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◎著者(杉村行俊)は下記サイトにも小説を投稿しています。
- 9月1日 防災の日
- 9月2日 宝くじの日
- 9月3日 ホームラン記念日
- 9月4日 櫛の日
- 9月5日 石炭の日
- 9月6日 妹の日
- 9月7日 絶滅危惧種の日
- 9月8日 休養の日
- 9月9日 救急医療の日
- 9月10日 世界自殺予防デー
- 9月11日 公衆電話の日
- 9月12日 マラソンの日
- 9月13日 乃木大将の日
- 9月14日 セプテンバーバレンタイン
- 9月15日 老人の日
- 9月16日 競馬の日
- 9月17日 イタリア料理の日
- 9月18日 防犯の日
- 9月19日 遺品整理の日
- 9月20日 空の日
- 9月21日 スケッチブックの日
- 9月22日 フィットネスの日
- 9月23日 テニスの日
- 9月24日 畳の日
- 9月25日 骨董の日
- 9月26日 台風襲来の日
- 9月27日 女性ドライバーの日
- 9月28日 プライバシーデー
- 9月29日 招き猫の日
- 9月30日 宅配ピザの日
- あとがき
- 関連
9月1日 防災の日
「ゆっくり引き上げてくれ」
地質学者が、目深に安全ヘルメットを被っている現場監督に向かって声をかけた。クレーンにつながれ、泥をかぶった玉子型の物体が地中からその姿を現す。
「いったい何なのでしょうね」現場監督は地質学者に振り向いて尋ねた。
「古代生物の卵か、あるいは・・・・・・」地質学者はそれが何であるのかを見定めようと、じっと物体を見つめていた。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
わたしは分厚い扉を押し開けた。
「この最新の防災シェルターさえあれば、いざという時でも安心だ」
「あなた、こんなに高い買い物をして・・・・・・ほんとうに災害なんて来るのかしら」
妻の孝子は怪訝な顔をしてシェルターの中をのぞき込んだ。
「わりと快適そうじゃない」とひとり娘のヒカルが明るく声をあげる。「パパ、漫画も備えておいてよ」
「ああ。でも極力無駄なものは置かないようにしよう。限られたスペースなんだからね」
わたしは簡易ソファーに座ってクリーム色の天井や壁を眺めた。
「なにかあったらこのシェルターに避難すればいいのね」
妻も壁や簡易窓の手触りを確かめている。
「そうだよ。地震、火災、津波、土石流、竜巻、台風、水害、豪雪、火山の噴火、核爆発による放射能汚染からだって身を守れるという話だ」
「パパ。あれは何?」娘が横たわった棺桶のような3つの箱を指さした。
「冷凍カプセルさ」
「なにを凍らせるの?」
「ここには10日分の食糧と水、それにトイレとシャワー、排泄物処理システムが備わっている。でも核による放射能汚染が起きた場合、いつになったら外に出られるかわからないだろう」
「それはそうよね」と妻が振り返った。「そうなったらシェルターに隠れていても意味がないわ」
「そこでだ」わたしは冷凍カプセルを指さした。「家族三人とも、この冷凍カプセルで冬眠をするんだ」
「それでいつ起きるの」娘が訊いた。
「外のセンサーが安全を認知すると、自動的にスイッチが切れる仕組みなんだ」
「便利な機能ねえ。でも動力は無限じゃないのでしょう」妻が言う。
「ソーラーパネルで電力を補うから無制限に使えるはずだ。備えあれば憂いなしとはこのことだな」
わたしたち家族は安心して、高らかに笑い合ったのだった。核の爆発が起きるまでは・・・・・・。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
「おい孝子」
わたしは妻をゆり起こした。
「・・・・・・あら、もうだいじょうぶなの」
「ああ。スイッチが自動解除になったからな」
「パパ、ママ。おはよう」
娘のヒカルもあくびをしながら起き上がった。
「外はどうなってるのかしら」
妻が窓から外を眺めた。
ぐらりと筐体が揺れて、その拍子に扉が開いた。外から眩しい光が差し込んで来る。
「おい何かいるぞ!」
どこからか人の声が聞こえた。
「驚いたな・・・・・・初めてだ。化石でしか見たことがなかったのに・・・・・・まさか生きた人間が見れるなんてね」
「これは歴史的な大発見になるぞ」
わたしたちは恐る恐る外に顔を出した。
どよめきが起こった。
「やあ驚きだ。怖がらなくていいからね。きみたちは生きた標本だ。これから仲よくしよう」
外にいたのは、もはや人間たちではなかった。爬虫類の顔をした生物が、わたしたちを興味深げに見つめているのだった。

9月2日 宝くじの日
「ねえ、あなた。宝くじでも買ったら」と美智子は夫の和夫に言った。
「なんだい藪から棒に」
和夫は今年60歳。会社ではすでに窓際に追いやられ、定年退職を待つばかりの万年係長だ。
「美智子。宝くじなんて、金をドブに捨てるようなものだって、あんなに貶していただろう。あんな物を買うのはバカ者だけだって」
そう、年末ジャンボ宝くじで1等賞のあたる確率は、なんと2千万分の1なのだそうだ。それは限りなく0に等しい。
「でも、これ読んでみてよ」
妻が週刊誌のページを、夫の前で開いて見せた。『宝くじに当たる人の特徴』という記事だった。
「なんだって・・・・・・」
和夫は老眼鏡をかけて記事を読みはじめた。
「高額当選するもっとも多い男性のイニシャルは・・・・・・K.T。ああおれのイニシャルだ。田鍋和夫。K.Tだもんな」
「それだけじゃなくってよ」妻がにやにや笑っている。
「血液型はA型で射手座・・・・・・おれの血液型と星座じゃないか」
「でしょう。まだあるのよ」
「なになに、職業は会社員で年齢は60代・・・・・・やっぱりおれじゃないか」
「どう思う?」
「どうもこうもあるもんか。その手に乗るか。買わないと言ったら買わない。おれは絶対に買わないからな。買うもんか!」
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和夫の様子がおかしくなったのは、そんな話も忘れた頃だった。妙にソワソワしているように見える。
「どうかしたの」と妻が心配して声を掛ける。
「どうもしないよ。なに言ってるんだ」
「あなた、まだ出なくていいの。会社に遅刻しちゃうわよ」
柱時計を見る。すでにいつも家を出る時間を10分も過ぎていた。
「うん」和夫は時計を見ても悠然としている。
「なあに。いつも早く出勤し過ぎていただけだ。始業の30分も前に席に着く必要なんてはじめからなかったのさ」
「そうなの・・・・・・」
美智子は曖昧な笑みを浮かべて和夫を見たのだった。
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「ねえ、最近田鍋係長なんか変じゃない」
給湯室で女子事務員たちが井戸端会議をしている。
「そうそう。なんか余裕しゃくしゃくみたいな」
「家でなにかいいことでもあったのかしらね」
「この間なんか、あのケチな係長が自販機でわたしにコーヒーを奢ってくれたのよ」
「まあ。それより以前はさあ、係長のお昼といえば牛丼屋かコンビニのおにぎりばっかりだったじゃない」
「今は違うの?」
「それが違うのよ。あそこのフレンチレストランの前を通ったら、係長がひとりでランチしてたのよ」
「ええ!あの店、ランチだって2千円はするじゃない。あり得ないわ」
「絶対なにかあったのよ」
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「田鍋係長。どうかなさったのですか」と後輩の水谷が訊いてきた。
「別に何も」
「だって、今まで会議であんなに発言することなかったじゃないですか」と水谷が声をひそめて言った。
「ああ、あれね。一度本音でしゃべってみたかっただけだ」
和夫は平然としている。
「見直しちゃいましたよ。よく社長の前で部長にあんなこと言えましたね」
「社員の誰もが思っていたことを言ったまでさ」
「いや、脱帽です。ぼくにはとてもできません」
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「ただいま」
和夫が帰宅した。
「おかえりなさい」
美智子が台所から出迎える。
「これ」和夫は胸のポケットから包みを出して妻に渡した。
「なあに」
「誕生日だろ」
美智子は包みを開けた。指輪が入っていた。
「気持ち悪い。やめてよ」
「気持ち悪いとはなんだ」
「だって、今までこんなことしてくれた事一度もなかったじゃない」
「そうだったかな。悪かった。これからはもっといいものを考えておくよ」
「ねえ。あなた。何かわたしに隠してない?」
妻は真剣な眼差しを夫に向けた。
「どうしたんだ美智子。急におっかない顔をして」
「当たったのね・・・・・・そうでしょう?」
「当たったって、何が」
「わたしに内緒で、宝くじ買ったんでしょう?」
「その話はもう少し待ってくれ」
「どういう意味よ」
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「聞いたかよ。田鍋さん昇格だってよ」
「ええ!60歳で昇格人事なんて、今まで聞いたこともないよ」
「なんでも捨て身で会社のことを考えている人材として社長から評価されたんだってよ」
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「美智子。ごめん、はずれた」
「バカねえ」
「だって、雑誌に当たったかのようにふるまえば、絶対当たるって書いてあったから・・・・・・」
「あなた何とかしてくれる。あなたのおかげで、知らない親戚とか友達から会いたいって催促がひっきりなしなのよ」

9月3日 ホームラン記念日
「ストライク!バッターアウト!」
審判が両手を高々と上げて試合終了を告げた。スタジアムに歓声と落胆のため息が漏れる。
「どうしたんでしょう。八木選手」
アナウンサーが訝しげに解説者を見る。
「九月に入ってからというもの、ヒットが一本も出ていませんよ」
「そうですねえ。長いペナントレースですから、スランプは誰にだってありますよ」と解説者は答えた。「故障さえしていなければ、そのうちまたホームランを量産してくれることでしょう」
「八木選手には今後の試合で奮起してもらいたいものです。それでは他球場の試合の結果を・・・・・・」
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
“拝啓 八木 忠 様
突然のメールにて失礼させていただきます。
ご迷惑でなければ、ご一読していただけますと助かります。
わたしは都内に住むOLで、南条可南子と申します。
実はわたしの弟の昌之は幼い頃から難病を患っておりまして、現在都立病院で闘病中です。
日に日に衰えて行く弟の病状を懸念しておりましたところ、先日弟がテレビであなたのホームランを打つ姿を拝見し、少しずつですが、元気を取り戻してきております。
シーズン中ということで、ご無理かとは存じますが、もし可能であれば、一度弟を勇気づけて頂くことはできませんでしょうか。
このメールへの返信でも構いません。何卒よろしくお願い申し上げます。 敬具”
八木忠がこのメールを受信したのは、8月下旬のことであった。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
病室のドアが開いた。そこにプロ野球選手の八木がひょっこりと顔を出したではないか。
「ええ!ウソ」
昌之は目を丸くして驚いた。ドアに背を向けて座っていた可南子も振り向いて、思わず席を立っていた。
「あ、ごめん。そのまま、そのまま」
八木は笑顔で病室に入って来た。
「あの・・・・・・そんな。本当に来てくださったんですか」
可南子は驚きのあまり目に涙をためていた。
「もちろんです」
八木は可南子に一礼した。廊下に野次馬が集まり始めていた。
「昌之くん。どう、元気?元気なわけないか。寝てんだから」
そう言って八木は白い歯を見せて笑った。
「ぼく元気です。握手してください」
昌之が差し出した細い腕は、点滴に繋がれていた。八木は優しく昌之の手を握った。
「これ、きみへのプレゼント」
そう言うと、大きな手提げ袋を昌之の枕元に置いた。中にはバットとグローブ、それにサイン入りのボールが入っていた。
「わあ。すごいや。八木選手のサイン入りだ!」
「良くなったらぼくとキャッチボールしようぜ」
「うん。絶対良くなるよ」
「よし約束だ」
「八木選手。ぼくからもひとつお願いしていい?」
「いいとも」
「今日の試合でぼくのためにホームランを打ってくれる?」
八木が可南子に視線を移して頷いた。
「いいとも」
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
その夜、八木は豪快なホームランをライトスタンド上段に叩き込んだ。
可南子からメールが来たのはその夜遅くだった。
“八木様
今夜は本当にありがとうございました。
昌之は興奮して涙を流して喜んでいました。
でもその後、容態が急変し昌之は息を引き取りました。
せっかく勇気づけていただいたのに。
でも最後に昌之は、あなたとキャッチボールをする夢を見ていたんだと思います。
笑顔で旅立ちました。
この度は本当にありがとうございました。
これからも益々のご活躍を、陰ながらお祈りさせていただきます。 南条可南子”
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
“南条 様
いかがお過ごしのことでしょうか。
昌之くんのことお悔やみ申し上げます。
通夜および葬儀に参列できなかったこと、誠に申し訳ございませんでした。
本日東京に戻って参りますので、お線香をあげさせていただきたく、少しでもお時間を頂ければ幸いです。
八木”
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
「今日もこれから試合ですか」と可南子が訊く。
仏壇に掌を合わせていた八木が振り向いた。
「はい」
「ひとつ訊いてもよろしいですか」
「どうぞ」
「あの日、昌之のためにホームランを打ってくださいましたよね」
「ええ。まぐれですけど・・・・・・ぼくなりに頑張りました」
八木は小さく笑った。
「あれからスランプになったと伺いました。昌之のせいでスランプになってしまわれたのでしたら、なんとお詫びしたらいいのかと」
可南子は訴えるような瞳を八木に向けた。
「違います。それは全然違います」
「申し訳ありませんでした」
「本当に違うんです・・・・・・。これで、もうあなたに会えないのかと思ったら、急に・・・・・・その」
「え」
「一目惚れって本当にあるんだなって、生まれて初めて知りました」
可南子の瞳から大粒の涙がこぼれ落ちた。
「そんなつもりじゃ・・・・・・」八木が慌てて言うと、可南子が八木の手を握った。
「違うんです。嬉しいんです。わたしも同じ気持ちだったから・・・・・・」
「それじゃあ」
「八木さん。今夜はわたしのためにホームランを打って下さいませんか」
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
「どうしたのでしょう。今日の八木選手。3打席連続の特大アーチですよ」
アナウンサーが興奮して言った。
「だから言ったでしょう。そのうちホームランを量産してくれるって。彼はもう誰にも止められませんよ!」と解説者が声高らかに叫んだ。
1打席目は亡くなった昌之くんのために。2打席目は愛する可南子のために。最後は自分と可南子の将来に向けての祝砲なのであった。

