11月の短編小説

11月の小説アイキャッチ 秋物語
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11月1日  犬・灯台の日

 岬のはずれに、白い灯台が立っていた。

そこには灯台守の善二という名の男が、日々航行する船の安全を見守っているのだった。

彼は独り暮らしの老人で、一匹の白い犬と慎ましやかに暮らしていた。犬の名前はハクと言う。

ハクは片時も老人のそばを離れずに、いつも一緒になって海を守っているような仕草を見せるのだった。

そんなある日、善二が急に体調を崩して亡くなってしまった。

ハクはめったに吠えない犬であったが、この時ばかりは海に向かってむせび鳴くように吠えたという。

飼い主をなくしたハクであったが、老人と暮らしていた頃と変わらず、その後もいつもと同じ時間に灯台に来ては寂しそうに海を眺めているのだった。

その姿を哀れに思い、通りすがりの住民が時々餌を与えていたのである。

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

「あんな大きな犬を野放しにしておくのはいかがなものでしょうか」

しばらくすると、小さな子供を持つ心ない母親たちが騒ぎ立てはじめた。「子供にもしものことがあってからでは遅いですわ」

「いや、ハクはおとなしい犬だ。危害など加えるはずがないじゃないか。老人と一緒に船の安全を見守っているつもりなんだよ」

古くからの住人たちでハクを擁護してくれた人もいた。しかし新しい住民たちはそんなことはお構いなしだった。

結局地域住民の訴えにより、保健所でハクを保護して処分することが決まってしまった。

人々は諸事情で自らハクの飼い主になることができず、ただ寂しそうにうなだれるしかなかったのである。

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街を嵐が襲ったのはその数日後のことだった。

暴風雨は海をしけらせ、海岸に大波が打ち寄せては砕け散る。

そんな日でもハクはいつものように灯台の下に座り、風雨に打たれながらもじっと海を見つめていた。

そのとき波間に何かが見えた。ハクは立ち上がった。

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「お巡りさん!」

若い主婦が血相を変えて交番に駆け込んで来た。ハクについて騒ぎ立てていたあの母親だった。傘も役に立たないようで、女の髪がワカメのように白い頬に張り付いてしまっていた。

「どうされました」警察官はなだめるように言った。

「子供がいないの!どこにもいないのよ」

「まあ落ち着いて、家の中は探しましたか」

「ええもちろんです」

「履物は。お子さんの履物はありましたか?」

「いいえ。長靴を履いて外に遊びに行ってしまったみたいなんです」

「この嵐の中を・・・ですか」

そとは魔女が叫んでいるかのように荒れ狂っていた。

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「おい。あそこ!」レスキュー隊員のひとりが指をさした。

小さな女の子が海辺でぐったりと横たわっている。

「まだ息があるぞ」レスキュー隊員たちは少女を毛布に包み抱きかかえた。

その傍らで、一匹の白い犬が半身を海に沈めてぐったりとしている姿が目に映った。

ハクは少女が運ばれていく姿を見届けて安心したのだろう。もはや這い上がるだけの力を残していなかった。

その優しい目は、静かな光をたたえて海の中に消えて行った。

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翌日の岬はいつものように晴れ渡っていた。

ただいつもと違っていたことがある。

ハクがいつも座っていた場所に、たくさんの花束が供えられていたことだ。

11月2日  いいふたりの日

「ねえみんな。わたし達このまま一生お友達でいようね」

その言葉を疑う者は誰もいなかった。

わたしたちは、最初7人のグループであった。それがひとり減り、ふたり減り・・・気がついたときにはわたしと萌(もえ)のふたりだけになっていた。

女の友情はハムより薄い”だなんて、誰が言った言葉だろう。

「ねえ萌。わたし達だけはいつまでも親友でいようね」

校舎の屋上である。なんとなく虚しい会話が続いた。

「だいたいみんな冷たいよね」萌は給食の残りのパンをかじりながら言った。「別れの影に男あり」

「だよねえ」わたしは空を見上げた。青い空に白い雲が浮かんでいる。「だいたい女ってさ、どうして男ができるとそっちを優先しがちなのかしら」

「里沙だって彼氏ができればそうなるかもよ」

「ならないよ。わたしは萌との友情を優先する」

「そうかなあ。そもそも男は他人を優先し、女は自分を優先するっていうじゃない」

「なにそれ」

「つまりさ。原始時代から男は集団で狩りに出かけて獲物を追う。だから仲間が危険な目にあったら助け合う習性があるんだって。でも女は自分が生き残るのが最優先だから、食事をもって来てくれる男ができれば、いとも簡単に友達を裏切ることができるってわけよ」

「遺伝子レベルで女は薄情ってことなの?」

「そう。だから一概に離れていった彼女たちを責めることはできない」

「ふうん。でも萌、わたしは違うよ。最期まで萌との友達関係は変わらないつもり」

「うん。たしかに里沙はいい友達だよ。女ってさ、どうしても同性に対して厳しい目で見るじゃん?」

「ああ、嫁姑問題もそれか」

「それにさ、どうしたって自分と比較して妬むわけよ」

「あるある。嫌な性格だよね」

「そこでわたしはどうすれば友情を確保できるかを考えたの」

「へえ。萌すごいじゃん。どんなこと。自分の考えを押しつけないとか、約束を破らないとか、友達に依存しないとか、友達と張り合わないとか・・・そんなこと?」

「そうじゃないよ。それは根本的な解決策とは言えない」

「じゃあどうするの」

「わたしたちね、お互い好みが似てるじゃない」

「洋服の好み?」

「それだけじゃなくて、とくに好きな男性の好み」

「うん、確かに。推しの芸能人も萌と同じだもんね」

「そこで取って置きのいい考えを思いついたの」

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その後、萌とわたしはそれぞれある男性とおつき合いを始めた。

そして学校を卒業してからふたりともゴールインし、いまでも友達関係が続いている。

デートも一緒、結婚式も一緒に挙げたのだった。

「どう。わたしたちの友情は永遠に不滅でしょ」と、萌が男の子を抱えて笑った。

「うん良かったよ」わたしも娘を抱えて微笑んだ。「旦那が双子の兄弟だもん。嫉妬のしようがないもんね」

11月3日  ハンカチーフの日

 この秋、わたしは彼と別れる決心をした。

もとはと言えば、彼の気を引くため、わたしが彼の前でハンカチを落としたのがきっかけだった。

「お嬢さん。ハンカチを落とされましたよ」そう言うと、彼は白い歯をみせて、わたしにハンカチを差し出したのだ。

「ありがとうございます」わたしは伏し目がちに彼の目をのぞき込み、ハンカチと一緒にそっと彼の指に触れた。

彼は電気が走ったような顔をしたが、実際に静電気を帯びたわたしの指が触れた瞬間、フライパンで熱せられた豆がはぜたかのような音がして火花が散ったのだった。“バチ!”

驚いたわたしと彼は目を合わせておもわず吹き出してしまった。

それから数年間おつき合いを重ねた。

でもいつも忙(せわ)しない彼にとっては、わたしは二の次、仕事こそが最優先だった。
デートをすっぽかされるのはざら。デートの途中でも仕事に狩り出されればひとり置いてきぼり。
わたしから電話をかけても繋がらない、彼からかかってくることもなかった。

このままでは、わたしの神経がどうにかなってしまう。

その日、わたしはとうとう彼と別れる決心をしたのだ。わたしは考えた。ハンカチが出会いの始発駅なら、終着駅もまたハンカチ。綺麗に別れよう。

中国に『送巾離根』という故事がある。ハンカチを送って関係を断つという意味なのだそうだ。ハンカチは別れの印。

だから次回の彼の誕生日に白いハンカチを送ることにしたのだ。

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その日はわたしは彼のために、フランス料理の店を予約した。最後の晩餐のつもりだ。

「悪い悪い」くったくのない笑い顔で彼が店に入ってきた。「ごめんよ。仕事が長引いちゃってさ」

「いいのよ」わたしは笑顔で彼をみつめた。

最初にシャンパンで乾杯して、コースでたのんだ料理が順番に運ばれてきた。

「相変わらず忙しいのね」

「うんそうなんだ。いまの仕事がようやく片付きそうだから、そうしたらおれたちの将来のことも考えようかと思ってるんだ」

「そのことだけど」

そのとき彼の携帯電話が鳴り出した。「ごめん」席を立って会話をしていた彼は席に戻るなり言った。「ごめん。また仕事が入った。話は今度ゆっくり訊くよ」

「あの・・・これ」わたしは食事の最後に渡そうと思っていたプレゼントをハンドバッグから取り出した。

「なに、誕生日のプレゼント?」かれは封筒状の包み紙を解いた。「あ」

「そういうことなの・・・」

「助かるう」

「え?」

「さすが。気が利くね」

「なんで」

「いや、大きな声じゃ言えないけど」彼は周囲に目を走らせた。「さっき腐乱死体が見つかったんだって。ハンカチ持ってなくてさ、どうしようかと思ってたところだよ。あの臭いは強烈でね。ハンカチは刑事の必需品。きみは絶対いい女房になるよ」

11月4日  いい推しの日

 彼らの金銭感覚は完全に麻痺していた。

自分の“推し”に対して、無防備なまでに金を使い果たしてしまうのだ。

そのくせ、普段の買い物では徹底的にケチを貫き通した。

すべての買い物の基準は推しのCD何枚分、推しのグッズがいくつ購入できるかで判断するようになる。

同じCDを買いまくる。家には未開封のCDが山のように積まれている。

すべては握手券を得るためなのだ。

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「で、ターゲットは始末したのか」メガネをかけた厳(いか)つい顔をした男が言った。

「そのはずだった・・・」と、デブの男が言った。

「そのはずだった?」

「だって兄貴。推しを殺すにゃナイフは要らぬ。“大切なお知らせ”があればそれで済むって言ってたじゃないですか」

「バカかお前。それでも殺し屋か。あいつらがそうそう簡単に死ぬわけなかろう。ゴキブリみたいなやつらだぞ」

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大切なお知らせがあります

この言葉に彼らは恐怖と戦慄を覚える。

卒業』とか『結婚』とかの二文字が推しの口から発せられたとき、彼らは廃人のようになってしまう。

「死んだ・・・」立ち直るまでにはかなりの時間を要する。しかし、彼らはやがて不死鳥のように蘇る。

そうだそれは次の推しを見つけたときだ。新たな希望が燦然と輝く太陽となり、生きるエネルギーを与えてくれるからだ。それがアユポンだったのだ。

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「でも兄貴。あぜあいつらを亡き者にする必要があるんです?」

「なぜって?あいつらの内の誰かが、おれの推しているアユポンを将来嫁さんにしてかっさらう運命だからだ」

「そんなのどうして分かったんですか」

「アユポンから夢のお告げがあったのだ・・・大切なお知らせがありますって」

11月5日  縁結びの日

「家族で京都旅行なんて何年ぶりかしら」

母は高く晴れ渡った秋の空を仰ぎ見た。

「砂利道は清々(すがすが)しいな」そう言いながら、父は参道を踏みしめながら歩いている。

わたしはというと、新調したばかりのワンピースを着て、両親の後ろにただついて歩く。

わたしにはもう何年も前からつき合っている友達以上恋人未満のボーイフレンドがいる。

わたしたちは特に愛し合っているとか、結婚したいとかという言葉を交わしたわけではない。ただなんとなく一緒にいるのがお互い心地良い関係だったのだ。

しかし恋愛と結婚を離して考えるには、どうやらわたしは年齢を重ねすぎてしまったようだ。

「直実がその気になってくれてよかったよ」父は満足げにわたしを見た。「お父さん達は心配していたんだ」

「本当に」母は襟を抑えながら言った。「直実は奥手だから。親戚中から直実に縁談話を持ちかけられるこっちの身にもなって欲しいものだわ」

「それにしてもここの神社は有名なパワースポットだからな。御利益が期待できるぞ」と、父は鳥居を一礼して潜(くぐ)った。

この神社には穴の空いた有名な岩があった。

本殿のお参りを済ませたあと、願いをこめてこの穴の空いた岩を潜ると願いが叶うという。まずは縁を切りたいことを願って岩を潜り抜け、今度は反対側から縁を結びたいことを願って潜り抜けるのである。

