車椅子を発進させた。

 ぼくは走った。

「待て!」

 すると車椅子に座っていた老婆はすっくと立ち上がって、全速力で走り去ろうとするではないか。老婆のかぶっていたグレーのローブが激しく上下に揺れた。だが100メートルを11秒で走り抜けるぼくの走力にかなうはずもなく、僕の手は老婆の肩にかかっていた。

 老婆が振り向く。フードが落ちる。そこに金髪で赤い唇のテレサの驚いた顔が現れた。

「きみは!」

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

「それでアレン・・・・・・」ブロンコ警部はぼくに訊いた。「テレサはどういう方法で彼らを殺害していたのだ」

「極細の針で、後頭部のツボを刺したのです。あまりに細い針だから、出血もしないし、息がとまるまでに穴は塞がってしまう・・・・・・」

 ぼくはため息をついた。

「それにしても彼女は正義感で殺しをやっていたのか」

「わかりません。幼少の頃は中国に渡った両親を強盗に殺害され孤児だったそうです。そのとき彼女を拾って育ててくれたのが針使いの名人だったということです」

 あのときぼくは叫んでいた。

「きみは!・・・・・・ミス・テレサじゃないか」

 テレサの大きな瞳が見開いて、いたずらっぽく微笑んだ。

「アレン、わたし達もう親しい間柄じゃなくって。テレサじゃなくてテリーって呼んでくださる?」

「なんということだ・・・・・・ミス・テリー」

10月8日  蕎麦・羊羹の日

「野村さんちょうどお昼どきですね。どうでしょう、そこの蕎麦屋で簡単に昼食でもすませませんか」

 そこはどうやら老舗のようだった。品格を象徴しているかのような凛とした佇まいが印象的な店だ。

 わたしはある企業の社長をしている。今日は経営コンサルタントの高宮たかみや先生に相談があって時間をとってもらったのだった。

「ところで高宮先生。よく蕎麦屋さんの暖簾に文字が書いてありますよね。“みょうだいなんとか”という」

「ああ、野村のむらさん。あれは名代なだいと読むのです。“なだいきそば”ですね」

「あれでそばと読むのですか。昔の字なんですか」

「いや、きそばの文字は『幾楚者』の変体仮名で、“ほっそりした束を煮る人”という意味を蕎麦屋にみたてた当て字になりますね」

「はあ。そうだったんですか。全然知りませんでした。てっきり生蕎麦という文字を略しているのかと思っていましたよ。またひとつ勉強になりました。食文化っていうのは奥が深いですね」

「食べ物は人間にとって、時としてとても重要な役割を果たしますから」

「食べ物の恨みは恐ろしいって言いますしね」

 わたしたちは暖簾をくぐって店の中に入って行った。小綺麗な白木のカウンターと、飾り気のない木のテーブルが四卓並べられていた。わたしたちは一番奥のテーブルに座った。

「さきほど、入り口にたぬきの置物がありましたが気がつきましたか」と先生はお茶を飲みながらわたしに訊いて来た。

「ああそういえば、蕎麦屋でたぬきの置物をよく目にします」

「あれはなぜだと思いますか」

「縁起物でしょうか?」

「そう。むかし金箔を作るときに、たぬきの皮を使って金を引き延ばしていたそうなのです。そしてこぼれた金粉をそば粉を使って集めたといいます。だから蕎麦屋とたぬきは”金を集める“という繋がりがあるので、蕎麦屋にはたぬきの置物がよく置いてあるのですよ」

「なるほど。そういうことですか」

 わたしは天ざる。高宮先生は玉子焼きとざる蕎麦を注文した。しばらくして、先生の前に玉子焼きが置かれた。先生は箸を取り、丁寧に口に運んで頷いていた。

「高宮先生は玉子焼きがお好きなのですか?」

 先生は優しい目をわたしに向けて「はじめて入った蕎麦屋さんではまずこれを頼みます」と言った。

「どうしてですか」と、わたしは興味深げに訊ねた。

「その店の出汁の味を確認するためです。玉子焼きの味でその店のご主人の腕がだいたい分かります」

「ああ。お寿司屋さんでまず玉子を頼むのも職人の腕を観るためだっていいますもんね」

「その通り。ここのご主人はきっとおいしいお蕎麦を作っている方です」

 ふたりの蕎麦が運ばれてきた。先生はまず蕎麦をひとくちふたくち、なにもつけずに口に入れた。「うん。おいしい」とつぶやくと、わさびと薬味を直接蕎麦にのせて、四分の一ほどつゆにつけて食べ始めた。

 わたしはこれが通の食べ方なのだと感心して見ていた。そして恥ずかしくなった。わたしの蕎麦は甘いつゆにどっぷりと浸かっていたからである。

「それで、例の外資系の会社とはうまく商談が進んでいるのですか」と先生は静かに訊ねた。

「ええ、先日一緒に夕食を共にするところまでは進みました」

「そうですか」

「でも食事の前に、会社からトラブルの連絡が入りましてね」

「それはたいへんでしたね」

「それで、取るものも取りあえず、途中で食事を切り上げさせてもらいました」

「それは先方も残念がったでしょう」

「そうですね。最初に出されたスープすら飲めませんでしたからね」

「では・・・・・・ほとんど食事は手つかずのままということですか」

「そうです。まあ、いずれまたご招待しようとは思っているのですがね」

 その時わたしの携帯電話が鳴り出した。

「失礼します」

 わたしは携帯電話を持って、一度店外に出た。電話の相手は専務からだった。

「社長たいへんです!先日食事をした外国企業が、わが社の株を半分以上買い取ってしまいました」

「なに、乗っ取りか!なぜそんなことに。業務提携をあれほど友好的に進めて来たはずじゃないか」

 わたしは店に戻ると、先生に手短にその経緯を話した。

「すぐに先方に行ってきます」

「それでは手土産に羊羹ようかんを持参されたらいかがでしょう」

「羊羹・・・・・・ですか。なにか意味でも?」

「たしかあの会社は中国系でしたよね。中国で羊羹とはヒツジのスープのことを言います。むかし中国の中央官庁の役人の司馬子期しばしきという人物が、羊羹のごちそうを受けられなかったことに腹を立て、国を滅ぼしてしまったという故事が残っています。わたしが調査したところによると、あの会社のトップはその滅ぼされた国王の末裔です」

「わかりました、すぐに羊羹を用意させます。先生、やっぱり食べ物の恨みっていうのは怖いですね」

10月9日  熟睡の日

「どうしたのボーッとしちゃって」

 会社の先輩であるみどりが、後輩の聡美さとみの顔をのぞき込んだ。

「あ、ごめんなさい」

 聡美は目を見開いて頭を左右に揺すった。どうやらパソコンに向かったまま舟を漕いでいたらしい。よだれが出ていなくてよかった。

「だいじょうぶなの?聡美ちゃん最近熟睡できてないんじゃないの」

「うん・・・・・・ごめん。実はそうなんだ」

「だめだねえ。睡眠不足はお肌の大敵だよ」

「わかってる。どうしたらいいのかなあ」

「よし。仕事が終わったら一緒に食事に行こうよ。その後で聡美の家に泊まりに行ってアドバイスしてあげる」

「え・・・・・・そこまでしてもらわなくても」

「聡美が今の調子だとね、わたしの仕事が増える一方なんだよね。だからわたしのためでもあるのよ」

「はあ・・・・・・」

 その晩、聡美と翠はイタリア料理の店で軽く食事を済ませると、ふたりで聡美のアパートに帰宅したのだった。

「適度なアルコールは睡眠を助けるのだ」と、ふたりはお店で赤ワインをグラスで2杯ずつ飲んでいた。

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

 部屋に入ると、白い子猫が出迎えてくれた。

「ただいま」と聡美が子猫の頭を撫でる。

「かわいい。この子なんていう名前?」

「ミュウ。2歳の女の子。大家さんに内緒で飼ってるの」

「ふうん。癒やされるねえ」

「そこのソファーに座って。コーヒーでも飲む?」

「ありがとう」翠は聡美の部屋を見回す。「でもね、コーヒーのカフェインは覚醒作用があるから寝る前はやめた方がいいよ」

「ああ、そうか」

「眠れないときはホットミルクとか飲んだらどう」

「でも、わたし乳製品を飲むとお腹こわすから」

「じゃあ白湯さゆとか」

「わかった。そうする」

 時計を見ると、ちょうど午後9時だった。

「聡美はいつも何時に就寝するの?」

「そうねえ。だいたい午後11時前後ってとこかな」

「じゃあ、いま2時間前だね。お風呂に入りなよ。入浴でリラックスして身体を温めるのは熟睡に効果がある」

「うんそうする」

 聡美がお風呂に入っている間、翠は紙と鉛筆を取り出して、なにやら箇条書きを始める。それが終わると暇になったのでミュウをからかって遊んでみた。ミュウは人懐っこい性格のようで、翠とすぐに仲良しになった。

 聡美がお風呂から出てきた。

「聡美。わたしがお風呂借りている間に、これやっといて」

 渡された紙にはストレッチのメニューが書かれていた。

ストレッチで身体をほぐすことにより、睡眠が深くなるんだって」

「翠先輩。了解です」とパジャマの聡美が敬礼をする。

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

「やってるね」

 翠がお風呂からあがると、聡美が翠の作ったストレッチのメニューをこなしているところだった。

「ううん」聡美がうなり声をあげる。「わたし、生まれつき身体が硬いのよね」

「毎日やっている間に柔らかくなるよ。がんばって」翠はそう言いながら、リビングの棚のCDを確認し始める。「なにか静かな音楽ある?ロックとかポップスじゃなくて・・・・・・」

「モーツァルトならあったと思うけど」

「あ、それいい。モーツァルトは“1/Fエフぶんのいちゆらぎ音”が出るから、熟睡にはもってこいなんだよ。あとヒーリング音楽とか、川のせせらぎの音とかね」

「ふうん。翠先輩はなんでも知ってるんだね」

「小さい音でゆらぎ音楽をかけよう」

 翠はCDを機器にセットした。そして立ち上がって、エアコンの温度を確認する。

「室温は大切だよ。夏は27度前後冬は13度から21度ぐらいかな。あと湿度は50から60%に保つのが肝心・・・・・・と」

 ふと見ると、ストレッチが終了した聡美はスマートフォンをいじりだしていた。

「聡美ちゃん。就寝前1時間はテレビ、パソコン、スマートフォンは観ちゃだめ」

「どうしてですか?」

ブルーライトが目に入ると、身体が昼間だと勘違いして眠れなくなっちゃうからだって」

「そうなんだ。わかった。じゃあそろそろ寝ようっと」

 聡美は翠が入浴中に布団を敷いていたのだ。

「聡美。いつも寝るとき、電灯はどうしてるの」布団に入りながら翠が訊く。

「忘れてつけっぱなしの時もあるけど、スタンドを点けてるときもあるかな」

「できるだけ光の出る器具はオフにするといいよ。真っ暗がいやなら、直接光が自分に当たらないように間接照明にするのがポイントだよ」

「それも身体が昼間と勘違いしないようにってことね」

「うんそう。最後に音に気をつけよう。熟睡に理想的な静寂は図書館ぐらいの静けさと言われているんだ。具体的な数字だと40デシベル以下ね」

「今日はなんかすごく熟睡できそう」

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

「おはよう。どう、ゆうべは眠れた?」

 翌朝、翠が目に隈をつくった聡美に訊いた。

「それが・・・・・・」

「なに?」

 聡美には言えなかった。

 翠先輩のイビキと歯ぎしりで一睡もできなかったなんて・・・・・・。

10月10日 缶詰の日

 よほど機嫌が良かったのだろう。月村つきむらはその夜、工場の中を口笛を吹きながら歩いていた。彼が角を曲がったとき、背後に人影が現れた。影は月村の脳天めがけて金属バットを振り下ろした。ラジオのスイッチを切ったかのように、ふいに口笛が消える。夜の工場に静寂が舞い降りた。