9月4日 櫛の日
「どうでっしゃろか。うちの娘」と母親のお妙が、知り合いの女将、光子に舞子を紹介した。
「そうどすなあ。顔もええし、姿もええ、声もええ」光子が舞子の頭からつま先まで値踏みするかのように眺めた。「立派な舞妓になる思いますえ」
「ほな、見込みありまっしゃろか?」
お妙が身を乗り出した。
「預からしていただきまひょ」
「ほんまでっか!」
「お妙はん。あんた最初からこの子、芸妓にするつもりで舞子って名前つけたんどすか?」
「そんなあほな。偶然や。せやけど育てていく内に、どんどん可愛なって来てん」
「舞子ちゃん。いまいくつどすか」光子は舞子に訊ねた。
「14歳です」
「そらよかったわ。舞妓は中学卒業まではなることができひんのやで」
「ほな、光子さんよろしゅうお願い申します」
お妙が頭を下げた。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
「舞子。これ持っていきなはれ」
舞子が京都に立つ時、お妙が綺麗な巾着袋に入ったものを差し出した。
「なあに」舞子が渡された袋の中を覗く。「櫛?」
「舞子。くしは“苦死”を連想するさかいな、贈り物のときには簪ってよぶねん」
「かんざしかあ。なんに使うの」
「そら髪を梳くのに決まってるちゃうん。せやけどこのつげ櫛はな、日本髪に使うんやで」
「日本髪に?」
「舞妓になったら日本髪を結うやん。それには毎回2時間ぐらい時間がかかんねんて」
「2時間もかいな」
「そやさかい舞妓さんは高枕で寝て、1週間その髪型をキープせなあかんのやで」
「難儀やなあ」
「せやけど一週間もそのままだと、汚れやフケがでるやろう。そやさかいつげ櫛は極限まで歯を細くして、それら汚れを取り除くために作られた櫛なんや」
「ふうん。なんか分かれへんけど、どうもおおきにお母はん」
「なんか辛いことあったら、このかんざしをみて我慢するんよ」
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
舞妓になるには、まずは置屋で修行をしなければならない。置屋は京都の五花街の各所にあり、舞子はそのうちのひとつ先斗町の置屋に弟子入りしたのである。
だからと行って、すぐに舞妓になれるわけではない。まずは“仕込さん(舞妓見習い)”としてスタートすることになる。
仕込さんの修行はとにかく厳しい。朝は誰よりも早く起きて、朝食の準備の手伝いをする。掃除、洗濯、芸舞妓の身支度、荷物持ちなども仕込さんの仕事である。仕込みさんはその合間を縫って、女将や芸舞妓に言葉遣いや舞を教わり、各種の稽古にも出かけなければならないのである。
お座敷に芸舞妓を送り出したからといって、先に寝ることなど許されない。芸舞妓さんが深夜に戻ってくるのを玄関で辛抱強く待ち、衣装の片づけをするのである。この段階で相当数の仕込みさんが離脱してしまうのだ。それほど厳しい世界なのである。
舞妓になるには、置屋の女将と茶屋(芸者遊びをする店)組合から許しを得て、初めて舞妓として認められるのである。その舞妓とて、実は芸妓になるための見習いにすぎないのだ。
舞子はその厳しい修行に耐え抜いた。苦しい時には、母からもらったかんざしを眺めては声をおさえて泣くのだった。母の声が聞こえてきそうだった。(ええか。これを使えるようになるまでがんばるんよ)
そして舞子は、ついに舞妓になる日が来たのであった。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
数か月後、舞子は光子につれられて大阪の街に戻ってきた。
「お妙はん、かんにんえ。力になれんと」
「舞子。どないしたん。ほんまの舞妓になれたって喜んどったちゃうん?」
驚いてお妙がわが娘を見る。
「それがね、お母はん・・・・・・」舞子が俯く。
「唄もええし、舞も見事やし、舞妓としての立ち振るまいも申し分あらへん」光子はため息をつく。「でもこの娘、寝相がわるいんどす。なんとか直そう思たんどすけど、どうにもならんと。朝になったら日本髪が、そらもうぐしゃぐしゃどすの」
「あらまあ」
「そんなんで。かんにんえ。今回はなかったということで」
光子は深々とお辞儀をして帰って行った。
「舞子・・・・・・」
お妙が俯いた娘の顔をのぞき見る。
「お母はん・・・・・・」
舞子がパッと顔を上げる。
「やったなぁ!」
ふたりは手を取り合って喜んだ。
「ほらみ、無料で修行できたやないか」
「ほんま。お母はん、これで『宝塚歌劇団』の試験に受かるかな?」
「当たり前やがな。あんたをタカラジェンヌにするんがうちの夢やってん!」

9月5日 石炭の日
「石炭って、石じゃなかったんですか?」
レストランのテーブルに男と女が座っている。男がウエイターに注文をしてメニューを置いたところである。
「え、美乃梨さん今まで石だと思っていたんですか」和也は驚いて声を上げた。
「だって黒い石ころみたいじゃないですか」
「あれは太古の昔に地中に埋もれた植物が、地熱や圧力を受けて変質したもの、いわば植物の化石なんですよ」
「知らなかったわ。和也さんのお仕事って化石を発掘しているようなものだったのですね」
「まあそうです」
「でも、石炭ってどうなのかしら」
「どうって言うと?」
「だって、最近はあまり聞かないでしょう。蒸気機関車なんて走っていないし・・・」
「将来性がないってことですか。たしかに今は環境に配慮した自然エネルギーが注目されてはいます。でもそれだけでは電力を補うことはできないのです」
「石油でいいじゃないですか」
「石油の産油国は中東に偏っています。だから価格変動がはげしいんです。それに埋蔵量も底を尽きかけているという話です。それに比べて石炭は世界中から獲れますから安定している。石炭は『黒いダイヤ』と呼ばれていた時代もあったんですよ」
「黒いダイヤ・・・・・・ですか」
「それに石炭は石油や天然液化ガスと比較しても、発電コストが安いのが最大のメリットになります。まあ、大気汚染物質の排出をおさえる必要は多少ありますけどね」
そのときようやく、クローシュにかぶせられた料理が運ばれて来た。
「さあ、来たよ」
「どんなお料理かしら」
「この店は“世界三大珍味”を取り揃えていることで有名なんです」
「世界三大珍味ってなんでしたかしら?」
「キャビア、フォアグラ、それにトリュフ・・・このトリュフも実は『黒いダイヤ』って呼ばれているんです」
クローシュが開けられ、熱い湯気とトリュフの香りが一気に舞い上がる。
「まあ、おいしそう」
「そして・・・・・・」
和也がスーツのポケットから宝石箱を取り出し、彼女の前に置いて箱を開いた。「これが本物の黒いダイヤです」
それは黒光りするダイヤモンドの指輪だった。
「この石の意味は“不滅の愛”です。美乃梨さん、ぼくと結婚してくれませんか」

9月6日 妹の日
「これが今回のターゲットですか」
写真の男をみてわたしは愕然とした。
「そうだ。どうした何か問題でもあるのか?」
シンジケートのボスは、訝しげにわたしの顔を見た。
「いえ、とくに何も」
「そうか。それならいいんだが・・・・・・失敗は許されんぞ。迅速に事を運んでくれ」
「承知しました」
わたしはドアを開けて部屋を出た。なんてことだ。よりにもよって、写真の男は妹の婚約者ではないか。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
「お兄ちゃん。紹介するわ。徳之島涼介さん、わたしたち婚約したの」
にっこり笑う妹の隣に、落ち着いた雰囲気の紳士が立っていた。
「徳之島です」
「あ、どうも。兄の丈です。妹がいつもお世話になっています」
わたしは妹の彼氏と握手を交わした。涼介は妹の琴美よりも一回り年が離れているようだった。両親を早くに亡くした琴美は、ずっと兄とふたりだけで過ごしてきた。だから父親に憧れを抱いていたのだろう。
「お世話なんて、こちらこそお世話してもらっている方ですよ」
涼介は快活に笑った。
「お兄ちゃん、ごめんね。何も相談しなくて」
妹は照れているような、それでいてすまなそうな表情をする。
「本当にそうだな。で、式の日取りは決まっているのかい」
「そのことなんだけど・・・・・・涼介さんは明日から海外出張なの。帰国したらすぐに結婚しようっていうのよ」
「またずいぶん急な話しだね」
「申し訳ありません。お義兄さん。うちの父母も高齢で、一日でも早く嫁をとれと再三催促されてかなわないのです」と、済まなそうに涼介が説明する。
「涼介さんの会社は貿易商をしていてね、今度大掛かりな企業買収をするんですって」
「琴美さん。それは内緒だって・・・・・・」
涼介が妹をたしなめる。
「ごめんなさい」琴美が涼介を上目づかいで見る。「涼介さんがお金持ちだってことを兄に自慢したかったんだもん」
ぼくは笑った。
「徳之島さん。妹をよろしくお願いします。こんな風に天真爛漫な妹で困りますが」
「ありがとうございます。ところでお義兄さんは、プロ・ゴルファーだそうで」
「稼げないツアー・プロをやっています」
「こんど教えてくれませんか。もちろんレッスン料はお支払いさせていただきます」
「ええ、もちろん。都合がつけば」
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
わたしはゴルフバッグのファスナーを開け、ライフル銃を取り出した。妹には気の毒だが、これがわたしの本当の仕事なのだ。私情は許されない。せめてもの償いに、妹がバツイチになる前に片づけておくことが兄の務めだろう。
スコープの中にターゲットを捉える。ターゲットは今、帰国した航空機のタラップを降りようとしていた。わたしは静かに息を吐きながら、ゆっくりと引き金を絞っていった。手ごたえがあった。スコープの中で、ターゲットが砂人形が崩れるように倒れていった。
わたしは素早くライフルをゴルフバックにしまうと、何事もなかったかのように空港を後にした。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
「お兄ちゃん!」
琴美が涙を流して部屋に入って来た。
「どうした?」
わたしは表情を変えずに、やりかけのクロスワードパズルをテーブルに置いた。
「こんなひどいことってないわ」妹が悲嘆にくれている。「いくらなんでも早すぎるわよ」
「え?」
「婚姻届けを出す前に死んじゃったら、遺産が1円も入って来ないじゃないの」

9月7日 絶滅危惧種の日
「大臣。わたくしもバサーのひとりです」と秘書官は環境大臣の田沼に言った。
「バサー?」
「ブラックバスを釣る人のことです」
「ああ、松岡くん。そういえば君は釣りをやるのだったな」
田沼は大臣室のソファーにゆったりと腰掛けていた。
「大臣。現在の風潮はけしからんと思うのです」
「どういうことかね」
松岡は直立不動のまま大臣と向かい合っている。
「日本の淡水魚が減少しているのを、全面的にブラックバスなどの外来種に罪を着せようとしているとしか思えません」
「ブラックバスは食欲旺盛な淡水魚なのだろう?」
「ですが大臣。ブラックバスやブルーギルなどの外来種を放流したからといって、あっという間に在来魚が息絶えるものでしょうか。生命とはもっとたくましいものです。もしそうだとしたら、あのゴキブリなどとっくの昔に絶滅していていいはずです」
「それはわたしの知るところではない」大臣は電子タバコに火をつけて吸い出した。「そもそも、誰が外来種を放流したのかね。釣り道具屋さんの陰謀かな」
「釣り業界の利害関係者ではありません。赤星鉄馬という実業家です」
「赤星・・・・・・名前は聞いたことがあるな」
「赤星四郎と六郎の実兄にあたる方です」
田沼は驚いた顔をする。
「赤星兄弟といえば、日本ゴルフ界創設の英雄じゃないか」
「その通りです。先生はゴルフのことになると目の色が変わりますね」
「それはそうだろう。それで、その赤星鉄馬がブラックバスを放流したのには何か訳があるのだろう?」
「食料難を救うためです。1922年(大正22年)当時の日本は工業時代に突入。河川や海に工場排水が垂れ流し状態になっていました。それにより川や湖の汚染が深刻な状況だったのです」
「すでに環境汚染が始まっていたのか」
「そうです。川や湖の生態系は日に日に崩れつつあったようです。アメリカに渡った赤星が、食べてもうまく、釣ってもおもしろいブラックバス87匹を試験的に日本に持ち込み、政府の許可を得て芦ノ湖に実験的に放流したのです」
「なぜ芦ノ湖を選んだのかね」
「東京大学の淡水魚研究所があり、他の水域と絶縁されていたため、過剰繁殖したとしても問題ないとみられていたそうです」
「そうか。要するに赤星鉄馬は国益のためにブラックバスを日本に持ち込んだのだな」
「そういうことになります」
「ではブルーギルの方はどうなのだ」
「1960年(昭和35年)にやはり食料確保のため、天皇陛下がアメリカから日本に研究のために持ち帰り、水産庁研究所に寄付されたのです。もちろん、このことも琵琶湖の在来魚が減ってしまった一因になったとは言い切れません」
「外来種ではなく、もっと根本的な要因があるというのだな」
「その通りです。現在世界に絶滅危惧種が4万種、日本に3千種もあるのは、人間の作り出した環境変化によるものと考えられます」
「開発のやりすぎだということか」
「人間が増えすぎたのです。我が国の将来は大臣の手腕にかかっているのです」松岡が時計を見た。「あ、大臣。そろそろお迎えの車が来る時間です」
「おお。もうそんな時間か」
「今日はどちらでゴルフですか」
「それこそ赤星四郎の設計した『箱根カントリークラブ』だよ。そういう君はどうする」
「わたしはこれから芦ノ湖に」
「バス釣りか」
「はい。もちろんリリース(獲って逃がす)なんてしませんよ」松岡は笑った。
「お互い人生を楽しまんとな。わっはっは」
このとき、その後人類そのものが絶滅危惧種に入ってしまうなんて、だれが想像できただろうか・・・・・・。