父も母も岩穴を潜った。

わたしも岩穴を潜り抜けた。

わたしは早く結婚しろだの、孫の顔がみたいだのという親の小言から縁を切りたいと願っていた。

そんなこととは露知らず、父と母は満足げに微笑んでいる。わたしはこんな柵(しがらみ)から救い出してくれるナイトの出現を夢見て再度岩穴を潜り抜けたのだ。

その後しばらくして父と母は離婚した。

両親の縁が切れたのはあくまでも偶然だ。そう思いたい。

11月6日  お見合い記念日

 綺麗な静寂に満ちた日本庭園。
鹿威しの音が、秋の空に心地良く響き渡る。

「あの・・・ご趣味は」

などという昔ながらのお見合いはすっかり影を潜めてしまった。

現代はマッチングアプリの時代である。

お互いの趣味趣向、職業、年収、体格に至るまで、事前に情報が発信されているから、あとはフィーリングと価値観が合うか、合わないかの世界なのである。

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「当サイトでは、会員様の情報を体系立てて管理運営することになっております」

「それは具体的にはどういうシステムなのでしょうか」樹里はマッチングアプリの会員登録をするにあたり、担当者に内容を確認していた。

「簡単にご説明しますと、まずはAIが予測値を設定します。その後実際にお会いした方々の採点をネットにアップしていただきます。コンピュータがその方の平均点を算出しまして、会員様ひとりひとりのより正確な人物像を構築することが可能になります」

「AIが採点をするんですか」

「そうです。100点満点中の総合点をはじき出します」

「どのような項目があるのですか」

「女性ですと容姿、ファッション、気遣い、恥じらい、言葉遣い、口臭体臭、ユーモア、演技力、良妻力、母性本能。すべて10点なら100点満点になります」

「演技力・・・なんのことですか」

「たとえば、一緒に食事に行ってレジでその気がなくても一応お財布をだして払いたい素振りをしてみせるとかです」

「はあ、なるほど。男性の場合はどういう採点項目になるでしょうか?」

「容姿、ファッション、財政力、気遣い、言葉遣い、口臭体臭、ユーモア、忍耐力、良夫力、包容力の合計100点満点となります」

「なんかすごいですね」

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その後このシステムは破綻してしまったという。

なぜなのか。

AIの設定した点数と、会員のつける点数があまりにもかけはなれた点数だったので、AIが怒ってストを起こしたからだという。

AIからの一言、ひとを見た目で判断してはいけませんぞ。

11月7日  いい女の日

「お坊ちゃま。この“いい女センサー”をお持ちください」執事の宗丘がそう言って小さな箱状のものを差し出した。

「いい女センサー?宗丘、なんだこれは」

「よろしいですかお坊ちゃま」

「そのお坊ちゃまはやめろよ。ぼくはもう二十歳の大人だぞ。いつまでも子供扱いしないでくれ」

「かしこまりましたお坊ちゃま」

「・・・」

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ぼくと宗丘は街に繰り出した。この機械の性能を確かめるためだ。

すると、前からものすごくスタイルのいいミニスカートの女性が歩いて来た。

ぼくは思わず機械を握りしめた。ところが何の反応も示さない。

「おい宗丘。これ壊れてるんじゃないのか。ちっとも反応しないじゃないか」

「そんなことはございません。今すれ違ったご婦人は、きっと見てくれは良くてもいい女とは言えないのですよ」

「そんなことあるか。いい女だったぞ」

「お坊ちゃま。いい女はあんなに厚化粧をしないものですよ。シンプルなナチュラルメイクをしている女性が本当のいい女と言えるのでございます」

「ふん。そんなものかね」

「さいでございます。それにあの超ミニスカート」

「ぐっとくるじゃないか」

「たしかにスタイルはよろしゅうございます。ですがセンスが問われます。もちろんミニでも身だしなみがよろしければ問題ございません。あのミニスカートの上に、キャメルのロングコートなんぞ羽織っておられましたらよろしかったと・・・」

「そんなものかね」

どうも執事はこの機械を使ってぼくの嫁さがしをするつもりなのだ。大企業の跡取り息子の嫁に、おかしな娘をめとられたのでは、先行きが危うくなってしまうからということらしい。

「どうでもいいけど、麗良(れいら)じゃだめだったのか?」ぼくはガールフレンドの名前を出した。

「お坊ちゃま。麗良さんはいけません。だいいち落ち着きがなくて、人と会話するときにちゃんとひとの目を見て話すようでなくては。しかもすぐに感情的になられますし」

「要するにまだ子供だって言うんだろ。宗丘が教育してくれればいいんじゃないか」

「そういう訳には参りません。人には持って生まれた性分というものがありますから」

「どうでもいいけどね。こんなことしていても結局いい女なんていつまで経っても見つからないと思うけどね」

と、そのときいい女センサーのLEDランプが緑色に点灯し、反応音が鳴りだした。

前方から近づいて来たのは、清楚な服装で引き締まったスタイル、それにシンプルな化粧をほどこした綺麗な長い髪の女性だった。彼女は口もとに微笑をたたえて、ゆっくりと会釈をして通り過ぎようとしていた。

「お坊ちゃま。あちらのご婦人こそ理想の彼女でございます。お声をお掛けしませんと」

「よしわかった」ぼくは彼女を呼び止めた。「失礼ですが・・・」

綺麗な髪がふわりと揺れた。「なんでしょう」微かに香る香水がぼくを圧倒した。

「あの・・・ぼくは富士財閥の竹久というものですが、いかがでしょう。少しだけあなたとお話をしたいのですが」

「富士財閥・・・あの有名な?」

「そう」

「ご遠慮しておきますわ。先を急ぎますので」

そう言うと女は踵を返して去って行ってしまった。

「宗丘。ひとこと言っていいかな・・・」

「なんでございましょう」

「いい女がみつかったからと言って、必ずしもぼくのことを気に入ってくれるって保証はないだろう。いや、むしろ財産なんかに目が眩まないからこそいい女なんじゃないのか」

「おっしゃる通りです」

ぼくと宗丘は、さっそうと遠ざかる彼女の姿を呆然として見送った。

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冴子は歩道を歩きながら呟いた。「これ、なかなか反応しないのね」

彼女の手には『いい男センサー』が握られていた。

11月8日  レントゲンの日

「どう思われます?」ぼくはレントゲン技師である。

その日、ある患者についてのカンファレンス(会議)を行っていた。

「この女性の患者は肺を患っておりまして」ぼくはモニターに映し出された画像を見せた。「それで、どうにも説明がつかなくて困っているのです」

「ほう」一同の口から驚きの声が漏れた。

「この影が白いということは、気胸(肺に穴が空く症状)やCOPD(肺が風船のようにふくれる症状)ではなさそうだな」と、頭の薄い年配の医師が最初に感想を言った。

「肺の下側に影がありませんから、胸水(きょうすい)や無気肺(むきはい)の可能性もありませんね」メガネをかけた秀才医師が言う。

「影が肺の中心から左右に広がって見えます。もしやこれは『バタフライシャドウ』・・・つまり心不全の可能性はないでしょうか」後ろで髪を束ねた女医が言葉を重ねる。

「たしかに浸潤影(しんじゅんえい)の状態からみると、この濃さなら間質性肺炎ではなく、肺炎を起こしていると考えていいのではないでしょうか」と、茶髪の若い女医が意見を発した。「それにしてもこれは・・・なんて言ったらいいのかしら・・・」

ぼくは言った。「そうですよね・・・」

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患者の町田さんを診察してぼくは驚きを隠せなかった。

「町田さん。正直言って奇跡としか言いようがありません」

「はい?」

「完治しています」

「そうなんですか?」婦人は驚いた顔をしてぼくの顔を見る。「こんなことってあるんでしょうか。わたしてっきり肺ガンなのかと・・・」

「・・・ですよね。ちょっとこのレントゲン写真を見てください。」ぼくは初診のときの写真を町田さんに見せて言った。「あきらかに影が見えます。悪性なのか良性なのかわかりませんが、何かがここにあったはずなのです。それが・・・」ぼくは先日カンファレンスした時の写真に切り替えた。

「あらまあ」婦人は口に手を当てて画像を食い入るように見ている。「あのひとったら。本当しょうがない人ね」

「あの・・・」

婦人はにこやかに微笑んだ。「うちの主人は昔から目立ちたがり屋でしょうがなかったのよね」

「・・・といいますと」

「この、手に見える影、主人のピースサインですわ」

「やっぱり」

そう、このレントゲンに映っていたのは亡くなったご主人の心霊写真だったのだ。

11月9日  119番の日

「はい消防署です。火事ですか。救急ですか」

「あの・・・火事です」受信イヤフォンから小さな声が聞こえてくる。

「場所はどちらですか」

「・・・」

「場所をお願いします」

「・・・大西公園の隣」

「わかりました。落ち着いてください。何が燃えていますか」

「家」

「わかりました。すぐに消防車が向かいます。あなたのお名前と電話番号を教えてください」

「・・・」

そこで電話がプツンと切れた。

「どうしました」と、ぼくは管制係員の若い女性に訊ねた。胸に吉田のネームプレートが付けられている。

「子供の声でした」吉田係員はぼくをかえり見た。「いたずらかもしれません」

「場所は」

「大西公園の隣だそうですが・・・」

「よし、とりあえず出動します」

「出動隊の編成はどうしましょう」

「状況が分かり次第出動指令を出すようにしましょう」ぼくは踵を返した。「吉田さんは再度電話をかけ直して情報を収集してください」

「はい・・・ですが」

「なんですか?」

「非通知番号なんです」

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緊急電話の番号は覚えやすいように3桁で出来ている。

かつては緊急電話用に112番が使用されていたのだが、現在は警察が110番と消防署が119番となっている。これには電話がプッシュホンになる前のダイヤル式が影響している。

緊急時に焦っているひとが、1番の隣の2番を3番と回し間違える例が多発したため、最短時間で回すことができる1番を2回と正反対の0番と9番をつなげることにしたのである。

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消防一番隊のぼくたちは、消防服を素早く着込むと消防車に飛び乗った。機関員と呼ばれる隊員が指令書の地図を確認する。

「大西公園です!」

「全員乗ったか」隊長が振り向く。

「全員搭乗しました」

「よし」隊長は赤色灯とサイレンのスイッチと消防車の動態端末ボタンを「出動」に入れた。

消防車は機関員が示した最短ルートに向かって走り出した。

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「隊長。やはり子供のいたずらかもしれませんね。あれからだれからも管制室に通報が入っていないようです」と、ぼくは言った。「左後輪縁石注意!あと30センチ」

「それでも駆けつけるのが消防隊員の仕事だからな」

「ですよね・・・左後方から自転車接近中!」

ぼくは左右に目を走らせながら運転手に大声で安全運転を促していた。

ぼくが消防士になろうと思ったきっかけは、子供の頃に見かけた強靱な身体と精悍な顔つきの若い消防士を一目見て憧れを抱いたからだった。ところが今でもその消防士をどこで見たのか、すっかり記憶から抜け落ちてしまっている。

それでもこうして消防士になれたのだからきっといい思い出なのだろう。

ほどなくしてサイレンを鳴らした消防車は現場に到着した。運転手は公園に横付けしてサイレンを止める。隊長は動態端末の「到着」ボタンを押した。

予想していた通り、どこにも煙らしきものが上がっていない。

「付近を確認!」

ぼくらは公園の周辺を駆け足で走り廻った。秋風が頬をかすめる。

「ここは・・・」ぼくは枯れ枝を取り払った。

そこには小さな祠(ほこら)のようなものがあった。祠の前に棒で何かが組んである。よく見るとそれはマッチ棒でつくった“をけら灯籠”のようだった。そこから目を離すと、急に立ちくらみがして世界が歪みだすのだった。

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気がつくと、ぼくの目の前に小さな少年がうずくまっている。

マッチでさきほどのをけら灯籠に火を点けようとしていたのだ。マッチの炎が組み上がったをけら灯籠を燃え上がらせた。それは竜が炎を吐いたようにまたたくまに大きな炎に成長していくのだった。

「きみ!」ぼくは少年を押しのけて、燃え上がった炎を足で踏み消した。消火された炎の跡に、白い煙がもくもくと上がった。

ぼくはしゃがみ込んで、少年の目をのぞきこんだ。

「だめじゃないか。マッチで遊んだりしたら」

「来てくれたんだね」少年の目に涙がにじんでいた。

「え?」

「ぼくのせいで家が火事になっちゃたんだ。それでお父さんもお母さんも死んじゃったんだ」

「きみは・・・」

「だからぼく大人になったら消防士になろうって決めたんだ」

「きみは」ぼくは思わず少年を抱きしめていた。「幼い頃のぼくなのか。そうなんだろう?」

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

気がつくとぼくは隊長に抱きかかえられていた。公園の藪の中で気を失っていたのだという。

「だいじょうぶか?貧血でも起こしたのか」

ぼくは思わず隊長の顔を見た。そして「あのときの消防士はもしかして隊長だったのですか」の一言を飲み込んだ。

11月10日 エレベーターの日

「とりあえず上にあがりましょう」

彼女はエレベーターの150階のスイッチを押した。ロボットがうしろからついてくる。

今や人口の爆発的な増加により、人類は地球のありとあらゆる場所に住居を構えた。

そのせいで、現在は成層圏までその活動区域を伸ばしているのである。

地表から20kmから40kmの空間に、島々が浮かんでいる。人々は高速エレベーターで地表と空の土地を往来しているのだった。

「空調が効いていないのかしら」江麻は額の汗をぬぐった。

成層圏では太陽に近づくので上に行けば行くほどに温度が上がっていく。そして空気も薄くなっていくのだ。

「メインコンピュータニ調整要請ヲダシテオキマス」と、ロボットが言う。

「お願い」江麻が苦しそうに言う。

エレベーターと言っても、外見は透明なチューブ状の筒である。外から中の様子が丸見えなので、うっかり服を脱ぐこともできないのだ。地表と空中都市、空中都市から空中都市へはすべてこのチューブ状の筒で移動ができる。