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

「で、あなたは、父親が殺害されたときには日本にいなかった。そういうことですか」

 三島警部は社長の息子、月村まさるを参考人として聴取をとっていた。

「はい。久しぶりにハワイに行っていました」

 勝は長身で痩せていて、長く伸びた金髪を後ろで束ねていた。

「サーフィンでもやられていたのですか」

「まあ、そんなところです。あと観光も」

「観光ねえ・・・・・・」

「警部さん。おれが親父を殺したとでも言うんですか。ひと月も日本にいなかったんだからそりゃいくらなんでも無理でしょう!」

「まあ、そう興奮しなさんなって」

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

「ご遺体の腐敗の状況から推察しますと、被害者が殺害されたのは1週間から2週間の間といったところですね」と、鑑識官が言った。

「撲殺か」

 三島みしま警部は被害者の後頭部の傷をみている。「被害者はしばらく行方不明だった資産家だったそうだな」三島は部下の刑事に訊いた。

「はい。10年前に家族から捜索願いが出されています」

「家族とは?」

「ひとり息子です。かなりやんちゃな若造だって話しです。被害者の奥さんと両親はすでに他界しています」

「資産家のようだな」

「いくつも会社を経営していますね。不動産会社、広告代理店、印刷会社、缶詰工場などを多角経営していました。現在は息子が社長で、実際には部下の役員達が切り盛りしているようですが」

「手広くやっているんだな。その新社長とやらに話を訊いてみるとするか」

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

「月村勝さん。あなたのお父さんが失踪する前のタイプで打たれた遺言書と、その後更新された手書きの遺言書の中身についてどうも気になっているんです」

「遺言書?」

「10年前には法定相続以外をある宗教団体に寄付するという内容だったのが、最近になって書き換えられた。ほぼあなたが相続することに変更されています」

「それがどうかしましたか?ひとり息子が相続するのは当たり前のことじゃないですか」

「念のため、私たちは遺言書の筆跡を鑑定しました。昔の日記などをすべて参照してね」

「ふん。それで?」

「すべて一致しました」

「はは。それはそうだろうよ」勝は笑顔を作った。

「でも」三島は人差し指を立てた。「分からないことがあるんです」

「・・・・・・」

「お父さんのご遺体の骨が異常に脆くなっていたこと。体内がほぼ無菌状態だったこと」

「ああ、そう言えば親父は骨粗鬆症とか言ってたな」

「勝さん。あなたは幼少の頃は左利きだったそうじゃないですか」

「それがなにか?」

「お父さんの遺言状、日記、手帳、メモ・・・・・・過去に遡って確認したのです。その全てをあなたが左手で書き直したのではありませんか?」

「馬鹿な。なにを証拠にそんなことを」

「あなたの小学校の時の文集の文字と一致したからですよ。あなたは10年かけて父親の手書き書類をすべて左手で書き直したんだ」

「知らんね」

「最後にもうひとつ・・・・・・」三島警部がポケットからガムの袋を取り出した。

「傑作な話をしてあげましょう。お父さんの胃の中から、これと同じものが見つかりました。消化される前に殺害されたということです」

 三島は口に入れると笛を吹き始めた。

「これは笛ガムというお菓子です」

「それがどうした」

「お父さんの体内から出てきた笛ガムのフレーバー、実は10年前にメーカーの製造が終了しているんだそうです。要するに、お父さんは最近殺されたんじゃない。10年前に殺されたんですよ」

「そんなことあり得ないでしょう」

「いいえ。あなたなら可能です。密閉した金属容器にお父さんの死体を入れて、缶詰工場の殺菌釜で加熱殺菌してしまえばいいのですから。無菌状態のご遺体は永久に腐敗しません」

「警部さん。今さらながら・・・・・・」勝は肩を落としてうなだれた。「親父の工場が缶詰じゃなくて冷凍食品の工場だったらよかったとつくづく思うよ」

「検死解剖医がたまげてましたよ。解剖中に体内で発生したガスで笛がピーッと鳴ったって言うんですからね。どうです傑作でしょう?」

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

 ポケットに両手をつっこんだ三島が口笛を吹きながら警察署の廊下を闊歩していた。

「おや警部。今日はまたごきげんですね。事件解決おめでとうございます」

 若い刑事が三島の姿を見て笑いかける。「ところで本当なんですか?解剖中にご遺体の笛ガムが鳴ったっていうのは」

 三島警部はあきれた顔で刑事を見返した。

「バカ。冗談に決まっているだろ」

「じゃあ・・・・・・」

「いくらなんでも、加熱殺菌されたらガムなんてグチャグチャさ」

「やっぱり・・・・・・笛なのに三味線を弾いたってわけですね」

10月11日 ウインクの日

「いったい何がどうしたっていうのだ。わたしにはさっぱり分からない」

 大富豪のジャクソンがハリソン警部に訴えていた。頭がはげ上がり、肥満体のジャクソンは、いまにも掴みかからんばかりの勢いだ。

「まあ、ジャクソンさん。落ち着いてください」

「これが落ち着いていられるものか!」

「結局なにがあったのです?」

「婚約者のマリアが初めて逢った若い男にさらわれたのだ。しかも一言も言葉を交わしていないのにだぞ」

「会話がなかったというのですか?」

「そうだ。おかげで著名人を集めた婚約パーティーは台無しだ」

「さきほど市街地に検問を張りました。運がよければすぐに奥さん・・・・・・いや、ご婚約者は確保できるでしょう」ハリソン警部はジャクソンの肩に手を置いた。「ところで、防犯カメラはありますか。確認しておきたいのですが」

「ああもちろんだとも。隠しカメラがこの屋敷のあちこちに設置されているはずだ」

「マリアさんとその若い男とは本当に初対面だったのですか?」

「ああ。少なくともわたしの知っている限りではな」

「警部」若い刑事が奥の部屋から出てきた。「ビデオ再生の準備ができました」

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

「ジャクソンさん。これは・・・」

 隠しカメラは各部屋に設置されていたようだ。寝室のビデオにはマリアを突き飛ばして、平手で女の頬を殴っているジャクソンの姿が収められていた。

「いや、これはちょっと」

 ジャクソンは慌ててモニター画面の前に立った。「いささかお見苦しい所をお見せしてしまったようだ。ほんのささいな痴話喧嘩だよ」

 ジャクソンは額の汗を拭った。

「ジャクソンさん、もしかしてあなた・・・・・・」

「ちょっと待て、いま問題なのは拉致された婚約者を取り戻すことじゃないのかね」

「それなんですが、こっちのモニター録画を観ていただけますか」

 そこにはマリアと背の高いブロンドの男性が映っていた。距離にして約5m離れている。

「いいですか、ふたりの目をよく見ていてください」

 ハリソン警部はビデオを一時停止にして、スローモーションで再生しはじめた。

 男はマリアに向かってゆっくりと右目をつむった・・・・・・。

 マリアは両目を閉じた・・・・・・。

 男は右目をつむった・・・・・・。

 マリアは左目を閉じた・・・・・・。

 男はもう一度右目を閉じた・・・・・・。

 マリアは左目で二回瞬きをした・・・・・・。

 男はさらに右目を閉じた・・・・・・。

 一瞬マリアはためらった表情をすると、左目をゆっくりと閉じた・・・・・・。

 男は深く頷くと、出口を見て右目を瞬いた・・・・・・。

 男の後にマリアが続いた。出口では車両係をしていた執事のマイクが立っていた。

 男とマリアの姿を確認したマイクは、なにも言わずに右目を瞬いた・・・・・・。

 マリアが執事に対して右目をつむった・・・・・・。

 門を出た男とマリアは手に手を取って走りだした。

「なんだこれは」ジャクソンがモニターを指さして怒鳴った。

「ジャクソンさん。いまの彼らの行動に音声をつけて差し上げましょうか?」

「こいつら何も言葉を発していないではないか」

「かれらのウインクの意味ですよ。昔新聞の記事で読んだことがあります」

「聞かせてもらおうか」ジャクソンが腕を組んで言う。

 ハリソン警部が録画を巻き戻して再生を始めた。

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

 青年はマリアに向かってゆっくりと右目をつむった・・・・・・「あなたは美しい

 マリアは両目を閉じた。・・・・・・「誰かに見られているわ

 青年は右目をつむった。・・・・・・「好きです

 マリアは左目を閉じた。・・・・・・「あなたなんて嫌いよ

 青年はもう一度右目を閉じた。・・・・・・「愛してるんだ

 マリアは右目で二回瞬きをした。・・・・・・「わたし婚約しているのよ

 青年はさらに右目を閉じた。・・・・・・「でも愛してるんだ

 一瞬マリアはためらった表情をすると、左目をゆっくりと閉じた。・・・・・・「わかったわ、わたしを愛してみて

 青年は一度深く頷くと、出口を見て右目を瞬いた。・・・・・・「よし今だ(合図)!」

 男の後にマリアが続いた。出口では車両係をしていた執事のマイクが立っていた。

 男とマリアの姿を確認したマイクは、なにも言わずに右目を瞬いた。・・・・・・(頑張ってください。応援してますよ

 マリアが執事に対して右目をつむった。・・・・・・(内緒よ

 門を出た男とマリアは手に手を取って走りだした。

「ジャクソンさん」ハリソン警部は微笑んだ。「目は口ほどに物を言うっていいますからね」

10月12日 たまごデー

「ねえきみ」

 ぼくがいつものようにニワトリに餌をあげていると、ひとりの男が声を掛けてきた。

「なにかご用でしょうか?」

「そのニワトリを10ドルで売ってもらえないだろうか」

「10ドルですって!とんでもない、うちにはこのニワトリ1羽しかいないんだ。とても手放すことなどできないね」

 ぼくはその男が人一倍いい身なりをしていることに気がついた。きっとお金持ちに違いない。

「わたしの名前はロビンソン。なんでも噂では、そのニワトリは金の卵を産むそうじゃないか」男はポケットに手をつっこんで札束を取り出した。「さっきのは冗談さ。1万5千ドルでどうだろう。譲ってくれないか」

「1万5千ドルだって!?」

 ぼくは考えた。このニワトリが産む金の卵は取引所なら10ドルで売れる。ニワトリの寿命がだいたい4年だとして、最大でもあと1万4千ドルを稼いで終わり。ならば1万5千ドルで売れたなら千ドル儲かるじゃないか。

