目次をクリックすると、その日のストーリーに飛ぶことができます。
- 3月1日 デコポンの日
- 3月2日 ミニチュアの日
- 3月3日 雛祭り
- 3月4日 バウムクーヘンの日
- 3月5日 サンゴの日
- 3月6日 弟の日
- 3月7日 花粉症の日
- 3月8日 ビールサーバーの日
- 3月9日 感謝の日
- 3月10日 サボテンの日
- 3月11日 東日本大震災
- 3月12日 スイーツの日
- 3月13日 サンドイッチの日
- 3月14日 ホワイトデー
- 3月15日 靴の日
- 3月16日 ミドルの日
- 3月17日 漫画週刊誌の日
- 3月18日 点字ブロックの日
- 3月19日 ミュージックの日
- 3月20日 LPレコードの日
- 3月21日 ランドセルの日
- 3月22日 世界水の日
- 3月23日 不眠の日
- 3月24日 マネキンの日
- 3月25日 電気記念日
- 3月26日 ベートーベン命日
- 3月27日 さくらの日
- 3月28日 シルクロードの日
- 3月29日 作業服の日
- 3月30日 マフィアの日
- 3月31日 オーケストラの日
- あとがき
- 関連
3月1日 デコポンの日
「先生。やっぱり名前がいけないんじゃないですかね」
「ん?なに言ってんのさ。あたしは庶民的な名前にしたかっただけよ」
そう言って、不知火知子はデコポンを食べ始めた。知子の毎朝の日課である。
「だからって、『デコポン探偵事務所』じゃ依頼人も今一つ信頼できないっていうか。素直に『不知火探偵事務所』にしとけばよかったと思いますけどね」
「う~ん。やっぱりデコポンはおいしいわ。甘くて酸味が少なくて・・・・・・後味がすっきり。片桐、でもね、不知火探偵事務所の所長が、こんなに若くて美人だったらお客さん引くし」
「それ、自分で言いますか」
意外と知られていないが、不知火はデコポンの品種名でもあるのだ。
まだ若いのに額の禿げ上がった片桐が、コーヒーを淹れに事務所の奥のキッチンに立つ。その時事務所の扉が開いた。品の良い中年女性が顔をのぞかせる。
「いらっしゃいませ」知子はデコポンのような爽やかな笑顔を作った。
「あの、こちら探偵事務所さんでいらっしゃいますでしょうか」
“デコポン探偵事務所”とはちょっと言いにくいらしい。
「はい、どうぞこちらへ」知子が満面の笑顔を婦人に向ける。「片桐、紅茶をお出しして」
「へぇい」奥から返事が聞こえた。
事務所の片隅には、パーティションで仕切られた応接セットがある。着衣からすると、相当お金持ちのご婦人と見受けられる。こういう貴婦人には、コーヒーよりも上等な紅茶をお出しすることにしているのだ。
「よくいらっしゃいました」知子は名刺を差し出す。「不知火知子と申します」
受け取った婦人は、うやうやしくそれを一読してテーブルの上に丁寧に置いた。
「東郷佐知子と申します。この“デコポン”という名前に惹かれまして、思わず入って来てしまいましたの」
そら見たことか、と知子は紅茶を運んできた片桐を睨みつける。
「おかしな名前でしょう」片桐が微笑ながら紅茶を置く。
「いいえ。わたくし熊本の出身でして、とても懐かしい想いがしたんですのよ」
「そうですか。実はわたしの実家も九州なんです」と、知子が神妙な顔をして言う。
よく言うよ。先生、依頼人ごとに出身地が変わるんだからまったく。苦笑いしながら、片桐も席に着く。
婦人の依頼内容は以下のようなことであった。
東郷家は代々財閥の家系である。現在は大学生のひとり息子と二人住まいだ。夫は1年前から海外に長期出張中とのことだ。依頼の内容としては、最近息子の洋一が、夜な夜な外出して朝方まで戻らないことがあるのだという。
そして時には怪我をして帰宅することもあるというのだから尋常ではない。本人にそのことを尋ねても、「別に」と言うだけで、ちゃんとした返答がかえって来ないという。二十歳を過ぎた息子のことだから、親としてこれ以上口出しすべきか迷うところである。
しかし、今まで素直に育ってきたのに、ここにきてなにか凶悪犯罪などに加担するようなことがあったのでは、東郷家のご先祖に顔向けができない。事の真相の解明と、息子が夜間に出歩くのをやめさせて欲しいというのである。
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「どうせ金持ちのドラ息子でしょ。悪さしてるに決まってますよ」
知子と片桐は車で待ち伏せをしている。息子の洋一には、婦人にお願いしてGPSのビーコンを秘密裏に付けてもらっていた。動きがあれば尾行する予定である。
「どうだろうね」デコポンを食べながら知子は答える。「もし悪ガキじゃなかったら、片桐、あんたお仕置きね」
「そりゃないでしょ。それにしても夜もデコポンですか。ぼくはどうせならポンカンの方が好きですけどね」
「デコポンはポンカンと清美をかけ合わせたフルーツだよ」
「え、そうだったんですか。どうしてポンカンて言うんだろ」
「インドのPoona(プーナ)と柑橘のカンを足した名前らしいよ」
「プーナカンが訛ってポンカンになったんですか。先生、博識ですね」
「まあね」
その時、洋一のGPS信号が突然動きだした。
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「それで、調査の結果なのですが・・・・・・結論から申し上げますと、息子さんは悪い遊びをしているわけでも、犯罪行為に手を染めているわけでもございませんでした」
デコポン探偵事務所に東郷佐知子が報告を受けるためにやって来ていた。
「それを聞いてほっとしました。で、息子は何をしていたのかしら」
「友達の工場で、交通事故で片足を失ったワンちゃんの義足を作っていたのです」
「あら、そんなこと。どうして夜中にする必要があるのかしら」
「昼間は工場が稼働しているからだそうです。どうしてもワンちゃんの誕生日に間に合わせたかったらしいのです。夜出かけるのを母親に止められると思い話せなかったと言っていました」
「それを訊いて安心しました。あの子は本当に優しい子なんですね」
「旦那さんも来週には海外から帰国されるそうですね。その頃には義足も完成すると言っていました」
「そうですか。本当にありがとうございました」
東郷夫人は適正な料金を支払って帰って行った。
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「あれ、おかしくないですか。洋一の前に誰かいますよ」
「尾行する相手が、誰かを尾行してるわね」
「その先の人物・・・・・・あれは」
「東郷佐知子」
東郷佐知子は夢遊病者であった。そして、本人が知らない間に窃盗を繰り返していたのである。佐知子が家に帰った後、母親が盗んだものを洋一がこっそり元の場所に返しに行っていたのである。いつもは父親の役目であったが、海外出張の間だけ洋一が任されていたそうである。
「片桐くん。こっち向いて」
「は?」
不知火知子の中指が、片桐の広いおでこをパチンと弾く。「お仕置きよ」
「痛!ひどいなあ。これじゃデコポンじゃなくて、デコピン探偵事務所じゃないですか」
3月2日 ミニチュアの日
ミニチュア・ダックスフンド、ミニチュア・プードル、ミニチュア・シュナウザーがあるのだから、ミニチュア・アフリカ象があってもいいじゃないか。ぼくはそう考えて、長年の歳月を経て、ようやく“ミニチュアイオン発生装置”の開発に成功したのだ。
この装置さえあれば、どんなに大きな生き物だとしても、あっという間に掌サイズにすることが可能なのである。
実のところ象はそもそも、『動物愛護管理法』で特定動物に指定されているため、個人での飼育が禁止されている。しかし、ぼくはこの装置のおかげで、県知事の飼育許可を取り付けることに成功したのだった。
「どうぞ、これが“手乗りアフリカ象”です」
県議会のモニター画面に、ぼくの掌に乗った象が映し出されると、県議会の連中が全員メロメロになってしまった。とくに女性議員などは、キュンとなってしまい、その場で失神してしまったほどである。こんなに可愛い象を見たら、誰だって飼わずにはいられなくなってしまうのが当たり前なのだから。
「ピャオーン」と象が鳴く。
「おお、どうしたどうした。パオ君お腹がすいたのかな」
ぼくは左手に、パオ君を乗せて、小さく刻んだバナナを食べさせてあげる。手乗りアフリカ象のパオ君は、長い鼻を左右に揺らせて大喜びするのであった。
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数日後、家の外がやけに騒々しい。カーテンを開けて窓からのぞくと、遠くに観光バスが何台も停車しており、ガイドらしき女性が大勢の人にむかって説明をしているのが目に入った。
そうか、パオ君を見物に来た人達だな。もはやこの郊外の我が家は観光名所のコースに組み込まれているのにちがいない。ぼくはパオ君を掌にのせて、ドアを開けてニッコリと笑った。
「どうぞ、これが手乗りアフリカ象のパオ君です!」
「きゃあ。すご~い!」悲鳴が上がった。
どういうことだろう。見物人も、バスもみんなオモチャのようにミニサイズではないか。
「みなさん。あれが今話題の巨人でございます」
ぼくは気がついた。周りがミニチュアなのではない。単にぼくとぼくを取り巻く環境が巨大化していただけだったのである。
3月3日 雛祭り
「このホールはいいですね。必ずアンコールがかかるじゃないですか」
「しかも、1度だけじゃない。何度もね。イエ~イ」
5人バンドのボーカルの翔と大堤の亮が話している。ドラムのタカシがバス・ドラムでリズムを刻んで、これから始まるコンサートをリードし始めていた。
ここ10年で大堤の亮はエレキギター、小堤の倫はベースに楽器を持ちかえている。バンドは毎年、王と御妃の前で演奏するのである。いわば宴を盛り上げる若手のアーティストなのだ。
王と妃の接待をするのは三人娘の『ヤンデルズ』の役目である。最近ではコーラスも担当する。三人娘といっても、リーダー格の葵などは既婚者で、パンクのように歯を黒く塗っていたりする。いつも3人娘の中央にいるのが葵である。
「ささ、美味しいお酒が入りましたよ。今年はアルコール度数が少々高いようですが、どうぞお召し上がりくださいませ」葵が盃をささげる。
ヤンデルズの向かって左の娘は凛子で、酒のたくさん入った桶を持っている。その桶から長い柄杓でお酒をすくって盃に満たすのが右側にいる涼子の役目であった。
「おう。今年も乗っておるのう」王がバンドマンをたたえる。
「あの曲をお願い」妃が立ち上がって踊り出す。
「御妃さま。お立ちになりませんように」
そうたしなめたのは、ボディーガードの白髭をたくわえた馬之助(左大臣)と若武者の右京(右大臣)だ。
「昨年は、笛に似せた筒から吹き矢で狙撃されたことをお忘れなく。衛兵、危険が接近してきたらすぐに知らせよ!」
「ははあ」
衛兵と呼ばれたのは“仕丁”という3名の小間使い兼衛兵のことである。彼らは三方に散った。
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「あなた、陽奈はもう今年三十路ですよ」
「そうだなあ。そろそろ嫁に行ってもらわんとなあ」