エレベーターは縦横無尽に配備されているので基本的に他人との乗り合いはしないことになっている。長時間に渡る密室での気まずさを回避するためだ。

エレベーターは150階を通り過ぎて登って行く。

「おかしいわ。150階が最上階のはずよ」江麻が焦って上空を見上げる。

「オカシイデスネ。エレベーターガ制御フノウデス」

「キャンセルボタンは」

「ハンノウシマセン!コノママデスト成層圏ヲツッキッテシマイマス」

「そんなこと・・・私たち焼け死んでしまう」

「メーデーメーデー。管制室オウトウネガイマス。キンキュウ事態ハッセイ。キンキュウ事態ハッセイ・・・。江麻サン、モシモ地表ニオチタトキニハ、エレベーターガ地面ニセッチスル前ニジャンプスルコトヲオ忘スレナク」

「バカ!こんなときに冗談言ってる場合」

そのとき、エレベーターが停止してドアが開き、金色に輝く小柄な男達がそこに現れた。

「あれ?地球人が乗っていますよ」

「あなた達だれ?」江麻がロボットの影に隠れて訊ねた。

「隊長。やっぱり地球人のようです」そう言ったひとりの男が江麻に説明をしてくれた。

「わたしたちは金星人です。金星の人口過多を避けるべく、宇宙にコロニーを作りつづけて来た結果、どうやらうちのエレベーターとおたくたちのエレベーターが繋がってしまったようなんです。これでだいぶ経費削減が可能になりました」

「ドウイウ意味デショウカ」ロボットが訊いた。

「だってUFOを使わなくても簡単にエレベーターで地球観光ができるんだからさ」

11月11日 コピーライターの日

「あなたぁ」

「なんだい」

「またトイレットペーパーが切れてるわよ」と、妻が騒いでいる。

「ああそうかい」

ぼくはウェブ会議中だったのでデスクでパソコンの前に座っている。もちろんこちらのマイク音声は切ったままだ。

「切れる前にいつも入れといてって言ってるじゃない」

「ああそうだった。ごめん忘れてた」しまった。最後のひと巻きを残しておくのを忘れてた。

「まったくもう!あなたはいつもそうじゃない」

「悪かったよ」

「だいたいあなたはね、いま聞いたことを3分経ったら忘れちゃうんだから」

「ひとをカップラーメンみたいに言うなよ。だから分かったって言ってるだろう」

「そんなことだからあなたは。分かったわ。こうなったら・・・」

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

ぼくは広告宣伝用の文案(コピー)を考える仕事をしている。所謂(いわゆる)フリーのコピーライターだ。

コピーライターになるのに学歴や資格というものは不要だ。斬新な発想と文章能力とちょっとした知識があればそれでいいのだ。

「重沼さん。今回の新製品のキャッチコピーを考えて欲しいのですが」クライアントから依頼が入った。「また前回みたいな一度聞いたら耳から離れないようなキャッチーなコピーお願いしますよ」

「分かった。じゃあその商品を持ってきてもらえるか」コピーを考えるには、まず売り込む物を自分自身で使ってみないことには話しにならない。

「了解です。これから試作品をお届けします」

今回の商品は薬の精神安定剤だった。

ぼくは渾身のコピーをいくつか考えた。

“冥土インジャパン”

“安らぎはここにある”

“眠れない、泊まらない”

「どうです」そう言いつつも、薬が効いてきたせいで眠くなってきた。

「社に持ち帰って検討します。あ、ちょっとトイレお借りしてよろしいですか」

「ああ・・・あとは適当にやってくれ・・・ぼくはちょっと休むから」

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

数日後、電話が入った。

「重沼さん。あのコピー最高です。“男たる者、切れる前になぜ気づかない”。クライアントも大喜びですよ。切れる前に精神安定剤を飲めってことですよね」

「ねえあなた。あたしの書いたメモしらない?」と、背後から妻がぼくに言った。

「なんのこと?」

「ほらトイレに貼っておいたメモよ。見当たらないの」

11月12日 四季・留学の日

 春子はアメリカに短期留学をした。

語学を学ぶためであるが、学校の勉強よりも語学力の上がる方法があることに気がついた。それは現地でボーイフレンドを作ることだった。日本人の女性は性格がおとなしく海外でモテる。体型が小柄で気性が穏やかなのがうけるのである。

春子がカフェで教科書を開いていると、ヘンリーという同級生が声をかけてきた。

「ハイ!ぼくは同じクラスのヘンリーというんだ。きみは日本人なんだってね」

「ええ」教科書から顔を上げた。

「ぼくはミス春子を一目見て好きになってしまったんだ。どうだろう、これから海辺にドライブにでも行かないか」

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

夏美はフランスに短期留学した。

クラスの懇親パーティーでサイモンが近づいてきた。

「ようこそパリの街へ。もしよかったら、セーヌ川のほとりのカフェか遊覧船でお茶でもしない?」

海外の男性は、日本の男性と比べて恋愛の表現がハッキリとしている。それに女性を褒めることを幼い時から日常的会話で体得しているので日本女性はついその気になってしまうこともある。

でもサイモンの愛は本物だった。

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

秋子はインドに短期留学していた。

秋子はクラスメイトのホームパーティに呼ばれた。

そこにはインド料理がたくさん並べられていて、どれも香辛料がきいていて良い味だった。

「秋子さん」そこへクラスメイトのムハンマドがニコニコしながら近づいてきた。「料理おいしいですか?」

「ええとっても」

「それじゃあ、今度アグラのお店でご馳走してあげます。その後映画でも一緒に観ましょう」

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冬子は中国に短期留学していた。

北京の大運河森林公園で本を読んでいると、王(ワン)が声をかけてきた。王は中国人のわりに彫りの深いハンサムな顔立ちをしていた。

「ニイハオ。冬子さんですよね。ぼく、同じクラスの王です。いつか日本に留学してみたいと思っています。ぼくと友達になってもらえませんか?」

「ええ・・・いいですけど」

「冬子さん。この近くに紅磚美術館があります。ご一緒にどうですか?そのあとで夜景の綺麗な場所を教えてあげましょう」

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三ヶ月の語学研修はあっという間に終わってしまった。

4人の女はそれぞれの恋愛を通して、それぞれの語学、風習などを学び大満足である。

離れてしまえば恋も終わる・・・春子と夏美と秋子と冬子はそう思っていた。

ところがヘンリーが春子を追いかけてロサンゼルスから日本にやってきた。

「春子さん。ぼくはきみを忘れることができないんだ。どうか結婚を前提につき合ってくれないか」

サイモン、ムハンマド、王も同様に日本に追いかけて来ていると連絡があった。

「ごめんなさい」春子はヘンリーを見つめて言った。「実はわたしの名前は春子じゃないの。志季(しき)っていうのよ」

「志季さんですか?」

「そうなの。わたしの中には5人の人間が存在していて・・・ある時には春子、またある時には夏美、そして秋子、冬子が顔を出すのよ」

「それって・・・」

「そうなの。多重人格者なのよ。顔つきだってその都度変わっちゃうの。だから諦めて帰ってください」

志季がペコリと頭を下げる。

「いや、驚いたな。」ヘンリーがポカンと大きな口を開けた。「こんなことってあるんですね」

「ごめんなさい」

「いいえ。そうじゃないんです。ぼくの本当の名前はジョンといいます。多重人格者なんです。実は3ヶ月毎に留学先を変えていて・・・」

「え?」

「ぼく達ふたりはきっとうまく行くと思います。だって男女が10人もいれば飽きるってことないですもんね」

11月13日 あいさつの日

「秋のヒマラヤをカメラに収めたいので、チベット行きのビザを発行していただきたいのですが・・・」

ぼくはプロのカメラマンをしている。ある雑誌の企画で、理想郷の風景を掲載することになり、入国許可証を取得するために中国大使館に来ていたのだ。

「あいにくチベットは個人による自由旅行は禁止されています。チベット観光局の入局許可証をもっている旅行社にご依頼なさったらいかがですか。」

「わかりました」

取りあえず馴染みの旅行社に連絡をすると、運良く許可証を持っているという。ぼくは現地では原則フリーで動き回りたいのだが、トラベルツアーの自由時間を使って取材するしかないようだった。しかも、同伴するガイドはぼくのかつての親友である田辺勉であった。

なぜ過去形なのかというと、独身時代にぼくと彼はある女性を取り合いになった仲なのだ。抜け駆けをしたのはぼくの方だったが、彼女の喜ぶ姿を見て田辺が身を引いたのだった。田辺としては腹が煮えくり返ったに違いない。

ほどなくしてぼくは彼女と結婚した。でもぼくの浮気が元で、3年後に離婚している。あいつと結婚していれば、もしかしたら妻は幸せな結婚生活を今も送っていたかもしれない。

ぼくらのツアーは旅客機で中国に入り、成都(せいと)に到着した。そこからチベットの首都ラサに向かう青蔵(せいぞう)鉄道に乗るのだ。駅のホームでガイドの田辺がぼくらを迎えてくれた。

ぼくと目が合った田辺は意外にも満面の笑みを浮かべてぼくに握手を求めてきた。

「やあ、健司じゃないか。久しぶりだなあ。元気だったか」

10年の歳月と、異国の暮らしがぼくらのわだかまりをすっかり洗い流してくれていたようだ。ぼくの一抹の不安も吹っ切れた。

「田辺。あのときはちゃんと謝罪することができなかった。ごめん」

「なに言ってるんだよ。芽依(めい)さんは最初からお前に惚れていたんじゃないか。それで芽依さんは元気なのか」

「それが・・・」

「うまく行かなかったってことか」

「全部ぼくが悪いんだ」

「まあ、気にするなって」田辺がぼくの顔を見る。「あとで自由時間になったら一杯やろうぜ」

「ああ」

そう言うと、田辺はツアー客の中に消えていった。

ぼくの胸に暖かいものがこみ上げて来るのがわかった。

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成都からラサまでは時間にして25時間、2000キロの長旅である。青蔵鉄道は標高4000mを走る“天空列車”と呼ばれているのだ。ぼくは車窓から広がるその絶景をカメラに収めた。

「再会に乾杯!」田辺はぼくにビールを勧めた。「標高が高いところで飲む酒は旨いぞ」

ぼくらは食堂車で旧歓を温め合った。

ぼくはビールをぐいっと煽った。「田辺。チベットはもう長いのかい」

「そうだなあ。旅行社に勤めてからだから・・・かれこれ5年になるかな」

「結婚は?」

「いや。生涯独身を貫くつもりだ。それよりなぜ芽依さんと別れたんだよ」

「いろいろあってさ。今でも思うよ。田辺だったら幸せにしてやれたかもしれないなって。日本に帰ったらあいつに会ってみたらどうだい」

「馬鹿言うな。もうそんな気はないよ」

食堂車の車窓から抜けるような紺碧の空と白い雲が見える。まるで動く絵画が飾ってあるようだ。

「ツアーのメンバーにお前の名前をみつけたときにはびっくりしたよ」

「うん。ぼくも田辺がガイドだって聞いて正直驚いた」

「今でも好きか」

「なにを」

「イカスミ黒胡麻パスタ」

「覚えてるのか」

「ああ、健司の大好物だったからな」

「最近は食べてないな。日本を後にする前に食べてくりゃ良かった」

「そう言うと思って・・・」田辺が給仕に手を上げた。給仕が頷くと、キッチンから白ワインと一緒に黒々としたスパゲティの皿を持ってきてぼくの前に置いた。

「ええ。なんで」ぼくは目を丸くして田辺をみた。

「コックに頼んで用意しておいたのさ」田辺がいたずらっぽく笑う。「友情の証だよ」

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ほどなくして列車はラサに到着した。標高が高いので空気が薄い。