「どうしても欲しいのなら考えてもいいけど」

「ありがとう。これで決まりだ」

 男は札束をぼくに手渡すと、ニワトリを抱きかかえた。

「うちの家内がどうしても金の卵を産むニワトリを飼ってみたいというのでね」

「ひとつ言っておきますが、金の卵は『ゴードン取引所』で現金化できますから」

「ありがとう」

 ぼくは手を振ってロビンソン氏を見送った。

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

 数日後、ロビンソン氏がぼくを訪ねてきた。

「やあロビンソンさん。どうかなさいましたか?」

「ニワトリが最初は金の卵を産んでいたのだが、最近になって全く産まなくなってしまったのだ」

「あ、それでしたら餌に金粉を適量混ぜて食べさせるといいですよ」

「金粉か。それはどこで手に入るのかね」

「ゴードン取引所ですね」

「ありがとう」

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

 翌日ゴードン取引所のヘンリーが訪ねてきた。

「やあトーマス元気かい。昨日ロビンソンさんが金粉を買って行ったよ。きみもうまくやったもんだね」

「そうですか」

「これは、次のニワトリだ。もちろん無料サービスだ。また頑張って稼いでくれよ」

「ヘンリー。そうやってまたぼくに金粉を買わせる気だな」

「金の卵はうちで買い取るからいいじゃないか」

「あんたのところで金粉を買って金の卵にして売っても、結局ぼくの取り分はニワトリと言うより雀の涙じゃないか」

10月13日 麻酔の日

「臨床試験というのです」外科医である華岡青洲はなおかせいしゅうは畳に正座して言った。「要は人体実験です」

 対峙しているのは母の於継おつぎと妻の加恵かえのふたりだった。

「それは青洲。あなたのお仕事のために必要なことなのですね」

 於継は年齢を思わせないつるりとした顔で息子を見た。

「このあたりのご近所では、野良犬や野良猫が一匹もいなくなったと評判ですが、あれもすべてその『通仙散つうせんさん』というお薬を作るためだったのですね」

 妻の加恵が眉根を寄せて夫を見る。

「そうだ。『通仙散』の原料には朝鮮アサガオトリカブトなどの毒物を使う。犬、猫、ねずみのおかげで効果の検証はできた。しかし、こと人体に投与したときの影響は分からない」

「よござんす」於継が青洲ににじり寄る。「そのお薬、わたしが飲みましょう」

「いけませんお義母さま」加恵が胸を押さえる。「それは妻であるわたしの役目です」

「ちょっとお待ちなさい」青洲が両掌を差し出す。「いいですかお二人とも。命にかかわることですよ。よくよく考えてご返答くださればいいのです」

「でも」加恵が訴えるような眼差しを青洲に向ける。

「何人も弟子達が志願してくれています」青洲は膝の上で両手のこぶしを強く握った。

「しかし、わたしには彼らに命の保証ができない・・・・・・」

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

 それから数日、青洲の母と妻は一歩も譲らず、結局ふたりに臨床試験を行うこととなった。

「本当によろしいのですか」

 青洲が夜着の白い着物に身を包んだふたりに言った。

「あなたの憧れ、華佗かだに近づくチャンスなのでしょう」と、加恵が言う。

「華佗とは誰のことです?」

 於継が加恵の顔を見る。

「中国のお医者ですよ、母上」

 青洲が静かに微笑む。

「華佗は麻酔を駆使して多くの患者を治療なさったそうです。日本にはまだ麻酔薬がありません。
これからの医学では必ず必要になってきます。わたしはそれを作ろうと思っている」

「その華佗に負けないお医者におなりなさい」と於継が言う。

「わたしなど足元にも・・・・・・それではこちらが母上、これが加恵の薬です」

 青洲は油紙に包まれた粉薬を二人に渡した。実はふたつの包みの中身は違う。母の包みには弱い薬、妻の加恵には『通仙散』が入れてあったのだ。高齢の母を気遣ってのことだったが、多分に青洲の胸中にはマザーコンプレックスが潜んでいた。

「これで目が覚めなかったら、これが今生のお別れになるのですね」

 於継と妻の加恵が青洲の手を握った。青洲の目が涙で潤んだ。

「それではよろしくお願いします」

 青洲は深々と頭を下げた。母と妻は、粉薬を水で流し込むと同時にとこに着いた。

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

 母の於継は一端は目を覚ますが、その後帰らぬ人となった。妻の加恵はなかなか目を覚まさず、1週間後にようやく意識を取り戻した。ところが加恵は視力を失っていた。

 ふたりの犠牲により麻酔薬『通仙散』は完成し、華岡青洲は世界で初めて全身麻酔による乳がん摘出手術に成功する。これは他国の医療より40年も早い快挙であった。

「加恵。きみと母上のおかげだ」

 青洲は目の見えぬ加恵の手を握って言った。

「自らの命も顧みず、わたしに協力してくれた家族の勇気にはかぶとを脱ぐよ」

 加恵は見えぬまなこを青洲に向けて笑った。

「それはそうでしょうとも。だって、わたし達の飲んだのは“獲り兜”なんですもの」

10月14日 鉄道の日

「クハ79だ」と博士は言った。

 わたしは思わず博士を二度見してしまった。

「え?9かける8は72じゃないんですか」

「かけ算の話ではない。あの鉄道模型の車輌に印字されている記号。あれは国鉄(日本国有鉄道)クハ79形電車なのだよ」

「ああ、車輌の話ですか」

わたしは今、鉄道博物館の取材に来て、児玉光こだまひかり博士に取材をしていた。

「クとは運転台、ハはグリーン車ではない普通車。つまりクハとは運転台を備えた普通車という意味ですよ」

「はあ」

「ちなみに“モハ”はモーターを搭載した普通車。“サハ”はモーターも運転台もない、ただ引っ張られるだけの普通車の意味です」

おっと、いきなりもの凄いオタク話。ついて行けるだろうか・・・・・・。

「あの・・・博士はこの度、県警と連携して『鉄オタ分別めがね』を開発されたとお伺いしましたが」

「おお。よく知ってるね」

「それはいったいどういう機械なのでしょうか」

「呼んで字のごとくだよ」

「・・・・・・と言いますと?」

「ひと口に鉄道オタクと言っても、実際には相当な種類に分別されるのだ」

「そうなのですか。よくテレビでは電車の写真を撮影している風景が見られますが」

「それは“撮り鉄とりてつ”だな」

「ほかにはどのような鉄道オタクがいらっしゃるのでしょうか?」

「“音鉄おとてつ”」

「“音鉄”ですか。どういうものでしょう?」

「駅のチャイムとか音楽を録音して楽しむひと達のことだが、かの有名な交響曲『新世界』を作曲したドヴォルザークも有名な音鉄と言われている。彼は筋金入りの音鉄だったそうで、新世界の第3楽章と第4楽章のリズムは機関車の音から来ているのだそうだ」

「ドヴォルザークの新世界ですか。今度ゆっくり聴いてみます」

「彼がチェコからアメリカに渡って、ニューヨーク・ナショナル音楽院の院長の就任を快諾したのはなぜだと思う?」

「鉄道と関係あるのですか?」

「アメリカ大陸鉄道に乗ってみたかったからなんだと」

「なるほど。撮り鉄、音鉄のほかにはどんなものがあるのでしょうか?」

「いいかね、たくさんあるからよく聞きなさい。
とにかく電車に乗ることが大好きな“乗り鉄”、
車輌に異常な関心を持つ“車輌鉄”、
鉄道模型をこよなく愛する“模型鉄”、
時刻表を愛読書にしている“時刻表鉄”、
駅の名前や由来を覚えて楽しむ“駅鉄”、
レールや枕木の撮影に特化した“路線鉄”」

「あの・・・・・・」

「踏切や信号、切り替えポイントなどの装置に興味を持つ“保安鉄”、
鉄道の歴史にやたらと詳しい“歴史鉄”、
駅弁とその包装紙を収集する“駅弁鉄”、
鉄道会社を調べ上げて、さらにその株を購入したりする“会社鉄”、
鉄道法規の研究家“法規鉄”」

「すみません・・・・・・」

「まだまだあるぞ。
地図に架空の路線を書いてたのしむ“架空鉄”、
電車でGOなどのゲームを楽しむ“ゲーム鉄”、
廃線大好き“廃線鉄”、
ラストランの電車に乗ったり、その切符を保管する“廃止鉄”、
蒸気機関車をこよなく愛する“SL鉄”」

「・・・・・・」

「おとな顔負けのこどもの“チビ鉄”、
チビ鉄の影響を受けてはまってしまった“ママ鉄”、
鉄道好きで鉄道関連会社で働く“アルバイト鉄”、
鉄道を愛するあまり、とうとう鉄道会社に就職してしまった“プロ鉄”、
趣味が昂じて電車の写真集などで生計を立てているのが“ガチ鉄”」

「児玉博士すみません。あまりの種類の多さにちょっとついて行けないのですが」

「最後にもうひとつあるぞ」

「まだあるんですか?」

 そのとき表玄関に車が停まり、数人の警察官がバラバラと降りてきた。彼らは一様にアイマスクのような装置をつけている。

「おお、ちょうどいい所に来た。あのアイマスクのような物が『鉄オタ分別めがね』だ」

「児玉博士。鉄道警察隊です。誠に申し上げにくいのですが、あなたを一定期間拘束することになりました。署までご同行願えますか」

「どういうことだ?」

「このマシーンがあなたを分別したのです。常習的にマナーを守らず、周囲の人に迷惑をかけている疑いがあります

 わたしはマイクを持つ手を伸ばした。

「博士、お取り込み中にすみません!もうひとつというのは?」

「“クズ鉄”だよ!」

10月15日 人形の日

「ただいま」

 パパとママが外出先から戻ってきた。

「あら」部屋に入るなりママがあきれた顔で言う。

「またそのお人形と遊んでいたの?」

「先日買ってあげた新しいおもちゃはどうもお気に召さないらしいね」

 父がコートをハンガーに掛けながら苦笑する。

 人形の名前はポポという。この人形だけが、ぼくの唯一の遊び相手だったのだ。とくに家が貧乏だというわけでもなかったのだが、なぜだろう、このクタクタの人形が妙に気に入ってしまったのである。

 ぼくは小学生になると町のリトルリーグに入った。ぼくはあまり運動神経がよくなかったが、たまに監督がお情けで起用してくれる。ぼくは遠投ができないので外野には回されず、その日はショートを守らせてもらうことになった。ところがその日ピッチャーの配球が甘く、思い切りバッターに打ち返された鋭いボールはぼくの正面に飛んできた。地面にバウンドしたボールは、もろにぼくの左目に当たってしまった。ぼくはその場で倒れ、救急車で病院に運ばれた。

 病院に着いて医師の診察を受けたが、軽い打撲程度という診断だった。

「この程度で済んでよかったな」と、パパが胸を撫で下ろした。

「もう、野球なんてやらせるからよ」

 母は眉をひそめた。

 家に帰るとぼくはあることに気がついた。人形のポポの左目が潰れていたのだ。その晩ぼくはポポを抱きしめて眠った。

 ある日ぼくは交通事故に遭遇した。横断歩道を渡っていると、一台の車がスピードを落とさずにぼくを跳ね飛ばしてしまったのだ。このときもぼくは軽傷で済んだ。それでも一応ひと晩病院に泊まることになった。

 翌日ぼくが家に帰ると、ポポのお腹が裂けて中の綿が飛び出していた。ぼくは居間に行って、ママの裁縫箱をこっそり借りてきて、涙で滲んだ眼をこすりながら見よう見まねでポポのお腹を縫合したのだった。

 翌日ぼくが学校から帰ってくると、いつもの場所にポポの姿がなかった。ママに尋ねると冷たい返答が返ってきた。

「ああ、あの人形。もうボロボロで汚かったからゴミと一緒に出しといたわよ。もっといいものをパパに買ってもらえるように頼んでおいたからお楽しみにね」

「ママのバカ!」

 ぼくは部屋に戻って号泣した。

 その晩ぼくは神様にお願いした。「一生に一度のお願いです。どうかポポを返してください。あとはもう何もいりません」

 翌朝枕元にポポが戻っていた。ぼくは驚いてポポを抱きしめた。

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

「おはよう。浩、今日はサッカーの試合だろ」

「早くしないと遅刻しちゃうわよ」

 ぼくは息を呑んだ。ダイニングに座っていたのは、ぼくのまったく知らないおじさんとおばさんだったからだ。

10月16日 自分色記念日

 わたしは自分の色を知らない。

 ひとにはパーソナルカラーという物があり、大きく分けると2種類になるのだという。青を基調としたブルーベースと、黄色を基調としたイエローベースだ。アジア人は黄色人種だからイエローベースなのかと思いきや、そういうことでもないらしい。