「このままだと、孫の顔だっていつ見れるかわからないじゃありませんか。全部あなたのせいですからね」
「え、おれのせい?なんでだよ」
「あなたが、可愛い可愛い、お嫁にいかせたくないって。雛人形をダラダラと片付けさせようとしなかったからじゃないですか」
「そ、そんなの・・・・・・おれのせいじゃないだろうが」
「わかってるわよ。でも気分の問題だわ」
「そうか・・・・・・悪かった」
「今年は即行で片付けますからね」
「よし、それじゃあこれから片付けよう」
夫が立ち上がる。
「あなた、いま出したばかりじゃありませんか」
「いや、今まで遅かった分、フライングでもしなければバランスが取れんだろう」
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「馬之助殿。右京殿。一大事にございます!」
衛兵のひとりが駆け込んでくる。
「何事だ」馬之助が応える。
「今ここの主が、コンサートを閉幕しようとこちらに向かっておられます!」
「何だと!コンサートは今はじまったばかりではござらぬか」右京がうなる。
馬之助が、すぐに官女頭の葵に向かう。「宴たけなわではございますが、これにて閉幕にござります」
妃が割って入る。「なにをたわけたことを。宴はこれからじゃ」
妃はもう完全に出来上がっていた。十二単のもろ肌を脱いで、裾をまくり上げて踊り狂っている。
「これは手がつけられませんな」と右京。
「やむを得ない。笛吹の泰司よ、眠り薬の吹き矢を撃て」馬之助がバンドマンに耳打ちする。
泰司と呼ばれた笛担当のバンドマンはひとつ頷くと、横吹きをしていた笛を縦に持ち換えて「フッ」と眠り薬を塗りこめた矢を吹いた。カキーンと金属音がして吹き矢が弾き返された。妃が鉄扇で防御したのである。
「なんと。いつのまにあんな技を」馬之介が目を丸くした。
そのとき襖がガラッと開いてしまった。
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「陽奈。こんなところで何をしている」
「あら、お父さん。踊っているのよ」
白酒で酔っているようだ。でも彼女が飲んでいたのは単なる御屠蘇ではなかった。父が昨年台湾旅行で買ってきたアルコール度数40度の白酒だったのだ。
ひな壇飾りの前で、娘が裸同然の恰好で踊っている。陽奈が酔っぱらっているのには実は訳があった。今年ある男性に嫁ぐことを心に決めていたのだ。両親と別れる寂しさからの泥酔だったのである。
陽奈はその場できちんと正座をすると、畳に三つ指をついた。
「お父さん、お母さん。長いあいだ陽奈を育てていただいてありがとうございました。陽奈は今年お嫁に行くことにいたしました」
父親は驚いて息を飲む。母親は目頭を押さえて泣いた。「若い娘が、あられもない恰好で・・・何を言い出すのかと思ったら」
陽奈は笑顔をつくった。
「あるじゃないここに。ひなあられが」
3月4日 バウムクーヘンの日
「あれ、今度の日曜日って友子の結婚式だっけ?」おれは由香利に訊いた。
「そうよ」
「こっちも学生時代の友達の結婚式だってよ」招待状をひらひらと由香利に見せる。
「うわ。きっと大安だからだよ。結婚ラッシュだ。瞬は友だちが多いからね」
おれたちは同棲して5年、お互いの将来のことを真剣に話し合ったことがなかった。でもきっといつか結婚するとは思っている。ただ、なぜかお互いそのことを口にせずに今まで来てしまったのである。
由香利も何か言いたそうな素振りを見せたものの、急に話題をそらしてしまった。
「あのさ、ゆうべのドラマでね・・・・・・」
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結婚式の引き出物はバウムクーヘンだった。
バウムクーヘンは大昔ギリシャにて、木の棒にパン生地を焼いて作ったお菓子が原型だと言われている。ドイツ語で“バウム”は木、“クーヘン”はケーキという意味なのだそうだ。
「瞬君。もう帰っちゃうの?」学生の時の女友達の映子がおれを見上げる。「もう一軒いこうよ」
おれたちは結婚式の二次会がはけた後、なんとなく同じ方向に歩いていたのだ。
「うん、いいけど。田中たちは?」
「あいつらはほっとけばいいの」映子が口をへの字に曲げる。「お姉ちゃんのいる店に行こうって相談してたし」
「ふうん、一杯だけなら」
「よし、レッツゴー!」
映子に腕を組まれて、おれたちはカクテルバーに入って行った。
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由香利の引き出物もバウムクーヘンだった。
バウムクーヘンは木の年輪のような形状をしているので、縁起物として引き出物によく使われるのだそうだ。
結婚式の2次会の後、由香利たち仲良し5人のグループは喫茶店でお茶をすることにした。
「ねえ、“バウムクーヘンエンド”って知ってる?」と猫のような顔をした和佳子が言う。
「なにそれ」面長の玲子が興味津々という顔で訊く。
「たとえばよ・・・・・・」
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ぼくはソルティドッグを、映子はテキーラ・サンライズを飲んでいた。
「・・・・・・そう、すごく仲のいいカップルがいるとするわよね。二人が同じ日に別々の結婚式に呼ばれたとします。そしてお互いの引出物がバウムクーヘンだったりすると・・・・・・そのカップルは結ばれず、別々の相手と一緒になってしまうんですって」
「そんなの迷信だろ」
「まさかだとは思うけど。彼女の引出物がバウムクーヘンじゃないことを祈るわ」
「悪いけど先に帰るわ」おれは席を立った。「マスターお勘定」
「ええ、まだいいじゃない」
「ごめん。また連絡する」
おれは何となく胸騒ぎがしてタクシーを拾った。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
由香利はすでに帰宅していた。
「どうだった。結婚式」とテーブルに座っていた由香利が顔をあげる。
「うん、まあまあ良かったよ。ところで、それ何?」
おれはテーブルの上の白い箱を指さした。
「バウムクーヘンだけど・・・・・・」
「あ・・・・・・おれも・・・・・・」
おれも由香利も一瞬硬直してしまった。おれは由香利のバウムクーヘンを箱から出した。
「由香利。こうしないか」
おれは自分のもらってきたバウムクーヘンを取り出すと、由香利のバウムクーヘンにギュッと押し付けた。それは無理やり8の字のような形になっていた。
「どうこれ」
「なに?」
「“無限”ってこと。おれ、由香利といつまでも一緒にいたい」
「あたしも」
由香利もおれも泣いていた。
3月5日 サンゴの日
「あのね。お水をもっといただけないかしら。カラカラに乾いちゃう。それから音楽はビートルズもいいけど、たまにはモーツァルトをかけていただきたいわ」
「ぼくはさ、部屋にいつも置いてけぼりにされるんだけどさ。やっぱり日光が恋しくなることもあるわけよ。そこんとこよろしく頼むよ」
「伸ばすだけ伸ばして放置はやめてよ。たまに散髪してくれないと、栄養が先まで行き届かないんだよ。わかるかな」
これらは、わたしの家の観葉植物たちの声を録音したものである。
今回わたしの発明したこの装置『プランツ・トランスレイター』は、あらゆる植物の声を、人間の言葉に翻訳して聴くことができるという画期的なものなのだ。よく、犬や猫の鳴き声を翻訳するオモチャまがいの商品があるが、それに近いものと思ってもらっていい。犬猫は声を発するが、植物は物を言わないかわりにテレパシーのように思考を飛ばしてくるのである。
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わたしはその日、ニュースを観て憤慨していた。
南国の珊瑚礁が、心ない者によって破壊されたというニュースである。憶測でいくつかの犯人説が流布された。違法な漁獲方法犯人説。ダイバー達によるイタズラ説。心無いマスコミによる、自作自演の記事捏造説などである。
容疑者は何人かあがったのだが、肝心の決め手となる証拠がない。そこでわたしは考えた。そうだ、珊瑚に直接聞いてみればいいじゃないか。そうすればこの装置も世間で一躍有名になることだろう。
わたしは報道陣たちを引き連れて、青い海原を進んで行った。そして船を停泊させ、潜水服を着用して海に潜って行くと、ほどなくして海の底に珊瑚礁が見えて来た。わたしは『プランツ・トランスレイター』のスイッチを入れた。
「・・・・・・」
なにも反応がない。そうか、それほど珊瑚は激高していて、口もききたくないということなのか。わたしは一旦甲板に上がった。
「いかがでしたか」報道人がすかさずわたしにマイクを向けて来た。
わたしは水中マスクとアクアラングのレギュレーター(呼吸器)を外した。
「寡黙な方々でした。相当なショックを受けたのだと思われます。なにしろひとことも口をきいてくれません」
「先生!」
その時、船室室から船長がわたしを呼ぶ声がした。「環境庁から無線電話が入ってます」
今回の調査を環境庁も気にとめてくれたようだ。
“あの先生。ひと言ご注意申し上げますが、珊瑚は海藻みたいな植物ではなく、イソギンチャクとかクラゲと同じ刺胞動物ですよ。ごはんを食べるための口もちゃんとついとりますし”
「!」
3月6日 弟の日
「さきほど国連から連絡が入った。大型コンピュータの計算によると、最初に現れる先頭の魔物を倒さなければ、人類が滅亡する確率は98.05%ということだ」
飯沼博士が研究員たちを集めて口頭で伝えた。
現代において魔界の存在は、いまや周知の事実だ。ネット上で取り交わされている違法な情報の数々が、偶然にも魔界との結界に裂け目を作りあげてしまったのである。
「どうしましょう」
助手の大谷ヒロミが涙を浮かべて博士に伝えた。
「人類最後の希望『人型戦闘兵器NE28』の搭乗員が先ほど息を引き取ったそうです」
研究員の間でどよめきが起きる。
「なんということだ・・・・・・久島慎一郎が死んだのか」飯沼博士が天を仰いだ。
NE28は特定な人ゲノムを利用して駆動させるため、全人類の中から選りすぐった人間しか満足に稼働させることができないのである。
「たしか彼には双子の弟がいたな」博士がヒロミを見る。
「はい。ですが・・・・・・」
「その弟をすぐに確保して連れてくるよう警務部に連絡を取るのだ」
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
「え、おれですか。無理っすよ」
国民ナンバー制度のおかげで、弟の健治はすぐに発見された。
「頼む。人類の未来がかかっているのだ」
飯沼博士は健治の両肩に手をかける。
「そんなこと言われてもなぁ」健治はそっぽを向く。
「君のお兄さんは立派な人だった。君も彼のためにひと肌脱いでくれないか」
「無理だと思うけどなあ。兄貴とおれとじゃデキが違うっていうか、なんていうか」
「とにかく、乗ってくれるだけでいい。あとはヒロミ君が遠隔で指示をだしてくれる」
ヒロミも真剣なまなざしで頷く。
「でも・・・・・・」
「あなたしかいないのよ」ヒロミが健治に目を向けた。
突如、警告ランプが点滅すると、室内に緊急アナウンスが流れた。
「魔物1号出現!魔物1号出現!各員、戦闘配置ねがいます!」