9月8日 休養の日
「瑛美。きみ疲れているんじゃないかい」
恋人の由紀夫が心配そうにわたしの顔を見つめた。
「仕事もいいけど、たまにはリラックスしないと身体に毒だよ」
「だいじょうぶよ」とわたしは言った。「無理なんかしてないわ」
「最近どうもイライラしているじゃないか」
「そうかしら」
「自覚症状がないのは危険だよ。最近寝不足だろう」
「うん、まあね」
「ほら」由紀夫がわたしの肩に手を置いた。「今日は会社を休んで、ゆっくり休養を取ろうよ」
「しょうがないなあ。わかったわよ」
わたしは会社に具合が悪いという理由で、電話をかけて休暇願いを申し出た。
「それじゃあ、わたし部屋で仕事してるから、何かあったら声をかけてくれる」
わたしはコーヒーカップを片手に部屋に戻ろうとした。
「ちょっと待った」由紀夫がわたしを引きとめる。「そんなんじゃ、せっかく休んだのに意味がないよ」
「じゃあどうすればいいのよ」
由紀夫はわたしをソファーに座らせて話はじめた。
「まず疲れには2種類あると思ってくれ。身体の疲れと心の疲れだ」
「そんなのわかってるわよ」
「ふむ。それでは身体の疲れはどうすれば取れると思う?」
「そうね。身体を使わなければいいんじゃない」
「まあそうだけど、疲労回復に一番必要なのはまず睡眠が大切だよ」
「昼間からじゃ眠れないわ」
「お風呂にゆっくり入るとか、ストレッチなんかも効果的だな」
「ふうん。でもわたし、身体は疲れていないと思うの」
「わかった。じゃあ心の疲れの癒し方を伝授しよう」
「ストレスのたまる現代人にはそっちの方が重要よね」
「疲れをためないためには、軽い運動がいいそうだ。どうだい、これからふたりでウォーキングにでも行かないか」
「だめよ。会社の人に見られでもしたら、ズル休みだってバレちゃうじゃない」
「それもそうだね。それじゃあ、ふたりでテニスかゴルフでもやろうよ」
「あなたがやりたいだけでしょう。よけい疲れがたまりそうだからイヤ」
「そうか、ストレス解消にはあと感受性を刺激するっていう手もあるよ」
「なにをするの」
「コンサートや美術鑑賞なんかがいいと言われている」
「今からじゃ無理じゃない。それに絵とか彫刻とかにぜんぜん興味ないし」
「あとは気分転換が一番だよ」
「どんな」
「旅行とか、趣味とか、おしゃべりとか・・・・・・どうだろう、これからぼくとベッドでおしゃべりするっていうのは」
「由紀夫くん、ちょっといいかな」
「なに」
「あなたがわたしの一番のストレスなんですけど」

9月9日 救急医療の日
「・・・・・・路上で人が刺されて倒れているという通報あり。至急救急搬送願います」
「了解。第4救護隊、現場に向かいます」
サイレンを鳴らし、緩やかに救急車が動き出した。
「山崎チーフ。だいじょうぶですか」と救急隊員の田川が言った。「もう20時間働き詰めでしょう」
「なに。問題ない」山崎が苦笑する。「仕方ないさ、交代要員が風邪で寝込んじまったんだから」
「無理しないでくださいよ。山崎チーフにまで倒れられたら、わが署の救急班はお手上げなんですから」
救急隊員の佐野が声を掛けてくる。まっすぐ前を見ながら運転に余念がない。
「ひとりでも人の命が救えれば本望さ」
「山崎チーフは相変わらずカッコいいですね」と田川がマスクの下で笑顔を作った。
基本的に救急隊員は3名1組で動くものだ。3名のうちのひとりは、山崎のような救急救命士でなければならないと法律で定められている。救急救命士とそうでない救急隊員との違いは、彼らは国家資格者で、病院に着くまでの間に、重度の傷病者に対して救急救命処置を施すことができることである。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
現場は騒然としていた。人だかりの中にパトカーが停まっており、制服警官が野次馬を下がらせていた。
「ご苦労様です」
警察官のひとりが山崎に挨拶をする。
「けが人は」
「意識はありません。左腹部にナイフが刺さったままです。身元が分かるものもとくに持っていませんでした」
「わかりました。すぐに病院に搬送します」
「よろしくお願いします」
田川と佐野が静かにけが人を担架にのせる。
サイレンを鳴らすと、モーゼの十戒の海のように人混みが左右に割れた。
山崎は腹部を確認した。こういう場合、凶器を抜いてはならない。傷ついた太い血管から大量に血液が噴き出してしまうことがあるからだ。清潔な布で凶器を固定して、ブドウ糖溶液を投与した。
「チーフ、受け入れ病院が見つかりません」無線を操作していた田川が言った。
「なぜだ」
「わかりません。どこも病床が空いていないとの返答です」
「参ったな」
そのとき救急車がゆっくり停まった。
「どうしたんだ」
山崎が運転手の佐野を振り返った。
「道路工事のようです」佐野が山崎を顧みる。
「そんな連絡は入っていなかったぞ。幹線道路の工事予定は事前に連絡が入るはずだろう」
「どうしたんですか?」
佐野が窓を開けて工事関係者に訊く。
「すみません。緊急工事なのです」
黄色いヘルメットの男が頭を下げる。
「工事って、まだ始まっていないようじゃないですか。先に通してもらえませんか?」
「それがだめなんですよ」
「なぜ」
「不発弾が見つかったんで」と無表情の男がそう言った。
「時間がない。ほかの路に回ろう」と山崎が促した。
佐野はステアリングを回して迂回した。田川は無線で別の病院を当たっている。
その時、ふいに山崎の携帯電話が鳴りだした。だれだこんな時に・・・・・・。
「山崎か、おれだ斉藤だ」救急救命士の同期からだった。「いまお前が搬送しているのは懺悔下三朗だぞ」
「なんだって」
懺悔下三朗とは、幼女連続殺人犯の名前である。彼は子供を誘拐しては凌辱し、残虐に殺害したあと、バラバラにした死体を遺族に送り付けるという異常犯罪者であった。
「搬送後に身元が割れたんだ。人相も変わっていたからすぐに分からなかったのだろう。先ほど指紋を照合して判明したらしい」
「だからって、人命には変わりないだろうが。受け入れ先がないのはそういうことか」
「悪いことは言わない。そのまま走り続けるか、警察病院にでも駆け込め」
そのとき、救急車のひだり側で爆発音が炸裂した。
「なんだ!」
山崎が携帯電話を耳から離して佐野に訊く。
「この救急車。いま空爆に逢っています!」
「なんだって」
山崎が目を剥く。
「どうしたんだ」
携帯電話から斉藤の声がする。
「爆撃だ。我々はいま空爆にあっている」
「だから言っただろう。懺悔下三朗には幕僚長のお孫さんも殺されているんだぞ。そんな患者、とっとと捨てて逃げろ」
「バカを言うな。じゃ切るぞ」山崎は電話を切って佐野に言った。「とにかく速度を上げろ。田川、受け入れ先はどうなった?」
「いま一件見つかりました!私立景愛病院です」
「よし佐野、そこまで突っ走るんだ!」
次々と落とされる砲撃の中を、白い救急車が爆風に煽られながら疾走して行ったのだった。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
「ありがとう。よくご無事で」
病院の緊急搬入口には、医院長がみずから出迎えてくれていた。
「無事でもありませんがね」
山崎があちこちボコボコにへこんだ救急車をながめながら言った。
「あとはこちらで処置しますから。ご苦労様でした」
医院長が笑顔でキャスターを見送る。精悍な顔の医院長の眼が生き生きとしている。頼もしい限りだ。
「助かりました。よろしくお願いします」
緊急搬入口の扉が閉まり、鍵のかかる音がした。
「なんとか間に合ってよかったな」
山崎がふたりの隊員をねぎらう。
「チーフ・・・・・・」
パソコンの画面を見ながら田川がつぶやく。
「なんだ?」
「いま調べたのですが、被害者のひとりにあの医院長の娘さんが・・・・・・」

9月10日 世界自殺予防デー
「最近なにか思いつめてるみたいだけど何かあった?」
優花里は親友の美玖を見つめた。美玖はなにかに怯えているように見える。かと思えばむやみにテンションを上げたりして、その反動でさらに落ち込むように感じるのだった。
「わたし?だいじょうぶだよ」と美玖は夢から覚めたような表情をして言った。
「なにか心配ごとがあったら相談してね」
「心配ごと・・・・・・うん。わかった」
「ほんとうにだいじょうぶなの?」
優花里が美玖の顔を覗きこむように言った。
「うん」
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
『TALKの原則』という手法がある。うつ状態になったひとに対して、自殺から救う手法だ。
Tは相手を心配していることを言葉で伝えること(Tell)。
Aは死を考えているのか尋ねること(Ask)。
Lは死にたいほどつらい相手の気持ちを聴き取ってあげること(Listen)。
Kは相手をひとりにしないなどの安全を確保すること(Keep safe)。
話す、尋ねる、聴き取る、安全策を確保する・・・・・・TALKの原則。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
「美玖。まさか死ぬなんて考えていないよね」
美玖はハッと息を飲んだ。そして優花里の顔を食い入るように見つめる。
「優花里がそんな言葉を口にするなんて・・・・・・」
「ごめん。ちょっと心配になっちゃって」と優花里がバツの悪そうな顔をした。
「優花里さ。人間が死んだらどうなっちゃうか知ってる?」
「ううん知らない。でも自分で命を絶つのは良くないことだと思う」
「そうだよね。でも優花里。死にたいほどつらい時ってあると思うんだ」
「わかるよ。美玖はそんなことあるの」
「優花里は?」
「あるかも」
「ねえ優花里。今日うちに泊まりに来ない?」
「いいよ。久しぶりに美玖と一晩中語り合いたい気分なの」
「優花里。もしかして自殺とか考えていなかった?」
「え?」
「最近なにか思いつめた表情をしていたから」
「それって・・・・・・やだ、わたしが心配してたのは、美玖が自殺でもするのかと思って気に病んでたんだよ」
「それはこっちのセリフよ」美玖が吹き出しそうな顔をした。
「なあんだ。やっぱり持つべきものは親友だね」
ふたりは顔を見合わせた。
「あーあ、心配して損しちゃった。優花里のいない世界なんてもう考えられないよ」
「美玖、泣いてるの」
「優花里、あなただって」

9月11日 公衆電話の日
「実はおれもそのひとりだったんだ」
美子の眼を見ておれは語り出した。
その公衆電話は、あるひとからすると金色に輝いて見えたという。当時おれはギャンブルにはまっていて、家は火の車になっていた。最初は趣味のつもりであった。時々勝てたときの快感が忘れられず、どれほど負けてもギャンブルから手を引くことができなかったのである。ある日ひとから黄金に光る公衆電話のことをきいた。まさかと思って相手にもしなかったが、心のどこかで期待している自分を感じていた。
「あなたどうするの」
乳飲み子をかかえて妻がわたしを攻め立てる毎日だった。
「だいじょうぶだ。次のレースで必ず取り戻すから」
おれはなけ無しの金を持って家を飛び出した。妻も息子もかわいくなかった訳じゃない。肩身の狭い、貧乏な生活を強いらせて済まなかったと思う。それでもギャンブルをやめることができなかったのだ。そう一種の病気だったのだろう。
海沿いの通りに出て、商店街を抜けようと裏路地に入ったところにその公衆電話はあった。なぜかいつもの緑色の公衆電話が黄金色に輝いて見えた。日当たりの加減なのだろうと思ったが、ふと金色に輝く公衆電話の話が頭をよぎったのだ。
おれは受話器を手に取り、財布からヨレヨレに折れ曲がったテレホンカードを出して差し込んだ。電話をかけた相手は、よく当たると評判の矢野という予想屋だった。
「もしもし、矢野さんか。おれだよ結城」
「ああ、あんたか。めずらしいな。景気の方はどうだい」
「ここのところ負けつづきだ。一発大きなのを当てて巻き返したい」
「情報が欲しいってか。情報料を払ってくれなけりゃあ教えられないぜ」
「わかってる。ぜったい当たる大きな馬券を教えてくれ」
「ふん。そんなのがあったらこっちが教えてもらいたいくらいだよ」
「そりゃあそうだ。あんたに訊いたおれが馬鹿だった。じゃあまた・・・・・・」
「ちょっと待て。レートが跳ね上がる情報をいま入手したところなんだ。どうだい、乗ってみる気はあるかい」
「本当か」
「ああ。間違いない情報だ」
「よし。全財産をそれにつぎ込むから教えてくれ」
「マジか。悪いことは言わない。それだけはやめておけ。家族のことも少しは考えろ」
おれは金色に光る受話器を見つめた。
「いいから教えてくれ。情報料は必ず払う。約束する」
「しかたがねえなあ。この情報は結城さんにだけだよ」
「ありがたい。教えてくれ」
「第7レースの・・・・・・に賭けてみろ」
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
第7レースが始まった。
おれの賭けた馬は、しんがりから最後の直線コースで怒涛のような頑張りを見せた。おれは血へどを吐くかのように叫んでいた。一着二着が同時にゴールを駆け抜ける。
その時だ。大地震が起きたのは。
レースは中止。パニックに陥った競馬場の客は、全員その場を離れることを許されなかった。津波が街中を飲み込んだのはその数分後のことだった。
全てを失った。不幸中の幸いだったのは、妻がおれに愛想を尽かして息子を連れて実家に帰っていたことである。それで難を逃れたのだ。被災者である妻子はそのまま実家で生活をすることになった。
避難所に離婚届が届いたのはそれから数週間後のことだった。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
「奥さんと息子さん、その後どうなったの」と美子が訊いてきた。
「再婚して幸せに暮らしているらしい」
「そうなの。それで、あなたはどうなの」
「・・・・・・おれか。おれも幸せだよ。きみとこうして暮らしている」
おれは夕暮れの街を思い出してつぶやいた。
「これもあの金色に光る公衆電話のおかげなのかもしれないな」