 さらに明暗によって4つに分けられるという。

 イエローベースの明るい色は春色・・・・・・イエベ春

 イエローベースの暗い色は秋色・・・・・・イエベ秋

 ブルーベースの明るい色は夏色・・・・・・ブルベ夏

 ブルーベースの暗い色は冬色・・・・・・ブルベ冬。といった具合である。

「ねえあなた。わたしは何ベースだと思う?」と近くにいた同僚に訊いてみた。

 彼女は栗色の髪をした美人だから、そのあたりのおしゃれについて詳しそうだったからだ。

「そうねえ・・・・・・たぶんイエローの秋じゃないかしら」

「どうしてわかるの?」

「ただなんとなくそう思っただけ」

「ふうん」

「よくいくつかの質問に答えるとパーソナルカラーが診断できるってネットなんかにあるけど、あれは単に傾向がわかるだけで、実際のパーソナル診断とは別物だと思った方がよくってよ」

「へえ。そうなんだ。本当のパーソナルカラーはどうすればわかるのかしら?」

「ドレープっていう色の付いた布を当ててプロの診断士が鑑定するのよ」

「なんだ、そうなんだ。で、もしわたしがイエベの秋だったらどんな色が似合うのか知ってる?」

「そうねえ。マスタードサーモンピンクテラコッタ・オリーブなんかの落ち着いた色が映えるんじゃないかな」

「へえ。サーモンピンクなんて身につけたことなかったわ。一度試してみようかな。それで、もしわたしがイエベの春だったらどうなの」

「明るめでピュアな色がいいわね。例えばコーラルピンクスカーレットアプリコット・アップルグリーンなんかかな」

「さすが詳しいのね。ブルベの夏だったら?」

「明るくてそれでいて上品な色が合うはずよ。スカイブルーラベンダーローズレッドライトレモンイエロー

ブルベの冬なら?」

「クールで華やかな色。ネイビーブルーとかスカーレット・ビリジアンなんかが合うわね」

「そうか!わたし赤い服着たことなかったんだけど、どんなパーソナルカラーでもその肌に合った赤を選べばいいんだね」

「そうよ。でもひとこと言っていい?」

「なあに」

「わたしたち競争馬じゃない。馬には赤の識別はできなくて、ただの灰色にしか見えなくってよ」

10月17日 オンラインゲームの日

 ぼくはオカマである。

 と言っても、本物のゲイではない。あくまでもネットゲーム上での話だ。ぼくはあるゲーム上でヒロインを演じている。音声もかわいい女子の声に加工してしゃべっているから誰にも気づかれない。チヤホヤされ放題を楽しんでいたのである。

 それでも問題はある。オフ会に出席できないことだ。メンバーの彼らに素顔をさらけ出すことができないのだ。たぶんその途端、ぼくは彼らから相手にしてもらえなくなってしまうだろう。だからオフ会にはなんだかんだと理由をつけて欠席し続けてきたのだ。

 ところが、何度もオフ会を欠席していると、主役不在のオフ会はつまらんと、あちこちから出席を切望するリクエストが集まり出した。どうしよう。このまま消える・・・・・・という手もある。しかしせっかく構築した現在の関係を手放すのも忍びない。そこでぼくは打開策を考えたのだ。

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

「たのむよ。今回だけ」ぼくは彼女に手を合わせた。「一度でいいからさ。ミルクちゃんになって欲しいんだ」

「ミルクちゃん?」怪訝な顔で彼女がぼくを見る。「なにそれ?」

「だからさ。ゲームの中のぼくに扮して出席して欲しいんだ」

「その顔で女やってる訳?」

「・・・・・・ごめん。だってそうでもしないと注目されなくてさ。試しに一度やってみたらこれが大受け」

「バカじゃない。嫌よそんなの。だいたいゲームのことなんかこれっぽっちも知らないし」

「教えるから。オフ会で話す内容なんてだいたい決まってるし。あのボスは手強かったとか、あの武器は使えないとか、今度はこういう作戦で行こうとか・・・・・・」

「絶対にイヤ」

「わかった。なんでも買ってあげる」

「いらない」

「じゃあ、ディズニー・リゾートに連れてってあげる」

「それだけ?」

「わかった。ユニバーサル・スタジオ・ジャパンも」

「ううん・・・・・・どうしよっかなあ」

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

「どうだった?」

 オフ会の終わった頃、ぼくは彼女に電話を掛けた。

「めちゃくちゃ楽しかったよ。また行きたい」

「ほんと」

「だって、集まったのが女の娘ばかりだったから」

「え?」

「オフ会ってただの女子会じゃん」

10月18日 ミニスカートの日

「きみ。経済財政政策担当としてこの不景気をどう思うね」と、首相が大臣に訊いた。

「いやあ、参りましたね」大臣が汗を拭う。「なにしろ物が売れない時代なのです」

「なぜ売れないのかね」

「値段が高いからです」

「安くすればいいじゃないか」首相が鼻で笑う。

「もちろん安くするように企業に働きかけました」

「それでどうなったのだ」

「その分、企業の儲けが減って、従業員の給料を下げざるを得ませんでした」

「そうすると・・・・・・」

「物が安くなっても消費者は買い控えをするようになりました」

「それじゃあもっと安く売ったらどうかね」

「首相。それでは切りがありません。それこそデフレ・スパイラルというものです。そうだ!」大臣が言った。「いつもの手で乗り切りましょう」

「減税か」

「あと、道路や橋をたくさん作って公共事業の支出を増やしましょう」

「日銀総裁に言って、金利を下げさせるとしよう。金利が下がれば企業が新しい事業を立ち上げられる。そうすれば仕事も増えるというものだ」

「首相。それだといつもとまったく同じ対策ですよね。またマスコミに叩かれませんか?」

「あとひとつ。妙案がある」

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

「あとひとつ。首相からとっておきの対策提案がございます」

 報道陣は固唾を呑んで身構えた。

「ええ」首相が報道陣を見回した。「来年度より、女性のスカートの丈を膝より上にするという法案を国会で決議いたします」

 報道陣からどよめきが起こった。

「首相。それはいったいどういう狙いがあるのですか」

「きみ。『ヘムライン指数』を知らないのかね。女性のスカートの丈が短くなるほど景気が良くなるんだよ」

「お言葉ですが」別の記者から声が上がった。「それは逆ではありませんか?景気が良くなったから女性のスカートが短くなった・・・・・・ですよね」

「いいかね。女性のスカートが短くなると、それを見た男性が元気になって子供の出生率が上がる。
少子高齢化で減少し続けるわが国の生産年齢人口に歯止めがかかれば景気は良くなる・・どうだ!」

「首相。風が吹いたら桶屋がもうかるみたいな政策に聞こえますが・・・・・・」

10月19日 バーゲンの日

 “バーゲンとは戦場である”とは、だれが言った言葉だろう。

 わたしはバーゲンセールのチラシを持って、その日の戦場に赴いていた。

 バーゲンでは血液型でもそのひとの性格が表われるという。予算を決めて、その範囲で買う物を収めようとするA型。現金を使わず、カード決済のみで買い物に歯止めがかからないB型。なりふり構わず、見知らぬ人と取り合いをしてしまうO型。そして、その場の雰囲気で欲しくないものまで買ってしまうAB型。

 わたしは戦闘服と呼んでいるヨレヨレの普段着を身につけて、いざ戦場に躍り出て行った。

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

「あら奥様。そちらのバック、お高いんじゃありませんこと」と、わたしはママ友の優子ゆうこのバッグに目を止めた。

 化粧映えのする主婦の集まりには、いつものメンバーが揃っている。

「あーら、これは意外とお安いんですのよ。海外のお土産。なにしろうちの主人、海外出張が多いざーますから」

 会話の端々に、夫の自慢話を入れて来るのが優子のイヤ味なところである。

「それより美和子みわこさんのそのバッグ。ブランド品じゃない?」と、さりげなくわたしの持ち物チェックをしてくる。

「ぜーんぜん。そこいらに売ってるバッタ品よ」

「あら、そう。美和子さんが持ってると、なんでもいいものに見えるのよねぇ」

「そういう優子さんだって。スタイルがいいから、何を着てもお似合いで、高級ブランドに見えるからうらやましいわ」

「あらやだ。このお洋服、一応ブランド品ですのよ」

「そ、そうなの。わたしったら、無知でごめんなさいね」

「よかったらみなさん、今度うちに遊びにいらっしゃらない?もう着ない服がいっぱいあるの」

「うわあ。ほんとう。是非お伺いしたいわ」

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

 飛び込んだ人混みの中で、わたしはブラウス3点をつかんでいた。そのとき、わたしの肩に掛けていたショルダーバッグのひもがビチンと切れたが、まあ想定内のことである。すでにさきほどわたしの服の袖も破けてしまっていた。こうなることを承知の上で、破損しても惜しくない格好をしてきているのである。

 するとわたしの獲物の白いブラウスを引っ張る者がいる。

「わたしが先に見つけたのよ」

 わたしは負けじと引っ張り返した。ものすごい力である。白いブラウスがビリッと破けた。はっとしてわたしは敵を睨みつけた。敵も驚いてわたしを見た。

 ふたりの目と目があった。そこにはブラウスを握りしめた優子の姿があった。

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

 その後わたしと優子は暗黙の了解で、お互いに干渉することもなく、ママ友の中でもいたって静かに過ごすことになったのだった。

10月20日 新聞広告の日

 その朝、わたしは新聞に掲載されていた人材募集の広告を二度見してしまった。それがちょっと風変わりな内容だったからだ。

おすの三毛猫を飼っている方限定。1日6時間の簡単な事務作業で日給1万円の報酬を受け取れます”

 わたしは膝の上で朝寝を決め込んでいる、三毛猫のにゃん太郎の所作をあらためて眺めた。

 わたしは長年勤めた会社を定年退職し、とくになにもやることもなくブラブラと毎日を送っていた。それだけでも家内にとってははなはだうっとうしいようで、なにかアルバイトでも探してこいと再三言われていたのだ。

 わたしはカップに残ったコーヒーをのどに流し込んだ。

「おい。これどうかな」

 わたしは新聞の求人欄をテーブルの上に押し出した。出勤前の妻は身繕いをしながら記事を斜め読みする。

「あら。あなたにぴったりじゃない」

「三毛猫の雄って珍しいんだよな」

「もちろんよ。獣医さんも初めて診察したって喜んだくらいだもの」

「・・・だよな。だとすると応募者もかなり少ないってことだ」

「お給料もいいし、面接だけでも受けてみれば・・・・・・あなたで勤まるのなら」

「馬鹿にするな。だてに役所で30年も働いていたわけじゃないぞ」

 新築の家のローンもまだ少し残っている。少しでも働いて繰り上げ返済にあてることができれば大助かりだ。

 丸くなって寝ていた三毛猫のにゃん太郎が頭を起こしてニャンと鳴いた。「そうだそうだ」と言っているように聞こえた。

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

  わたしは猫バッグににゃん太郎を押し込んで、電車で三つめの駅を降りた。

 会社はマンションの一室であった。面接はそこで行われた。会社というより、ここは何かの団体のようだった。学術的な非営利団体らしい。わたしのほかには猫を連れて面接に来ていた紳士が数名見受けられた。