ラサは“神の地”という意味なのだそうだ。

ツアーの一行はポタラ宮という大きな寺院などを見学して回った。

シャンバラはここから遠いのか」ぼくは伝説の楽園と言われている場所を田辺に訊いた。

「カイラス山の西南だ。車を手配してやるよ。一緒について行ってやりたいんだが・・・」

「分かってるよ。ここからはぼくも自由に動きたいんだ」

「それじゃあ、ひとつ言っておくけど・・・」田辺が優しい眼差しをぼくに向けた。「現地のあいさつの仕方なんだけど・・・」

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その後ぼくは消息を絶った。

ぼくはいたるところで田辺に教えてもらったあいさつを欠かさなかったのだ。

それがどういう意味なのか知りもせずに・・・。

チベットではお互いにペロっと舌を出し合ってあいさつをする。

それには「わたしは悪魔の生まれ変わりではありませんよ」という意味があるのだそうだ。

言い伝えによると、悪魔の生れ変わりは黒い舌を持っているという。

11月14日 いい上司の日

「おい結城(ゆうき)。先方のアポイントは取ってあるんだろうな」

上司の荒隈(あらくま)部長がパソコンを見る目を離さずにぼくに訊いてきた。

「あ、いいえ。A商事の専務は部長が懇意だから連絡しておくとおっしゃっておられ・・・」

「なんだと」荒隈部長がぼくに氷のような視線を向ける。「おれがアポ取るっていつ言った。懇意だから挨拶しておくと言っただけだ」

地獄の底から聞こえてくるような不機嫌な声だった。

「す・・・すみません。すぐに取ります」ぼくは受話器をとって短縮ボタンを押した。

「ち。使えねえな」荒隈部長のつぶやきが胸に突き刺さった。

そこへ春日(かすが)部長が現れた。

「荒隈部長。すみませんが、結城くん少しお借りしてよろしいでしょうか」口元に春風のように穏やかな微笑をたたえている。「彼にしか出来ない仕事がありましてね」

荒隈は春日を一瞬にらみつけ、あらぬ方を見て言った。「持ってけ」

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「結城くん。だいじょうぶか。荒隈部長にだいぶ絞られていたみたいだったけど」

ぼくは春日部長に連れられて、会社の廊下を歩いている。

「はあ・・・見られてましたか」ぼくは頭を掻いた。「まあ、ぼくがいけなかったんです。反省しないと・・・」

「はは」春日部長がにこやかに笑った。「無理するなよ。荒隈部長の新人いびりは今に始まったことじゃない」

ぼくは現在ふたつの部署に所属していた。

だから上司も二人いるのだ。ひとりは第一営業部の荒隈部長、そして販売企画部の春日部長だ。なぜそうなっているのかというと、わが社の場合、新人には複数の部署に所属させて適正を計り、最終的に適材適所に配属させるという方針を取っているからである。

噂によると、販売企画部は天国、第一営業部は地獄と言われている。要するにぼくは天国と地獄の間を行ったり来たりしているのだ。

「ところで先日頼んでおいた資料はできているかな」

「はい、新製品のマーケティング調査のまとめですよね」

「うんそうだ」

「パワーポイントでまとめてありますから、後でUSBに保存してお渡しします」

「いやあ。助かるよ、ありがとう。ぼくはちょっと忙しくてね」

「とんでもないです」

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「いやあ素晴らしい。この資料はきみが作ったのかね」

会議の席上で専務が春日に訊いた。

「はい。わたしが作成いたしました」と、春日はにこやかに笑った。

「そうかね。だが・・・この男女の比率がおかしいんだが、これはなんだ」

「え・・・」春日は一瞬資料に目を落としたが、ちょっと微笑して言った。「この部分だけ新人の結城くんに任せたんです。よく確認しておけば良かったな・・・たいへん申し訳ございせん」と言って深々と頭を下げた。

会議の間中、春日部長はぼくと目を合わせることをしなかった。

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「おい結城。今晩つき合え」

終業後、ぼくが帰ろうとしていると荒隈部長が睨みつけてきた。

「え・・・でも、ぼくちょっと」ぼくはできれば一瞬でも早く荒隈部長から離れていたかったのだ。

「ああ。明日の商談の打ち合わせをしようって言ってるんだ」

有無を言わせぬ状況だった。巻き込まれるのを恐れているのだろう。周りの社員はだれもが顔を伏せている。

荒隈部長に連れて行かれたのは高架下の一杯飲み屋だった。

「どうだ。安い、汚い、旨い店だ」荒隈部長が不機嫌そうに言う。

「荒隈さん。安い、旨いはいいけど、汚いは余分だよ」鉢巻きをした店主が笑う。

それには応えず、荒隈部長はぼくのグラスにビールを注いだ。ぼくは両手でそれを受け止めた。

「結城。明日の商談だけどな」

「はい」

一応形なりに乾杯をする。

「おれは黙っているから、お前ひとりでやれ」

「え。それはちょっと・・・」

「いいからやれ」荒隈部長はビールをぐいっと飲み干す。すかさずぼくは部長のグラスをビールで満たす。

「はあ・・・」

「結城、うちの会社をどう思う」

「どうって言いますと」

「ダメな会社だろう」

「いいえそんな」

「腐ってる。何もかもが」

腐ってるのはあなたの方じゃあ・・・と心の中で思って胃が痛くなった。

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第一営業部のオフィスに突然専務が現れた。

「A商事との交渉は誰が当たったんだ」専務の興奮した声が部内に響き渡る。「わが社始まって以来の大成功じゃないか!」

荒隈部長がおもむろに顔を上げた。「新人の結城くんです」と言って関心なさそうにぼくを指さした。

「なに?本当か」

「本当です。わたしは何もやっていません。彼ひとりの実力です」

専務がぼくに握手を求めてきた。

「ありがとう。きみのお陰でわが社の長年の念願が叶ったのだ。素直にお礼を言わせてもらうよ」

ぼくは荒隈部長の顔を振り向いて見た。

その時ぼくは荒隈部長の嬉しそうな目を初めて見た気がした。

11月15日 七五三

 昔、子供は七歳になってようやく自分たちの家族になれた。それまでは神の子と言われ、いつでもあの世に返さなければならなかったのだ。それほど昔は子供の死亡率が高かったのである。

子供は3歳になって言葉を理解するようになる。そして5歳になると知恵がつく。7歳になると乳歯が入れ替わる。その奇跡のような節目を祝うことで、人々は子供たちを神様への返還から逃れようとしたのである。

3歳に祝うのは『髪置の儀(かみおきのぎ)』と言う。それまでは髪を剃っているが、そこから髪を伸ばし始めるのだ。

5歳に祝うのは『袴着の儀(はかまきのぎ)』武家において男の子が袴をはき始めたのが始まりの儀式。

7歳に祝うのは『帯解の儀(おびときのぎ)』女の子の着物が、細い付け帯から大人の太い帯を結び始める儀式だ。

七五三では親が子に紅白の千歳飴をあげて、細く長く生きられるようにという願いを込める。

ただし、大昔はただのお祝いというだけではなかった。

将来この子が一人前の大人として成長することが見込めなかった場合、残念ながら自ら神様にお返しするという悲しい風習もあったというのである。

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「あなた、この子・・・」妻が夫の顔を訴えるように見る。

甲兵衛はわが子をじっと観察している。「うつけ・・・かもしれぬな」

「うつけ?」

「空っぽという意味だ。この子の表情を見てみるがいい。昼行燈(あんどん)のように何も考えていないようにみえる」甲兵衛は腕組みをして天を仰ぐ。「五平を呼んできてくれ」

ほどなくして使用人の五平が現れた。

「よいか五平。小幡家の次男は存在していなかったことにするのだ」

「留次郎さまをですか」驚いて五平が聞き直す。

「ああ。残念ながら・・・留次郎はどこを見ているのかも定まらぬ状態だ。山に連れて行って神にお返しして来てもらいたい」

「かしこまりました」

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そうは言ったものの、五平は気が重かった。

五平の後に5歳の留次郎はまるで物見遊山にでも来たかのようにくったくのない顔をしてついてくる。

「留次郎さま。お疲れでしょう。このへんで少し休みましょうか」

山林の中腹である。

五平は懐に隠し持っていた合口に手をかけた。この場で始末してしまおうか。

留次郎はと見れば、野山に咲く花を摘んでいる。五歳のこどもだ。何も刺し殺さなくても、このまま放っておいてもいずれ息絶えてしまうだろう。

「留次郎さま。五平はちょっと厠に行ってきますから、しばらくここで待っていてください」

そう言うと、五平は山林の中に姿を消した。

留次郎はあどけない顔をして花をめでていた。

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夜になるとコツコツと門を叩く音がする。

不審に思った門番が見に行くと、留次郎がそこに立っていたではないか。

「留次郎!」母は留次郎に駆け寄って抱きしめた。「どうやって戻ってきたんだい」

騒ぎを聞いて出てきた甲兵衛が留次郎の姿を見て唸った。

「五平!どういうことだ」

「面目ございません」五平は平伏して謝った。「まさかこのようなことになるとは・・・」

「しかし五平、留次郎はどうやって戻って来れたのだ」

「さあ・・・」五平も首を傾げた。「もしや山林の景色を道々正確に記憶しておられたのかもしれません」

「なんだと。そのようなこと大人でもかなわぬであろう。ましてや留次郎はまだ子供ではないか」

その後、五平が留次郎をなんど山に置き去りにしてきても、やはり同じように戻ってきてしまったのだった。もはや五平は留次郎を刺し殺すなどとは考えていなかった。この5歳の男の子に何か途方もない力を感じていたのだ。

「あなた。もうこの子に手を出すことはお止めくださいまし」留次郎の母の眼から涙がこぼれ落ちた。

甲兵衛もこの時ばかりは肯くしかなかった。

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留次郎は天野家の養子に出されることになった。

例の一件があり、甲兵衛は手元に留次郎を置いておくことが苦になっていたのである。

留次郎の稀代な才能を認めた天野家は、留次郎を将棋の大橋本家の門下生にした。当時留次郎のことを、その将棋の強さから『菊坂の神童』と呼ばれ始めていたという。

棋士としてメキメキ頭角を現した留次郎であったが、当時の名人位は世襲制であったから名人にはなれず、段位も7段までしか上がらなかった。しかしその実力は13段と言われ、後に“棋聖”と呼ばれるようになったのである。現在ある棋聖戦はこれに由来している。

37歳のときに名前を天野宗歩と改め、44歳でその生涯を閉じた。

素行が悪く、昼間から酒を浴びるように飲んでいた宗歩の懐から、幼き頃に母から頂いた紅白の細長い飴が出てきたというのは少々出来すぎた話ではある。

11月16日 いいビール飲みの日

「人間は飽きる動物である」と、わたしは草野球仲間の友人マアサに言った。「どんなにハンサムとつき合ったとしても、最初のデートと二回目のデートでは、断然最初のデートの方がドキドキする。それが結婚でもしたものなら、しまいには空気のような存在になってしまうから不思議」

「そうだねえ」マアサは納得の顔をする。

「これをミクロ経済学で『限界効用逓減の法則(げんかいこうようていげんのほうそく)』という。1杯目のビールって最高!おいしいよね!・・・ていうのはこれなのよ」

「ふむふむ」

「そこでわたしは考えたのよ」

「何を」

「いつでも1杯目を楽しめる方法をよ!」

「どうやるの?」

バケツみたいな大きなジョッキで飲めばいいんだって!」

「そうか。そう言えばあんたうちのソフトボールチームのピッチャーだったよね」

11月17日 将棋の日

 名人藤枝棋一が長考の末、金を自陣に寄せ、挑戦者の関田八段が封じ手をしたところで、対局は翌日に持ち越された。

封じ手とは、二日間に渡って行われるタイトル戦において不公平がないように、翌日の最初の一手を紙に書いて封印することで対戦相手に考える時間を与えないようにするのである。

それまでの対戦成績は三勝三敗の五分で、AIの予想では挑戦者がやや有利という展開になっていた。

挑戦者の関田八段は“昆虫博士”の異名をとる、異例の将棋の棋士である。

彼が殺害されたのはそんな夜のことであった。

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対局二日目の朝、朝食の場所に現れない関田を気遣った旅館の女将が部屋を訪れた際に、うつ伏せになって倒れている関田を発見したのである。