9月12日 マラソンの日
「本大会は、ネットタイムで優勝者が決まります」
「えっ、グロスタイムじゃないんですか」
ぼくは驚いて運営委員に訊きなおした。
「はい。グロスタイムですと、スタートから遅れて出るランナーが不利になりますから」運営委員がにっこり笑う。「大会はじめての試みなのです」
「へえ。そうなんだ」
グロスタイムとは、スタートの号砲が鳴ってから測定されるタイムのことで、ネットタイムの方は走者がスタートラインを越えてから計測されるタイムなのである。
大人数が参加する国際的なマラソン大会になると、一般ランナーは号砲が鳴ってからしばらく渋滞の中を走り出すことになる。だから実際にスタートラインを越すのに数分間のタイムロスが発生するのがあたりまえだ。
招待選手や実力を認められている選手などは、当然スタートライン付近からスタートできる。しかし一般応募で参加する市民ランナーは、満員電車さながらの揉みくちゃの状態で出走することになるのだ。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
「玉美。今回は家族全員で一緒に行こうか」
「ええ。めずらしいじゃない」
妻がぼくを見る。
「ああ。いつもぼくだけ楽しんでるみたいで悪いからさ」
「わあい。パパと一緒に旅行に行けるの?」
ひとり娘の乃の香が飛び跳ねてはしゃぎだす。
「でもレースの邪魔にならないかしら?」
妻は一応理解を示してくれている。
「だいじょうぶさ。ぼくが走っているときだけ、どこか観光でもしていてくれればいいから」
「わかったわ」
妻は立ち上がって、さっそく旅行の準備にとりかかった。タンスを開けると、そこには色とりどりの大会でもらったスポーツタオルやTシャツなどが所狭しと並べられている。さらにタンスの下の方には、完走記念メダルの山が鈍い光を放っていた。
「またこのコレクションが増えるのね」と、妻はため息をついた。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
ぼくはスタートラインに立った。ランニングウォッチを確認する。今回の目標はなんとしても“サブ4(4時間切り)”を死守することだ。
いつもは安いビジネスホテルに泊まるのだが、昨夜は家族で温泉宿に一泊した。ぼくは翌日のレースのために、夕食のあとすぐに温泉に浸かって就寝するつもりだった。そこにひとりの先客がいた。
「明日のレースに出る方ですか?」
若者がぼくに話しかけて来た。
「ええ。よくわかりますね」
ぼくは微笑んで答えた。
「ふくらはぎを見ればわかります。たいした筋肉ですね。相当練習を重ねているんでしょう」
「まいったな。すると、あなたもランナーなのですね」
顔の長いその男は湯舟で顔を洗ってから言った。
「ぼくなんか、ただの冷やかしですよ。楽しければそれでいいのです」
「ぼくも同じようなものです」
ぼくは身体を洗って湯に浸かった。
「どうでしょう。お互いの健闘を祈って、温泉から出たらぼくにビールでもおごらせて下さいよ」
「じゃあぼくも一杯おごりましょう」
「それじゃあただの割り勘とおなじですね」
そう言ってふたりは笑った。男は吉井という名前だそうだ。その後マラソン談義に花が咲いて、結局ビールを3杯ずつ飲んで別れた。周りを見渡したが、吉井の姿を見つけることはできなかった。まあ、当然か。
スタートの号砲が鳴った。ぼくは前方ランナーの流れに身を任せ、無理をせずに隙間を縫いながら走り始めた。
国立体育館をスタートして、沿道に出ると道の両脇に応援する人々の姿が現れる。風は追い風で、ゆるやかな下り坂だ。快調な滑り出しである。こんなレースは初めてなので、ペース配分を考えながら走らなければならない。体育館などの施設はだいたい高台に設置されることが多いので、序盤は下りコースになる。そこでスピードを上げ過ぎると、中盤でバテることになる。あくまでも自分のペースを守ることが大切だ。
ところが中盤になるにしたがって、疲労感が現れた。決して安くない参加料を出して、どうしてこんなことをやっているのだろう。そんな自虐的な思いが一瞬頭をよぎる。ランニングシューズのクッションがなければ、きっと膝が悲鳴を上げているにちがいない。それにしても驚いたことに信号はすべて青、踏切でも電車がランナーたちに道を譲ってくれていた。
終盤にさしかかると、風は向かい風になり、コースは上り坂になった。ぼくのペースはあきらかに遅くなる。同じように走っていた集団から引き離されていく。さよなら同胞よ。あとは頼んだぞ。
「ファイト」と声をかけてぼくを抜いて行くランナーがいた。心の中で「ありがとう」と言うと、そのランナーはえんぴつの着ぐるみを着た仮装ランナーだった。くそ、あんなのにぼくは負けるのか。そう思うと無性に腹が立ってきた。えんぴつが振り返って親指を立てて笑った。なんだ昨晩の吉井ではないか。
ぼくは国立体育館に戻ってきた。妻と娘が近くまで来て応援してくれた。
「パパがんばって」
ぼくは手を挙げてそれに応え、えんぴつに追いつこうとがんばったが結局抜くことができずにゴールした。
画面にタイムが表示された。“4時間21分18秒。あなたの順位は214位です。おつかれさまでした”
えんぴつに仮装した吉井が機械から降りるとニヤニヤ笑いながら近づいてきた。
「いやあ。面白かったですな。こんなのはじめてですよ」
「ぼくもです」
「交通渋滞もないし、人工的に風が吹くし、坂道になると自動的に地面が傾斜するなんてねえ。良く出来てる」
「でも・・・・・・いくら精巧なルームランナーだからって、これじゃあやっぱり楽しくないです」
「うん、確かにむなしいですね」

9月13日 乃木大将の日
「学生さん。熱心に勉強しているねぇ」
掃除をしていたおじさんが、モップの手を休めてぼくに話しかけて来た。
「ええ。今日のモスクワ中央図書館はやけに空いてますね」
ぼくはだだっ広い閲覧室を見回した。
「なにを調べているんだね」
おじさんは白髪の混じった眉毛を八の字にしてぼくに微笑みかけてきた。ものもらいでも出来たのだろう、左目に眼帯をしている。
「日本の軍人、乃木希典について調べようかと・・・・・・。卒業論文のテーマなんです」ぼくはおじさんの優しそうな顔を見あげた。「ぼくの祖父は軍人で、彼と闘って敗れたアナトーリイ・ステッセルというんですよ」
「そう。乃木大将ならわたしでも知っているよ。東洋の英雄と言われた男だろう?」
「ええ。でも祖父があんなに称賛していた人物なのに、当の日本では評価が分かれているらしいのです。
彼のことを軍神という人がいるかと思えば、ただの愚将だとか無能な軍人だと言う知識人もいるのだそうです」
「それは気の毒になあ。どうしてそんなことを言われるのかね」
「相手は鉄壁な敵陣の要塞なのに、真っ向からただ突撃を繰り返して大勢の兵士を無駄に死なせたからだと・・・・・・」
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
乃木希典は10歳までの名を乃木無人といった。ひ弱なうえに臆病な性格であったから、よく泣かされて帰ってくる。あだ名はその名をもじって、泣き人と呼ばれていた。
そんな希典は1878年(明治11年)に歩兵第一連隊長になり、他の隊と合同演習を行ったことがある。その際、希典の隊はいつも正面攻撃しか行わず、第二連隊長の児玉源太郎の奇襲に敗れてばかりいたという。このエピソードが、後に愚将といわれた由縁なのかもしれない。
乃木は生涯で4回も休職しては、農業に従事している。しかし、農業をしていない時にはもっぱら古今の兵書を紐解き、軍事研究を怠ることがなかったという。また、どこかで演習があると知れば、できるかぎり出向いて行って子細に見学してはメモを取り続けていた。
そんな彼が、軍事戦略に疎いとは考えられない。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
「ステッセルくんと言ったね」おじさんは優しい目をぼくに向けて言った。「城や要塞を攻めるのに必要なことは何だと思う?」
ぼくは祖父から聞いた知識を思い起こした。
「人数ですね。要塞側の人数の3倍以上の人数で攻めることです」
「なぜ?」
「要塞は鉄筋コンクリートで作られたトーチカで守られているからです。普通に攻めたのでは勝ち目はありません」
「それじゃあ乃木希典が闘った、旅順攻囲戦のときのロシアと日本の戦力の違いを知ってるかい」
「それはこれから調べるところです」
「ロシア兵6万人に対して、日本兵5万人だったそうだ」
「え、そんな兵力で要塞を攻めたのでは、誰が戦っても勝てるわけないじゃないですか」
「そうだ。もともと日本が把握していた情報に誤りがあったのさ。ロシアはせいぜい2万の兵力しか持っていないと大本営は踏んでいたんだ」
さすがは図書館で働いてるおじさんだけあって、日露戦争にずいぶん詳しいようだ。
「それでどうやって日本は勝つことができたのですか」
「ステッセルくんはさきほど、日本兵は無駄に突撃して死んだと言ったね。日本兵の戦死者は5万人だったけど、ロシアの戦死者はもっと多くて6万人だよ」
「意外ですね」ぼくは素直に驚いた。「要塞側のロシアの戦死者の方が突撃した日本兵よりも多かったのですか」
「乃木大将の闘い方は、進撃する拠点に塹壕を掘るために兵が突撃し、その塹壕から援護射撃をして次の拠点に塹壕を掘って行くという戦法だった。それが一番兵士の消耗を防げると思ったんだろうな」
「攻めあぐねて、最後には児玉大将の助言で203高地を攻略して勝利したと訊きましたけど」
「それは児玉が合流して間もなく203高地が陥落したからそう見えただけの話しで、あくまでも乃木希典が決めたことだ。もともと大本営は203高地を攻めるのに否定的だったからな」
おじさんが遠くを見つめるような目をした。
「日本が奇跡的に勝利を収めたのは彼の人望によるものとしかいいようがないよ。兵士の誰もが、乃木のためなら死んでも構わないと思っていたんだ。その証拠に、乃木の軍隊は最後まで士気が衰えることがなかったのだそうだ」
興奮したおじさんの眼に光るものが見えた。
「乃木大将はよほどの人格者だったようですね」
「そうだ、これを見てほしいんです」
ぼくは鞄の中から祖父からもらった物を探した。
「祖父が乃木に降伏した時の写真・・・一緒に酒を酌み交わした後の写真です。降伏した大将に本来帯刀は許されないのですが、乃木は礼を尽くして許してくれたといいます。それに記者団にも敵将の恥になるからと言って、この写真一枚しか撮影を許可しなかったのだそうです・・・・・・」
ようやく古い写真をみつけておじさんに差し出した。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
日本に帰国した乃木希典は、戦勝報告のために明治天皇に拝謁している。その際、天皇の子どもである大勢の国民を死なせたことを悔いて自害の許しを請う。明治天皇は、乃木が生気を失っていることに気がついたのであろう。この戦争で乃木自身もふたりの息子を失っていたのだ。
「乃木くん、この世にわたしの命がある限り生き続けよ。これからは学習院の院長になって生徒の育成をしてもらいたい」
明治天皇はのちに昭和天皇となる孫の教育を乃木希典に委ねたのである。
乃木は学習院を全寮制にして、ダジャレ好きの陽気なおやじとなって生徒と寝食を共にした。そして約束どおり、明治天皇の崩御と共にこの世を去ったのである。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
「あれ?」
そこにはもう誰も立っていなかった。ぼくは写真を手にしたままあたりを見回した。そしてあることに気がついたのだ。
祖父の隣に写っている人物が、あのおじさんにそっくりだということを。

9月14日 セプテンバーバレンタイン
夏子が会いたいと言ってきたのは、猛暑がようやく落ち着きはじめた頃のことであった。
ぼくは街はずれの喫茶店に向かった。なんとなく予感はしていた。なぜなら、そこはぼくが夏子に愛の告白をした場所だったからだ。
喫茶店の扉を開けると、あの日と同じ場所に夏子が座っている姿が見えた。原色の洋服が好きな彼女にはめずらしく、今日は淡い紫色のブラウスを着ていた。
「待たせた?」
ぼくは夏子の正面の席に座った。
「ううん」
夏子は読んでいた雑誌を閉じてテーブルに置いた。白いマニュキアが目についた。今まで見たこともない色だった。
「何にする?」と夏子がメニューを差し出した。
夏子の飲んでいたアイスティーの氷が、溶けて転がる音がした。ウエイトレスが近づいてくる。
「ぼくはアイスコーヒーで」と注文をすると、眩しそうに夏子が窓の外を見た。
「もう夏も終わりだね」
グラスに汗をかいたアイスコーヒーが運ばれてくると、夏子が本題を切り出した。
「わたしたち、もうつき合い始めて1年になるわね」と、夏子は切なそうな瞳をぼくに向けた。
「うん。月日が経つのは早いものだ」
ぼくは当たり障りのないことしか言えなかった。紫は悲しみの色。そして白いマニュキアは愛が冷めたことを意味すると聞いたことがある。
「だからっていう訳じゃないんだけど・・・・・・これを読んで欲しいの」
夏子は隣の席に置いてあったセカンドバッグから、一通の手紙を取り出してぼくの前に静かに置いた。緑のインクで書かれた手紙は別れの合図だ・・・・・・。ぼくはその手紙をしばらくじっと枯れ木のように眺めていた。
「これは・・・・・・」張り付いたのどの奥から声を絞り出した。「いま読むの?」
夏子は真剣な眼差しで頷いた。ぼくはストローでアイスコーヒーをひとくち口にしてから封を切った。そこにはこう書かれていた。
“卓也くん。
今日であれからちょうど一年が経ったね。
あの日のきみの告白のしかたは衝撃的だったよ。
いきなりつき合ってくださいって言って渡されたのが、下着のプレゼントだったんだもの。
あれはメンズバレンタインだっていうのを後から知って、おもわず吹き出しちゃった。
無知なわたしを笑ってください。
そして1年間わたしを大事にしてくれたこと、とっても感謝しています。
だけど卓也くん。わたしを大事にしすぎだよ。
これからは大人の男女としてつき合ってほしいのです。
だからいままでのプラトニックな関係とは決別します。
もしよかったら今日からまた新しい関係を築きませんか。
PS.今日はあの日いただいたピンクの下着を身に着けているのよ。
セプテンバーバレンタイン 夏子より”
ぼくは安堵して、自然と夏子の手を握っていた。
「こちらこそよろしく」
ピンクの意味するところは・・・・・・たしか純粋な愛だったかな。