篠束しのづかさんどうぞ」

 わたしは名前を呼ばれリビングに入った。

「お待たせしました」

 部屋にはめがねを掛けた紳士がひとり待ち受けていた。

「お掛けになる前に、先に猫ちゃんを拝見させていただいてよろしいですか」

「はい」

 わたしは紳士の前に猫バッグを置き、チャックを開けた。

「お名前は?」

「にゃん太郎と言います」

 紳士はにゃん太郎を抱きかかえた。

「おお、にゃん太郎くん。きみはかわいいねえ」

 そう言いながら紳士は猫をつぶさに観察し始めた。そしてにゃん太郎を猫バッグにゆっくりと戻した。

「間違いありません。雄の三毛猫です」紳士がにっこりと笑った。「実はさきほどから三毛猫を持参して面接に来られた方々のほとんどの猫がめすだったのです」

「そうだったのですか」

「ご存じかもしれませんが、三毛猫の雄が生まれる確率は0.3%しかないのです。世界的にもまれでしてね、数千万円で取引されることもあるのです」

「それはまた驚いたな」

「あなたは幸運に恵まれた方なのですよ」そう言って紳士はわたしの履歴書を読み始めた。

「・・・・・・いいでしょう。採用です。明日からここへ来ていただけますでしょうか」

「はい問題ありませんが、ここでどのような仕事をすればいいのですか」

「簡単です」

 紳士は壁にぎっしり詰まった本棚の百科事典を指さして言った。

「百科事典から猫に関する記述をパソコンに打ち出していただく。それだけです」

「それはいったい・・・・・・そんなことで報酬をいただけるのですか」

「うちの財団は世界的に猫愛好家が運営する特殊法人なのです。だから雄の三毛猫を飼っているという幸運な人間に対しても敬意を払います。ですから豊富な資金の活用先としてこのような仕事を斡旋させていただいているのです」

 紳士は百科事典をペラペラとめくりながら言った。

「仕事は朝9時半から夕方4時半まで、ノルマはありません。自由な時間に休憩を取っていただいて差し支えないのです。テレビや音楽を掛けながらでもOKです。もちろん監視カメラなどもありませんからご心配なさらなくても大丈夫ですよ」

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

 わたしは翌日から仕事を開始した。

 朝9時半前に出勤すると、紳士の秘書を名乗る女性がマンションの鍵を掛けて出かけてしまう。この鍵は特殊で、秘書の持っている鍵以外は反応しない。夕方4時半に秘書が鍵を開けてくれるまで、内側からは開けることができないのである。

 言うなれば本物の缶詰状態なのだ。

 その日も夕方4時30分に秘書が鍵を開け、わたしの打ち込んだパソコンの内容を確認し、封筒に入った現金をわたしに渡すのだった。

「あの、ほんとうにこんな仕事でお金を頂戴してよろしいのでしょうか」と、扉の外に出たわたしは振り向いて秘書に尋ねた。

「もちろんですわ。それでは明日もお願い致します」

 ピンヒールを履いた秘書は表情も変えずにそう言うと、鍵を閉めてどこかに消えてしまうのだった。

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

 そんなある日、家に帰ると妻が慌てている。

「にゃん太郎がいないの」

「なんだって。どこかに隠れてるんじゃないのかい」

「探したのよ。餌も食べていないし、水も減っていない」

「ぼくらが不在のときに誰かが忍びこんだのかな」

「空巣ってこと?」

 妻は預金通帳やら印鑑やらを確認しに行く。「だいじょうぶみたい」

「どうしようか」

「警察を呼ぶっていうのはどうかしら?」

「猫の失踪に警察はないんじゃないか」

「うちの猫は普通の猫じゃないのよ。あなたも言ってたじゃない。数千万円で取引されているって」

「なるほど。それだけの価値があれば盗むやつがいてもおかしくないということか」

「感心してないで早く!」

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

 警察官が数人やって来た。

「篠束さん。この家は新築ですよね」

「そうですが、何か」

「勝手口のドアにピッキングの跡があります」

「それじゃあ、やっぱり空巣なのでしょうか」と妻が言う。

「それも一回や二回じゃない。何度も開けられている形跡があります」

「何度も?そんなばかな・・・・・・」

 そのときどこからか猫の鳴き声がした。

 わたしたちは頼りなげなその声の発信場所を探すため、家中をくまなく捜索したがどこにもにゃん太郎の姿を見つけることができなかった。

「にゃん太郎・・・・・・」

 妻が床に座り込んだとき、足の下から猫の鳴き声が聞こえてきた。

「このカーペットの下。床下よ!」

 わたしはすぐに警察官たちを呼び寄せた。カーペットを剥がすと、床板に切り込みがあった。以前はこんなものはなかったはずだ。

「開けますよ」

 警察官のひとりが力を込めて床板を外すと、同時にゃん太郎が飛び出してきた。

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

「もぬけの殻とはこのことだな」

 警察官を連れてマンションに行くと、そこはすでに何も残されてはいなかった。ガランとした空き部屋があるだけだったのだ。

 わたしの家が建つ前、そこは空き地だった。強盗団の犯人グループは逮捕される直前、盗んだ金を慌ててそこに埋めたのだった。刑務所から出所していざ金を掘り起こそうとしたところ、そこにわが家が建っていたというわけだ。

 にゃん太郎は犯人が知らない間に、掘り起こしている穴に入り込んでしまったのだ。たぶん犯人たちが掘り起こした金と一緒に自分も連れ去られてしまうことを察知して隠れたのだろう。

 なにしろ何千万円もする猫なのだから。

10月21日 あかりの日

「ここはどこだ?」

 わたしは暗闇に向かって尋ねた。くっくっくと、喉の奥で笑いをこらえるかのように男が言った。

「覚えていないのか。オゾン層の破壊によって、直射日光が地表を焼き尽くしたのだ。今や青い地球はなくなったのだよ。茶色の球体・・・それがおれたちの住む星なのさ」

「それじゃあここは・・・・・・」

「お察しの通り。人類は地下にもぐったのだ。二度との目を拝むことはないだろう。その瞬間に失明してしまうからだ」

 なるほど、どおりで土臭いわけだ。

「人類はこれからどうなる」

「本当に記憶を喪失したのか?人類は地底人として生きる以外に道はないね。ほかの星に逃げようとした富裕層はことごとく宇宙のちりと化したよ」

「なんてことだ・・・・・・。水や食料はどうしているんだ」

「地下水があるし、いまじゃモグラやミミズ、木の根っこが主食になっているのさ。そうだ、これからきみをコロニーに連れて行ってあげよう」

「コロニーとは?」

「若い男女のふれあいの場所さ。今や人口の減少を食い止めることが国家の最大関心事なのだよ」

 わたしは、広々とした空間に連れてこられた。なぜ広いと感じるかといえば、音の反響で分かるのだ。

「あらドクター。そちらはどなたかしら」

 どこからか女性の声がした。鈴を転がすような声であった。この暗闇世界と以前の世界との違いは、異性の価値感がすこぶる変化していたことにあった。

 視界の利かない今となっては音声、それに匂い、そして感触。それが全てだった。

 わたしは甘い声で、かぐわしい香りがして、ふくよかですべすべした肌を持つ女性を伴侶にした。暗闇の中で唯一の楽しみは異性とのふれあいだけだったのである。

 そんなある日、組合の管轄下にある坑山から光源を有する鉱石が発見された。世の中にはあえて見えない方が幸せなこともある。

 薄明かりの中、あちこちから男女のため息や悲嘆にくれた声が漏れ聞こえて来たのだった。

10月22日 図鑑の日

「今日はさとしにいいものを買ってきてやったぞ」と、父は綺麗な包装紙でラップされたものをテーブルに置いた。

「わーい。新しいゲーム?」

 息子の聡が手放しで喜びの雄叫びを上げる。 

「あなた。またそんなものを」と、母は険しい表情をつくった。

「違う。ゲームなんかじゃないよ」

 父は包装紙を破いて中身を出した。「図鑑を買ってきたんだよ」

 図鑑はちょっとした卒業アルバムぐらいの大きさで、分厚い表紙に王冠の絵が描いてあった。

「ズカン?なにそれ」

 聡は興醒めした顔をする。

「教養を身につける為の本のことだよ」

「なあんだ。本か。本ならいっぱい持ってるよ」

「あなた。図鑑と辞書ってどう違うのかしら?」なおも母は怪訝な顔をしている。「家には百科事典があるでしょうに」

「いや、この図鑑は『ZOROZORO図鑑』といって、絵が3Dで飛びだしてくるという最新技術を駆使した新製品なのさ」

「へえ。パパそれのどこがいいのさ」

「たとえばだ・・・・・・」父がページをめくる。「この昆虫の絵を指で押すだろ」

 すると写真の上に、立体的な昆虫が出現したではないか。

「おお!」

 聡と母が驚いて昆虫を見つめる。父は図鑑を回してみた。それと一緒に昆虫も回り出した。

「普通の図鑑は写真や絵だけだろう。でもこの3D図鑑なら、前後左右上下どこからでも観ることができるのが画期的なところなのさ」

「まあ、あなたこれって面白いじゃない。たとえば海に浮かんだ舟の底も観察できるってことね」

「東京タワーの天辺を見下ろすことだって可能だよ」

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

 その後しばらく3D図鑑は、聡のお気に入りになった。

「ねえパパ、質問していい?」

「なんだい」

「このひとって偉いんだよね」

「ああそうだよ。昔タレントだったけど、今は立派な政治家なんだ」

「ふうん」

「どうかしたのかい?」

「なぜか裏から見ると、まっ黒なんだけど・・・・・・」

10月23日 家族写真の日

「ねえ。ぼくの隣に写ってるこのひと誰だっけ?」

「ええ?おじいちゃんじゃないの」

「あれ。うちのおじいちゃんこんな顔していたかなぁ?」

「写真の写り具合じゃないの。光の加減とか・・・・・・ちょっと見せて。うーん。たぶんおじいちゃんだと思うけど・・・。それよりわたしの前にいる子だれか知ってる?」

「え?知らない子だな。近所の子供が紛れ込んだのかな」

「そんなことってある?家族の集合写真だよ」

「そうだよな・・・・・・。あれ、よく考えたらおれ結婚してなかったわ」

「だよね。わたしもどうもおかしいと思ったのよ。あなたお隣のご主人じゃなかったっけ?結婚してなかったんだ、じゃあ、あれは内縁の奥さんか」

「はは・・・・・・ごめん。ほんとどうかしてたよ。ところできみの家、ここじゃなくて隣だよね」

「あは。間違っちゃった」

「・・・・・・もしかして、昨晩ぼくのベッドに潜り込んできたのも・・・・・・」

「あ、それならうちのおばあちゃんだと思うわよ」

10月24日 天女の日(新羽衣伝説)

 透き通った空気の、天気のいい日だった。

 三保の松原にひとりの天女が空から舞い降りた。それは鶴の羽ばたきのように軽やかな動きだった。

 松林が遠く海の果てにまで続くかと思うほどに伸び、その先に富士の霊峰がたおやかな雄姿をのぞかせていた。青い海から白い波頭が浮かび上がり、キラキラと目映い光を反射している。