「発見したときにはすでに息がなかったということですね」

三田警部は女将に状況を確認していた。

「はい。すぐに救急車を呼んだのですけれど」女将は憔悴しきった顔をしている。

関田は背中を刃物で刺され、右手を伸ばした格好で亡くなっていた。彼の右手の中指は桂馬を押さえていた。印象的な死に様だった。彼は桂馬が好きだったのだろうか。

そしてさらに彼の左手には、なぜか七星テントウ虫の標本が握られていたのだった。

「死後5時間から7時間といったところですね」

鑑識官が三田に告げた。関田は夜中に殺されたのだ。

「それにしても・・・」と、三田は周囲を見回した。「この標本はなんですか」

関田は宿の部屋に昆虫の標本を持ち込んで、いたる所に飾っていたのだ。

「それは関田八段の精神安定剤ですよ」と、メガネを掛けた初老の男が声を掛けてきた。

「あなたは?」

「本局の立会人です」

「この旅館に寝泊まりしていたのは、対戦者と立会人と記録係、それに観戦記者の4名だと聞いていますが」

「わたしがその立会人の天童です」恰幅のいい和服の男が廊下から進み出てきた。

天童隆(てんどうたかし)といえば、将棋界の重鎮である。現在は現役を退いて永世棋聖に就いている。

「関田先生は昆虫博士でしてね。彼は対局にいつも標本を持ち歩いているのですよ。なあ、桂くん」

天童の後ろに背広を着た中年男と淡い藤色の着物を着た若い女性が控えていた。

「本局の観戦記者を務めている桂将馬(かつらしょうま)くんと、記録係の土田紗愛(つちださな)三段です」

「記録係というと、あの10秒・・・といか言うひとですよね」

紗愛がいくぶん青ざめた顔をして答えた。「そうです。あとは封じ手の用意をするのもわたしの仕事です」色白で、大きな瞳が印象的な女性だ。

「封じ手というのは、中断される最後の1手ですよね」

「そうです」

「それはいまどちらに?」

「封じ手は2通作ります」天童が言う。「そのうちのひとつは立会人のわたしが持っています。もう1通は主催者が旅館の金庫に保管してくれているはずです」

「見せていただけますか」

天童と桂が目を合わせる。

「先生。こうなれば対局も続けられません。開示しても差し支えないかと・・・」と、背広姿の桂が言う。桂将馬という名前からして、彼もきっと記者になる前はプロの棋士を目指していたのだろ。

「うむ」天童は懐から封印された封筒を取り出して、中から一枚の紙を取り出した。

そこには“8六桂”と筆書きで示されていた。

「これは名人の封じ手ですよね」

「はい、ぼくの封じ手です」銀縁メガネをかけた、痩身の男が答えた。名人の藤枝である。萌葱色の和服がよく似合っている。「今にして思えば、最善手ではありませんでした。あのまま対局していたら、きっと関田さんに逆転を許していたかもしれません」

正直な名人である。

「ひとつみなさんにお尋ねしたいのですが、関田八段の中指の下に桂馬が、それに左手にテントウ虫が握られていたのですが、なにか意味があると思いますか?」

「ダイニングメッセージということでしょうか」桂が面白そうに手帳にメモを取り出した。

「桂さん。あなたも奨励会に入っておられたのですか?」

「ええ、まあ・・・」桂は手帳を胸ポケットにしまって苦笑いを浮かべた。「昔の話です。25歳で四段に上がれなければプロにはなれんのですよ。まさか警部さん。ぼくが犯人だなんて言わないでしょうね」

「いえ、そういう訳ではありません。ただ桂馬の意味がちょっと気にはなって・・・。土田さん。桂馬とはどんな駒なのですか」

「チェスで言うと、ナイトのような動きをする駒です。前の駒を飛び越えて、斜め前に進むことができるんです。でもナイトとの違いは、桂馬は下から上にしか跳べないことです」

「なるほど・・・失礼ですが、藤枝名人とあなたはどういうご関係で?」

藤枝が紗愛をかばうように前に進み出た。「警部さん。ぼくらはただの棋士仲間です。おかしな詮索はやめていただきたい」

「そうですよ。何もそんな話題を記者の前で抜け抜けと出すなんて非常識にもほどがある」と天童が割って入る。「週刊誌の読み過ぎですぞ」

「まあ、待ってください。スキャンダルは藤枝名人と土田三段の交際だけではないんじゃないですか?」

「・・・といいますと」桂はまたもや興味津々という顔である。

「天童さんは土田さんに封じ手を教えて欲しいと頼まれませんでしたか」

「何を言っているんだ」

「もしかしたら、教えないまでも名人不利とだけは話したんじゃありませんか?」

「そんなことをする訳がない。確かに将棋連盟としては関田先生より藤枝名人にタイトル保持者になってもらいたい。それは将棋人気を支えることにもなります。でもそれは殺人を犯してまでの話じゃない」

「それではなぜ土田さんが関八段を殺害したのでしょう」

「なんだって?」藤枝名人がまさかという顔で紗愛を見つめる。

「きっと土田さんは藤枝名人のために、関田八段に負けてくれるようにお願いしたのではありませんか。そうですね」

紗愛はただ俯いている。

「そしてその見返りとして関田八段はあなたの身体を要求してきた・・・」

「警部さん。いくらなんでも、根拠もないのにどうしてそんなことが言えるんですか!」

さすがの名人も頭に血が登ったらしく、顔を真っ赤にして怒りだした。

「そうですよ。名誉毀損になりかねない」

「いいでしょう。関田八段のダイニングメッセージの意味をお教えしましょう」三田警部が4人を見回す。「テントウ虫とは“テ”と“ト”を無視しろというメッセージとも受け止められます。“タチツテト”のテとトを消したらタチツになります。桂馬は下から上にしか動かせませんから、スタート地点はツになります。桂馬はふたつ上がって左右のどちらにでも動けます。さてどうなるでしょうか」

「タ行の隣は“サシスセソ”と“ナニヌネノ”・・・」名人が言う。

「そうです。タ行の両隣の文字・・・それはサとナ」三田が紗愛に視線を向ける。「ツからはじまる桂馬の動きは・・・」

だ!」桂記者が叫んだ。

11月18日 いい家の日

「お客様。こちらの物件なんていかがでしょう」

最新の住宅建設会社のセールスマンが、家探しをしている家族を接客している。

「お値段お手頃、維持費が最小限におさえられますし、なにしろ資産価値が下がりにくい物件でございます。それに今だと、100エーカーの土地が無料で付いてきます。家庭菜園なんかも楽しめますし・・・」

「耐久性の方はどうだい」ご主人が言う。「やっぱり地震とかに強くないとなあ」

「それはもう折り紙つきです。耐震構造ばっちりの物件なんです」

「間取りはどうかしら」奥さんがそれに続く。「それに収納もタップリないと困るわ」

「4人家族であれば、じゅうぶんなスペースがございます。キッチンも広々。収納は床下にもありますから不足することはありませんよ」

「動線はどうかしら。お洗濯して干し場が遠かったらやっぱりねえ」

「奥様。備え付けの乾燥機を完備しています。とにかく自然に優しく、長持ち住宅。迷うことはございません。わたしが保証します」セールスマンが胸を張る。「アフターサービスも長期保証が付いていますのでご安心ください」

「でもなあ・・・」

「ではいったい何がご不満だとおっしゃるのですか?」

「月まで行く手立てがないんだよ」

11月19日 一茶忌(いっさき)

江戸時代の庶民文化の中でも小林一茶の俳句はすこぶる評価が高い。

一茶は即興的に句を創作する天才であった。とにかく残した俳句の数が半端ではない。
同時代の松尾芭蕉が1,000句、与謝蕪村が3,000句。それに比較しても小林一茶の句は21,200句と桁違いなのである。

悪く言えば粗製乱造と言えるのかもしれない。自身が詠んだ俳句の主語だけ変えた物も残っている。
たとえば・・・
名月を 取ってくれろと 泣く子かな
あの月を 取ってくれろと 泣く子かな

いったい何がこんなにも一茶を俳句の創作に駆り立てたのだろうか。

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

「弥太郎。悪いが江戸に奉公に出てもらいたい」父、弥五兵衛が奥座敷に一茶を呼び入れて言った。

一茶の幼名は弥太郎という。

「お父さん・・・」一茶は分厚い唇を噛みしめ、切れ長の目を見開いた。

「お前の言いたいことはわかっている。なぜ長男の自分が奉公にだされなければならないのかと言いたいのだろう。それにうちは柏原(長野北部)の中でも富農とはいかないまでも大きな農家だ。食い扶持に困っているわけでもない」

「継母のせいですか」

弥五兵衛がゆっくり頷いた。「こらえてくれ。わしの力不足じゃ」

一茶の実母のくには、一茶が3歳の時に亡くなってしまった。それから5年後に弥五兵衛は隣村から後妻のはつを娶ったのだが、継母は気が強く一茶とはすこぶる気が合わなかった。そしてはつと弥五兵衛との間に仙六という子供が産まれると、ますます険悪な仲に発展していったという。

それでも祖母のかなが仲介に入っていた時にはまだ良かったが、一茶が14歳のときにかなが亡くなると、もはや手のつけようがなくなってしまったのだ。

「でもわたしは長男です。この小林家を継ぐ者ですよね」

「ああその通りだ。時間が経てば、お前達の心も穏やかになっていよう。いつか戻ってきてもらいたい」

「そうですか。・・・ですが家督は弟の仙六には譲りません。江戸で勉強をして戻ってまいります」

そう言うと、小柄な一茶は小さな小鼻を膨らませて立ち上がった。

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

労働者のひとりとして江戸に奉公にあがった一茶を待ち受けていたものは、貧困と宿無しの生活であった。当時の奉公人は奉公先が一定ではなく、その都度宿泊先を転々としていた。いわば日雇い労働者の一団の中のひとりなのだった。

「なぜ小林家の惣領のわたしが、こんなつらい目にあわなければならないのか・・・」

貧困生活に喘ぎながら、ある日一茶は俳句というものを知った。労働者仲間に無理矢理に連れて来られた遊郭で出会ったお夏という女性から俳句を教わったのだ。

「面白いわね。あんたなかなか筋がいいよ。本格的に習ったらどう?」

見よう見まねで作った俳句だったが、意外にもお夏に褒められた。考えてみれば一茶にとってははじめて他人から褒められたような気がする。

快感であった。この頃から、なにか辛いことがあると俳句を作ることで気を紛らわすようになったのである。

一茶は葛飾派という俳会に入り、メキメキとその腕を上げていった。一茶の句は、風景の一瞬を1葉の写真に切り取とったかのように情景が目に浮かんで来るのだった。

やれ打つな 蠅が手を擦る 足を擦る

25歳になった一茶はやがて執筆の役職につき、師匠と同居することになる。執筆とは、師匠が認めた実力者でいわば会のナンバー1となったのである。

一茶は当時の習わしで全国へ修行の旅に出発した。師匠が各地の俳人への紹介状を書き、そこへ訊ねていきお互いの句を披露し合う。そこで腕が認められれば客人として受け入れられ、認められなければ宿を紹介されて出直さなければならない過酷な旅なのであった。

貧乏な一茶は寒空の下で野宿することさえあったのだ。

「なぜ小林家の跡取りがこのようなことに・・・」

雀の子 そこのけそこのけ お馬が通る

当時の俳人は、一様に定職を持っており、俳句は趣味の延長であった。一茶のように俳句を生業(なりわい)にしていたのでは、金銭的な余裕がまったくなかったと言っていい。

句会を開催したり、全国の俳人に通信教育をすることで生計を立てていたが、生活が豊かになることはなかったという。

そんなある日、父弥五兵衛は病で倒れた。弥五兵衛は小林家の財産を一茶と仙六が半分ずつを相続せよとの遺言を残して他界した。

経済的後ろ立てのなかった一茶は、この遺言を喜んだ。ところが、継母と弟は自分たちが拡大した農地を一茶が半分受け継ぐことに拒否反応を示したのだった。

「なぜなのだ。わたしが小林家の惣領じゃないか!」

この遺産分割問題の訴訟は長期にわたった。

遺産分割訴訟が解決したのは一茶52歳のときであった。同時に一茶の初めての結婚が決まった。相手は28歳のお菊という女性だった。お菊は気配りが利き、継母や仙六の農作業も積極的に手伝い、折り合いをつけた。

待望の子宝にも恵まれたかのように見えたが、第一子の長男は生まれて28日目に亡くなった。その後もふたりの男の子とひとりの女の子を出産したが、全員2歳を迎えることがなかった。

その上さらに、妻のお菊も通風を患い、37歳の若さで亡くなってしまった。

「なぜだ。なぜなのだ。小林を継ぐ者としてあまりにも酷ではないか」

その後一茶は武士の娘で38歳のお雪と再婚している。お雪も再婚の身であった。お雪は気位が高く、農業の経験も無かったため、お菊のように継母や仙六とうまくやることができなかった。