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魔物は結界の裂け目から顔を表に出していた。顔の長さだけでも10メートルは超えていそうである。3つの眼球がギョロギョロと、カメレオンのように四方に向かってせわしなく動いている。
人型戦闘兵器NE28は、大型ヘリ4機に吊るされて魔物1号の手前に降ろされた。
“いい。落ち着いて”
スピーカーを通してヒロミの声が流れてくる。結局健治は半強制的にNE28に搭乗させられてしまったのだった。
“まずは、そのサイド・レバーを手前に引いて立ち上がって”
健治は言われるままにレバーを引いた。人型戦闘兵器NE28はしゃがんだ体勢からゆっくりと立ち上がった・・・・・・かに見えたが、そのまま仰向けに横転してしまった。
恐ろしい魔物は結界の裂けめから、すでに身体半分を乗り出して、まるでプールで子供が浮き輪からからだを出すような格好になっていた。どうやら腕は4本もあるらしい。倒れたNE28に向かって、真っ赤な口を大きく開けて威嚇している。
「もうだめだ!」
“あきらめちゃだめ”
「だって、おれ慎一郎の弟なんかじゃないもん」
「なんだって!」飯沼博士が驚愕の声をあげる。
研究員たちは静まり返る。
「どうなっているんだ!」国連のモニターも騒ぎ始めた。
“しょうがないなあ。今からそっちに行くから待ってて”
ヒロミは席を立つと、自動ドアを風のように駆け抜けていった。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
ヒロミの操縦するモトクロス用のバイクがNE28の脇に滑り込んだ。砂塵が勢いよく舞いあがる。
魔物1号はまるでプロレスラーがロープをまたいだかのように、すでに片足を結界から出していた。
「ハッチを開けて!交代する」
「ええ、だいじょうぶなの?君だって・・・・・・」
「いいから」
ヒロミは人型戦闘兵器NE28のコックピットに入った。
「サンキュー」健治はヒロミの乗ってきたバイクで一目散にその場を離脱した。
ヒロミはNE28のプログラムを自分用に修正した。その時いきなり、両足に衝撃が走った。とうとう魔物1号が結界を抜け出したのである。
魔物はNE28の両足を掴むと、風車のごとくNE28を空中に回し始めた。スピードが乗ったところで、魔物は4本の腕を離した。NE28は一直線に宙を舞った。
次の瞬間、NE28が足の裏から炎を吹き出して急旋回を始めた。
「そんなことあり得ない」
研究員の間から声が漏れる。
NE28は魔物に左右のパンチを繰り出した。
「おお!ヒロミさんやるう」研究員が歓喜の雄叫びを上げる。
魔物にNE28のパンチとキックの波状攻撃が炸裂し、もはや前後不覚の状態である。NE28は最後にフラフラになった魔物に爆弾を括りつけて、結界の中に押し込んで封印をしてしまった。はるか遠くで盛大に爆発音が響き渡った。
“ヒロミ君。いったいどうなってるんだね”
「博士。黙っていてごめんなさい。実はあたしが慎一郎の弟だったんです。
ずっと以前に女になりたくて戸籍を売ったの。それを買ったのが、さっきのダサ男だったとは知らなかったけど」
“ヒロミ・・・・・・いや久島健治くん。ありがとう。君は最高の弟だよ”
3月7日 花粉症の日
気がすすまない。でも自分の娘のためとあれば仕方がない。これで完全犯罪の成立である。
わたしは耳鼻咽喉科の医師である。
娘が彼氏を連れて家に来た。それがどう考えても、わが娘を幸せにできるとは思えない男なのであった。まず定職をもたず、生活力がない。上背はあるが、やせ細っていて今にも倒れそうだ。しかも前髪が長くて、目が隠れているためどこを見ているのかも分からない。最初“ロッカーです”と言うから物でも入れるのかと思ったら、ロック・バンドをやっているのだと苦笑された。
それでも一応、娘が気に入ったといって連れて来た男である。頭ごなしにお前なんかに娘をやれるかバカ者などと言えるはずもなく、少々情けない話だが、主な会話は妻に任せて、とりあえずニコニコ笑っておいたのである。
「君は花粉症じゃないのかね」
わたしとしては、無理矢理ひねりだした渾身の会話の糸口であった。いまや国民の4割が花粉症に悩まされているのだ。
「お父さん。実はそうなんですよ。ぼくはリード・ギターだからまだいいんですけどね。これがボーカルだったらえらいことになっちゃいます」
頭をかきながら男が答える。
「あら、でもジョーくんだってコーラスやるじゃない」
娘の早奈江が彼氏の顔を見る。
「じゃあ、ちょっと診てあげようか。診察室に来なさい」
「え、でも」
「遠慮はいらんよ。診察代もサービスだ」
「まじですか。助かります」
(いや君は助からんよ)と心の中でわたしはつぶやいた。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
「その後ジョー君とはどうだ」
わたしが尋ねると、娘は嬉しそうに顔を輝かせた。
「ええ。とっても元気。良くなったみたい」
「そうか・・・・・・それは良かった」
おかしい。ジョーの鼻孔の奥には、わたしの調合した薬をたっぷり塗りこんでおいたはずだ。あの薬はアルコールを摂取すると、溶けて激しいアナフィラキシーショックを発生させる。最悪の場合は死に至る。
「ところで、ジョー君はお酒はいけるのかね」
「あら、彼は下戸よ。ああ見えて一滴も飲めないの」
「!」愕然とした。
「それは残念だなぁ。ジョー君に今週末、娘の親として一杯つき合ってもらいたいと思っていたんだが・・・・・・」
「へえ意外。あたしお父さんジョー君のこと、絶対好きじゃないと思ってたんだ。じゃ、今日話してみる」
娘は明るく答えて、出て行った。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
週末わたしはジョー君と差しで飲みに行った。なんとかこいつに一杯飲ませなくてはならない。
ジョー君はわたしと同席できたことに感激していた。そして涙ながらに身の上話をし始めたのだ。
彼は幼いころに父親を亡くし、母と妹の三人で暮らしてきたのだという。とにかく貧しい生活で、家計のために小学生のときから新聞配達と牛乳配達を掛け持ちしたという。妹のために、給食を半分残して持ち帰ったり、年末にはケーキを貰うためにケーキ屋でアルバイトをしたのだそうだ。当然上の学校にも進めず、ようやく就職した会社も倒産し、今はアルバイトで食いつないでいる。でも将来は音楽で食べて行きたいと明るく夢を語ってくれた。
わたしは外見ばかりを気にして、ジョー君の人となりを完全に誤解していたようだ。
別れ際にわたしは言った。
「明日もう一度うちに来たまえ。診療の続きをしてあげるから」
「いいんですか」
「娘の旦那になる男をちゃんとしてあげなきゃ」
「ありがとうございます!」
ジョー君は最敬礼していつまでもわたしを見送ってくれた。最敬礼をしたいのはわたしの方だ。すぐにでもあの薬を取り除かなければならない。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
翌日、約束の時間になっても彼は現れなかった。
「早奈江。ジョー君、遅いわね」妻が心配そうに言った。
「だいじょうぶよ。すっごく喜んでたから」
「そうなのか」わたしは玄関の方を顧みた。
「うん。昨日お父さんに認めてもらったって、ひとりで飲めないお酒で祝杯をあげるんだって言ってたのよ」
3月8日 ビールサーバーの日
若林はバーのカウンターに座るとウエイターに生ビールをオーダーした。金色に輝くビールサーバーから、ビールグラスに黄金色の液体が注がれる。液体がそこそこグラスに注がれると、今度はシルクのようなキメの細かい白い泡が蓋をするように被せられていく。
男はビールが満たされたグラスを手に持つと、ゆっくりと眺めはじめた。それは、ビール7に対して泡が3、完璧な比率で注がれたビールであった。
「失礼ですが、あなたはビールがお好きで?」
隣に座ってスコッチを傾けながら、葉巻を燻らせていた男が話かけてきた。身なりの良い、投資家かテレビのメインキャスターのような恰幅のいい紳士だった。
「はい、そうです。やはり飲み始めのビールは何物にもかえがたい」
若林はグイッとグラスを煽ると、にっこりと笑った。
「ビールはこの泡が命です。この柔らかな泡と喉越しにガツーンとくる苦味。鼻から抜ける香り。究極の飲み物です。そう思いませんか」
「同感ですな。ところで、こんなビールが自宅で毎日いくらでも飲めるとしたらどう思いますか」
「天国でしょう」
「大きな声では言えませんが」
紳士は顔を近づけてきた。「ここだけの話です。実はここのバーにも卸しているのですが、わが社で開発した新しいビールサーバーは業界の常識をくつがえす画期的な商品なんですよ」
そういうと、紳士は名刺を差し出した。『有限会社 吉相 代表取締役 金田春男』と書いてある。
「へえ、高いのでしょう」
「もちろん。少々値は張りますがね」
「それは無理です。そんな機械を購入したりしたら、肝心のタンクに入れるビールを買うお金がなくなってしまう。それじゃあ、本末転倒だ」
「そうお思いでしょう」紳士はニンマリと笑った。「でもおかげでバーは大繁盛。なぜだと思いますか」
「さあ」
「そのサーバーは、水をビールに変えてしまうからです」
「え、水を!」
「しっ。声が大きいです」紳士は周囲を見回す。
「失礼」
「だから、飲食店も一度導入さえすれば、後は水代だけで莫大な利益が転がりこんで来るんです」
「それはすごいな」
「ここでお会いしたのも何かの縁。あなたには特別にモニター価格でご提供させていただきますよ。ただし、秘密厳守でね」
紳士は片目を瞑ってウインクしてみせた。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
それからしばらくすると、自宅に吉相社からビールサーバーが届いた。金色に光るサーバーだった。さっそく私は電源を入れて、瞬間冷却タンクに水を注入した。レバーを倒してみると水が出た。
「?」
レバーを何度も倒す・・・・・・水が何度も流れ落ちてきた。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
「兄貴。いいものを手にいれましたぜ」
有限会社吉相の隠れオフィスである。吉相・・・・・・後ろから読んだら“ウソつき”だ。
「なんだ留吉。兄貴じゃなくて、社長って言え。なにか新しいネタでも仕入れたのか」
社長の金田はただ一人の弟兼社員の留吉に笑いかけた。留吉は少し鈍いところがあるが憎めない。
「へい社長。ネットオークションですごいものを手にいれたんすよ」
「ほう」
「なんと水道水がビールに変わるサーバーなんだって。すごいと思わない?」
「お前はアホか。それはおれが騙して売ったやつじゃねーか」
「へ?」
「バカ野郎。とっとと誰かに売っぱらって来い。売れるまで帰ってくるな!」
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
留吉は途方に暮れて、車にビールサーバーを乗せて街を彷徨っていた。品のいい一軒家に明かりが点っている。
「もうどこでもいいや、ここにしよう」
呼び鈴を鳴らすと、紳士が出て来た。