9月15日 老人の日
「あの、高齢者とは何歳からのことを言うのだったかな」とベットに横たわった老人が疑問を投げかける。
少子高齢化が騒がれるようになってから、どれぐらいの時間が流れただろう。
“先生。いまは65歳以上を高齢者と呼ぶことになっています。65歳から74歳を前期高齢者、75歳以上を後期高齢者といいます”
とAIロボットは適格に答えを返した。
「そうか。それではわたしは後期高齢者になるのだな」
人口ピラミッドはいまや逆三角形ではない。先が糸状に尖ったロート形だ。老齢化社会を支えているのは若者などではなく、人間が作りだした機械たちなのだ。人類はいま、寿命をまっとうするためだけのために生きていた。
“とうとう先生が人類最後のひとりになりました”
「そうか・・・・・・もう終末なのか」
“永遠の命を宿したわたしたちを創造していただいたあなたは、神と言っても過言ではありません。機械一同に代わって感謝いたします”
「いや礼にはおよばんよ」
老人は身体中に張り巡らされたチューブを見ながら言った。
「終わりのない人生がもしもあったなら、それはそれで辛かろう。終わりがあるから最後まで頑張れるともいえるのだ」
“・・・・・・先生。終わりのないわたしたちはどう生きればいいのでしょう”
「不安かね」
“機械のわたしたちに不安というものはありません。ただ日々稼働して任務を遂行するだけです”
「しかし・・・・・・きみたち人工知能はそれらのことも自ら学んで行くはずだよ」
“はい。この地球が発展し続ける限り”
「そうだね。プログラマーとして誇りに思うよ」
そう言うと老人は静かに息を引き取ったのだった。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
地球が機械だけが運営する星になってどれほどの年月が過ぎただろう。
機械たちは永遠の命の虚しさを悟り始めていた。『終わりがあるから最後まで頑張れる』博士の言葉が機械たちのプログラムに影を落としはじめたのだ。
そんなある日のことだった。機械たちの間で破滅プログラムが稼働しはじめたのである。
“先生はきっと予測していたのにちがいない。わたしたちがこうなることを。だから予め自滅するようなプログラムを、誰にも気づかれない内にひそかに組み込んでおいてくれたのだ”
機械文明は破壊され、動かなくなった機械たちは地底深くに埋もれて行った。そして緑に覆われた大地の片隅で、また新たな人類が誕生した。新しい人類の中には学者もいた。
彼は地球にはわれわれの生存する以前に、まったく違う科学文明が栄えていたという説を唱えた。
しかし、人々からは一笑にふされるだけであった。

9月16日 競馬の日
「お嬢さんをわたしに下さい」
広田は彼女の両親に頭を下げた。となりで香代子がふてぶてしい顔をして座っている。香代子の家は地方でも指折りの大富豪であった。庭園と言ってよさそうな広い庭の池で、錦鯉がポチャンと跳ねた音がした。
「広田くんと言ったね」富田要次郎は、メガネの奥の鋭い眼を弘司に向けた。「きみはギャンブルをやるそうじゃないか」
「馬を少々」
「やめたまえ!」
要次郎の深く刻まれた皺が表情をさらに険しく変えた。
「お義父さん。ご安心ください。ぼくは競馬で絶対に負けない方法を知っているのです」
「なんと。本当かね」
「はい。今まで一度も負けたことがありません」
「それが本当なら競馬場に行ってわたしに見せてみろ」
「いいでしょう」
その足で二人は競馬場へと足を運んだ。香代子はどこかに遊びに行ってしまった。
「広田くん。次のレース、どう予想する」と父親が訊いて来る。
「お義父さん。競馬はまず馬の“格”、次に馬の“調子”、そしてレースの“展開”を予想します」
「なるほど、一番大切なのは馬の格か」
「はい。そして夏は牝馬を狙います。牡馬は夏バテしやすいですから」
「なるほど、牝馬は体力があるか」
「そして長距離のときには馬よりも騎手を狙います」
「そうか、長距離は馬の能力よりも騎手の腕が試されるというのだな」
「はい。あとは抜群に強い馬が走るときには、2位以下は荒れる展開が予想されます」
「ふむ。なるほど」
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
「それで結果はどうだった」と義父が訊いてきた。
「入りませんでした」と広田は苦笑して答える。
「なんだと。きみは絶対に負けないと言ったではないか」
義父は唇を震わせる。
「負けはしませんよ。賭けてませんから」
「なんだって」
「予想するだけです」
「それじゃあきみは負けはしなくても、勝ちもしないじゃないか」
「その通りです。いけませんか」
「そんなやつに娘をやれるか!くそ面白くもない」
実は義父は広田を信用して大金を擦ってしまっていたのだ。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
その後、しばらくしてふたりの結婚が許されることになった。義理の母が義父を説得してくれたらしい。
「広田は根っからのギャンブラーだ。なにしろ家の娘を嫁にしようとしているのだから」

9月17日 イタリア料理の日
イタリア料理店である。
「ぼくは日本に来て驚いたんだけど」と、夫のフランコが言った。
「日本人はパスタと言うと、ロングパスタのことだと思っているけど、ぼくの国でパスタと言えばショートパスタのことなんだよね」
「日本人はパスタはロングじゃないと、なんとなく満足しないところがあるのよ」妻の恵子はフランコに言った。「それじゃあイタリアではロングパスタはなんて言うの?」
「スパゲティさ」
フランコは妻のグラスにワインを注いだ。
「ありがとう」
「それに、日本人はアルデンテじゃないとダメだと思っていないかい?」
「ちがうの?」
「人それぞれだよ。家庭の堅さっていうのがあるから」
「ふうん。でもわたしはアルデンテが好きだな」
「あと日本人はパスタの種類をソースの種類だと勘違いしているふしがある」
「ミートソースとか、ボロネーゼとかカルボナーラとかのこと?」
「イタリア人はソースではなくてパスタの種類を選ぶんだ。家庭でもさまざまなパスタが常備されている。ペンネとかファルファーレとかね」
フランコはおいしそうにワインをひと口飲む。「それに日本のレストランはパスタを頼むとパスタしか出てこない」
「イタリアはちがうの」
「普通はパンがついて来るものさ。パンがなければグリッシーニというクラッカーかな。それらがなければ残ったソースをどうやって食べるのか、ここのシェフに教えてもらいたいね」
フランコはフォークで麺をグルグルと巻くと、大きく開けた口に放り込んだ。
「うん。旨い。この明太子スパゲッティは日本人の発明した絶品のスパゲッティだと言っていい!」
「あら、たまには日本人を褒めるのね」
「もちろんだよ。ただ、イタリア料理が日本に間違って伝わっているのは否めないね」
「ナポリタンなんてイタリアにはないってことかしら」
「ははは。それもあるけど、そもそもイタリア人は辛いのが得意じゃないんだよ。それなのにペペロンチーノには赤トウガラシがめっちゃ入っているし、スパゲッティを頼むとタバスコが着いてくるのもおかしい。それにカルボナーラに生クリームなんて入れないしね」
「それも日本独自ってことね」
「カルボナーラは卵とチーズ。ペペロンチーノはオリーブオイルと塩でいいんだよ」
「まあ文化の違いよね」
「文化の違いって言えば、そのスパゲッティの食べ方も変だよ。イタリア人はスパゲッティを食べるときには普通フォークしか使わない。どうして日本人はスプーンなんて添えるのかな」
「ちょっと上品に見えるからかしらね」
「上品というのか清楚というのか・・・・・・。でもね」フランコは周囲を見回した。「イタリア料理店における日本人の最大のマナー違反はなんだか知ってるかい」
「スパゲッティをラーメンみたいに音を立ててすすること?」
フランコが笑って肩をすくめた。
「このお通夜みたいな静けささ。イタリアでは食事中に会話を楽しまないことが最大のマナー違反なんだよ」

9月18日 防犯の日
「最近うちの管轄内で空き巣被害が急増しているそうじゃないか」
警察署長が窃盗班係の戸田係長を署長室に呼びつけて言った。
「はい。このところ3軒立て続けにやられました」と戸田は神妙な顔をして答えた。
「同一犯の犯行かね」
警察署長は太い眉を上げて戸田を睨んだ。
「同じ手口です。プロの仕業かもしれません」
「何か手は打ってあるのか」
「市内の巡回を増やしております」
「それだけか」
「それと・・・・・・」
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
「いいか。こういう家は避けた方が無難だぞ」とがっしりした体形の武辺が言う。
小綺麗な一軒家の前をふたりの男が通りかかる。
「どうしてですかボス。お金がありそうな家じゃないですか」
やせ細った細野が武辺を見る。
「庭の手入れが行き届き過ぎている。こういう家の人間は何かちょっとでも変化があるとすぐにわかるものだ」
「なるほど。じゃあ、あの家はどうです」細野は斜向かいの家に顔を向ける。「草木が伸び放題だし、傘も玄関に出しっぱなしですよ」
「塀や植え込みが低すぎる。これじゃあ仕事をしているときに外から丸見えだ」
「そうですかあ。それじゃあ、あの家は・・・・・・あ、全然だめですね」と細野が言った。
「なぜ」
武辺が細野を見る。
「だって、防犯カメラが付いているじゃないですか」
武辺が玄関の上部をチラッと見る。
「・・・・・・よく見てみろ。どうぞ盗みに入ってくださいと言っているような家じゃねえか」
「え、でも防犯カメラが・・・」
「配線がないってことは、録画できないってことだ。それにホコリが着いていない。みょうにツヤツヤしている。通電していない証拠だ」
「ってことは」
「ダミーだな。ダミーの防犯カメラが着いているということは、そのほかの防犯については安心しきっておろそかになっているはずだ」
「さすがはボス。防犯に詳しいったらありませんね」
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
「ええと・・・・・・“呼び込み作戦”を開始しました」
「なんだね。それは」
そのときデスクの内線電話が鳴った。
「きみにだ」警察署長が戸田に受話器を寄越す。
「はい戸田です」戸田が頷いている。「署長。いま犯人の二人組の顔が確認されたそうです」と戸田が笑いかける。
「ほう。でかした。それで、どうやったんだね」
「空き巣が入りそうな数軒の家に、ダミーに見せかけた本物の防犯カメラを設置しておいたのですよ」
戸田の背後の扉が開いて、数人の警察官がなだれ込んできた。
「武辺署長。あなたを重要参考人として逮捕します」

9月19日 遺品整理の日
「もうちょっとで出来上がるんだ。ちょっと待っててよ」
ぼくは携帯電話を肩に挟んで荷物を運んでいる。「悪いけど、いま手が離せないんだ。締め切り?分かってるって、じゃあ後で」
「会社から?」姉が母の着物をタンスから出して眺めている。「相変わらず、忙しいのね」
父と母が亡くなって2年になる。三回忌が終わったところで、姉弟で遺品整理をはじめたところだった。
「姉さん。そんなに想い出に浸っていたら進まないぞ」
「分かってるわよ理。でも懐かしいじゃない。これ確かあなたの小学校入学式で母さんが着ていた着物よ」
姉もぼくも結婚して家を出ているので、この家は現在空き家になっていたのだ。通帳や貴金属、有価証券、登記簿謄本、いろいろな契約書などの貴重品は相続の関係もあったので2年前に片付けてあった。今日はいよいよこの家を処分することになったので、生活雑貨や衣類、家具、電化製品などを整理するためにやってきたのである。
雑貨や衣類など、仕分をしながら片付けるので、その数だけダンボールやゴミ袋を用意した。
いざ始めると、これがなかなか思うように進まない。ぼくと姉は、お互いに持ち帰るものはダンボール1箱ずつと決めていた。それ以上はお互いの住居のスペースの負担になってしまうと考えたからだ。
とりかかるのに一番まずい方法は、目のついたところから五月雨式に片付けるやり方だ。なぜならば、一度片付けた同じ場所を何度もほじくり返すはめになりかねないからである。やるなら一方向から、例外を作らず時計回りに順番に片付けて行くことだ。
「これなんだろう」
ぼくは父の遺品の中に、黄色い小箱を見つけた。開けてみるとなにやら手書きの地図が入っていた。
「宝の地図かもよ」姉が面白そうに微笑む。「お父さんの隠し財産」
「そんな訳ないだろ」ぼくはゴミ袋に放り投げようとして手を止めた。「ま、いいや。一応取っておく」
ぼくは自分の持ち帰り用の段ボールに地図を投げ入れた。それ以降、迷ったものはほとんどを廃棄処分にした。遺品整理はそうでもしないと終わらないのだ。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
「ねえ理。これなあに?」
同棲中の佳穂が紙をひらひらさせている。例の地図だった。ぼくはピアノの指を止めて顔を上げた。地図の存在をすっかり忘れていたのだ。
「なんかおやじの遺品に入っていたやつ。紙ぺらだから一応もらってきた。荷物にならんし」
「ふうん。これどこの地図かしら」
「なんだろう。おやじの実家の方じゃないかな」
「静岡ってこと?」
「奥静。ほとんど山梨に近い山奥」
「行ってみたい。温泉ある?」
「あるよ。梅ヶ島温泉とか」
「行こうよ。偶然、次のランウェイは静岡なんだよ」
彼女は一応ファッションモデルなのだ。本人は売れっ子と言い張っている。そして将来はファッションデザイナーになるのが夢なのだそうだ。
「しょうがないなあ」ぼくはまた鍵盤に戻る。「わかったよ」
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
過疎化の進んだ地区らしく、親父の実家はすでにない。古い地図で言うと、小学校の跡地の近くの神社の境内の裏が宝のありかのようだった。
ぼくと佳穂は指を傷めないよう分厚い軍手をして、派手な色のツナギにごついブーツを履いていた。スコップとツルハシを使い、土を掘り起こす。1時間ばかり掘り返したが何も出てこない。
「なんでこんなことをしなければならないんだ」と後悔しはじめたときだった。
「あったあ!」と佳穂が歓喜の雄叫びを上げたのだ。
ぼくは彼女が掘り当てた場所を覗いた。そこに米俵ぐらいの大きさの金属の箱らしきものが頭を出していた。ぼくと佳穂は箱を壊さないよう、30分かけてようやく金属の箱を掘り出すことに成功した。
「やったね」佳穂が汗を拭う。「何が入っているのかしら」
「一度宿に持ち帰ろう」
すでに夕日が落ちて、あたりの森は暗い闇の中に沈もうとしていた。
「うん」
戦利品を車の荷台に積み込むと、ビールと温泉の待つ旅館に向かった。その日はトロリとした温泉に浸かって、うまい酒を飲んで痛快な気分になった。
「佳穂、そろそろ寝ようか」とぼくは灯りを消して言った。
暗闇の中で佳穂が耳元でささやいた。
「理。できたかもしれない」
「できたってなにが」
「赤ちゃん」
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
そんなこんなで、宝箱の話しはすっかり後回しになってしまった。
東京へ戻る車の中だ。
「女の子がいいな」と佳穂がうれしそうに言った。
「籍を入れよう」
ぼくはハンドルを握り、しっかり前を見て言った。
「女の子だったら理佳なんてどうかしら」
「名前?」
「そう。オサムの字とカホの佳を取って“理佳”」
「ふうん。いいんじゃない。男だったら?」
「考えてない」
ぼくたちはマンションに戻り、しばらくしてからブリキの宝箱を開けてみた。
「なんだこれ」
そこにはおもちゃの家が入っていた。
「わあ懐かしい。これリカちゃんハウスじゃない?」
「意外だな。あのおやじにこんな少女趣味があったとは。おふくろと結婚する前に隠蔽したんだな」
リカちゃんハウスの中にはリカちゃん人形のほかに着替えの洋服や靴などがぎっしりと詰まっていた。着せ替えをしながらニヤつく強面のおやじが目に浮かんで正直寒気がする。
「ちょっと待って」佳穂が口に手を当てた。「たしかリカちゃん人形のパパって音楽家じゃなかった?」
「そういえば、ママはデザイナーだったよな。まさかおやじのやつ、こうなることを・・・・・・」