その上、当代一の俳人である一茶には客人が絶え間なく訪れるため、孤独に耐えられなくなったお雪は実家に戻ったまま二度と帰ってこなかった。

一茶はそれから三度目の結婚をすることになる。なんと一茶64歳のときである。妻のやをは32歳、2歳の連れ子倉吉を抱えていた。

連れ子だから血は繋がっていないとはいえ、形なりにも跡取りにはすることができそうである。ただし、倉吉の父親は10代の名家の三男坊で、奉公人のやをを胎ませて産まれた私生児であった。

ところが1年3ヶ月後に事件が起きる。柏原の大火に巻き込まれたのである。小林家はほぼ全焼。一茶たち家族三人は焼け残った暗い土蔵で生活するしかなかった。

「なんで惣領のこのわたしが・・・」

一茶はある日気分が悪くなり、暗い土蔵の中で床に着きそのまま息を引き取ってしまった。享年65歳の生涯だった。

一茶の亡くなった翌年、やをは女の子を出産した。なんとやをは一茶の子を腹に宿していたのである。

産まれた子供はやたといい、大人に成長したやたは婿をとり、3男1女の子宝にも恵まれ、小林家を継ぐことになる。

生前あんなにも一茶が切望した小林家の存続は、皮肉にも一茶の死後に産まれたやたによって現実のものとなったのであった。

どこからか、一茶の俳句が聞こえてきそうだ。

やせ蛙 負けるな一茶 是にあり

11月20日 毛布の日

「今日は日本ではじめて毛布が作られた日だって知ってた?」

誠次が友だちのサクと話をしていた。

「へえ。いつ」

「明治20年、1887年なんだってさ」

「明治かぁ。もっと古いのかとおもったら、意外と新しいんだね」

「サク。その昔は毛布の代りに動物の毛皮を使っていたんじゃないかな」

「暖房のため?」

「それもあるけど」誠次は毛布の効用について語りはじめた。「よく遭難者が助けられると毛布を被せられている姿を見るだろう?」

「ああ、ニュースなんかで見たことがあるよ。あれは身体が冷え切っているから暖めているんだよね」

「それだけじゃないんだ。毛布にくるまると、その暖かさと温もりで心が落ち着く作用があるんだよ」

「へえ。あのふわふわした感触もいいよね」

「だろう。洞窟とか雪国のカマクラなんかと同じように、毛布にくるまると安心感を得ることができるって訳なのさ」

「それはいいことを訊いた。今度試してみるよ」

そう言って、サクはニッコリと笑った。

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

「遊園地?」

「そう。実はぼくお化けが怖くってさ。お化け屋敷に入れなだ。彼女とデートした時、恥ずかしいだろ」

「まさか毛布を被ってお化け屋敷に入るつもりかい」

「そうさ。毛布さえ被っていれば、お化けなんか怖くない。じゃあ行ってくる」

そう言うと、サクは頭から毛布を被ってひとりお化け屋敷に挑んで行った。係員が不思議な顔をしていたが、訳を話すと笑っていた。

しばらくして誠次が出口で待っていると、サクが余裕の顔をして出来てきた。

「どうだった?」誠次がサクに訊ねると、笑顔のサクが答えた。

「全然怖くなかったよ。やっぱり毛布の力は偉大だね。安心感が絶大だよ。これで彼女との遊園地デートも安心さ」

「良かったな。ところできみの背後で同じ格好をして歩いていた人がいたけど、あれは誰?」

11月21日 ボジョレーヌーボー解禁(第三木曜日)

「ねえ」沙羅(サラ)が高々とグラスを掲げて言った。「この“100年に1度の当たり年”って誰が考えたのかしらね」黄色いセーターがよく似合っている。

新人アーティストの女性3人トリオが、今夜はスポンサー主催のボジョレーヌーボーの会を楽しんでいた。

「日本の広告宣伝マンじゃない?」赤いセーターの帆菜(ハンナ)がグラスを鼻に近づけて香りを嗅ぐ。

「“21世紀最高の出来栄えです”っていう年もあったよね」紫色のワンピースの芽依(メイ)がワインをひとくち口に含む。「これが100年に1度の当たり年のワインねえ・・・」

「そもそもさあ。ボジョレーヌーボーってどういう意味よ」沙羅が渋い顔をする。

「え、知らないで飲んでるわけ」帆菜が目を丸くする。「フランスのブルゴーニュ地方にあるボジョレーで作った新酒って意味じゃない」

「それはいいけどさ」芽依がワインをごくりと飲み干す。「これって本当においしいって思う?わたし分からないんだよねえ」

「やだ芽依。ボジョレーヌーボーはワインを味わうものじゃないんだよ」と帆菜が言う。

「ええ、ワインじゃなかったら何を味わうのよ」沙羅が目を丸くする。

「なに言ってんの」帆菜はあきれた顔をする。「今年のぶどうの出来を確かめるために飲むんじゃない」

「へえ。そうだったんだ」えらく沙羅が感心する。

「ぶどうは9月から10月にかけて収穫するでしょう。赤ワインはそれから1年から2年かけて熟成、白ワインは1年弱熟成させる。でもボジョレーヌーボーは数週間で出荷するのよ。しかも日本は時差の関係で世界で最速、生産地のフランスよりも早く飲むことができるってわけ」

「ほう!日本に住んでる特権なんだ。帆菜は相変わらず博識だねえ」沙羅と芽依が感心して頷いている。

「それにしても毎年ぶち上げるキャッチコピーて盛ってると思わない?」芽依が言う。

「そうね」帆菜が紅色のワインをグラスに注ぐ。「毎年ボジョレーワイン委員会で品評された資料に基づいてSOPEX(フランス食品振興会)が作るんだけど、日本ではそれを結構アレンジして訳してるようね」帆菜がワインを口にする。「たとえば2003年のSOPEXの声明は“並外れて素晴らしい年”って言ってたのが、日本では“100年に1度の出来”になっちゃってる」

「結局みんなそのキャッチコピーに踊らされてるんだ」沙羅が言う。「だって、一生に1度しか味わえないワインだったら誰だって飲みたくなっちゃうもん」

「踊らされるのも悪くないと思うわよ」帆菜が微笑む。「だってわたし達のキャッチコピーだって、“100年に1度の逸材”とか“国を傾けるほどの美人トリオ”て言われてるじゃん」

「たしかにその通りだ」三人は目を合わせて大笑いした。ワインの夕べは今日も大賑わいであった。

日本におけるボジョレーヌーボーの解禁日は11月の第3木曜日になります。(21日は2004年度の解禁日です)

11月22日 大工さんの日

「樹里、あのさあ・・・」健司がぼそりとつぶやく。

「なに?」

健司は高校時代の同級生だ。実家をリフォームするときに何年かぶりに偶然出くわしたのだった。彼は大工さんになっていた。学生時代はとくに健司を意識したことはない。

「明日街に買い物に行くとしたらさ。犬と猫とおれだったら誰と行く?」

「はあ?なに言ってんの?」

「だからさあ・・・。明日おれ仕事休みなんだよね・・・」

「ああそう。要するにわたしに買い物につき合って欲しいって言いたいわけ?」

健司はぶすっとして頷く。

「わたしとデートしたいなら、デートしたいって言えばいいじゃん」

「うん・・・まあ・・・」

なんとも煮え切らない男なのである。ただ、大工だけあって、浅黒い顔に引き締まった身体をしている。取り柄はそこだけかもしれないが、他人から見たらいい線いってるように見えなくもない。

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

わたし達はつき合いだした。

つき合い出すと、大工というものがいかに特殊な職業なのかが分かってきた。

なにしろ仕事は天気に左右される。雨が降れば休みが続く。そのくせ仕事が集中している時にはほとんど会うこともできない。

そういう時には健司のアパートにわたしが押しかけることになる。

「おかえりなさい」

「あれ、来てたの?」そう言って健司はわたしの身体に腕を回してくる。

「臭!ちょっと、先にシャワー浴びてきてよ」

「悪い」

仕事から帰ってくると、健司は異常なまでに臭い。汗と体臭だけではない。現場の資材のにおいが身体に染みついてしまうのだ。

仕事が固定していないので、収入も不安定だ。「ちょっと金貸してくれない?」とせびられることもしょっちゅうだ。

こんな相手といつまでもつき合っていていいものだろうかと考えてしまう。

でも健司に唇を奪われ、引き締まった身体に抱きすくめられると、そんなことはどうでもいいような気持ちになってしまうから不思議だ。

翌日は朝からドタバタしていた。現場が遠くにあるという。大工にとって遅刻は厳禁、30分前到着は当たりまえなのだそうだ。

トーストを口にくわえたまま、現場で動きやすいというダボダボしたニッカポッカというズボンをケンケンしながら履いている。

「それじゃあ。出かけてくるから」

わたしは慌ただしくウインナーぐらいしか入っていない手作り弁当を健司に手渡す。

「ねえ、健司。今日さあ・・・」

「悪い。遅刻する」そう言い残すと、ボロボロの軽トラックに乗り込むとアクセル全開で走って行ってしまった。

「今日さあ、わたしの誕生日なんだけど・・・」

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

健司が言うには、現場で雑な駐車は嫌われるのだそうだ。キッチリ隅に駐車して、一台でも多く業者の車が停められるように配慮するのが礼儀だという。

現場ではもちろん土足厳禁だし、自分の大工道具をちらかしたり、作業で発生した木屑などを片付けるのも基本中の基本なのだそうだ。

健司がとくに気をつけているのは、仮設トイレを綺麗に使うことだ。他人が汚したトイレも綺麗にして出てくる。

こういうことの積み重ねが事故を未然に防ぐと信じている。それでも大工に怪我はつきものだ。いつもどこかしらを負傷して帰ってくる。

昼休憩になると、各々が昼食をとる。弁当の職人もいれば、近所の食堂で済ませる者もいる。

「あれ、いいなあ健司。今日は彼女に弁当を作ってもらってきたのか」

いつも一緒に食堂に出かける同僚にからかわれる。そんなとき健司は照れくさそうに笑って頭を下げた。

弁当箱を開けると、樹里が朝から格闘して作ったタコのウインナーが嬉しそうに並んでいた。空腹が満たされると、午後の作業までに体力を回復するために爆睡した。ほんの一瞬だったが、タコのウインナーが夢に出てきてニヤついてしまった。

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

「おかえりなさい」

「ただいま」

「どうしたのその手?」

健司の左手に包帯が巻かれていた。

「ああ、ちょっと擦っただけ」健司は力なくキッチンテーブルに弁当箱を置く。「シャワー浴びて寝るわ」

「・・・」わたしは急に寂しい気持ちになり、健司の弁当箱を流しに持っていって洗うことにした。

弁当箱の蓋を開けるとそこには指輪とメッセージが入っていた。“お誕生日おめでとう。おれと結婚してください”

わたしはその場で泣き崩れた。

11月23日 ゲームの日

「ああ暇だぞ」

忙しいときの時間はあっという間に過ぎていく。

そしていざ自由な時間があり余ったとき、時間を持て余してしまうのである。

とりあえず会社に電話を入れておこう。

「もしもし・・・あ、部長ですか・・・え、いま手が離せない・・・失礼しました。またかけ直します」

そうだ友達に連絡を取ってみよう。ぼくは学生時代の友人の電話番号を引っ張り出して電話を掛けてみた。

「あ、ぼく。弘毅(ひろき)」

「ああ、弘毅か。久しぶりだなあ。元気にしていたか?」

「うん。元気だよ」

「いま何やってんの」

「会社員さ。永年勤続賞で長期休暇もらったんだけどさあ。いままで仕事仕事でやってきただろう。いざ休めるとなるとどうやって時間を使ったらいいのか全く検討がつかなくてね」

「ははん。なるほど。弘毅みたいに仕事漬けの人間はそうなるよな。なにか趣味とかないのかい」

「まったく」

「テレビゲームでもやったらいいじゃないか。最近のゲームは進んでるぞ。いつまでも遊んでいられるんだ」

「テレビゲームかぁ・・・。それやってみるよ。どんなゲームが面白いんだ、紹介してくれよ」

「ああ、いいとも」

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

持つべきものは友達である。

ぼくは言われたとおり、近所の量販店でゲーム機とソフトを購入してきた。

接続が終わり、さっそくスイッチを入れた。

なんでもこのゲームは自由度が高く“オープン・ワールド”というらしい。どこにでも行けるし、なにをやってもいいらしい。『さあご自由にどうぞ!』

「・・・・・・」

ぼくはさらに悲嘆にくれてしまった。そう、なにをしたらいいのか全くわからないのだ・・・。

11月24日 進化の日

「あなた・・・」

妻が風呂から上がると、夫に言った。

「どうもお風呂に入っているところを誰かに覗かれているような気がするの」

「なんだって!」

夫は驚いて読んでいた新聞を降ろし、あらためて妻を凝視する。バスタオルを巻いた妻の豊満な体は、そろそろ中年に差し掛かってはいたものの、痴漢を誘惑するだけの魅力は確かに残っている。