「あの、これ水道水がお酒に変わる夢のようなビールサーバーなんですが・・・・・・」
紳士がにこやかに笑って濃厚な握手を交わし、留吉を家に招き入れてドアの鍵をかけた。
「それ、ぼくがネットオークションに出したやつなんだけど」
3月9日 感謝の日
わたしは今でも忘れられずにいる。あの時のあの男の眼を・・・・・・。
その日わたしは久しぶりに休みが取れたので、ひとりで街を散策していた。わたしの住んでいる街は振興住宅地で、まだ新しく建てられた家が多い。近頃の家はオシャレなうえに趣がある。ここにこんな家があったんだと驚かされることがたまにある。
ふいにある家の前でわたしは足をとめた。小さな庭のある家だった。子犬がわたしに向かって吠えていた。
「なんだ、不審者とでも思われたのかな」
すると犬は低いとはいえ、家の柵を飛び越し、わたしの周囲を回りはじめたではないか。そしてさかんにわたしに何かを訴えているようだ。わたしのズボンの裾を噛み絞めながら、家の中に引き入れようとする。これは尋常ではない。
「どうしたんだい。何かあったの?」
玄関の鍵は空いていた。留守ではないらしい。
「ごめんください」
しかし返事がない。背後からさかんに子犬が吠えたてる。それがなぜか「家にあがって」と聞こえたのだ。仕方がない。家人には事情を話して許してもらおう。
「失礼しまーす。怪しい者ではないでーす」
わたしは靴を脱いで、最初の部屋のドアに隙間が空いていたのでそこから中をのぞいてみた。わたしは一瞬、血の気が失せた。血まみれの男が、必死の形相でわたしの方に手を伸ばしていたのである。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
わたしはすぐに悟った。自刃である。男はカミソリで首の頸動脈を切り、自死を図ろうともがいていたのだ。思いのほかカミソリが切れず、頸動脈を切断しようとして、途中で止まってしまったものと思われる。
「く・・・・・・苦しい。お願いだ・・・・・・楽にして・・・・・・くれ。頼む」
男は真っ赤な泡をゴボゴボと吹きながらわたしに訴えていた。その目は真剣そのものである。わたしは男に近づき、カミソリを静かに抜いた。噴水のように血が噴き出す。
男は「ありがとう」という言葉にならない言葉と、感謝の眼差しを私に向け、糸が切れたマリオネットのように動かなくなった。わたしは、すぐさま清潔なハンカチを傷口に押し当て、ポケットに入っていたボールペンをへし折り、男の喉に突き刺した。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
実はわたしは外科医だったのである。
ボールペンの柄を突き刺したのは気道を確保するための処置だった。あのままだったら、自殺ほう助でわたしが捕まってしまう。しかし、もしわたしが医師でなかったらいったいどうしただろう・・・・・・答えは出ない。
その後すぐさま男は救急病院に搬送され、わたしの応急処置のおかげで一命を取りとめたのだそうだ。数日後わたしは男に会いに行った。勝手に家に侵入したことを、詫びておこうと思ったのである。
ところが病室に入った男はわたしを見るなり、辛辣な言葉をわたしに浴びせかけた。
「なぜあのまま死なせてくれなかったんだ。せっかく楽になれると思ったのに」
恨みがましい目で私を睨みつけたのである。わたしは言葉を失ってその場に立ち尽くしてしまった。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
あれから10年の歳月が流れた。
それは偶然であった。友人の結婚式であの時の男とばったり再会した。男はすぐにわたしに気がついて近づいてきた。そしてわたしの両手を取りこう言った。
「その節は本当にありがとうございました。おかげで娘の花嫁姿を見ることができました。全てあなたのお陰です」
男の眼から涙が流れていた。
わたしも涙をこらえ切れなかった。そして男をしっかりと抱きしめて泣いた。
3月10日 サボテンの日
「昨日の午後3時から5時の間、あなたはどちらにいらっしゃいましたか?」
その男の頭はサボテンを連想させた。髪の毛が薄いうえに、ツンツンと毛が立っていたからである。ちょうどリビングのサボテンが、かわいい白い花を咲かせていたのでそんな連想を抱いたのかもしれない。
「その時間ですか・・・・・・よく覚えていませんわ」
亜沙子はサボテンのような頭の刑事を見つめながら、頭の中では高速回転で思考を巡らせていた。なるほど、これがいつもテレビで観る刑事のアリバイの確認というやつね。でもどうしてかしら。想定の時間と合ってないわね。
「そうねえ。家でお茶でもしてたかしら」
「それを証明できる方はいらっしゃいますか」
「いいえ誰も。だって、その時には主人は会社、娘は学校に行ってますもの」
「宅配便なんかも届かなかったですかね」
「刑事さん。今どきは置き配なのよ。チャイムすら鳴らさないんだから」
「失礼しました。何か思い出しましたらご連絡をお願いします」
そう言って刑事は名刺を置いて行った。
おかしいわ。わたしが菜美恵を殺したのは午前10時のはずなのに。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
PTA役員の亜沙子が用意していたアリバイはこうである。
数週間前から何パターンかの天気の状態で、時計の見えるリビングルームの動画を撮影しておく。当日の天気に合わせた動画をバックの壁紙にして、テレビ会議システムでPTAのミーティングを開催したのである。そしてワンボックスカーを菜美恵の住むマンション近隣の駐車場に停め、後部座席でパソコンを操作し、10時の休憩15分間に菜美恵を亡き者にして、何食わぬ顔で車に戻ったのだ。
実際の時間と動画の時計をばっちり合わせてあるので、自宅からアクセスしていることを疑うものは誰もいないはずだ。しかもこの様子は議事録がわりに録画まで残されるのだから。
もちろん刑事には録画のことなど話したりしない。こういう時には完璧なアリバイを主張するよりも、曖昧な方がよいのである。あとで刑事が裏取りをしたときに、ああそう言えば・・・・・・と、誰かが録画を見せればそれだけで捜査員はわたしを容疑者から除外してくれるはずなのだ。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
「どうも何かが引っ掛かるな」サボテンのような頭の藪刑事は同僚に話しかけた。「被害者はなぜ密室で死んでいたのだろう」
「そうですね。藪さん、これやっぱり自殺じゃないですか?どこからも侵入経路がみつかりませんでしたよ」
菜美恵はマンション7階の自宅で胸にナイフが刺さったままソファーの上で死んでいた。ドアは内側からロックされていたし、窓も全て施錠されていた。娘はちょうどお泊り学習をしていて不在であったため、第一発見者は夜遅くに帰宅した夫である。
「藪さん、なにが引っ掛かっているんですか」
「エアコンの温度だよ。40度に設定してあっただろう」
「まだ3月ですからね。寒い日もありますし、普通じゃないですか。それとも真冬からそのまま使っていなかったとか」
「もう一度さっきの動画をみせてくれ」
「ええ?これでもう5回目ですよ」
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
「向島亜沙子さん。何度もすみません。実はですね、確認したいことがありまして」
「なんでしょう」
「あなた、3月9日の午前9時から11時の間、どこにいらっしゃいましたか」
ほら、とうとう来たか。亜沙子は心の中でほくそ笑んだ。
「ううん、ちょっと待って・・・・・・スケジュールを確認してみるから」
亜沙子はスマートフォンのスケジュールアプリを起動した。
「ええと・・・・・・その時間ならPTAの会議をやっていたわね」
「会場で?」
「いいえ自宅ですけど。ほら、今どきはパソコン画面で会議をしますのよ。ご存じでしょう」
「ええ、動画を見せていただきました」
「あら、ご存じだったの?刑事さんもお人が悪い」
「はい、そこなんですよ問題は。先日あなたにお会いしたときにはサボテンの花が咲いていたのに、なんど動画を見直してもサボテンに花が咲いていないんですよ。つぼみすら芽吹いていない。おかしいでしょう」
亜沙子の顔面は蒼白になってしまった。
「菜美恵さんは本当に優しい方ですね。ナイフで刺されたあとにドアをロックして、エアコンで部屋の温度を上げ、2時間後にスイッチが切れるようにタイマーを掛けたのです」
「なんのために?」
「死亡時刻を遅らせるためですよ。腸内温度が下がる時間が遅くなりますからね。菜美恵さんもご自分の娘さんがあなたの娘さんをいじめていたのを苦にしていたのでしょうな」
亜沙子はいろいろなものを一瞬にして失ってしまった。そのうちのひとつが菜美恵という“親友”だということを、たった今知ったのだった。
3月11日 東日本大震災
夜空に花火が大輪の花を咲かせている。その華麗な花が夜の闇に滲んで消えて行ったあと、腹の底に響くような音が追いかけてくる。
「そうか。今日は縁日だっけ・・・・・・」
怜美は仏壇を振り返った。写真の中では父、母、幼い弟が一緒に笑っていた。
友達が毎年お祭りに誘ってくれるのだが、そんな気になれない怜美はいつも断っていたのだった。そんな怜美を気遣ってか、最近では怜美を誘う友人もいなくなってしまった。
「はぁ」ため息をひとつ。「縁日か・・・気分転換に行ってみようかな」
怜美は普段着のまま、下駄をつっかけて夜の街に歩み出した。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
2001年3月11日午後2時46分。
突如、日本列島の東部にマグニチュード9.0震度7の大地震が襲った。激しく揺れただけではない。10メートルを超す津波がさらに被害を大きくしたのである。
「怜美ちゃん、いま動いちゃだめ!下手をすると怜美ちゃんが津波に飲み込まれることになるよ」
会社の同僚の高峰が、自宅へ戻ろうとする怜美を押しとどめた。
「でも」
「だいじょうぶだよ。みんなきっと避難してるって」
「だいじょうぶかなぁ。家には小さな弟もいるの。怖がっていないかなぁ」
怜美の目から一筋の涙がこぼれ落ちた。
その時にはまだ誰も、この災害が死者1万5千人、行方不明者7千5百人にも達する大惨事になるなどとは思ってもいなかったのだ。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
提灯が連なる並木道を通り抜けて、縁日に出た。思いのほか大勢の人々が歩いていた。夜店の裸電球の明かりが眩しいぐらいだ。
両親に手を引かれ、浴衣を着た小さな子供がはしゃいでいる。生きていれば弟もあれぐらいの年になっているだろうな・・・・・・。怜美はぼんやりその家族を目で追っていた。すると、人混みの中に高峰たちの顔が現れた。反射的に怜美は暗闇に逃げていた。
「なんだ、元気になったじゃない。明日から会社に来なよ」と言われるのが容易に想像できた。
怜美はそのまま、獣道のような細い山道を登って行った。遠く縁日の音が聞こえてくる。
「あら、こんなところに鳥居なんてあったかしら」