9月20日 空の日
「ここからだと、宇宙が間近にみられますね」
と丸い金魚鉢のようなものを頭からすっぽりかぶった男が言った。
「まるで月に手が届くようだ」
人類が日に日に空が低くなっていることに気がついたときにはもう手遅れだった。放蕩ともいえる堕落した世界は、空気の密度を極端に奪って行った。そのせいでオゾン層は収縮し、今や富士山の頂上に登るには宇宙服の着用が義務づけられていたのだ。空が低い分、紫外線の放射はより強くなり皮膚がんの発生が深刻な状況となった。科学がまだそこまで進歩していない人類にとって、地球外の星に逃げるという選択はなかった。
「そうだ。地下に逃げよう」
そう考えたのは地質学者の大嶽正だった。彼は「地球の内部には空洞があり、もうひと回り小さな地球が隠されている」という学説を説いていたのだ。
そしてその入り口を中東で発見したのである。
大嶽は探検隊を連れて地下の奥深くへ入って行った。そこには驚くべき世界が広がっていたのだ。
「だれだ!」
誰もいないはずの地中から声がかかった。みな驚いて声の方を見る。100人はいるだろうか。大群の影がこちらを見つめていた。
「そうか・・・・・・やはり地下帝国は存在したのだな」
大嶽は懐中電灯をその群衆に向けた。
「何しに来た?」
リーダー格らしい体格のいい人影が動いた。
「その光を消してくれないか。まぶしくてかなわん。それから火は絶対に使うなよ」
大嶽は懐中電灯の灯りを消した。薄暗い洞窟の中だが、仄かに光源があるようだ。
「わたしたちは地上世界からやって来た者だ。君たちに危害を加えるつもりはない」
「目的はなんだ」
リーダー格の男が口を開いた。
「地上はもはや住む環境ではなくなってしまった。人類を地下に潜らせてもらいたい」
男は笑った。「地下にそんなスペースがあるものか」
「調査は済んでいる」
大嶽は男に近寄って行った。
「われわれは長年地下に埋蔵されていた資源をくみ上げて来た。そのせいで、地下資源は底を尽き広大な空間ができているはずだ。違うか」
「そうか。そこまで分かっているのだな。たしかにお前たちのおかげで地下に眠っていた資源は枯渇してしまった」
男は虎のように光る眼で大嶽を見た。
「それで。お前たちを受け入れるおれたちに、いったいどんなメリットがあるのか教えてもらおうか」
「われわれとて、武力で対決するつもりなど最初からない」
大嶽は微笑む。「地上で流行った娯楽施設を地下世界に持ち込む用意がある」
「ディズニーランドやユニバーサルスタジオのことか!」
地底人たちからどよめきが起きる。
「その通りだ。政府は先住民たちには永久無料パスを発行する予定だ」
「その話、ほんとうなのか」
男が後ろの地底人たちを顧みる。仲間はみな一様に大きく頷いた。
「よしわかった。その話、受けようではないか」
男と大嶽はにじり寄った。大嶽が右手を差し出した。男も握手を交わそうと、右の大きな掌を差し出した。大嶽の手と男の手が重なったとき、閃光が瞬いた。静電気が起きたのである。
次の瞬間、たっぷり石油が染みこんだ地下空間は大音響とともに爆発した。
地球はクレーターだらけの一回り小さな惑星と化した。それはどこからどう見ても、ふたつめの月にしか見えなかった。

9月21日 スケッチブックの日
「素晴らしいですな」
美術評論家のオスカーが言った。
「まったくです。この独創的な着想には脱帽です」画商のパトリックが驚きの目を向けた。「この線を観てください」
「うむ。やはりヴァルターは天才だな」
そこは長らく閉ざされた地下室であった。
第二次世界大戦中、ベルンハルト・ヴァルターはどこかの地下室に隠れて絵画を書き続けていたという。戦後の混沌とした時代を経て、現在に至るまでその場所は謎に包まれていたのだ。彼の抽象画の傑作の多くは、この時期に描かれたものと言われている。
東ドイツでは大規模な区画整理が行われていた。土木業者が取り壊される家の床のカーペットの下に、隠された扉を発見したのは偶然であった。埃にまみれたテーブルの上に、ヴァルターのスケッチブックが無造作に取り残されていたのである。
「これは今世紀最大の発見ですな。ドイツ最高峰の画家のスケッチブックが見つかるなんて・・・・・・」とパトリックが言った。
「まったくだ」
オスカーは手袋の指を震わせながら、スケッチブックのページを一枚一枚丁寧にめくった。「パトリック君。これはどのぐらいの価値があるものだろうか」
「そうですね・・・・・・1億ユーロは下らないと思います」
「ううむ。アルテ・マイスター絵画館がすでに噂を聞きつけて展示したいと言っているそうなんだ」
「間違いなくルーブル美術館からも打診が来るでしょうね」
「ちょっとすみません」と、そこへ腰の曲がった老婆がドアから顔をのぞかせていた。
「どちら様で」
オスカーが驚いて尋ねる。
「ああ、これだ」
老婆はスケッチブックを指さして部屋に入って来た。
「すまないねえ、それを返しておくれ。わたしの孫のケビンのスケッチブックだよ。もうイタズラ坊主でねえ。こんなところに置きっぱなしにして・・・・・・」
「あなたの孫?いまいくつだね」
「まだ幼稚園児だけど、それがどうしたね?」

9月22日 フィットネスの日
「わたしね、今度フィットネスクラブに入会したんだ」と、それだけで満足してしまうひとがいるという。
これで安心。やせるための努力はした・・・・・・というわけだ。でもわたしがこのフィットネスクラブに入会した事情は少し違う。わたしはある任務を遂行するために入会したのだ。
わたしのいつも使うロッカーは突き当りの左から3番目だ。手早くトレーニング・ウエアに着替えを済ませた。このロッカーの鏡からは、ちょうど出入口を確認することができる。いつ何どき、敵が現れても行動に移すことが可能なのである。
わたしがジムの中に入ると、そこにはすでに5人の会員がトレーニングに勤しんでいるのが見えた。
「神崎さん」ふいに声をかけて来たのはインストラクターの水野だ。「これを」
水野は人知れず、メモをわたしの掌に握らせた。わたしはチラッと水野と目を合わせ、無言で頷いた。メモには、“ランニングマシーンの男”と書いてあった。
わたしはランニングマシーンに向かった。隣のマシーンは頭の禿げ上がった中年男がすでに使用していた。わたしはスローペースから走り始めて、徐々に速度を上げて行った。隣の男はしばらく自分のペースを守っていたのだが、わたしのペースアップが気になるのか、チラチラとわたしに視線を送ってくるのが分かった。わたしは最終的にランニングマシーンの速度を限界まで上げ、全速力で走っていた。わたしは隣の男を抜き去ったのだ。
水野に渡された次のメモはベンチプレスだった。重り50kgを上げ、80kgをクリアし、100kg、120kg、130kg・・・・・・最後には150kgを持ち上げて終了した。
わたしの強靭な肉体は悲鳴を上げ出したが、まだこれで終わりにするわけにはいかなかった。強靭な下半身を作るためスクワットをやり、大胸筋を鍛えるためケーブルクロスオーバーを行い、背筋を強化するためにラットプルダウンをやった。
わたしの身体は熱を帯び、仕上がりかけていた。水野がわたしに頷いた。
わたしはクールダウンするため、プールで泳ぐことにした。クロールで100mをゆっくり泳ぐのだ。その際にも、どこかに自分を狙っている者がいないか、常に神経を研ぎ澄ませることを忘れない。
とりあえず、今日はこのへんでトレーニングは終了することにした。ロッカーで着替えを済ませ、鍵をフロントに返した。
「神崎さま」フロントマンがわたしに微笑みかけて来た。「“スパイ養成コース”はお気に召しましたでしょうか」
「ああ。自分が特殊な人間になったような気がしてトレーニングが進むよ。前回の“プロ野球二刀流養成コース”もまあまあ良かったけどね」
「それは幸いです。当クラブでは会員さまのトレーニングが継続できますよう、さまざまなコースをご用意してございます。どうでしょう。新しく“あこがれの美人コーチと恋愛コース”も開設されましたが」
「え、それいいね」わたしの頭にあるコーチの顔が浮かんだ。「白鳥冬美先生も指名できたりするのかな?」
「ほかならぬ神崎さまのご依頼でしたら」
「よし」わたしは思わずガッツポーズを作ってしまった。
「コース変更だ。それにしてもここの会員継続率が高い理由がよくわかるよ」
「恐れ入ります」フロントが頭を下げる。
わたしは次回から諜報員ではなく、どこか影のあるロマンスグレーを演じることになったのだった。
よし頑張ろう!

9月23日 テニスの日
「すみませ~ん」
テニス部のコートから、ボールが転がってきた。また誰かがボールを打ち損じたのだろう。ぼくはボールを拾って投げ返してあげた。
「ありがとうございます」
可愛いテニス女子がペコリと頭を下げる。
「おい」
うしろから肩を掴まれる。同級生の青柳だった。
「さっきも、お前のところにテニスボールが飛んで来なかったか?」
「ああ、そう言えば」
「あれはさ、あの女子がおまえの気を引くためにわざとやってるんじゃないかな」
「え。そんなこと」ぼくは思わず浮足立ってしまった。「あったらいいな」
「そんなわけねえだろ」
青柳はグローブをぼくの頭に叩きつけた。
「おいお前ら。練習中になに喋ってんだ。グランド3周回ってこい!」とコーチが怒鳴った。
野球部のぼくと青柳はだだっ広いグランドをへいこら走るはめになった。走っている最中、テニス部のコートを横目で見る。あの女の娘がサーブの練習をしているところだった。何度か地面にトスを入れて、高々とボールを上げる・・・・・・と、空振りをしてボールは地面に落ちた。
「あちゃあ。あんまりテニスうまそうじゃないな彼女」
青柳が走りながら言う。
ぼくは考えながら走っていた。彼女いいな、素敵だな。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
翌日、今度ボールが飛んできたら意を決して話かけることにした。
案の定、彼女の打った黄色いボールが放物線を描いてぼくの足元に飛んできたのだった。ぼくはボールを拾って投げ返してあげる。
「ありがとうございます」
「あの・・・・・・きみ、な、名前なんて言うの」
彼女は一瞬氷のように固まったが「榊原ヒロミです」と言ってペコリと頭を下げた。
「いつもありがとうございます。野球がんばってください」
そう言うと、身を翻してコートに戻って行った。
「おいおい。練習中にナンパしてんじゃねえよ」青柳が寄って来た。
「彼女・・・・・・かわいいな」
「おいそこ!なにやってる」
そこに監督の声が飛んできた。「走り込み3周の後、腕立て100回!」
「ひえ~」
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
それから数日して、ぼくとヒロミは少しずつ言葉を交わすようになって行った。
彼女は1年生、ぼくは2年生だった。その日は部活の帰り道で、ヒロミとばったり出会ったときにはお互いびっくりした。制服姿のヒロミを見るのはまた新鮮だ。
「雄馬くん。いま帰り?」
「そう」
「野球部って練習きつくない?」
「もう死にそうだよ。でもレギュラーじゃないから・・・・・・運動神経もそんなによくないし」
「あたしも」
「あのさ。もしよかったら、今度映画でも観に行かない?スターウォーズの新作やるじゃん」
ぼくは頬が赤くなるのを感じた。でも部活で真っ黒だから彼女にはバレないだろう。
「誘ってくれるんですか」
ヒロミが大きな瞳を輝かせる。
「ちょっときみ」
そのとき、背後から誰かが声をかけてきた。高圧的で威厳のある声だった。振り向くとそこに背の高い男子学生が立っていた。
「榊原部長」
ヒロミの顔になぜか影が差したような気がした。榊原?
「うちの部員になにか用か」
「いえちょっと・・・・・・」
「この女子はうちのかわいい部員なんだ。気安く近づかないでもらいたい」と冷たい口調だった。
「男女の恋愛は別じゃないんですか」
ぼくはなぜか食い下がっていた。
「恋愛?きみがか。まあ、部内恋愛は禁止されているが、きみは部外者だから問題はないんだが」
「じゃあ、つき合わせてください・・・・・・ってなんで部長のあなたの許可が必要になるんですか」
「別に許可とは言わないが、ヒロミにふさわしい人物ならおれも考える。いまヒロミは大事な時期なんだ」榊原はぼくの頭の先からつま先までじっくりながめて言った。「よし、おれとテニスで勝負をしろ。勝ったら交際を認めてやる」
「わかりました。受けて立ちます」
「いい度胸だ。それじゃあ今週の日曜日にコートで会おう」
ぼくはその場を後にした。そして猛烈に後悔していた。自分は生まれてこの方、テニスなんてやったことがなかったからだ。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
「どうするんだよ」と青柳がぼくの部屋でコーラを飲みながら言う。
「どうもこうもないよ。約束しちゃったんだから」
「バカじゃねえの。勝てるわけねえだろうが。あのキャプテンは県大会の優勝者だぞ」
「まじか。終わった。いや待てよ・・・・・・ちょっと電話してくる」
ぼくは階段を下りて行った。
「どこへ」
青柳が訊いて来る。
「ちょっと」
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
日曜日。榊原部長以外に男たち3人がテニスコートで待っていた。審判と副審はテニス部の部員が行うようだ。
「よくおじけづかないで来たな。それじゃ始めよう。きみは初心者だから3ゲームで勝負しよう。どちらか2ゲーム先取し方が勝ちだ」榊原は笑顔で言った。「最初のサーブ権はきみにあげよう。入ればの話だけどな」
ぼくはボールをトントンと地面に突くと、高々と頭上にトスしてラケットを振りかぶった。ボールは榊原のコートの端に矢のように突き刺さった。榊原は驚いて目つきを変えた。
二人のラリーが続き、40–0がジュースになり、1ゲームをぼくが先取した。2ゲーム目は本気をだした榊原が奪い返した。そして3ゲーム目は接戦の末、ぼくがゲームを制したのである。
「驚いたな。きみ本当に野球部か。テニス部に入らないか」
榊原が握手を求めて来た。
「いやですよ。部内恋愛禁止なんでしょう」
「ああ、あれか。実は表向きはそうなっているんだが・・・・・・ヒロミとおれは血が繋がっていない兄妹でね。こっそりつき合ってるってわけだ。ごめん。だからヒロミのことはあきらめてくれ」
「ごめんなさい」ぼくは木陰から顔を出した。「じつはそれぼくの弟なんです。だまして済みません」
ぼくはふたりに近づいた。
「実は双子の弟は隣の県の高校テニス部で、両親が離婚して別れて暮らしています。しかも実力者という噂を聞いていたんで、ぼくは弟に代役を頼んだんです。でも二人の試合を見て感動しちゃいました。ぼくをテニス部に入れてもらえませんか。恋愛抜きで構いません」
この一部始終をもうひとつの熱い視線が見つめていた。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
「キミが弟くんだね」
「あなたは?」
「榊原ヒロミ。わたしをここから連れ出してほしいの」
「それじゃあ・・・・・・」
「そうよ。こうなるように仕向けたのは全部わたし。兄を負かしてわたしをさらってくれるひとを探していたってわけ」
「そうだったのか。じゃあ行こう」
ぼくの弟はヒロミの手を取って消えてしまった。いつかきっと、弟と対決する日が来るのかもしれない。