「ちょっと表をみてくる」と言って夫はパジャマのまま玄関のドアを開け、姿勢を落とし、サンダルの足音を潜めながら暗闇の中へと出て行った。

それはちょうど我が家の風呂場の窓を見下ろす形で駐まっていた。人間がひとり入るぐらいの金属をした玉子型の物体が大木の枝にひっかっていたのである。

「なんだろう?」夫は銀色に光る物体に懐中電灯の光を当てた。丸い窓から覗く顔と目が合ってしまった。

「!」

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

「覗きの現行犯で捕まえたというのは彼のこと?」

女署長の凜(りん)がマジックミラー越しにうつむき加減の容疑者を眺めた。

警察官が敬礼をする。「はい署長。いま取り調べ中であります」

「よく顔が見えないけど、なんだか下品なやつね。いかにも破廉恥な雰囲気を漂わせているわ」凜が赤い唇を歪めた。

「確かにそのようです。ただ・・・」

「ただ・・・なに?」

「先ほどからおかしな供述を繰り返しているので取調官が困惑しておりまして」

「そう。それじゃあマイクをオンにしてみて」

スピーカーから取調室のやり取りが流れてきた。

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

“それであんた、あの奇妙な乗り物に乗って現代にやって来たっていうのか”

“そうです。さきほど話した通りです”

“わかった。何度でも聞いてやるからもう一度最初から話してみろ”

“ですから・・・。わたしは未来からやってきた未来人です。名前をゼンといいます。

現在の人間は進化の途中にあって、ぼくたちはその最終形と言っていい。

重力の関係で現在の人間はあなた達よりも背が低くなります。

そして食べ物は次第に流動食が多くなって、アゴが退化して行きます。

温暖化とオゾン層の崩壊により目が黒目がちになります。

光合成で食事ができるようになります。だから排泄も最小限になります。

遺伝子の組み換えにより、犯罪意識が抑制された人間しかいなくなります。
その結果、性欲も同時に失われました。

よって人口が極端に減って行き、現在すべての子供は体外受精で誕生することになります。

新しく誕生する未来人は筋力を必要としません。だから手足がひょろ長いです”

“おまえのようにか”

“そうです。ところが、ある頃から次第に新生児が誕生しなくなってしまいました。

人類が神の領域を冒涜した罰だと言われています”

“それで”

“わたし達はやむを得ず、野生に進化することで生殖能力の復活を図ることにしたのです”

“ふうん。野生に戻るとどうなるんだって?”

“男は野獣になって、女を求めるようになります”

“それがきみって訳か。で、どうして現代に来たんだ”

“未来の女性の風貌に魅力を感じなくなってしまったから”

“きみの風貌だって、ちょっと普通じゃないけいけどね”

“さきほどからミラー越しにわたしを見ている女性がいますよね”

“なんだと。おまえ、まさかマジックミラーを透かして見ることができるのか”

“そうです。あの女性・・・ぼくの好みなんです。直接お話ししたいです”

不意にゼンが顔を上げると、凜に向かってニッコリと笑った。凜の背筋に寒気が走った。その顔が猿そのものだったからだ。

11月25日 OL・いい笑顔の日

「いいですか。女子社員は会社の華です。笑顔を絶やしてはいけませんよ」

新人OLの萌(もえ)にとって初めての研修だった。講師は女子社員の間では“レジェンド”と呼ばれている麻朝(まあさ)先輩だ。OLは1年目から即戦力。2年目からは中堅。5年目になればベテラン。7年を過ぎるとレジェンド(ところによってはお局様)と呼ばれるのだそうだ。

「笑いは記憶力を向上させ、アルファ波の増加により脳をリラックスさせてくれます。自律神経も安定しますし、血行まで良くなるそうです。そして脳内にエンドルフィンが放出されますから、幸福感や安心感を得ることができるといいます。良いことずくめですよね」

萌はカタカナ用語を聞くとなぜか眠くなる癖がある。萌は内心あくびを堪えるのに四苦八苦していた。

「女性社員の立ち振る舞いしだいで、この会社がどんな会社なのかお得意さまは判断なさることもあります。仏頂面の女子社員のいる会社に発注なんて出そうと思わないでしょ。萌さん、そう思わない?」

「は、はい!」

いきなり名指しで呼ばれて萌はドギマギしてしまった。

「萌さんのその笑顔、いいですね」麻朝が再び全員に目を向けて満面の笑顔を作る。「笑顔はあなたを信頼していますよ・・・という声なきメッセージです。お互いの距離を縮めるのにとっても効果的なの。彼氏が欲しいひとはやってみて」

そこでドッと笑いが起きた。

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

「では好感の持てるいい笑顔の作り方をお教えします。それじゃあ、萌さん前に出てきて」

ええ、なんでわたしがさらし者に・・・と思いながら萌が麻朝先輩の横に並ぶ。

「じゃあ萌さん笑ってみて」

笑えと言われて素直に笑えるわけがない。そんなのは落語家かお笑い芸人ぐらいだ。そんなことを思いながら萌はぎこちない笑顔を作ってみた。

「はい皆さん。萌さんの笑顔を見てください。どうです?いいでしょう」

麻朝はよっぽど萌の笑顔が気に入っているみたいだ。

「まずこの目」麻朝が萌の目を指さした。「三日月を倒したみたいにUの字が逆さまになってるでしょう。目がこうなっていないと、いくら笑っていても相手に無表情で冷たい印象を与えてしまうのです」

たしかに学生時代に“微笑みさん”と言われたことがある。萌にとって、三日月目は持って生まれたものである。これを意図的にやれって言われてできるものだろうか。会場の同僚を見ると一様に無理に目を細めておかしな顔を作っている。萌はそれを見ておかしくなって笑ってしまった。

「はいそれ。それがいいのよ」麻朝が今度は萌の頬に指をあてた。「頬が盛り上がってますよね。アンパンマンみたいに。笑顔はこうならないといけません」

そうなんだ、と萌はさらに頬をあげてみた。

「あらだめね」麻朝が不満な顔をした。「いいですか皆さん。笑うときにはなるべく、上の歯だけを見せてくださいね。下の歯を見せると品がなく見えてしまいます。もっとも彼氏に幼さをアピールしたいときには下の歯を見せるのは有効ですけど」と言って麻朝が会場のみんなにウインクした。

会場にまたドッと笑いが起きる。

「萌さんどうもありがとう。席に戻っていいわ」

萌は席についた。

「最後にだめな笑顔のNG事項を教えて終わりにします。まずはアゴを上げないこと。そして口を閉じないこと。顔を歪めないこと。顔のパーツが左右均等でないとニヒルで意地悪そうな笑顔になってしまいます。普段から顔が歪んでいるひとは、物を食べるときにいつもと反対側の歯で咬むといいでしょう」

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

萌は秘書課に配属されることになった。

OLにとって笑顔は最大の武器なのだ。ちょっとしたミスも笑顔さえあれば許される。

ある日秘書室に電話がかかってきた。萌が取ると、若い女性が社長を出してくれという。

「少々お待ちください・・・社長。楓の椿さんという女性からお電話が入っておりますが」

「椿?今いないと言ってくれ。おれは海外出張中でとうぶん帰らないってな。まったくしつこい女だ!会社まで電話してくるなんて・・・」

「・・・と申しておりますが」

社長がこけた。「保留じゃなかったのか!」

受話器の先の椿がすごい剣幕で怒っている。萌は三日月目で社長を見る。

「きみ、ぼくを馬鹿にしているのか」

「あの・・」萌は受話器を外して微笑んだ。「とんでもありません。笑ってゴマかしているだけです」

11月26日 ペンの日

ペンは剣よりも強し』とは、イギリスの作家リットンが書いた劇中の言葉である。

現在では“文筆で表現した言論や思想は、武力よりも影響力を持つ”というような意味で使われるのが通常である。
しかし実際のリットンの劇中では、武器を持つことのできない権力者であるキリスト教の枢機卿が、クーデターに襲われることを事前に察知し、ペンで兵士に出陣禁止の命令書を書くことによって難を逃れるというシーンで使われたので、若干意味合いが変わって現代に伝にわったようなのである。

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

クーデターの難を逃れたリシュリーは、ホテルの部屋に入るなりポーターに扉を施錠させた。

「ふう。危ないところだった」

「リシュリー様。すぐ近くに追手が迫ってきているそうですが・・・」

「ああ。わかっておる」少々たれ目のリシュリーは口ひげをいじりながらをポーターに言った。「だいじょうぶだ。わたしにはこれがある」

そう言うと、リシュリーは懐から1本のペンを取り出して見せた。

「ペン・・・でございますか」

「そうペンだ。だがこれはただのペンではないぞ。このペンに入っているのは魔法のインクなのだ」

「魔法ですって。リシュリー様、このような状況でご冗談など・・・」

「冗談などではない。これは魔法のペンなのだ」

そのとき誰かがドアを叩きだした。「我々は正規軍だ。このドアを開けろ!開けないとたたき壊すぞ」

「ひえ」ポーターが恐れおののいている。「リシュリー様、いかがいたしますか」

リシュリーは落ち着いてドアに近づいていくと、ドアの前の床にペンで大きく円を描き、中心に“穴”と書きくわえた。

ポーターがぎょっとしてその様子を見ていた。リシュリーはきっと恐怖で気が触れてしまったに違いない。ポーターは戦闘の巻き添えを食わぬように寝室に飛び込もうとした。

「ちょっと、この窓を開けてくれ」

リシュリーは窓を開けようとしていた。飛び降りるつもりなのか。ここのフロアは7階で足場がないから隣の部屋に飛び移ることも不可能なのだ。

背後からドアを破らんとする音が大きく響いてくる。

ポーターは鍵を外して窓を全開にした。さあ、飛び降りたいならどうぞご自由に。

「よし」ひとつ頷くと、リシュリーはペンでまどから空中に向かってなにやら2本線を書き出した。2本線の中央に今度は“道”と書かれている。

リシュリーはその二本の線の上を空に向かって線を描きながら歩き出した。

唖然とするポーターの背後のドアが破られた。ドドッと兵隊が押し入ってくる。ほとんどの兵士が穴と書いてある丸い円の中に滑り落ちて行ってしまうのだった。

「今のうちだ。ポーター、グズグズするな。わたしの荷物を持ってついて来い」

ついて来いって言われても・・・。やむなくポーターは荷物を抱えてリシュリーの書いた道の上を歩き出した。それはまさに透明なのに道の感触だった。

「リシュリー様。とても信じられません」

「それはそうだろうよ。きみだってぼくが書いたポーターの絵に過ぎないんだから」

11月27日 ノーベル賞制定記念日

「第五回ノーベル平和賞の受賞者は・・・ベルタ・フォン・ズットナー氏に授与されることに決定いたしました」

報道陣が一斉にズットナーをカメラに収めてマイクを向けた。

「おめでとうございますズットナーさん。女性で初めての受賞ですが、今のお気持ちをうかがわせてください」

ズットナーは大きく肩で息をすると言った。「感無量ですわ」

「アルフレッド・ノーベルとはお知り合いだったそうでね」別の報道陣が質問をする。「それと今回の受賞は関係があるとお思いですか?」

「大ありですわ」ズットナーは微笑んだ。「だって、この賞は実はわたしのためにアルフレッドが作った賞だったんですもの」

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

家が貧困だったため、ベルタはズットナー男爵の家に住み込みで家庭教師をやっていた。

ズットナー家の教え子の中には、令嬢たちの他にひとり息子のアルツゥーア・フォン・ズットナーがいた。彼はベルタの美しさに一目惚れしてしまった。
教師と生徒の立場から、ベルタは最初アルツゥーアのことを相手にしていなかったが、いつしかその熱意に打たれ、ふたりは本当の恋をするようになっていた。

しかしベルタの兄は相手が7歳も年下という理由により結婚を許可しなかった。それゆえ、ベルタは悲しみ嘆いた末にズットナー家を出た。そして当時新聞に掲載された大富豪ノーベルの秘書兼家政婦の仕事に応募したのである。

パリでアルフレッド・ノーベルの秘書に就任したベルタは、密かにアルツゥーアと結婚を済ませ、そのときすでに旧姓のタッテウではなくズットナー姓を名乗っていた。

「ノーベル様」

「アルフレッドでいいよ」

「それではアルフレッド」

「なにかな」

「本日受けたお電話ですけれど、建築会社はともかく・・・国防省、武器製造会社と、あなたの発明したダイナマイトはどうやら戦争の道具に使われているようですわね」

「ベルタ。それは確かにそうだが、仮にぼくが発明しなくても、いずれ誰かが発明していたさ。戦争はぼくのせいじゃない」

「アルフレッド。わたしは発明家のあなたを尊敬しています。でもダイナマイトはもっと平和利用に活用するべきだと思うの」

「ぼくもそう願いたいね」

「戦争の道具で巨万の富を築き上げたとしても、それがなんになるでしょう」

「耳が痛いね。君は美しくて聡明だが、ちょっと潔癖すぎやしないか」

「アルフレッド。わたしこれから平和運動に従事しようと思うの」

「きみがかい」

「だから戦争に加担するようなお仕事を続けて行くわけにはいかないわ」

「やめてしまうかい」

「ええ。短い間でしたけど」

「ぼくもベルタ、きみのことは心から信頼と尊敬をしていたのだ。愛していると言ってもいい。だから、いつまでも友達でいてくれないか」

「もちろんよ」

こうしてベルタ・フォン・ズットナーは一躍平和活動の先駆者となり、小説『武器を捨てよ!』を発表したのである。

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

「だから言ってるじゃないの。あなたの協力が必要なのよ」

「ベルタ。また資金の援助かい?きみの平和活動よりも、わたしのダイナマイトの方がずっと平和に一役買ってると思うのは気のせいかな」

「気のせいなんかじゃないわ。世間であなたのことを何て言ってるか知ってる?」

「平和活動の支援者。無償の愛を授ける」

「はいはい。とにかくお願いね」

そんなある日、パリの街に号外が流れた。

死の商人 死す!