今まで気づかなかったのだが、山の中腹に小さな神社があったのだ。お祭りだからだろう。灯篭に明かりが灯っている。
「お参りして、もう家に帰ろう」
怜美は鳥居にお辞儀をして参道へ進んだ。下駄が軽やかな音を立てた。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
「・・・・・・?」
参道を歩いているはずだった。しかしそこはどう見ても、怜美の住む街並みだった。しかも夕暮れである。
「わたし、夢をみているのかしら」
見馴れた風景を進むと、やはりそこに怜美の住む家があった。灯りがついている。
「え、なに。泥棒?」
怜美はそっと玄関を開けると、奥で誰かの話声が聞こえる。ふいに子供が顔を出した。
「!」
「お姉ちゃん、帰って来たよ」
「正ちゃん、正ちゃんなの」怜美は慌てて下駄を脱ぐと部屋の中になだれこんだ。
そこには、父と母が食卓を挟んで談笑している姿があった。
「あら、遅かったのねぇ」母がやさしく微笑みかける。
「お母ちゃん、お父ちゃん、正ちゃん。みんな・・・・・・みんな助かってたの。よかったあ」
怜美の目から涙がこぼれ落ちる。
「どうしたんだ怜美、泣いたりして。会社で嫌なことでもあったのか」
「まあまあ、とりあえずお夕飯を食べなさい」
正ちゃんはテーブルの周りを、飛行機のおもちゃを持ってグルグル走り回っている。
「ほんとよかった。たった一日でもいい。怜美、もとの暮らしに戻りたかったの。言えなかった事がたくさんあるのよ」
そのとき怜美たちの周りに、まるで金粉をまぶしたような温かい光が舞い降りてきていた。
「陽が、ほら光が・・・・・・」
怜美は光を見上げて微笑んだ。「家族の想い出は、今すべて帰って来たんだね」
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「ねえ、今、怜美が帰って来たような気がしなかった?」
ご飯をよそいながら、母が天井を見上げた。
「母さんもか。実はおれもなぜかそんな気がしたんだよ」
お茶を飲みながら父親が答える。
「お姉ちゃん、早く帰ってこないかな。夏休みになったら一緒に縁日に連れてってくれるって約束したんだよ」
母は仏壇の写真の前にご飯をお供えして手を合わせた。
怜美がにっこり笑っている写真だった。
3月12日 スイーツの日
“誰もがおいしいと絶賛するスイーツを食べさせてくれるお店が、日本にあると知っていましたか”
その記事を読んで峰岸多実子はさっそく動いた。多実子は大手コンビニエンスストアのスイーツ部門の担当者である。
「峰岸さん。ここですね」
アシスタントの畑山可南子が目の端で店舗を捉えた。そのレストランは郊外にあった。それなりに歴史があるらしく、古色蒼然とした古城のような佇まいであった。多実子たちは半年待ちの予約をし、ようやくその味を確認できる日がきたのである。
店舗に入るとサーモグラフィーだろうか、体温センサーが入店OKサインを出してくれた。店内はとくに変わった装飾品はなく、接客もごく普通の店であった。ミシュランの星がついていないのは、このあたりに原因があるのかもしれない。
頼んだパティシエお勧めのスイーツは、多実子と可南子の舌をとろけさせるのに十分であった。こくがあり滑らかで、それでいて後味がさっぱりしていてどれも絶品だった。
多実子はいったい何が隠し味に使われているのかを考えた。しかし、一向に考えがまとまることはなかった。可南子との答え合わせも徒労に終わった。ふたりの隠し味に対する意見がまったく正反対の食材を示していたのだ。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
数か月後、多実子はそのレストランが募集をかけているパティシエの見習い実習生に応募した。味を盗むための仮の修行である。悪く言えば産業スパイだ。
「どうも、峰岸多実子さんでしたね。ご応募ありがとうございます」
大塚というフロアチーフがにこやかに出迎えてくれた。
「よろしくお願い致します」
多実子は丁寧にお辞儀をした。容姿には多少自信があった。しばらく事務室でひと通りの面接を済ませた。
「それでは最後に厨房に入って、味覚テストを受けていただきましょう」
犬塚に先導されて、奥の厨房に案内される。大きなステンレス製のテーブルには、いくつかのスイーツが並べられていた。
「あの、これは・・・・・・」
犬塚がにっこり笑って言う。「コンビニのスイーツです」
「どういうことですか?」
「万人が全員おいしいと思うスイーツを作ろうと思っても、それは不可能です。なぜならば、ひとにはそれぞれ特有の味覚、好みというものがあるからです。甘いものが好き、甘さ控えめが好き、酸味、苦味の有無でも違います。さきほど入口にあったセンサーは、単に体温を測るものではありません」
「違うのですか?」
「あれはその人の味覚を瞬時に測定する機械なのです。お店に入った瞬間から、当店のパティシエ達は、その人それぞれの味覚に合ったスイーツを作り始めるのですよ」
「・・・・・・ということは」
「そう、あなたはご自分の作ったスイーツが一番おいしいと思っていらっしゃった。
だからパティシエは面接中にあなたの勤めているコンビニエンスストアに走って購入してきたと言うわけです」
そう言うと、犬塚はテーブルのスイーツをひとつ摘まんで口に運んだ。
「うーん、いい味だ。どうです、うちで働いてみませんか?」
3月13日 サンドイッチの日
時として人は、とんでもない事件に巻き込まれることがある。
しかし、砂山欣一の場合、自分から事件に飛び込んだようなものであった。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
「ブツを先に渡してもらおうか」
頬に傷のある男がドスの効いた声で迫った。夜中の11時、裏路地の薄明りの中である。
「いや、金が先だ」
目つきの悪い、太った口髭の男が答えた。
両者とも、背後に10人ぐらいの子分が控えていて、いつでも動けるように臨戦態勢を組んでいる。
「よしわかった。ここは取引に関係のない第三者に仲介してもらおうじゃねえか」
太った男が表通りで突っ立っているサンドイッチマンを指さした。
「おい、あいつを引っ張って来い」
傷のあるダンディーな男が部下の一人にアゴで指示をした。それが不幸の始まりであった。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
「だんな、いい娘がそろってますよ」
2枚の看板を前後に吊るして歩く宣伝マンを“サンドイッチマン”という。今ではあまり見かけることがなくなったが、夜の繁華街ではいまだ健在である。
欣一は前面にキャバレー、背中にパチンコ屋の宣伝を背負っていた。
「欣ちゃん、休憩の時間だよお」
ホステスのジュディが、店の扉から顔だけだした。源氏名がジュディというだけで、どこからどうみても典型的な日本人の女である。
「ありがとうよ」
金髪のジュディに軽く手を振ると、欣一は店の裏手から休憩室に入る。
「欣ちゃんもその歳で大変ねえ」
薄暗い部屋ではリンダがひとりでタバコを吸っていた。彼女もホステスのひとりである。
「そんなことありません。臨時雇いとはいえ、楽しく仕事をさせてもらっていますから」
欣一はテーブルから、夜食のBLT(ベーコン・レタス・トマト)サンドイッチを手に取る。
「受けるう!サンドイッチマンがサンドイッチを食べるんだ」
そう言ってリンダは手をたたきながら大笑いするのだった。
「さて、もうひと働きするかな」
欣一はサンドイッチをほおばりながら、夜の街に出て行った。やけに重そうな看板を背負って・・・・・・
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
「いいかサンドイッチマン。おれ達の中間に立って、ブツと金を受け取るんだ。そして金がちゃんと入っているか中身を確認して合図しろ」と、頬に傷のある男が欣一に言った。
「おいサンドイッチマン。白い粉がちゃんと揃っているかもよく見ろよ」と、太った男がすごむ。
欣一は肩をすくめて、両側の子分らしい男から紙袋とボストンバッグを受け取って頭を掻いた。
「まいったなぁ」欣一は2つの荷物の中身をそれぞれ確認すると。手をあげて叫んだ。「これはもらった!」
ビルの屋上から強烈なサーチライトの明かりが点灯し、裏路地の両端を警察隊が取り囲んだ。
「なんて野郎だ。撃ち殺しちまえ!」
悪人たちは銃やマシンガンを抜き、両側の警察隊と、間にはさまれたサンドイッチマンに向かって一斉射撃を開始した。一番危険なのは、両側から悪漢の狙撃を受ける欣一だった。
ところが、欣一はまるで亀の甲羅のように前後に吊るしていた看板のあいだに隠れてしまった。マシンガンの弾丸はその板を貫通するどころか、火花を散らして跳ね返ったのだった。看板はべニヤ板ではなく、鋼鉄の板で作ってあったのである。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
「弁護人、なにか言うことはありますか」
裁判官は弁護士に向かって真摯な眼差しを送った。
「裁判官。被告人たちはあくまでも自分たちは主犯ではなく、サンドイッチマンに扮した極悪人が首謀者だと言っております。結局のところ金も麻薬もその男に奪われたのだと」
「検察官。それについてはどうですか」
検察官が起立する。
「証人を入れます」
そこに欣ちゃんがのそのそと現れる。傍聴人席がざわつく。
「証人の氏名と年齢、それと職業をのべてください」裁判官が促す。
「砂田欣一。60歳。警視総監をしています」
「砂田警視総監!あなた、現場でなにをやられていたのですか」
裁判官は驚いて眼鏡を取り落としそうになる。
「いや、ちょっと現場の味が忘れられなくて・・・・・・」
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
「それでしばらく謹慎になっちゃったんだ」
ジュディが笑いながら水割りを作る。
「いや面目ない」
今日欣ちゃんは、お客としてお店に挨拶と、ウソをついていたお詫びをしに来たのである。
「まったく、ただのサンドイッチマンのおじさんかと思っていたら。なによ」
リンダが反対側から欣ちゃんに詰め寄る。
「今日は欣ちゃん。ジュディと挟んで食べちゃおうかな」
「おいおい、やめてくれ」
「欣ちゃんとかけて」ジュディが欣ちゃんの首に手を回しながら言う。「兄と妹がエッチしちゃったと説く」
「その心は」リンダがつなげる。
「謹慎総監です」
「おまえらタイホするぞ」
3月14日 ホワイトデー
「お願いします。経験豊富な田梨先輩、ぜひお力添えを」
喫茶店の二階である。雄一と泰介は、卒業生で大学生の田梨邦夫に頭を下げている。
「おいおい。ぼくは経験豊富なんかじゃないよ」
「では恋愛評論家の田梨先輩」
「評論家でもない」
田梨は淹れたてのコーヒーを口に運ぶ。
「でも、巷のうわさによれば、恋愛については百戦錬磨の先輩だと」
田梨はおもわずコーヒーを吹き出しそうになる。
「いやそんなのはデマだよ。それで、ホワイトデーに彼女に何をあげればいいかをアドバイスしてほしいんだって?」
「そうなんです」雄一が大きく頷く。
「今までの話によると、バレンタインデーで同じ学年の明美さんと園子さんにはめられたっていうことだよね」