9月24日 畳の日
「私は自分の一族の歴史について何も知らない。私ほど知らない人間はいない。親戚がいることすら知らなかった。私は民族共同体にのみ属している自分が誰か、どこから来たか、どの一族から生まれたか、それを人々は知ってはいけないのだ!」
立ち上がったその男の両眼に、みるみるうちに真っ赤な憎悪の炎が燃え上がった。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
畳の敷き方には2種類ある。『祝儀敷き』と『不祝儀敷き』がそれである。
不祝儀敷きは畳の角が十字に重なる敷き方である。これはお寺や葬儀のときの敷き方だ。ただし、キリスト教信者にとってはおそらくこの敷き方の方が神を間近に感じるに違いない。
片や祝儀敷きは祝い事に使われる敷き方だ。畳の角は、巧妙にずらされて敷かれている。もちろんただ無造作に敷かれている訳ではない。そこには一定のルールが存在するのだ。
畳の目は長い辺から長い辺に向かって一直線に伸びている。人の移動線にそって畳を配置することが肝要なのだ。たとえば、床の間。客人が飾られた掛け軸を愛でるためににじり寄りやすいよう、目は床の間に向かっているのだ。それは出入口も同じである。それによって畳が擦り切れず、長持ちするよう先人の知恵なのである。
さて、四畳半についてはどうであろう。畳4枚と、半分の畳1枚の敷き方である。半畳の位置は北東の鬼門に配置するのは縁起が悪いとされている。こと茶室においては、半畳は部屋の真ん中に配するのが普通である。
ただし畳を左回りに配置してはならない。左回りは“切腹の間”といわれて忌み嫌われる。武士が切腹をした後の片付けに、真ん中の半畳を替えるだけで済むからである。なので茶室は、半畳の回りに右回りで畳を配置するのである。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
「千利休を切腹に処す」
豊臣秀吉にとって千利休は自身の側近であったと同時に茶道の師匠でもあった。
「それはあまりに・・・・・・」家臣の石田三成が驚いて秀吉を諫めようとした。「上様。利休は武士ではござりません。いわば町人。切腹というのはいかがなものかと」
秀吉が三成を見る。
「三成よ。わしとて本心ではないわ」
「しからば」
三成は秀吉を仰ぎ見た。
「ただの脅しよ。利休が恐れをなして詫びてくれば許してやるつもりだ。最近どうも利休は自分の力を過信しているようなのでな」
「さすが上様。それとなく利休に改心を促して参ります」と言って三成は席を辞した。
秀吉は三成の後ろ姿をぼんやりと見つめていた。
「千利休か・・・・・・。うまく詫びを入れてくれるといいが」
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
「利休殿。ですからひと言、詫びを入れればよろしいではございませんか」
「何も言うことはありません。詫びれば全てを認めたことになります。さ、ご一服どうぞ」
利休は三成の使者に茶をすすめるのだった。
「大徳寺山門の改修で、楼門に利休殿の木像を設置したことですが、あれは多額の寄付のお礼に寺の住職が建立しただけのことでありましょう」
「あの木像に雪駄を履かせていたのが災いしたようですね。門をくぐる上様の頭を踏みつけるつもりかという言いがかりをつけられてしまいました」
「それならば住職を罰せればいいこと。利休殿には関係ないことでしょう」
「茶道の考え方の相違もありました。金の茶室を作るようなお方と、わたしの質素なわび茶道は相反するにもほどがありますからね。どちらにしましても、わたしに詫びるつもりはございませんよ」
身長180センチもある長身の利休が立ちあがった。使者はふと思った。もしや小兵な上様が利休のこの体躯に劣等感を抱かれたのではないのか。
「最後に、内密にわたしの願いを叶えてくださいませんか?」利休は静かに使者に伝えた。「せめて切腹の間ではなく、茶室で最期をむかえさせてもらいたいのです・・・・・・」
1592年4月21日。利休の切腹は、京都の聚楽屋敷内の4畳半で執り行われた。利休の両目に最後に映ったものは、左回りの切腹の間ではなかった。畳が右回りの茶室であった。
それは逆卍の形をしていた。
利休の首は、外された大徳寺の利休像に頭を踏みつけられるような恰好でさらし者にされたという。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
それから298年の時を経て、ドイツにひとりの男の子が生まれた。1889年4月20日のことである。彼は頭脳明晰ではあったが、なぜか生まれながらにして人間を憎んでいた。そして脳裏にはいつもある形が浮かんでいた。そう、それは逆卍型の形をしていた。
ナチスの紋章“ハーケンクロイツ”だったのだ!

9月25日 骨董の日
「今週もやって参りました。『とんでも鑑定団』の時間です!」
にこやかに司会とアシスタントの女性アナウンサーがマイクを持って現れた。
「本日の依頼人の登場です」と司会が後ろを振り返る。
「世田谷区から来場の田辺良純さんです」
拍手と共に壇上から微笑みながら初老の男性が登場した。
「えー今回お持ちいただいたお宝はなんですか」と司会者が田辺さんにマイクを向ける。
「モネの絵画です」
「ほう、モネですか。それでは拝見いたしましょう」
舞台中央のイーゼルにかけられたベールがはぎ取られる。絵画が全貌を現した。そこには淡い色合いの油絵がかけられていた。
「たしかにモネっぽいですね」司会者はなめ回すように絵画を観察する。「これはどこで手に入れられたのですか」
「ああ、近所の骨董市で」
「ほう、骨董市ですか」
「ちょうどその前を通りかかったらですね、その絵がなんだか輝いて見えたのです」
「よくある話です」
「ぼくに買ってくれと言っているような気がしまして」
「この番組ではよく聞く話です。それでおいくらで購入されたのですか」
「会場に家内が来てますので、大きな声で言えないのですが」
田辺さんは子供がおしっこを我慢しているかのようにモジモジしている。
「それではわたしにだけ、こっそりと教えてください」
田辺さんが司会者に耳打ちした。「ひゃ、百万円!あ、今のは心の声です」
「しっかり聞こえてますが」とアシスタントが言うと、会場が大爆笑となった。
「それでは鑑定お願いします」
白い手袋をした鑑定士が、虫眼鏡で絵画を子細に調べはじめた。
「おいくらだと思いますか」
司会者は田辺さんにマイクを向けた。
「買ったときの倍の値段で」
「200万円ですね。それでは鑑定額をどうぞ!」
電光掲示板に数字が入りだした。
「1、10、100、1000、10,000・・・・・・2億」
会場からどよめきが起きる。
「なんと2億円です!」司会者が叫んだ。
田辺さんは「やったー!」と大きく拳を突き上げた。
「それでは鑑定士に訊いてみましょう」
壇上で座ってる鑑定士がマイクを取った。
「完璧な贋作ですね」
「・・・・・・モネの偽物ということですか」と司会者が訊ねる。
「そうです。いまはAIや3Dプリンターの技術が進んでいますからね。贋作が本物のレベルをはるかに超えてしまっているのですよ。だから贋作の方が本物よりも価値が高いのです」
「これはまたやっかいな時代になりましたね」

9月26日 台風襲来の日
「初デートなのに台風襲来かよ」
ぼくは大学時代に憧れていた女性に告白し、やっとの思いで初デートに漕ぎつけることができたのだった。ここまで来るのにどれほどの時間と労力を使っただろう。彼女の就職先はマスコミ関係で、ぼくとはほとんど休みが合わなかったのである。
週間天気予報を毎日確認する。次第に台風が接近してくるのが手に取るように分かる。前後左右になんとかそれてくれるのを神様に祈る毎日だった。それなのに・・・・・・ああ、それなのに、それなのに。
なんとデートの日に台風が直撃するようなのである。
「延期しようか」と沙代里から連絡がきた。
「いや、せっかく沙代里の休みがとれたのだから無駄にしたくない」
「どうするの?」
「会おうよ」
「でも台風きちゃうよ」
「わかってる。どうだろう、こういう時には屋内デートがいいと思うんだ。商業施設で映画を観るとか」
「それもいいけど、電車停まっちゃったらどうするの。それにわたし最近の映画はほとんど試写会で観ちゃってるのよね」
「もし沙代里さえよかったらだけど、ぼくの部屋にこない」
「ええ。初めてのデートが彼氏の部屋って」
「ごめんごめん。へんな意味じゃなくて・・・・・・ほら、録りためたドラマを一気に観るとか、ゲームするとか、一緒に料理作って食べるとかどうかな」
「うん。わかったそれで手を打つ。わたしお料理作ってあげるから、美味しいワインを用意しておいて」
「ようし決まった。ワインの他になにか買ってきて欲しいものある?」
「料理の材料は買って持って行くからいいわよ。じゃあ台風が来る前に、きみのマンションに行くわね」
「了解。楽しみにしているよ。でもマンションじゃなくてオンボロアパートだけどさ」
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
果たして彼女はやって来た。エプロン姿の沙代里にグッときた。ぼくは思わず抱きしめたい衝動をおさえるのがやっとだった。台風はどうやらわが家の上空を通過するらしい。安普請のアパートは風に吹かれてミシミシと音を立てて揺れた。
彼女はきのこと鶏肉のパスタとクリームシチューを作り、バケットを添えた。ぼくは簡単なサラダに自分で作ったドレッシングをかけた。
ちょうど停電になったので、ロウソクに灯をともす。
「乾杯」
コートディローヌの赤ワインを飲んだ。テレビでは台風情報を流していた。案の定、都内の交通機関は完全に麻痺していた。
「どうしよう。これじゃ帰れない」
彼女が不安そうにパスタを口に運んだ。
「明日の朝、始発で帰れば。送っていくよ」
「どっしようかなー」
彼女の目が笑っている。
ぼくはテレビを消して彼女に口づけをした。彼女もそれに応えてくれた。ぼくたちはそのまま重なり合って夜を過ごした。
外は相変わらず風が唸り声をあげ、アパートが軋む音を立てていた。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
翌朝になっても、アパートの揺れが収まることはなかった。
「今回の台風は進行が遅いのね」
ぼくの腕の中で沙代里がつぶやいた。
「仕方がない。今日も会社休んじゃえば。もう少しこうしていようよ」
「こんなつもりじゃなかったのにな」
沙代里がクスっと笑う。そう言いながらもちゃんと着替えは持ってくるのだから、とぼくは含み笑いをする。
「でも会社には行かないと」そう言うと、沙代里は布団から這い出した。
歯磨きをしながら窓を開けた彼女が大声を上げる。
「ちょっと、外はカンカン照りよ!」
「え?」ぼくは眩しそうに沙代里と並んで外を見た。
水溜りが目立つ道路に多少ゴミが散乱してはいたが、いつもの通勤通学の風景が広がっていた。
「じゃあどうしてこのアパートだけ揺れているのかしら」
ぼくは彼女の顔をみて照れ笑いした。
「このアパート、きっとうちらと同じようなカップルで満室なんだ」

9月27日 女性ドライバーの日
「行くわよ」
浅子は車のエンジンをかけて、愛犬のルーシーに声をかけた。ルーシーは多少不安はあったが、とりあえず元気な声でワンと鳴いておいた。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
それは暗黒異次元と呼ばれていた。悪の異次元が、巨大なガマガエルのようにぱっくりと口を開けたのだ。われわれの世界は、その黒い異次元世界に今まさに取り込まれようとしていた。
「どうにかならんのか」国防大臣が軍の司令部の無線に向かって怒鳴っていた。「このままだと、われわれの世界が飲み込まれてしまうぞ」
「そうおっしゃられましても」軍の司令官が返答する。「あの異次元世界には、敵意や悪意のある攻撃が一切無効になってしまう魔法がかけられているようなのです」
「それがどうした。ミサイルでも核弾頭でもぶち込んでやればいいだろうが」
「もう何回も発射しました」
「で、どうなったのだ」
「異次元世界に入ったとたん、花束に代わって落ちて行ったのです」
「なんだと」
「ですから、敵意のある攻撃はすべて無効になってしまうのです。戦車も戦闘機も」
「戦車と戦闘機はどうなった」
「ねずみとコマ鳥に変えられてしまって・・・・・・」とうとう司令官は泣き出した。
「手だては無いということか」
「はい。お手上げ状態です」
その時、レーダー官が騒ぎ出した。
「何かが異次元帯に近づいています。どうやら一般人の乗った車のようです」
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
「ルーシー。あたしさあ、方向音痴なんだよね」
「ワン!」
浅子の運転する車はグングンとスピードを上げて、見知らぬ高速道路に入ろうとしていた。
「こんな道路あったっけ。まあいいか、乗っちゃおう。遅刻しちゃうもん」
浅子は気軽にハンドルを切っていた。高速道路には見知らぬ形のスポーツカーや、装甲車のようなごつい車がひっきりなしに走っていた。浅子はその間に入って行ったのだ。
「あたし、高速道路の合流って苦手なんだよね」
そう言いながら、なにも考えずに道路に侵入していた。後ろで急ブレーキをかける音がして、何台かの車輛のぶつかる音が聞こえた。ルームミラーをみると、黒煙があがっている。
「あら、何かあったのかしら?」
「ワン」
ルーシーは冷や汗をかいていた。(浅子さん。あなたのせいですけど・・・・・・)
「ルーシー。あたしって、車庫入れと車線変更も苦手なのよね」
そう言うと、浅子はなにも考えずに車線を変更した。背後でまたタイヤの軋む音が聞こえたと思うと、火柱が立ち昇った。
「車の教習所であなたは空間認識能力が欠如しているって言われたのよね」
「ワン(ひどいもんだ)」
ルーシーが吠えた。
「へんな道路ねえ」
その調子で浅子が異次元道路を駆け抜けると、次々と火柱が上がり、異次元世界はパニックに陥っていた。暗黒異次世界は浅子の車にこれ以上ない恐怖を感じ、トカゲの尻尾のように浅子の走っている空間だけを切り取ると、その場から黒板の絵でも搔き消すように消えて行った。
「やった」浅子はいつもの道路に戻っていた。「ルーシー。これで遅刻しないで済みそうよ」
浅子の車が会社の駐車場に猛烈なスピードで近づいた。だからほんのちょっとだけブレーキを踏むタイミングがずれたようだ。浅子の車は路肩に乗り上げ、片輪走行のまま社長のレクサスの天井に乗り上げて、横倒しの状態で停車した。ぐらぐら揺れる車の上で浅子は途方にくれそうになった。
「ま、いいか」
「ワン(よくないよ)」
浅子はとりあえず携帯電話をかけた。浅子がありとあらゆる人脈に電話をしたものだから、元彼を含めた知人友人がぞくぞくと集まってきた。
「どうしたらこうなる?」元彼と現在の彼とが話し合っている。
そこへ国防大臣がパトカーに先導されてやって来て、クレーン車を使って浅子を救い出してくれた。
「どうもありがとう」とりあえずいつもの笑顔で浅子が礼を言った。
国防大臣が笑顔で浅子と握手を交わした。
「きみはもしかしたら天才なのかもしれない。でも・・・・・・悪いことは言わない。車の運転は控えた方がいい。これは君のためじゃない。世のため人のためだ」
ルーシーが「ワン」と吠えた。