「なんて気持ちがいいのかしら」

 天女はおもわず海で水遊びをしたくて、着ていた柔らかくて透き通ったピンクの羽衣を松の枝に掛けた。季節は秋であったが、その日は妙に蒸し暑かったのだ。

 そこへ漁夫の清吉せいきちが通りかかった。目の端になにやらきらめくものが揺れている。

「おりょ。これはなんずら」

 手に取ると、それは雪のように軽い着物であった。

「いい匂いだ」

 清吉は着物を鼻に当てがうと、松の木の隙間から裸の女体が目に入った。「なんて美しい女性だろう。まるで人魚みてえだ・・・・・・」

 清吉の目は、水しぶきを上げて踊る天女に釘付けになってしまった。

 どのぐらい時間が経っただろう。天女が一糸まとわぬ姿で清吉に近づいて来た。思わず清吉は後ずさりしたが、天女と目が合ってしまった。

「いや!」

 天女が恥ずかしさのあまり、その場にうずくまる。「どこのどなたか存じませんが、わたしの羽衣を返してくださいませぬか」

 そう言われて清吉は、自分の両掌に天女の羽衣が握られていることにようやく気がついた。

「だめだ!」

 思わずそう口にしていた。

「堪忍してください。それがないと帰れないのです」

 天女は眉をひそめて清吉を睨んだ。

「睨んだってだめだ。おれはあんたに惚れちまった。一緒になってくれたら返してやる。そうでなければ、これは破り捨ててしまうぞ」

「そんな・・・・・・」

「おい、そんな格好だと人目につく。とりあえずこれを羽織っとけ」

 清吉は自分の来ていた半纏を脱いで天女に向かって放り投げた。天女は言われたまま、清吉の半纏を肩に掛けてゆっくり立ち上がった。

「本当にあなたと一緒になれば羽衣を返してくれるのですね」

「あ、ああ」ふんどし一丁の清吉は自分でも驚くほど動揺して答えた。「お、おれの名前は清吉だ。あんたの名前は?」

「名前。人間の名前はありません」

「そ、そうか。それじゃあ・・・・・・」清吉の耳には静かな波の音が届いていた。「お静っていうのはどうだ」

「お静・・・・・・」

「そうだ。お静は今日からおれの嫁さんだ」

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

 清吉はひとり暮らしだった。

 天女は清吉が漁に出ている隙を見て羽衣を奪い返し、天に舞い戻るつもりでいた。ところがどこを探しても清吉が隠した羽衣が見当たらない。天女は清吉の家を飛び出して、交番に駆け込んだ。以前だれかに警察の出張所が交番だと訊いたことがあったのだ。

「すみません」

 天女が交番に入ると、デスクで事務仕事をしている警官が顔を上げた。

「はい。どうしました」

 天女は水浴びをしているところをある男性にのぞき見されたあげく、脅迫されて内縁の妻にされている旨を手早く説明した。

「それは犯罪です。で、あなたの住所と氏名は」

「名前はありません。住所は天の川です」

「なんですと」

「わたしは天女なんです」

 警官はまじまじと女の顔を見た。

「はは。困りましたな。いくら別嬪べっぴんさんでもそんなご冗談を・・・・・・」

「いえ、本当です。わたし天女なんです!」

「ああそうですか。それじゃあ、その男を逮捕することは無理ですな」

「どうしてですか。ひどいじゃありませんか。こんなに困っているのに・・・・・・」

「あのね。人が人に対して犯した罪は法律で裁けますけど、人が天女になにをしてもそれは法律違反にならんのですよ。虫を殺しても罪にならんようにね。お分かりですか」

「・・・・・・そうですか。よく分かりました。それではもう結構です」

 天女は重い足取りで交番を後にしたのだった。

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

「お静。いま帰ったよ」

 清吉は漁を早々に終え、走って家に帰ってきた。そのときは、玄関の梁に縄が掛けてあることに気がつかなかった。縄は先端が輪になっており、清吉はその輪の中に首をつっこんでしまったのだ。

「?」

 次の瞬間、輪がギュッと締まり清吉の体が宙に浮いた。清吉は釣り上げられた魚のように手足をバタバタさせたが、そのうちぴくりとも動かなくなった。

 天女はテコのように張り巡らせた縄を近くの柱に縛りつけた。そして天女は無言で清吉の着物を剥いだ。

「やっぱり」

 清吉は着物の下に、天女の羽衣を身につけていたのである。天女はふわりと羽衣を羽織ると表に出た。ちょうどそこに、先ほどの警察官が自転車で通りかかったところであった。警邏中のようだ。

「おや、さきほどのご婦人」

 警察官がにこやかに挨拶すると、天女の肩越しにゆらゆら揺れる清吉の変わり果てた姿を見て目を剥いた。

 天女は微笑んだ。

「わたしは人間ではありませんから、こんなことをしても罪にはならないんでしょう?」

 そう言うと、天女は空高く舞い上がると、みるみるうちに姿を消してしまった。

10月25日 島原の乱の日

「なぜ神はわたしに試練を与えるのか」

 山田右衛門作やまだえもさくはひとり呟いていた。

 右衛門作は幼少の頃にポルトガル人に西洋画を習い、今は藩のおかかえの絵師であった。キリスト教の洗礼を受けたのも成り行きである。

 1637年、長崎で日本最大の百姓一揆が勃発する。徳川幕府が課した重税と、キリスト教徒弾圧が発端であった。できれば右衛門作はこういうことには極力加担したくない性格であった。ところが首謀者たちによって妻子を人質に取られてしまい、仕方なく参加することになってしまったのである。しかも、人望が厚く、絵がうまく、才知に富んでいたから、幕府との交渉役として一揆の副将に抜擢されてしまったのである。

 一揆の総大将となったのが、16歳の少年、天草四郎あまくさしろうであった。彼は生まれながらにしてカリスマ性を持っていたといわれる。彼が手をあげると掌から鳩が出てきた。掌をかざすと目の見えない娘が見えるようになった。また海面を歩くことができたという逸話が残されている。・・・・・・そんなことあるかい。右衛門作は天草四郎を甚だ疑っていた。聖書に出てくる救世主を真似た話なのだろう。

 ところが天草四郎の方は右衛門作をまるで師匠のように慕っていた。彼の風貌と知識が、四郎の眼には尊敬すべき人間に映っていたのに違いない。

「先生は洋画家だそうですね」顔の白い天草四郎が、それよりもさらに白い歯をみせる。「わたしのために旗印を描いていただけませんか?」

「旗印ですか」

「そうです。百姓が崇拝するイエスをモチーフにした旗を掲げたいのです」

「承知しました。描いてみましょう」

 このとき作成されたのが、金のグラスに浮かぶ十字架を拝む、二人の天使の絵が描かれた旗印なのである。

 当初優勢であった一揆軍は、次第に劣勢になり、最後には旧島原領主の址城『原城』に籠城することになった。

「しょせん百姓と浪人の寄せ集めだ。幕府軍に勝てるわけがない。なんとか妻子だけでも生き延びさせる方法はないものだろうか」

 右衛門作は幕府の内通者になることを決心したのである。

 幕府とのやりとりはもっぱら矢文やぶみを使って行われていた。その矢文に、城内の人数、武器の種類と数、軍の配置、食料の残などの情報を書いて送っていたのだ。もちろんその見返りとして、自分と家族の命の保証を要求することを忘れなかった。

 幕府から返信の矢文が放たれた。

「こりゃ何だ?」

 城外から飛んできた矢文を兵のひとりが拾ってしまった。

「なになに・・・・・・これは!」

 矢文には、総攻撃の手順と山田一家の命の保証をする旨が書かれていたのだ。報を受けた天草四郎は真っ赤になって激怒した。

「おのれ山田右衛門作、裏切ったな!妻子をここに引っ捕らえて連れて来い」

「よせ、やめろ!」

 右衛門作は後ろでに縛られたまま血を吐くように叫んだ。その右衛門作の眼前で、泣き叫ぶ妻子がまるで藁人形の首でも刎ねるかのように処刑されてしまった。

 手足を縛られたまま牢に閉じ込められてしまった右衛門作の眼に後悔の涙がこぼれ落ちた。

「神よ・・・・・・神よ・・・・・・これはなんということだ・・・・・・神よ!」

 幕府軍の総攻撃が始まった。城内にいた人間はその前に投降した1万人を除いて女子供も含め文字通りの2万人以上が皆殺しとなった。

 その後抜け殻のようになった66歳の右衛門作は江戸に送られる。

 右衛門作はキリスト教の信仰を捨て、キリシタン狩り専門の岡っ引きとなった。鮮やかな油絵で踏み絵を描き、多くのキリスト教徒を処刑に追い込んだ。さらにその処刑の風景も生々しく油絵にして公表し、庶民へのキリスト教の布教を徹底的に抑圧したのだった。

 もはや右衛門作の生きている意味は、神に対する復讐心しかなかったのだ。

 晩年83歳。山田右衛門作は信じられない行動に出る。またもとのキリシタンに戻り、こともあろうに故郷の島原に帰郷したという。彼が故郷の人々からどのような扱いを受けたのかは知る由もない。

 腰の折れ曲がった右衛門作は、砂を咬むように呟いた。

「神はなぜわたしにこんな試練を与えるのだろう・・・・・・」

 足を引きずりながら歩くその姿は、まるで十字架を背負ってゴルゴダの丘を行くイエス・キリストのようであったという。

10月26日 サーカスの日

 高らかにファンファーレが鳴り響き、会場が静寂につつまれた。いよいよショーも大詰めだ。2本のサーチライトが光の柱を作り出し、演者をとらえようと闇の彼方を彷徨さまよいはじめる。小太鼓が否応なしに臨場感を高める。息をひそめる観客。

 光の中に2本のロープが音もなく大きな振り子のように弧を描いて近づいて来る。

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

「今日からこの小学校に転校してきました木下真凜きのしたまりんです。前の学校では“マリリン”と呼ばれていました。よろしくお願いします!」

 マリリンはくっきりとした顔立ちをした女の子だった。明らかにぼくらよりも大人びて見えた。均整の取れた身体にすらりと伸びた手足。後ろに束ねた長い髪。薄い唇に切れ長の目。

「たしか啓介けいすけくんの隣が空いてたわね」と担任の女教師がぼくの隣の席を指さした。「木下さん、あそこに座って。啓介くん、教科書を一緒に見せてあげなさい」

「よろしくね」

 椅子に座るとき、マリリンは小さな声でぼくにウインクした。その瞬間、ぼくは恋に落ちてしまった。

 休み時間になると、クラスメイトからマリリンは質問攻めにあっていた。彼女は今月からこの街で興行されるサーカス団で生まれ育ったというのだ。サーカス団は街から街へ渡り歩く商売だから、この学校に通えるのは長くても3ヶ月なのだという。小学校に通うのは義務教育で出席日数が必要だからのようだ。

「へえ、3ヶ月でまた転校しちゃうんだ」

 ぼくは驚いてマリリンの顔を見た。マリリンはぼくに少し大人びた瞳を向けた。

「そうよ。だから日本中にお友達がいるの」

 その声は少し寂しそうに聞こえた。

「マリリンもサーカスに出演とかするの?」

「うん。いまはまだ簡単な役。マジックショーで箱に入れられて短剣を刺されるの」

「まじ。見に行ってもいい?」

「もちろんよ。啓介くん、舞台裏に来て声をかけてくれたらおいしいお菓子をごちそうするわ」

「やったあ!」

 ぼくはおもわずガッツポーズを作っていた。

 サーカスにはだいたい100人近くの人間が共同生活をしている。だから全員が家族みたいなものだそうだ。なにかあれば、必ず誰かが助けてくれる。

「やあ、マリリンのお友達だって」

 マリリンとテントの外で立ち話をしているだけで、5、6人の団員から気さくに声をかけられる。マリリンをはじめここでの居住空間は狭いコンテナハウスなので、広々とした外でお茶をすることにしたのだ。