「たぶん。大筋そんなところです」泰介が答える。「しかもうまい具合に」
「・・・てことはだ。君たちは彼女たちのことを、そんなに好きじゃないってことなのかな?」
「そ、そうでもないんですよ。これが」雄一が泰介を見る。「・・・・・・なあ」
「ひと月も一緒に行動をともにすれば、お互いに愛着が湧くといいますか・・・・・・」
「ぼくは来年受験もあるし、一度ニュートラルな状態に戻してもいいのかなと」と、泰介が言う。
「それじゃあこうしよう。卒業生としてアドバイスする」田梨はコーヒーを飲み干した。「まず雄一くん。君は園子さんにクッキーをあげるんだ」
「クッキーですか」
「そう。クッキーはサクサクしてドライだろ。だから“恋人じゃなくて友達でいようよ”という意味が含まれているんだ」
「なるほど」
「つぎに泰介くん」
「はい」泰介が真剣に頷く。
「君は明美さんにマシュマロをあげたらどうだろう」
「マシュマロですか?あの柔らかいお菓子の」
「そう。マシュマロは口の中で溶けて、あっと言う間になくなるだろ。だから“あなたは好きではないです。なにも無かったことにしましょう”という意味が含まれているんだ」
「なるほど。別に彼女のことが嫌いという訳でもないけど・・・・・・まあいいか」
「本当に好きだったら、キャンディをあげるといいんだ。口の中で長持ちするだろ。だから“あなたのことが好きです。長くおつき合いしてください”という意味になる。それで最後にきみたちに言っておこうと思うのだけど・・・」
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
翌日、雄一と泰介は田梨の言われた通り、クッキーとマシュマロをそれぞれの相手に渡した。しかし、彼女たちには単に喜ばれただけで、その“お菓子言葉”なるものは、まったく無視されてしまったのである。
そのままズルズルと卒業までつき合うことになり、その関係も卒業と同時に自然消滅して行ったのだった。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
その後、雄一と泰介は大学に進学し、卒業後社会人になった。その三年後の春に同窓会が行われた。会場には園子と明美も出席していた。
「おう」
久しぶりに彼らは四人で顔を合わせた。年月が経過し、雄一と泰介は男っぷりが上がっている。そして園子と明美は女らしくなっていた。懐かしいというか、気恥ずかしいというか。
男たち二人は彼女たちにプレゼントを用意していた。
「これ」
「なあに」園子が微笑みながら受け取った。
「あ、フィナンセじゃない。これ大好きなの」明美が思わず声を上げる。
「あのさ、ぼくたちさ、また君たちと一緒になりたいなって思っていて・・・・・・」
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
田梨先輩が小さな声で続けた。
「・・・・・・卒業して何年かして、それでもまだ彼女たちのことが好きだったら。フィナンセをあげるといい。フィナンセは長持ちするし、金の延べ棒を表すから“お金に苦労させません。どうかぼくのフィアンセになって下さい”という意味なんだ。もっともこれは、ぼくが勝手に作ったお菓子言葉なんだけどね」
3月15日 靴の日
一葉のハガキが届いた。文面を読むと、それは招待状であった。
“ご当選おめでとうございます。
3月15日の『靴の日』にちなみ、協会がランダムに選定した皆様に、一生に一度のプレゼントを致します。是非下記の住所にお足をお運びください。日本一のシューフィッターが、あなたの足のサイズおよび形、歩くときの癖、歩幅などを考慮して、この世であなたに最も適した靴をご提供させていただきます。
尚、商品の売込などは一切ございませんので、ご安心下さいませ。 日本シューフィット普及協会”
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
二週間前、海辺の別荘で殺人事件が起きた。
殺されたのは、別荘の主で、不動産会社の社長であった。しかし犯人の手がかりはごく僅かな証拠しか残されていなかった。浜辺に犯人のものと思われる裸足の足跡が、海に向かってつづいていたのだ。もちろんそれとて指紋が採取できるわけでもなく、足の形とサイズがわかるぐらいのものにすぎなかった。
「どうだ草刈。容疑者は絞り込めそうか」と、警部が部下の刑事にきいた。
「厳しいですね。この被害者、人から恨まれるために生まれてきたのじゃないかと思ってしまいますよ」
草刈と呼ばれた刑事は手帳をひろげると、箇条書きにした被害者の情報を確認しはじめた。
「仕事関係はどうだ」
「この被害者は、悪徳商法で金をたんまり貯めこんでいました。さらにライバル会社を次々と倒産に追い込み、そこの社長の何人かは自分で命を絶っています」
「なるほど、それで社内の評判はどうだ」
「すこぶる良くないです。ワンマン経営でパワハラとモラハラを絵に描いたような社長です。さらに常習的に女性社員へのセクハラを繰り返していた形跡もあります。精神を病む社員も続出し、現在も訴訟をいくつか抱えていたようです」
「ううむ、それは酷いな。それじゃあ家庭内はどうなんだ」
「家庭内暴力、いわゆるDVで5回も離婚しています。現在の妻は六人目で、遺産目当てと考えて間違いありませんね。それになんと強姦まがいの行為で、外に子供が2人いるとの噂があります」
「なるほどね、それで社会人になる前はどうだったんだ」
「それが、学生時代の同窓生の証言では、強い者には弱く、弱いものには徹底的にいじめを繰り返していたといいます。今でも恨んでいる者が大勢いるとのことでした」
「まいったな」警部は頭を抱えた。「殺人動機のオンパレードじゃないか」
「ん、これは・・・・・・どうかな」鑑識官の田辺が首をかしげる。
「なにか手がありますか」草薙が田辺に尋ねる。
「いや、やってみる価値はあるかもしれませんが・・・・・・」
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
曽田はハガキを携え、指定されたビルにやって来た。
「あの、家にこれが届いたのですが」
受付には男性がひとり座っていた。
「はい、ようこそいらっしゃいました。どうぞこちらへ」
通されたのは大きな会議室のような部屋だった。三つ揃えのスーツの上着を脱いだような人たちが、しゃがんで椅子に腰かけた大勢の人たちの足を採寸していた。
「へえ、こんなに大勢いるんだ」
「はい、おかげ様で大盛況です。こちらにお掛けください」
曽田は言われるままに、シューフィッターに両足をあずけた。
「でも、本当に無料だなんて信じられないな。あとで何かあるんじゃないんですか?」
シューフィッターは微笑むだけで、黙々と作業を進めていたが数分後、後ろに振り返るとおもむろに手を挙げた。奥から男たちが数人現れて、曽田の周りを取り囲んだ。
「?」曽田が怪訝な顔を上げた。
そのうちのひとりが曽田の面前に警察手帳を提示して言った。
「曽田政木さんですね。署までご同行願いたいのですが」
「なんですか」
「人間というのはね、左右の足のサイズが多少違うのが普通なのです。日本人では左右が1cmも違う人が6%もいるのだそうです」
「はあ?」
「でもね・・・・・・左右の足のサイズがピッタリ同じ人間は、確率にすると0.125%。800人に1人しかいないのです。ちょうどあなたのようにね」
3月16日 ミドルの日
「結婚はされないんですか?」
女性社員が六島勲の顔を笑顔でのぞきこんだ。
「そうですね。そろそろ身を固めないといけないとは思っているんですけど・・・」
「あら知らなかったわ、決まった方がいらっしゃったのね」
ぼくは社内では“独身最後の希望”と言われていた。自分で言うのも何だが、スタイルもなかなかだし、服のセンスもいい。しかも女性に対して優しくて気遣いが行き届いている。
しかし、ぼくにはある秘密があった。実は入社の際に、年齢をかなりごまかしていたのだ。社内年齢では40歳になろうとしているが、実年齢は60歳なのである。幸いなことに未だ会社にバレていないのは、庶務課の女性がぼくの交際相手だったからである。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
「津弥子さん。今日はちょっと話があって」
ぼくと津弥子は夜景の見える展望レストランで食事をしていた。
「なあに」
白ワインを片手に夜景を楽しんでいた津弥子がわたしに目を移す。
「こんなこと、本当にあつかましいと思うのだけれど・・・・・・ぼくもそろそろ歳だし、身を固めようかと思うんだ。どうだろう、歳の差があるのは承知の上で、ぼくと一緒になってくれないか」
ぼくは彼女の前に、指輪ケースの蓋を開いて置いた。津弥子はジッとそれを見つめていると、両目から涙がこぼれた。
「ありがとう。わたしのこと、そんなに想っていてくれていたなんて・・・・・・」
わたしはハンカチを出して、彼女の涙を丁寧に拭いてあげた。
「でもね勲さん。あたし、あなたに隠していることがあるのよ」
「なんでも言ってくれていい。すべて受け入れるよ」
「じつはわたしもサバをよんでいたの。本当は今年40歳なのよ」
「ええ、ナイスミドルじゃないか!ひどいな、今までまったく気がつかなかったよ」
3月17日 漫画週刊誌の日
「あなた、太郎はどこ?」
「また友達のところに遊びに行ってるんじゃないのか」
亭主はゴロ寝しながらテレビを観ている。
「あの子ったら宿題もしないで。一学期の成績見た?」
「まあ、オレの子だし。あんな感じじゃないのか」
「あの子の成績。たまに“ふつう”があるくらいで、後は“がんばりましょう”ばっかりじゃないの。ちょっと太郎捜してくるわ」
そう言うと、妻の時子はエプロンを投げ捨て、自転車で街に繰り出して行った。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
しばらく走ると、時子は本屋の店先で立ち読みをしている太郎の姿を発見した。
1959年(昭和34年)『週刊少年マガジン』と『週刊少年サンデー』が発刊された。世の少年たちは、たちまちその漫画週刊誌の虜になってしまっていたのである。
「こら!なにヘラヘラ笑ってるの。漫画ばっかり読んで!あなたそんな事じゃロクな人間になれないわよ。わかってんの!」
「たいへん申し訳ございません!」
太郎の横でやはり立ち読みしていた青年が、平身低頭して謝った。
それは太郎の学校の担任教師、横山先生であった。
3月18日 点字ブロックの日
「多胡巡査、また車の破損被害ですか。今月になってこれで7件目ですね」
岡山警察交通課の手越巡査部長が調書を取っている。
「はい、同じ手口のようです」と車輛を点検していた多胡巡査が答える。
婦警なのに、“タコ”という苗字がちょっと可哀想な気もするが、本人はあまり気にしていない様子である。
「前回は“障害者スペース”に駐車していたセダンのボディが傷だらけにされていました。そして今回は“点字ブロック”に駐車していたトラックのタイヤが、何者かに刺されてパンクさせられたようです」
「そうか。しかも、白昼堂々の犯行とは大胆にもほどがあると思わないかね」と、手越は多胡を見る。