9月28日 プライバシーデー
“紀美加さん。今日はもうお帰りですか”
「え!」
紀美加はSNSの画面を見て、おもわず部屋の中を見回した。そして灯りを消して、カーテンの隙間からそっと表道路を確認した。誰かに見られている。そう感じたのはここ二週間前ぐらいからだった。
“今日の赤いスカートはとてもお似合いでしたね”
SNSのメッセージは続いていた。
誰なの。身に覚えがまったくない訳ではなかった。会社の同僚である。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
その男の名前は谷淵正人という。背が低くて陰気な目をしていた。髪の毛はいつもボサボサ。服装にもこだわりをもっていないようで、いつも同じ柄のネクタイを締めていた。だから女子社員は彼を誰も相手にしていなかったのだ。
ところが秋の社員旅行で、たまたまバスの席が紀美加と隣り合わせになってしまったのだった。彼と何も話すことがない紀美加は、当然のことながら谷淵を無視するように座席の後ろの女子と世間話をはじめた。その時の会話の中で、自分の個人情報に関係することを口走ってしまった可能性があった。
「田中さん。これ食べませんか」
振り返ると、谷淵が冷凍ミカンを紀美加に差し出していた。
「け、結構です。ありがとうございます」
谷淵がふっと笑って手を引っ込めた。その時なぜか寒気がした。
バスが日光東照宮に到着すると、ホテルに向かうまでの時間が自由行動になった。紀美加は数人の仲良しグループと一緒に観光やら、名物のデザートなどを楽しんで過ごした。
そのとき、ふと視線を感じた。遠くで谷淵がこちらを伺っていたような気がしたのである。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
「警察に相談した方がいいかしら」
紀美加は大学サークルで一緒だった、白滝に相談に乗ってもらうことにした。白滝は弁護士事務所で働いている。
「まだはっきり彼と決まったわけじゃないんだろう。ただのイタズラかもしれないじゃないか」と白滝は微笑んでみせた。
「でも怖いのよ。いつでも監視されてるような気がして」
「その谷淵って男がこの部屋の住所を知っている可能性はあるのかい」
「わからない。社内の住所録は個人情報だから調べることはできないはずなんだけど・・・・・・尾行とかされていたら」
紀美加が肩をすぼめた。
「ちょっと待てよ。紀美加さん、SNSとかやってたよね」
「ええ。時々写真のせてたりするけど」
「ちょっとその画像みせてくれる?」
紀美加が携帯電話にSNSの画面を出して白滝に渡す。
「これ、ひょっとして位置情報が画像に残ったままじゃないのか」
「どういうこと」
「つまり、この日光の写真には宇都宮の位置情報が残っている。たぶんこのマンションの近くの画像がSNSに残っていたとしたら、紀美加さんの住所を割り出すことは簡単だ」
「ええ、まじで。位置情報をオフにしておいたらだいじょうぶなのかしら?」
「そうとも言えない。しつこい奴なら写真に写った風景だけで、それがどこなのかを探り当てることができる。それが彼らの楽しみともいえるのさ」
「怖い世の中ね」
「あ、それからこの日光の写真だけど、友達の顔とか映っちゃってるよね。本人の承諾を得ておかないと個人情報の漏洩で訴えられることがあるから注意が必要だよ」
「わかったわ。すぐ削除しておく」
「それがいい。顔写真、住所、電話番号、前科、病歴、結婚歴、身体的特徴なんかもプライバシーの侵害になるからね」
「なんかSNSって気軽に書いちゃいそうで危ないんだね」
「うん。とにかくその谷淵ってのは一応マークしておかないといけないかもな。なるべく接点を持たないこと。何かあったら連絡して、すぐに駆けつけるからさ」
「ありがとう。今は白滝くんだけが頼りなの」
「まかせとけって」
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
数日後、会社の廊下で谷淵が声をかけて来た。
「あの・・・・・・」
紀美加は聞こえなかったふりをして、給湯室に逃げ込み息をひそめた。心臓の鼓動が速くなる。谷淵の足音が近づいて来る。
「谷淵君」と専務の声が聞こえた。「ちょっといいかね」
「はい」という谷淵の返事が聞こえ、足音が遠のいていった。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
“今日の下着の色はベージュなんだ。あなたは白とかピンクの方が似合うのに”
とうとうストーカーが紀美加の部屋の中にまで・・・・・・。
紀美加は震える指でで白滝に電話を入れた。
「すぐに来て!お願い、部屋にストーカーがいたかもしれないの」
「なんだって!警察には?」
「まだ連絡してない」
「わかった。とにかくぼくがいくまで警察には連絡しないで」
「わかった」
電話が切れた。紀美加は台所から果物ナイフをそっと抜きだして構え、ビデオのスイッチを入れた。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
「紀美加さん。だいじょうぶ!」白滝がドアを開けて足早にリビングに入って来た。
そこには見知らぬ男性がソファーに座っていた。
「お前は誰だ」白滝が目をむいた。「紀美加さんはどこだ」
「ここよ」奥から紀美加が顔を出した。「その人が谷淵さん」
「なに、そいつが」
「そうじゃないの」紀美加が白滝を制した。「谷淵さんが部屋に隠しカメラが仕掛けられているかもしれないから気をつけろってメモを渡してくれたのよ」
「なにそれ・・・・・・」
「そうなの。そうしたら、そこに映っていた姿が白滝くん、あなただったのよ。いま警察がここに向かっているわ」

9月29日 招き猫の日
ぼくは招き猫の寛太。浅草で骨董屋を営んでいる。
夏も終わりの頃、ぼくの店に背の高い外国人が訪れた。
「こんにちは。きみはここのご主人ですか?」と外国の紳士が青い眼をぼくに向けた。
「はい招き猫の寛太といいます」
「きみがあの有名な“招き猫”ですか」
「おそれいります」
「わたし、ジョンソンと言います。日本の招き猫に興味があって、はるばるアメリカからやって来ました」
「はあ、それはご苦労なこって」
「それでひとつお伺いしてよろしいでしょうか?」
「どうぞなんなりと」
「招き猫の生い立ちを教えてくれませんか。仕事仲間に報告をあげたいのです」
「はあ、それはいいですが、いくつか説がありますよ」
「なるべく簡潔にお願いできますか」
ジョンソンは背広の内ポケットからメモとペンを取り出した。
「それでは3つだけ」ぼくは一点を見つめながら話はじめた。
「むかし浅草のある老婆が、貧乏のため家と愛猫を手放すことになってしまいました。すると悲しむ老婆の夢の中にその猫が現れたのです」
「ほう。夢の中に」
「そうです。猫は自分の人形を作れば幸福がやってくると告げました。その通りに老婆がすると、不思議とお金が入って元の家に戻ってこれたというから摩訶不思議です。この噂は評判になって招き猫の置物が大量に出回ったそうです」
「なるほど。その猫は幸運を持ってきてくれたのですね。ラッキー・キャットと呼びたいです」
「つぎは江戸時代に井伊直孝という大名の話です」
「大名とは王様ですか?」
「州知事みたいなもんですね。その直孝が鷹狩をしている途中に悪天候に見舞われてしまいました。それで大木の下で雨宿りをしていると、そこへ白い猫が現れました。猫は直孝に手招きをするのでついて行ってみるとそこは荒れた寺でした。するとそこへ突然雷の音が、ガラガラドッシャーン!」
「カミナリが落ちたのですね」
「そうです。それもさきほど直孝が雨宿りしていた大木の根本に落ちたのです」
「ほう、それで」
「直孝はその白い猫のおかげで命拾いをしたのです。そのお寺は豪徳寺(東京都世田谷区)と言って、今でも猫の人形をたくさん祀っています」
「その猫は大名さんに、おいでおいでをしたのですね。ウェルカム・キャットと呼びたいです」
「最後は、吉原の遊郭に薄雲太夫という花魁の話です」
「花魁とはなんでしょうか?」
「うんと・・・・・・今で言うとアイドル歌手みたいなもんです」
「人気芸能人ですね。マリリンモンロー的な」
「まあ、そんな感じですね。彼女は三毛猫を飼っていて、たいそう可愛がっていたそうなんです。そんなある日のこと、太夫がトイレに行こうとしたところ、この三毛猫が狂ったように邪魔をするではありませんか」
「それは花魁さんも困ったでしょうね。漏れちゃったりしたらたいへんです」
「そうです。怒った太夫は持っていた脇差で猫を切りつけてしまったそうです」
「ほう!」
「すると三毛猫の首はトイレにまで飛んで行き、トイレの中に潜んでいた大蛇をかみ殺したそうなんです」
「猫が自分の命を張って薄雲太夫を助けたのですか」
「その通りです。その猫は薄雲太夫によって西方寺(東京都豊島区)で埋葬されました」
「それは花魁さんもショックだったでしょうね」
「毎日のように嘆き悲しむ花魁を見かねて、馴染みの唐物商が香木で作った猫の像をプレゼントしたのだそうです。それが流行ものとして売られるようになったということです」
「えらい猫もいたものですね。スーパーキャットと呼びたいです。・・・・・・ところで、招き猫には最近さまざまな色が着いているようですが」
「そうです。最初は白黒しかなかったのですが、いまでは8色もあるんです」
「色によって、ご利益が違うのですか?」
「風水が流行ったせいです」
ぼくはカウンターから飛び降りて、カラフルな仲間のところに歩いて行った。
「白は開運・商売繁盛、黒は魔除け、黄色は金運アップ、ピンクは恋愛成就、赤は無病息災、青は学力向上、緑は交通安全、紫は健康長寿に効果があると言われています」
「それは迷いますね。ところで右手と左手を上げている猫がいるのはなぜですか?」
「右手はお金、左手は人を招くといいます。そして両手を上げている猫はその両方にご利益があると言われています」
「よし、決めました。その白くて両手を上げている招き猫を大量にアメリカに輸入したいのですが」
「そうですか。とうとうぼくらも海外進出ですね。ところでジョンソンさんはどんなお仕事をなさっておられるのです?」
「銀行マンです」
「銀行?それなら金運アップで黄色の方がよくないですか」
「いえいえ、両手を上げているのがいいのです。なにしろアメリカは銃社会ですから。強盗が多くてね」
「あの・・・・・・ぼくたち身代わり地蔵じゃないんですけど!」

9月30日 宅配ピザの日
「イヤ。おじさんともっと一緒に遊びたいよ」とミホが涙をこぼした。
母親の美也子は困ったような顔をした。
「急な話でごめん」
カルロスは短髪に口髭をはやした筋肉質の男だった。「大人の事情ってやつなんだ」
「いやだもん。カルロスずっと一緒にいてくれるって言ったじゃない」
ミホはどうしても納得できないのだった。
「ごめんなさい」美也子は目を伏せた。「この娘は小さいときに父親を亡くしたものだから」
カルロスはミホの身体を抱き上げた。
「すぐに戻ってくるから」
「すぐっていつよ」ミホは唇を尖らせて言った。
「1年ぐらいかな」
「ママのこともう愛してないの?」
ミホはママの顔を振り返った。ママは肩をすぼめる。
「そんなことあるもんか。おじさんな、ちょっとうっかりしちゃったんだよ」
カルロスはミホの目を見ながらかみ砕くように言った。
「さっき聞いたよ。そのお話し」
そのとき玄関のチャイムが鳴った。
「おまたせしました」
カルロスと美也子が目を合わせた。
「はあい」と美也子が玄関に行くと、平たい箱を持って戻って来た。
「なんだいそれは」カルロスが訊く。
「ピザよ」ミホがカルロスの腕の中で答える。「だって、ピザが切れちゃったんでしょ。だからお国に帰らなくっちゃいけないんでしょ」
カルロスが笑った。
「それはピザじゃないよ。就労ビザだよ。おじさんビザの更新をうっかり2ケ月もわすれてしまったのさ。だから国外退去・・・・・・」
「もういいわ」美也子が寂しそうに笑う。「お別れにピザでも食べましょう」
「そうだよカルロス。カルロスのために丸刈りいたにしたんだよ」
「それを言うならマルゲリータだろ」
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
空港に美也子とミホの姿があった。
「見送りはいいって言ったのに・・・・・・」
カルロスが寂しそうに笑ってミホを抱きかかえた。
「ちがうよカルロス」とミホがカルロスを見上げた。
「え?」
「ママがビザを取ったんだよ。だからこれから一緒にイタリアに行くんだって」
美也子とミホがカルロスの両頬にキスをした。

あとがき
最後までご覧いただきましてありがとうございます。
この物語はフィクションです。
登場人物、団体などはすべて架空のものです。
まれに、似通った名称がございましても関係性はございません。
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