 ここはまるで野生の王国のようだった。コンテナを出ると、目の前にキリンが首をのばしてぼくらを見ていた。遠くで響くライオンの鳴き声にびびる。目の前を象が横切る。

「わ、すごい。象だね」

「ここでは“象さん”て言うのよ。ライオンやキリンはそのままなんだけど」

「え、象だけさん付け。なんで」

「わかんない。ゾウさんていう唄があるからなのか、インドの神様だからなのかもしれない」

「ふうん」

 ぼくはその日、サーカスを満喫して帰った。ぼくが特に感動したのはサーカスの花形、空中ブランコだった。

 楽しい時間はあっという間に過ぎて行った。サーカス団は次の興行場所に移動するのだ。せっかく仲良しになったマリリンともお別れをしなければならない。

「マリリン。手紙ってどうしたら届くのかな」

「お手紙?」

「だってサーカス団て住所が決まっていないんだよね」

「県と市とサーカスの名前で送れば届くんじゃないかしら・・・・・・」

「絶対書くから。それでぼく、いつかマリリンのサーカス団に入りたいと思う」

「うん、待ってる」

 ぼくはマリリンと握手がしたくて手を出した。すると彼女はその手を払いのけて、ぼくのほっぺにキスをした。甘い香りがした。

「さよなら」

 マリリンは長い髪をなびかせて走り去ってしまった。

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

「あんたが、啓介くん。手紙を書いたって?」

 バーのマダムのような派手な化粧をした女だった。

「はい。小学生の時に同じクラスになった佐江島啓介といいます」

「ふん。マリリン目当てでサーカスに入団しようってんだね」

「そ、そんな・・・・・・」

「残念だけどね、マリリンはもうあの頃のマリリンじゃないんだよ。可哀想にね・・・あんた、空中ブランコの練習見てただろ」

「ええ」

「塩がお供えしてなかったかい」

「まさかマリリンが・・・・・・」

「やめておきな。女目当てでサーカスに入ろうなんて、続くわけないよ」

「いえ、ぼくは純粋にサーカスで空中ブランコをやりたいんです。中学高校と体操部で頑張ってきたのもそのためなんです!」

「マリリンが居なくてもいいのかい」

「はい。それでも結構です」

 女は喉の奥で笑って奥の扉に向かって言った。

「だってさ。どうする?」

 扉が開いて、マリリンが現れた。大人になったマリリンはさらに美しい女性に成長していた。

「啓介くん。ほんとうに来てくれたのね。わたし冗談かと思っていたのよ」

 笑顔のマリリンの瞳から涙がこぼれた。

「来る者は拒まず、去る者は追わずというのがサーカスの世界なんだ」女がたばこに火を点けながら言った。

「マリリンは卒業する度に別れを経験しなければならなかった。そして転校と同時に、心をすっかり入れ替える。だからあんたからの手紙は迷惑だったんだよ」

「それで返事をくれなかったのか」

 女は近くの戸棚の引き出しから手紙の束を取り出した。

「返事は書いたさ。ただ、あたしが投函しなかっただけなんだよ。マリリンがもっと悲しくなるのが分かっていたからね」

「そうだったんだ・・・・・・」

 女はマリリンの手紙の束をぼくに押しつけて、コンテナハウスから出て行ってしまった。

 次の瞬間、マリリンがぼくに抱きついた。

「二度と離さないで」

 ぼくと彼女は口づけを交わした。あのときと同じ甘い香りがした。

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

 光の中に2本のロープが音もなく大きな振り子のように弧を描いて近づいて来る。

 ぼくはその棒状のブランコを受け取ると、踏み台を大きく蹴った。そしてブランコに両膝を掛け、逆さまになって大きく腕を広げた。もうひとつの暗闇から目隠しをしたマリリンがブランコを両手でつかむと勢いよくぼくに向かって旋回を始めた。

「さあおいで!」と、ぼくは叫んだ。

 マリリンは跳んだ。ぼくはマリリンの両腕をしっかりと受け止める。

「死んでも離すもんか!」

「絶対だよ!」

10月27日 読書の日

一日を楽しみたいなら本を読みなさい一年を楽しみたいなら種を蒔きなさい一生を楽しみたいなら家を建てなさい

 誰の言葉か知らないが名言である。

 ぼくは読書家である。月に何冊読めば読書家といえるのかは不明だが、最低3冊は読んでしまうから読書家と言って差し支えないだろう。本はたいてい街の大きな書店で買うか、旅先で買うことにしている。帯を集めるのも読書家の楽しみのひとつだ。

 しかし、いくら読書家とはいえ、失敗もある。以前購入した本とまったく同じ本を購入してしまうことがあるのだ。趣味趣向が偏っていると、そういう間違いは時々起きるものだ。

 その日もぼくは書店の店員に交渉をしていた。

「同じ本を買ってしまったのだが、返品できないだろうか」

「お客様。それはお受け致しかねます。一度お客様の手に渡られた書籍は古本になってしまいますので・・・・・・」

「そこをなんとかならないものかね。折れ目もないし、カバーも綺麗だし、帯だってちゃんと付いている」

「そうおっしゃられましても・・・・・・」

 大きな書店である。レジが並列していくつもある。

「どうしてもだめでしょうか。まだ1ページも読んでいないのよ。なんだったらあそこにある本と見比べてみたらどうかしら?」

 世の中にはぼくと同じような人がいるものだ。ぼくがぼんやり彼女を見ていると、不意に彼女と視線が合ってしまった。ぼくは肩をすくめてニヤリと笑った。彼女はぼくを一瞬睨み付けたが、たまらず吹き出してしまった。

「あなたもですか」とぼくは彼女に言った。

「よかったら、お互いの本交換しません?」彼女が微笑んだ。

 そしてぼくは彼女の本を、彼女はぼくの本を持って家に帰った。それがきっかけで、ぼくらはお互いの蔵書を借りに、お互いの家を行き来するようになった。

 もちろんお互い読書家だから、共通する本がないこともない。全く同じ本を所有しているのが判明すると、その本について夜通し語り明かすこともあった。

 ある日ふたりは提案し合った。お互いの本をひとつにすれば、重複する本を売りに出して、その分新しい本を購入することができると。

 ぼくらは一生を楽しむために、家を建てることにした。

 種まきはどうしたかって?これからするところ。

 ちょっときみ、変な想像をするのはやめてくれ。

10月28日 ABCの日

「探偵の先生はいらっしゃいますか」

 ぼくが植木に水をやっていると、新宿署の田辺たなべ警部がやってきた。

「どうしました?」

 ぼくは警部にソファーをすすめてコーヒーの準備をはじめた。

「いやお構いなく」

「いえ、ぼくが飲みたいのです。田辺警部はついでです」

「ああそうですか。それなら遠慮なく」

 ぼくは挽いた豆をサイフォンに入れ、アルコールランプに火を点けた。しばらくすると、温度の上がったお湯が、サイフォンの下から上層部へと吹き上がって来た。コーヒーの良い香りが辺りに漂い始める。

「先日曙橋あけぼのばし駅で起きた転落事件はご存じですか」と、田辺警部が尋ねてきた。

 ぼくはお湯が上がり切ったところでサイフォンを火からはずした。

「京王線の・・・・・・新聞で読みましたけど、あれは事故ではなかったのですか」

「実は今日、分倍河原ぶばいがわら駅で殺人事件が起きたのです。ラッシュ時にナイフで背中をひと突き」

「ほう」

 ぼくは二人分のコーヒーをカップに注ぎ、そのうちのひとつを田辺警部の前に置いた。

「ありがとうございます。それで、被害者のコートのポケットから、京王線の路線図と殺人予告が見つかったのです」

「殺人予告が・・・・・・」

「そうなのです。被害者の名前は馬場英司ばばえいじといいます。イニシャルはBです。分倍河原駅のイニシャルもB」田辺警部はコーヒーをひと口すする。「それで曙橋あけぼのばし駅・・・つまりイニシャルAの駅で亡くなったのが安西あんざいかおる。イニシャルAです」

「なるほど」ぼくは興味をそそられ、コーヒーカップをソーサーに戻した。「そうしますと、その予告状の内容は、次はイニシャルCの駅に気をつけろ・・・・・・とかですか」

「その通り。さすが話が早い。これはアガサクリスティーの『ABC殺人事件』の模倣犯ではないかと警察では見ているのですが」

「その可能性はありますね。世間をあっと言わせたいというのが犯人の狙いになりますか」

「警察としては、第三の殺人をなんとか食い止めたいと思っております」

「京王線でイニシャルCの駅といえば・・・・・・調布ちょうふ駅と千歳烏山ちとせからすやま駅ですね」

「はい。さきほど駅の警備を増員したところです」

「マスコミに発表したらいかがですか。“イニシャルCの方はお気をつけください”」

「それでもしまた殺人が起きてしまったら、警察のメンツが丸つぶれになってしまいます」

「それでぼくのところに来たというわけですか」

「どうでしょう・・・・・・」

 ぼくは肩をすくめた。

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

 翌朝ぼくは調布駅に向かった。予告通り殺人が行われるとしたならば、千歳烏山駅よりも圧倒的に乗降者数の多い調布駅の方が可能性が高いと踏んだからだ。ところがラッシュアワー時の調布駅の雑踏は想像を超えていた。警察官の姿があちらこちらに見え隠れはしているものの、抑止効果が期待できるかと言えば疑わしい。

 そんな生活を3日も続けた頃である。ぼくの携帯電話が鳴った。

保住ほずみ先生。大変です。千歳烏山で殺人です」

「事故ではなくてですか」

「いえ。列車にかれたのですが、その前に被害者が『やめろ、押すな!』と大声で叫んでいる声を周辺の乗客が耳にしています」

「被害者の名前は?」

「今確認中です。ですが・・・・・・」

「ですが?」

「ご遺体の傍らから、京王線の路線図と次はDの駅に気をつけろというメモ書きが発見されました」

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

 結局亡くなったのは千明ちあきとおる45歳。イニシャルCだった。中小企業の経営者ということだ。駅の防犯カメラの映像解析では、犯人らしき人間を特定するには至らなかった。

「京王線でD駅といえば、代田橋だいたばし駅だけだ。保住先生、どうしたらいいと思いますか」

 ぼくは腕組をして言った。

「封鎖ですね」

「封鎖。それはどうでしょう。公共の交通機関をいつ何時なんどき起きるかわからない殺人のために封鎖するというのは・・・・・・」

「いいえ。今日半日だけでもいいです」

「何をするのです?」

「探すんですよ」

「何を」

 ぼくはウインクした。

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

 その後手製の時限爆弾が発見されたのは、代田橋駅を封鎖して4時間後のことであった。

「保住先生。どうして代田橋駅に爆弾が仕掛けられていると分かったんですか」と、田辺警部は訊いた。

「最初の曙橋駅の事件に予告状がなかったのはなぜでしょう」

「そういえばありませんでしたな」

「犯人はその新聞記事を読んで計画を思いついたのじゃないでしょうか。それは偶然でした。曙橋駅の安西さん。どちらもイニシャルA。そして自分の名前と最寄り駅がイニシャルC。これだけで彼は思い立ったのです。イニシャルBをB駅で殺害しようと」

「おっしゃっている意味がよくわかりませんが・・・」

「つまり犯人は千歳烏山駅で亡くなった千明とおるです」

「なんですって。彼も被害者のひとりじゃありませんか」

「まず整理しましょう。曙橋駅の安西さんは実は単なる事故。分倍河原駅で殺害された馬場さんは千明と何かの形で面識があったか、電話帳か何かで調べたのでしょう。そしてあたかも連続殺人の被害者を装って千歳烏山駅で千明は飛び込み自殺を図ったのです」