「確かにそうですね。不可解です」
「そこでおれは考えたんだよ」
「なにをですか?」
「白昼堂々、違反車にいたずらできる犯人のことをさ」
「と言いますと」
「多胡君。きみはミニパトで警邏中にそういう不審者を見かけたことはなかったかね」
「いえ、そのような不審者の姿は一向に」多胡は首を振る。
「そう・・・不審者らしき者はいなかったのだ。なぜならば、それは交通課の婦警の恰好をしていたからだ」
「・・・・・・」
「多胡君・・・君が犯人だね」
多胡巡査は両腕をわなわな震わせてうつむいた。そして吐き捨てるように叫んだ。
「社会的弱者に理不尽な行為をする車輛を、わたしはどうしても許せなかったんです!」
婦警の眼目が怒りの炎で燃えていた。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
「はい、これで『交通ルールを守ろう』のお芝居はおしまいです」
にこやかに手越巡査部長と多胡巡査が子供たちにお辞儀をする。
「どうだった。点字ブロックの上に自転車を置いたりしたらだめだからね」満面の笑顔で多胡巡査が子供たちを見回す。
「はあい!」幼い子供達が手をあげた。
その後ろで、一部の父兄たちが青い顔をしていたのだった。
3月19日 ミュージックの日
その装置は、スぺランサーの度肝を抜いた。
「音楽シーンに新風を吹き込むのがわたしの仕事だ」と、常々プロデューサーのスぺランサーは、周囲の人間に公言してやまなかった。
ところが彼の苦悩はここ数年、スーパー・スターがまったく現れないことだった。
「この装置はなんだと思う?」
天才博士と名高いトミー・バーマーが自信満々で紹介したのは、直径10メートルはあろうかと思われる機械の塊だった。
「いや、まったく分からんね。なんだいこれは」
5メートルほど上部にあるシリンダーには、真空管のような物が何本も並んでいた。
「いいかい」トミーは言った。「かのモーツァルトの作曲した楽譜には、手直しされた箇所がひとつもなかったことは知っているだろう」
「ああ、聞いたことがある。彼は天才だからな」
「いや、それはモーツァルトが天才だからというだけではなく、すでに出来上がった楽譜を、彼がどこからか受け取っていたと考えるべきなのだ」
「受け取っていただって。いったい誰から」
「異次元の世界からだ。モーツァルトのような天才は、脳にその受信機のようなものが備わっていたのだ。ポール・マッカートニーやスティービー・ワンダーなんかもきっとその類だろうな」
「そんなことがあるものか。馬鹿げている」
スぺランサーは呆れて帰ろうとする。
「じゃあこの楽譜を見てみろよ」
スぺランサーはトミーから渡された譜面に目を落とした。
「これは・・・・・・」
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
それからというもの、世界の音楽シーンは一変した。次々と過去の有名アーティストの新曲が発表され始めたのである。
シューベルトの未完成交響曲の完成版。ベートーヴェンの交響曲第10番。バッハ、モーツァルト、マーラー、ワーグナーの新曲の数々。解散したビートルズの新曲はもちろんのこと、チャック・ベリー、レイ・チャールズ、ジョン・デンバー、ボブ・マリーなどの未発表曲が次々とAI音声でレコーディングされた。
終焉を迎えたはずのアーティスト達の新しい楽曲が、現代の音楽界に満ち溢れたのである。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
その日スぺランサーは、震える手で巨大な斧を振りあげて、トミーの作りだした装置に向かって振り下ろした。トミーの発明した機械は跡形もなく完全に破壊されたのである。
どうしてこんなことをしたのかといえば、この装置のおかげでこれから有望視されていた新しいアーティストたちの未来は、暗黒の闇に閉ざされてしまったからだった。
駆けつけた警察官に取り押さえられたスぺランサーは、引きずられながらこう叫んだという。
「さらば古き良き音楽。こんにちは、聴いたこともない新しい音楽たち!」
3月20日 LPレコードの日
一生のうちに二度とない出会いとは、何の前触れもなく、突然やってくるものである。
プリンス・レコードの社長、覚田東次郎は社用車の後部座席に座っていた。
「シャンソンや民謡や演歌もいいけど、我社もそろそろ今風の歌手が必要だと思わないかね」
「社長。ごもっともなご意見です」
運転手の山田がハンドルを操作しながら返答する。
「ちょっとラジオを着けてくれないか。そろそろうちの新人歌手が歌番組で紹介される時間なのだ」
「承知しました」
山田はラジオのスイッチをONにし、周波数を指示された民放ラジオ局に合わせた。軽快な音楽と共に、ラジオアナウンサーの声が流れて来た。
“やあやあ、みなさん。一週間のご無沙汰でした。今日はこれからデビューする新人歌手の歌と、街でみかけた素人バンドの特集であります”
「ほうこの番組、素人の曲も流すようになったのか。ラジオ局も相当ネタに困ってるらしいな」
覚田は葉巻に火をつけて煙を吸い込んだ。
“最初のバンドの名前は『リリカル』です。どうしてこんな名前を?”
“そうですね。心に残る深い感動を与えたいっていう意味でつけました”
寝ぼけたように低く悠長な受け答えだった。なんだこいつは、どこかの田舎から出て来たのか。
“なるほど。今日はスタジオに自主製作のLPレコードを持ってきていただいています。それではお掛けしましょう。リリカルで、『愁傷アマリリス』です”
次の瞬間、軽快なテンポでリリカルの曲が始まった。先ほどのボケた感じからは想像もできなかった。歌い出しが物凄く早い。ビートが効いている。
「おい、山田。あそこの電話ボックスで車を止めてくれ!急げ。これだ、おれが欲しかったのはこういう音楽だ」
運転手は急ブレーキをかけて路肩に駐車した。覚田は転がり落ちるように電話ボックスに駆け込んだ。
「おい、今のリリカルを出してくれ。いま本番中?おれはプリンスの覚田東次郎だ。今すぐリリカルを電話口に出してくれ。ああ、頼む。責任はおれが取る・・・・・・。・・・・・・あ、わたしはプリンスレコードの覚田という者だが、君たちはまだどことも契約していないのだな。そうか、すぐに我社と契約しよう。他から話が来ても断るように。いいね、これからそちらに行くから待っていてくれ」
覚田は電話口でそれだけまくし立てると、車に戻って行った。
「どうでした」
運転手の山田が後部座席の覚田に声をかける。
「うまくいったよ」
覚田はふうと息を吐いて呼吸を整える。「ラジオ局に向かってくれ」
その時、ラジオから慌てたアナウンサーの声が流れて来た。
“大変失礼しました。ちょっとした手違いがあったようです。先ほどのレコードですが、33回転のところを間違えて78回転で回してしまったとのことです”
その後リリカルの、ゆったりとしたお経のような曲がおだやかに車内に流れ始めた。
3月21日 ランドセルの日
「お母さん恵令奈が大変!」
スーパーの品出しをしていた嘉代子のもとに、長女の多実子が顔面蒼白になって飛び込んで来た。
「どうしたの。恵令奈に何があったの」
「それが・・・・・・それが・・・・・・」多実子はぶるぶると唇を震わせた。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
「早いものねえ。恵令奈も小学生になるんだねえ」
嘉代子は、末っ子の恵令奈が真新しいピンクのランドセルを背負っている姿をみて思わず涙ぐんだ。スーパーを経営していた夫を早くに亡くし、嘉代子は女手ひとつで二人の娘を育てて来たのである。
今では嘉代子はスーパーマーケットの女社長として店をキリモリしていた。長女の多実子はすでに中学二年生だが、次女の恵令奈はだいぶ後に産まれた子供である。まだ幼稚園だった恵令奈は、いつも大人になったら嘉代子の仕事を手伝うのだと言っていた。恵令奈はスーパーマーケットの仕事が大好きだったのだ。
「おばあちゃんに見せてくる」
「車に気をつけて行くのよ」
「はあい」
恵令奈はランドセルに、クマのぬいぐるみを詰めると、近所に住む嘉代子の母親のアパートに向かった。恵令奈はよたよたと、ランドセルを左右に揺らしながら歩いて行った。恵令奈がランドセルを背負っているというより、ランドセルが恵令奈をかかえているようにしか見えない。
横断歩道のある交差点にさしかかると、恵令奈は手をあげて渡りだした。そこへ、タンクローリーがスピードを緩めずに走ってきた。一瞬、恵令奈の目と運転手の目が絡みあった。運転手の目が、大きく見開かれた。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
「・・・・・・それで、止まり切れないタンクローリーを、片手で受けとめてそのままあなたの家までぶん投げたと」
「そうなんざんす」
逆さまになったタンクローリーが突っ込んで潰された家の婦人が、駆けつけた交通課の警察官に事情を説明していた。
「それで、そのタンクローリーを投げ飛ばした女の子はどこへいったんです」
「なんだか、おばあちゃんにランドセルを見せに行くんだって、さっさと行っちゃったのよ。たしかあの子、あそこのスーパーの子じゃなかったかしら」
「はは、将来の“スーパーガール”ですな」
「笑いごとじゃなくってよ。お巡りさん」
3月22日 世界水の日
世界の人口80億人中の20億人。つまり1/4の人々は日常的に安全な飲料水を手に入れることができていないという事実をあなたは知っているだろうか。
「ちょっとさ、“人口ポールシフト”をやってやろうかと思うのだが」
水神は地神にそう言った。
「なんじゃい。その“人口ポールシフト”というのは」
地神は白く長いあごひげをいじりながら水神に尋ねる。
「教えてほしいか」
丸顔の水神がもったいぶった言い方をする。水神と地神は、いわば水と油のような関係だった。
「水臭いことをいうな。ちゃんと説明せい。このあいだ、水ようかんを奢ってやっただろうが」
「仕方がない。魚心あれば、水心じゃ。いいかの、普通のポールシフトというのは、地球の軸がズレることをいうのだ。でも人口ポールシフトというのは、地面はそのままで、そこに住む人間と建物だけがズルッと動くんじゃよ」
水神がニヤリと笑う。「そうなるとどうなると思う。今まで湯水のように水道水を使っていた者たちにとっては、寝耳に水の状態じゃ、もはや覆水盆に返らずじゃな。」
「あんたの説明、立て板に水のようじゃな。それで・・・・・・そうするとどうなるんじゃ?」
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「お母さん、水が出ないよ」子供は洗面台にある水道の蛇口をのぞきこんだ。
「あら、どうしたのかしら」
「おい、テレビを観てみろ」
居間で新聞を読んでいた父親が大きな声を上げる。
“臨時ニュースを申し上げます。
現在日本にお住まいの全家庭の水道が断水しております。パニックにならず、落ち着いて行動してください。
なお、昨日まで飲料水が確保できていなかったバングラデシュやエチオピアなどの人々が、豊富な飲料水を確保できるようになったと発表されました。現地の子供達は、これで水汲みをする必要がなくなったと、まるで水を得た魚のように勉学に励んでいるそうです”