兄のルードヴィ・ノーベルがカンヌで急死したのをアルフレッドと勘違いされてしまったのだ。

アルフレッドは衝撃を受けた。この時ハッキリと自分が世間でなんと呼ばれているのかを自覚したのだ。

アルフレッドは自分の死後、莫大な遺産のほとんどをノーベル財団の設立と、ベルタの平和活動資金の援助に使うことにした。

でもお目当てのベルタがノーベル平和賞を受け取ったのは、ノーベルの死後9年も経ってからのことであった。

天国のアルフレッドがこう言っているような気がした。「ベルタ、ぼくの汚名が晴れるかどうかちょっと賭けてみようじゃないか」

「アルフレッド、それじゃあ硬貨を投げて決めましょうよ。表が出たらわたしの勝ちね」

ベルタの肖像は、オーストリアの2ユーロ硬貨に描かれている。

11月28日 猫と人の日

ぼくは猫です。

ぼくたち猫は生後3週間ぐらいから人と接すると懐くんだって。でも9週目以降になると懐かなくなる可能性があるってお店のお兄さんが言ってたんだ。

ぼくは長い間ホームセンターのゲージに入っていた。狭いゲージの中はちょっと窮屈なんだけど、気楽なもんで、定期的に水やごはんをもらえるし、たまに玩具の差し入れまでしてくれる。

お隣さんの顔ぶれがなぜだか定期的に替わるけどまあそんなことは気にしない。気ままな暮らしだ。

「ねえきみ、さっきから何ひとりごと言ってんの?」

気がつくとぼくのゲージの前に、ひとりの女の子が立っていた。

「お母さん。この仔なんかしゃべってるんだけど」

「レイちゃん。猫がしゃべるわけないでしょ」

「しゃべってるわよ、この猫」

「そういう風に聞こえるだけよ」

「そうかなあ。しゃべってると思ったんだけどなあ・・・」

レイちゃんて言うんだこの子。

「あ、やっぱりしゃべった。お母さんこの仔、買い手がつかなかったらどうなっちゃうの」

「そうねえ。生後11ヶ月かあ・・・」母親はぼくのゲージに書いてある説明書を見た。「ちょっともう売れ残りかもね」

「ね、どうなるの」

「かわいそうだけど・・・」母親は娘の耳元で小さな声でささやいている。

かわいそうだけど?

「え・・・!」レイが目を丸くする。

「しっ」母親は人差し指を唇に立てた。「だめよ大きな声で言っちゃ」

そ、そんなあ。まじですかあ。ひぃい。なんとかしてぇ。お願い。

ぼくはレイに必死に訴えかけた。

「だよね」レイが頷いた。「お母さん。あたしこの猫飼いたい」

「なに言ってんの。どうせなら産まれたばかりのもっとかわいい子猫にしたらどう?」

ぼくだってかわいいやい。

「いや、この仔がいいの」

かくしてレイの母親は店員に値切って、値切って、値切って、値切って、さらに値切り倒してぼくを購入してくれたのだった。

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

レイの家に飼われてかれこれ15年になる。ぼくは平々凡々な生活を送っていた。ファンという名前もつけてもらった。

レイにはとても感謝している。でもぼくは気まぐれな猫だ。あえて、ひとに懐くということをしない。でもぼくがかまって欲しくなったら別、スリスリ、ゴロゴロ、前足でふみふみ、寝ているレイにダイビング!

「ぎゃあ」というレイの悲鳴を何度聞いたことか。

小さい頃はいろんな玩具も買ってもらったが、ぼくは見向きもしなかった。そんなものよりもそれを配達してきたダンボールの空箱に入る方がよっぽど楽しかったのだ。

「ファンこっちへおいで」レイはぼくを抱っこするのが大好きだ。でもそう言われて抱っこされるほどぼくは素直じゃない。ぼくはぷいっとそっぽを向いて逃げてしまう。じゃまたね~。

「じゃまたね~じゃないでしょう。ファンたら、ツンデレなんだからもう」レイは怒っているが、眼だけはいつも笑っていた。

ある日ぼくは体調を崩した。どうやらぼくにも老衰が来たらしい。身体のあちこちを誰かに攻撃されてるみたいなんだ。どこかに隠れなきゃ。

「お母さん。ファンが外に出たがっても出さないでね」

どうやらレイはぼくが逃亡したがっているのを察していたみたいだ。

「ファン。こっちおいで、抱っこしてあげる」

仕方がない。たまには抱っこさせてあげるか。

ぼくはレイの腕の中で良い気持ちでスヤスヤと眠りに落ちていったんだ。あれ、天気が悪くなったのかな。部屋の中なのに雨が降ってきたみたいだ。冷たいものがぼくの顔にポツリと落ちてきた。

まあいいさ。こうしていると気持ちがいいんだもん。そしてぼくはレイの暖かい腕の中でひとこと鳴いて2度と目を覚ますことがなかったんだ。

「レイ」母が訊いた「ファンなにか言ってた?」

「ありがとう・・・て」

11月29日 ワンワン服の日

「いいですか。犬はペットと言ってもほんらい野生の生き物です。自分の気に入ったファッショナブルな服を着せてお散歩に出かけるなんていうのは人間のエゴ以外の何ものでもありませんぞ!」

動物学者の荒波教授はきっぱりと言い放った。

「しかし先生。室内犬のトイプードルやチワワなんかは寒暖の差に弱いそうですけど」とぼくのご主人は反論をする。

「きみ。それは甘やかしすぎというものです」教授が噛みつかんばかりに言う。

「ですが教授。白い犬は紫外線に弱いといいますし・・・」

おお、その意気その意気。がんばれご主人。

「そんなものにもすぐに順応するのが自然の摂理だ。それを阻害して弱体化させているのは他ならぬ飼い主なのだ」と、あくまでも強気な発言だな。

「こういったメリットもありますよ。たとえば雨の日に体調を崩さないようにレインコートを着せてあげる・・・」うん。濡れると体毛がべったりして気持ちわるいんだよね。

「それにも順応できるはずだ」

「抜け毛とか静電気を抑えられるとか・・・」

「さっきからなにを言っとるんだ。相手はペットだぞ。ペットの身になって考えなさい!」教授はやおら立ち上がると、プカプカと遊泳しながらぼくの服を強引に脱がせにかかった。

やめてくれ。
脱がさないで。
だめだって。
これ犬の宇宙服なんだってば・・・ひええ!

11月30日 いい鏡の日

「お前は誰だ?」

鏡に向かって「お前は誰だ」と言い続けると、やがてその人は発狂する・・・という都市伝説がある。

本当だろうか。そんな馬鹿な話はない。興味本位で試してみようなどと思ったのが間違いだったのか・・・。

「お前は誰だ?」

わたしは自分の姿が鏡に映るたびに、「お前誰だ?」という質問を繰り返し行った。「お前はいったい誰なんだ?」

そんなことを続けてひと月が過ぎようとしたある日のこと、なんとなく鏡の中の自分に変化が訪れたような気がしてきた。ちょっとした表情が違うように思うのだ。

「お前は誰だ?」わたしは無表情につぶやいたのだが、鏡の中のわたしの目や口元が笑っているように見える。

「お前は誰だ?」わたしは笑顔で声を出したはずなのに。鏡の中のわたしはなぜか憮然としているように感じる。

「お前は誰だ?」

ある日鏡の中に映っているはずの自分の姿が消えていた。わたしは驚愕した。もしかしたら本当にやってはいけないことをやってしまったのかもしれない。

そのとき不意に背後からわたしは肩を叩かれた。

「!」

「どうしたんだ?」それはわたしの友人だった。

「ああ・・・驚かすなよ。実はわたしの姿が鏡に映らなくなってしまったんだ」

友人は不思議な顔をして鏡をのぞき込んだ。

「なにを言ってるんだ。最初から鏡に映るわけないじゃないか。だってぼくらは吸血鬼なんだぜ」

そう言って友人は二本の白い牙をむき出して笑った。

ああそうだった・・・じゃあ今まで映っていたのはいったい誰なんだ!?

 あとがき

最後までご覧いただきましてありがとうございます。

この物語はフィクションです。

登場人物、団体などはすべて架空のものです。

まれに、似通った名称がございましても関係性はございません。

参考文献・サイト等

ハッピーライフ 「女の友情が薄い」というのは本当?真の友情を築くコツを徹底解説! https://happymail.co.jp/happylife/special-feature/girls-friendship-is-thin 参照日:2024.3.7

ウィキペディア ノーベル賞 https://ja.wikipedia.org/wiki/ノーベル賞 参照日:2024.3.5

ウィキペディア ベルタ・フォン・ズットナー  https://ja.wikipedia.org/wiki/ベルタ・フォン・ズットナ 参照日:2024.3.5

WE LOBO 【禿同必至】オタクなら共感してしまうあるあるランキングTOP10! https://labo.wego.jp/oshigoto-otaku-aruaru 参照日:2024.3.11

コキュトレ 胸部レントゲンのポイント総まとめ【スライドで解説】 https://pulmonary-training.com/slide/xray 参照日:2024.3.12

神戸市消防局 情報写真館 No.1 通報から出動までの流れはどんな感じ?~火災編~ http://kobe-sips-119.com 参照日:2024.3.14

WONDER!SCHOOL 世界のあいさつにはどんな言葉がある?あいさつを調べて比べてみよう https://thewonder.it/article/770/description 参照日:2024.3.19

ウィキペディア 七五三 https://ja.wikipedia.org/wiki/七五三 参照日:20234.3.21

ニンゲンブログ 限界効用逓減の法則とは?】一杯目のビールが一番おいしい理由 https://yuzurulife.com/blog/gennkaikouyouteigen 参照日:2024.3.22

ウィキペディア 小林一茶 https://ja.wikipedia.org/wiki/小林一茶 参照日:2024.3.23

ENOTECA online ボジョレー・ヌーボーのキャッチコピー裏話 https://www.enoteca.co.jp/article/archives 参照日:2024.3.26

DIAMOND online 9割の人が笑顔でソンしている!?「いい笑顔」「ソンな笑顔」を、写真で初公開!! https://diamond.jp/articles 参照日:2024.3.29

Precious.jp 「ペンは剣よりも強し」は「言葉は暴力に勝る」という意味ではなかった!?では、本当の意味は? https://https://precious.jp/articles 参照日:2024.3.29

ジモコロ 鏡にむかって「お前は誰だ?」と言い続けた結果 https://www.e-aidem.com/ch/jimocoro 参照日:2024.3.30

著者紹介
杉村 行俊

【出   身】日本・静岡県焼津市
【好きな分野】推理小説
【好きな作家】夏目漱石
【好きな作品】『三四郎』
【趣   味】ゴルフ、ギター等
【学   歴】大卒
【資   格】宅建士、ITパスポート、MOSマスター、情報処理検定2級、将棋アマ3段
【創   作】『365日の短編小説』

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