「いったい目的は何ですか」

「保険金で借金を返済するため。自殺だと簡単に保険金が出ませんからね」

「連続殺人事件に見せ掛けるために、2番目の馬場さんは殺害されたということなのですか」

「そうなりますね。お気の毒に」

「信じられない。確かに千明は会社経営で多額の負債を抱えて行き詰まっていたそうですが。では代田橋駅の時限爆弾は」

「連続殺人犯がまだこの世にいると思わせたかったのでしょう。偶然イニシャルDの人間が亡くなればいいですが、だいたいD駅で失敗する。そこで連続殺人はこの世から消えてなくなる。まあ、どっちにしてもイニシャルはFで終わっていたでしょうけどね」

「F・・・・・・」

府中ふちゅう駅と船橋ふなばし駅です。京王線にはFの次に来るGがつく駅はないんですよ」

10月29日 手袋の日

 ぼくには片想いの女性がいる。年齢的にはひとつ年上で、とても魅力的な女性であった。名前を美優みゆという。

 彼女はとても優しくて、いつもぼくに微笑みかけてくれる。ところが、ぼくが近づこうとするとなんとなくかわされてしまう。なんだその気がないのかと思い、冷たい態度を取ってやると今度は彼女の方から猫のようにすり寄ってくるのである。モヤモヤした感じのまま日々を過ごしていた。

 秋もそろそろ終わりに近づいた頃、田舎の母ちゃんが手袋を編んで送ってくれた。手袋など市販で手に入るのだが、母ちゃんが夜なべして編んでくれた手袋を無下にはできない。だいたい、“夜なべ”してとはどういう意味なのか。気になって調べたところ、諸説あるようだった。

 ひとつは夜、鍋物を食べながら仕事をするから「夜鍋」。昼と夜を並べて仕事を続けるから「夜並べ」。仕事の予定を夜まで延ばして残業するから「夜延べ」。どっちにしても、母親の愛情は大切である。ありがたく使わせてもらうことにする。

 ところがそんなある日、その手袋を片方どこかに落として来てしまったらしい。心あたりを探してはみたが、どうしても見つからない。あんなに大切にしていたのに・・・これは何かの暗示かもしれない。そう思って調べてみた。

手袋を片方なくしてしまうということは、新しい出会いの前兆”ということらしい。

「なるほど。いつまでもズルズルと美優さんに片想いしているのをきっぱり切り捨てて、新しい出会いを求める時が来たのに違いない」

 と、ぼくは思わず独り言をいいながら、出会いを求めて街に出たのだった。すると後ろから声を掛ける者がいる。

「あんた、これ落ちてたわよ」

 田舎から母ちゃんがふいに上京してきたのだ。しかもご丁寧に落とした手袋を拾ってくれて・・・・・・。

10月30日 初恋の日

 わたしの初恋は中学2年生の時でした。お相手は3年生のバスケットボール部の先輩です。片想いでした。

 授業中に黒板を見ている時も、給食を食べている時も、友達と話をしている時も・・・・・・気がつくといつの間にか彼のことばかり考えていたのです。お昼休みにはお友達と昨夜放映されたテレビドラマの話で盛り上がります。そんな時でも校舎の窓から校庭に彼の姿を見つけると、無意識のうちに彼のことを目で追っている自分に気がつくのです。

 そんなわたしを気づかってくれたのでしょう。先輩が卒業する日、親友の峯子みねこが彼の制服の第2ボタンをもらってきてくれたのです。

「もう、久美くみって分かりやす過ぎ。先輩に久美が欲しがってるって言ってもらって来てあげたんだからね」

「ありがとう・・・・・・」

 わたしは鈍く黄金色に輝くそのボタンをそっとハンカチに包み、制服のポケットにしまいました。きっと生涯の宝物になることでしょう。

 先輩の卒業式が終わって数日後のことでした。わたしの家に手紙が届いたのです。それは先輩からのお手紙でした。“もしよかったら、ぼくとつき合っていただけませんか”と綺麗な文字でしたためてありました。

 その瞬間、わたしの初恋は終わりました。

 わたしの中の恋心が嘘のように冷めてしまったのです。そうなのです。その頃のわたしは、単に恋することに恋していただけの乙女にすぎなかったのです。

10月31日 ハロウィン

 今年も亜梨寿ありすはレンガ造りの街並みを歩いていた。姉夫婦の家に向かっていたのだ。

Trick or Treat!(お菓子をくれなきゃいたずらするぞ!)」 

 道の向こうで魔女やお化けに扮した子供達が、裕福そうな家を巡っているのが見える。亜梨寿はふっと微笑んでその姿を見送った。

 ハロウィンはもともと、アイルランドの収穫祭が始まりなのだそうだ。10月31日の夜は、1年における光りと暗闇の境界線とされていて、死霊がこの世界に迷い込むと信じられていたのだ。そして、日本のお盆と同じように、親戚や親友などの霊もこの日に家に帰るとされ、火を燃やしたり、ご馳走を楽しむというのが習わしだった。

 また、悪魔やお化けなどの怖い仮装をすることで、悪い死霊から身を隠すとされていた。

※※※※※※※※※※※※※※※※※※

 姉の家に到着すると、家の玄関の登り口にカボチャをくり抜いて作った『ジャック・オー・ランタン』が飾り付けてあった。チャイムを鳴らす。ドアが開いて吸血鬼ドラキュラの格好をした、義兄の瑛斗えいとが顔を出した。

「やあ、久しぶり。ちょうどこれから出かけるところなんだ」

 瑛斗はちょっと複雑な顔をして笑った。「まあ、ゆっくりしていってくれ」

「亜梨寿。今年も来てくれたのね」

 瑛斗の後ろに姉の玲奈れなが顔を出す。

「それじゃあ、またあとで」

 黒マントをひるがえして瑛斗が街に消えていく。

「お義兄にいさんはどちらへ?」

 亜梨寿が姉に訊く。

「いつものお仲間とポーカーだって」と、玲奈が口を歪めて肩をすくめる。

「Trick or Treat!」

 いつの間にか、さきほどの子供達が玄関の前に集まってきていた。小さな魔女とお化けたちが可愛い声で口々に叫ぶ。

「Trick or Treat!」

「はいお菓子」と玲奈はバスケットに用意しておいたお菓子の包みをひとりずつ配りはじめる。

「Trick or Treat」

 最後列の一番小さなゴーストにお菓子をあげると、玲奈はゴーストを愛おしそうにぎゅっと抱きしめた。

「ありがとう」

 お化けのリーダーがそう言うと、お化けの集団は次の家に移動して行った。一番ちいさなゴーストは列の最後尾にフワフワと頼りな気について行くのが見える。

「だめねえ」

 玲奈がその姿を見てため息をついた。

「どうしたの」

 亜梨寿は玲奈の肩越しにゴーストの隊列を眺める。

「あれじゃあ、本物の幽霊だってバレバレじゃない」

 たしかに一番後ろの小さなゴーストは、ふわふわ宙に浮いているようだった。

※※※※※※※※※※※※※※※※※※

「いいのか。こんなところに居て」

 フランケンシュタインに扮した友達がドラキュラ姿の瑛斗に言った。

「なに。家にいたって気が滅入るだけさ」

 瑛斗はカードを交換する。

「それにしたって、今日は命日なんだろう」

 ミイラ男の扮装の男がカードを切る。

「義理の妹が線香をあげに来てくれている」

 瑛斗はたばこに火を点けてウイスキーを一気に煽った。

「気の毒にな・・・・・・」

 ゾンビのメイクを施した友人がカードを切る。

 瑛斗は言った。

「事故で妻子をなくした男なんてみじめなもんさ・・・・・・」

 瑛斗は義妹のそばに居たくなかった。双子の妹を見ていると、どうしても亡き妻を思い出さずにはいられなかったから・・・・・・。

 あとがき

最後までご覧いただきましてありがとうございます。

この物語はフィクションです。

登場人物、団体などはすべて架空のものです。

まれに、似通った名称がございましても関係性はございません。

参考文献・サイト等

KEY COFFEE コーヒーの種類がわかる!豆の種類やいれ方など一覧で解説 https://www.keycoffee.co.jp/shallwedrip/coffeeknowledge/type-of-coffee 参照日:2024.2.7

カウネット コーヒーの選び方を解説!タイプ別のおすすめも紹介 https://www.kaunet.com/kaunet/grp 参照日:2024.2.7

FUTARITOZAN 30代女性がガチ登山をやっている本音「女性目線でお話します」 https://https://futaritozan.com/impressions-of-female-mountaineering 参照日:2024.2.8

hinata 山ガールファッションにおすすめのアイテム28選!春夏秋冬コーデを紹介 https://hinata.me/article 参照日:2024.2.9

サンキュ! 探し物が多い人には4タイプある!あなたは何タイプ?タイプ別対策法を紹介 https://39mag.benesse.ne.jp/living 参照日:2024.2.9

SOBAUCHI楽常 蕎麦屋の暖簾に書いてあるあの難しい字・・・なにあれ?=Sobapedia=  https://rakujyo.com/blog/sobaya-anoji 参照日:2024.2.13

彩の国そば日和・そば屋さん達の蕎麦ブログ なぜ蕎麦屋さん(飲食店)には「たぬき」の焼き物があるの? https://https://saimen.or.jp/blog 参照日:2024.2.13

羊羹資料館|羊羹逸話| https://www.bing.com/search?q=羊羹資料館 参照日:20245.2.13

ウェルナビ 快眠のカギ「眠りはじめの3時間」をとことん深くするには? https://www.nisshin.com/welnavi/magazine/lifestyle 参照日:2024.2.15

ウィキペディア 島原の乱 https://ja.wikipedia.org/wiki/島原の乱 参照日:2024.2.16

和楽 山田右衛門作の壮絶な人生。島原の乱で唯一生き残った男は妻子を守りたかった… https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock 参照日:2024.2.16

3分知恵袋 ウインクには深い意味がある?右目と左目では意味が違う? https://every-day-life.com 参照日:2024.2.19

ウィキペディア 華岡青洲 https:///ja.wikipedia.org/wiki/華岡青洲 参照日:2024.2.20

さいとう内科・循環器クリニック 鉄道オタク https://saito-heart.com/column/鉄道オタク 参照日:2024.2.21

リフレ三和建設 そうですボクは鉄道オタクなんです。『鉄ヲタ』たちを種類別に分類 https://https://sanwa-reform.com/blog/ 参照日:2024.2.21

ウィキペディア パーソナルカラー https://ja.wikipedia.org/wiki/パーソナルカラー 参照日:2024.2.26

人と色の日・自分色記念日 https//ameblo.jp/s92466tm-2019 参照日:2024.2.26

『ABC殺人事件』 アガサクリスティー著(堀内静子訳) 早川書房 参照日:2024.2.27

【夢と現実】サーカス団員あるある61  https://rocketnews24.com 参照日:2024.2.28

スピイミ 手袋を片方なくした時のスピリチュアルな意味!何かの暗示や前兆? https://r-startupstudio.com/lose-gloves 参照日:2024.2.29

ウィキペディア ハロウィン https://ja.wikipedia.org/wiki/ハロウィン 参照日:2024.3.1

著者紹介
杉村 行俊

【出   身】静岡県焼津市
【好きな分野】推理小説
【好きな作家】夏目漱石
【好きな作品】三四郎
【趣   味】ゴルフ、楽器
【学   歴】大卒
【資   格】宅建士、ITパスポート、MOSマスター、情報処理2級、フォークリフト、将棋アマ3段
【創   作】365日の短編小説

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秋物語
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