「お父さん、午後から給水車が出るそうよ」と、母親が言う。地区のLINEグループからメールが入ったらしい。
「水を差すようだが、きっと焼石に水だろうよ」父親は肩をすくめる。「水源がないからすぐに枯れてしまうさ」
「そんなこと言ったってはじまらないでしょ。とにかく生きて行くには水が必要なのよ」
「わかった、もはや配水の陣だ。家族全員で水をもらいに行こう」
しかし事態は父親の言う通りに進んだ。給水はすぐに行き詰まり、世界的な水の争奪戦が始まったのである。
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「ひどいもんじゃな。あちこちで戦争が始まったではないか。渇しても盗泉の水を飲まずということわざを知らぬのか」
下界を見下ろしながら、地神が嘆き悲しんだ。
「少し懲らしめてやろうかと思ったが、年寄の冷や水(年齢を考えずに無謀な行動する)だったかのう」
さすがの水神もこの惨状にはいささかやり過ぎたと反省しているようだ。
「まあ、水清ければ魚棲まず(少しは遊びがなければうまくいかない)というじゃろう。これぐらい混沌とした時代も、人間の成長には必要じゃて。いかに水神とて、上手の手からが水が漏れる(誰しも失敗はある)こともあろうというものだ」
と、地神は水神をなぐさめる。
「うむ、それもいささか我田引水(自分勝手)な解釈にしか聞こえぬがな」
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上善は水のごとし(ひとと争うことをしない)という主義の人間たちは、とうとう地球を飛び出し、水星に活路を見出すことにした。
「人間というのは蛙の面に水(まったく応えない)みたいに強いものだ。水火も辞せず(恐れを知らず)に水に絵を描く(不可能な)ようなことをしよる」
水神と地神も心そこ感服した。たしかに水星に移住するのは水の泡に帰することになるかもしれない。それでも流れる水は腐らずである。人類はたくましく生き続けて行くのであった。
3月23日 不眠の日
深夜の大阪。ここは繁華街の雑居ビルの一室である。
不眠症であるわたしはあることを一度調べたことがある。どうせ黒ずくめのこの男は知らないとは思ったが、一応尋ねてみることにした。
「人間て、どれぐらい眠らんとっていられるのやろうな」
椅子にもたれかかって男はめんどくさそうに答えた。「我慢して、11日らしいよ。よう知らんけど」手には拳銃が握られている。
「なに知っとったんか」
ヤクザにしては博識なやつだとわたしは思った。
「ギネスでね。せやけど、ベトナムで40年とか、トルコで50年も眠らへん人間もおるせやで。せやけど、それは起きながらにしぃ、睡眠を取れる特殊なひとに限られるらしいけどな」
わたしは監禁されてすでに3日を過ぎていた。その間、一睡もしていない。見張りのこの男も同じだろう。
「あんた、ふつう交代があるだろうに。なんで誰もけぇへんの?」
「人手不足やねん」
「さよか」
わたしはそろそろ限界に達しようとしていた。後ろ手に縛られたロープをなんとか外そうと努力してみた。だがあと少しのところで、睡魔がわたしを猛烈な勢いで飲みこもうとしていた。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
わたしは私立探偵である。
ある人物から麻薬シンジケートのルートを探るように依頼されていたのだ。しかし証拠を掴んだとたんにバレてこのザマだ。いまヤクザたちは依頼人を血眼になって捜している。依頼人が捕まるまでに、なんとかここを脱出しなくてはならない。
わたしは両腕に力を込めた。すると縄は腐ったゴム紐のように、プツンと音を立てて切れてしまった。わたしの足元に縄が蛇がとぐろを巻くように落ちたのを見た男は、電気仕掛けのおもちゃのように立ち上がった。そして正確にわたしの両脚をめがけて発砲してきたのである。
脚を狙ったのは、依頼人が見つかるまでは生かしておくようにと言われていたのだろう。銃弾はわたしのつま先あたりで、煎った豆が弾けるように跳ね上がった。わたしはそのまま男に突進した。男は今度は銃口をわたしの心臓に向けて構えた。紙袋が爆ぜたような「パンパン」という乾いた音が立て続けに響く。
銃弾のひとつが今度はわたしの頬をかすめた。抵抗したら殺せと言われているのだろう。背後の壁に親指が入るほどの穴が開いた。わたしは男の胃のあたりをめがけて強烈な左フックをお見舞いした。男は息をつまらせてその場に倒れた。
うまく行き過ぎている。
これは夢の中だからだろう。わたしの脳は夢の中でも暗躍していた。部屋を飛び出す。ちょうど表玄関から外回りの連中が帰ってきたところに出くわしてしまった。
「なんやジブン」
男たちが血相を変えて追ってくる。わたしは階段を駆け上がって屋上に出た。追手もすぐに駆けあがってくる。地上5階建てのビルである。隣のビルまでは最低4メートルはありそうだった。
これは夢の中だ。
わたしは勢いをつけて跳んでみた。空中を走るようにバタバタ脚をうごかした。なんとか隣のビルの端に足がついた。ずるりと滑って落ちそうになったが、どうにか持ちこたえることができた。
「アホか。ここまでおいで」
すると追手はどこからか梯子を持ってきてビルとビルの間に即席の橋を掛けはじめた。その他の者は一斉に拳銃を撃ち始める。足元に閃光が走った。
わたしはとりあえずビルの屋上の突き当りまで逃げた。仕方がない。これは夢だ。だが夢の中でも撃ち殺されるのはごめんだった。わたしはビルから果敢に下に飛び降りた。飛び降りようとした道路は、ちょうど走行中の貨物トラックが通過中だった。さすがは夢である。
しかし上空から舞い降りたわたしと、走行中のトラックの荷台では、当然のことながら進行方向が違う。そのためわたしは着地と同時に、トラックの後方めがけて転がってしまった。そのまま行けば、アスファルトの道路に投げ出されるところだったが、そこは夢の中である。なんとか荷台の最後尾につかまり、九死に一生を得る。
ところが、わたしを追って、ビルから飛び降りて来たヤクザが数人いたらしい。3人が次々とわたしの頭上を悲鳴をあげながら振り落とされて行った。それでもひとりだけは踏みとどまった。ニヤニヤ不敵な笑いを浮かべながら近づいてくる。そしてわたしの眉間に銃口を向けた。
「これで終いやな」男は言った。
男が引き金を引こうとした次の瞬間、道路にせり出していた看板が、男の後頭部をしたたかに打ち着けた。ドラを鳴らしたような盛大な音がして、男がわたしの頭上を越えて消えていった。キャベツが潰れるような音がした。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
ようやくトラックが停車した。ドライバーが異変に気付いたのだろうか。わたしはよろつく足で地面に降り立った。トラックの前方に人影が立っていた。
「ほら言うたやろ。彼なら生き残るって」
「ほんまやな」
依頼人の京香とヤクザの親分だった。そう依頼人の京香は親分の娘なのだ。
「ほなら、この人と一緒になっていいのね」
「しゃあないなあ。約束やからな」
そうか、京香の依頼は単にわたしの生存能力を試すためだったのか。
京香はわたしに抱きついてきた。「合格だって!よかったわね」
わたしは京香の胸に抱かれながら昏睡する。(あれ?どこからが夢で、どこからが現実だったのか・・・)わたしの背筋に冷たいものが流れた。
◎著者追伸:この話をわざわざ大阪を舞台にしたのは、大阪府民に敬意を表したからに他ならない。
3月24日 マネキンの日
「いつものところで8時過ぎに待っているよ」
「分かったわ」
「今日は何を食べに行く?」
「そうねえ。たまには和食もいいわね」
「オーケー、いい店を探しておくよ」
ぼくの彼女はデパートの洋服売り場で働いていた。
彼氏のぼくが言うのもなんだが、スタイルがいいので洋服売場を任せられているのだと思う。彼女の勤務はだいたい夜8時過ぎまでだ。ぼくらはそれから待ち合わせをして、レストランやバーで軽く食事をするのが毎日のルーティンだった。
ところがその日を境にして、彼女が待ち合わせ場所に現れることはなかった。携帯電話もつながらない。なにか事件にでも巻き込まれたのではないだろうか。意を決してぼくは売り場を訪れた。やはり彼女の姿は見当たらない。
彼女の同僚がなにか知っているかもしれない。まさか、ぼくに黙ってデパートを辞めたとか、転勤とかしていたりすることはないだろうか・・・・・・。もしかしたら、病気で休んでいるのかもしれない。
「すみません。沼宮洋子さんはいらっしゃいませんか」
ぼくは近くにいた女性店員を捕まえて訊いた。
「沼宮ですか・・・・・・。少々お待ちください」
年配の店員は奥の男性社員となにやらこちらを見ながらコソコソ話しをしている。店員は済まなそうに戻ってくると言った。
「当店にはそのような者はおりませんが」
「過去にも?」
「はい。以前からそのような者は・・・・・・」
ぼくは混乱した。
その時である。ひとつのマネキン人形が目に留まった。洋子に生き写しだった。ぼくは近づいて行って、マジマジとそのマネキンをながめた。
「これはいったい・・・・・・」
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
この謎を解くため、ぼくはデパートで夜勤のアルバイトに応募した。特設売場の設営係である。設営は営業終了後に行われる。休憩時間ともなると、ぼくは飲み物を買いに行くふりをして洋子に会いにいった。
「洋子」もちろん返事が返ってくることはなかった。
ある日、いつものように設営をしているとけたたましく火災報知器が鳴り始めた。地下食品売場から火災が発生したのである。全員が避難を開始する中、ぼくは洋服売り場に走った。そして洋子を抱きかかえると、一目散に階段を駆け下りたのだ。
デパートの社員通用口では、盗難防止用に持ち物検査が行われるのだが、非常時ともなれば別である。ぼくはマネキン人形をかかえながら、難なく洋子をデパートの外へ運び出すことに成功したのであった。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
それからというもの、ぼくの部屋にはいつも洋子がいた。
彼女とぼくはいつでも瞳を見つめ合った。そしてぼくは彼女の髪を撫で、唇を重ねた。ときにはブラウスのボタンをひとつひとつ外すこともある。そして下着も・・・・・・。
その後ぼくは自分の部屋を『人形の家』と呼ぶようになった。
ぼくは毎晩、彼女が一日でも早くもとの人間に戻れるように神様にお願いをした。「そのためなら、なんでもします」と・・・・・・。
ある日、突然彼女が目を覚ました。念願かなって、とうとう洋子は生身の人間に戻ることができたのだ。するとどうだろう、今度はぼくの身体がまったく動かなくなってしまっていた。
「あら。ここはどこかしら。あれ、容平じゃない。おや?・・・・・・容平にそっくりなマネキン人形か」
洋子は腕を組んでしばらくぼくを眺めていた。(洋子、人形なんかじゃないよ。ぼくは本物の容平だ)
「・・・・・・なんだか無性にムカついてきた」
そう言うと洋子は、僕の首をもぎ取った。そしてまるでサッカー・ボールのように、力まかせに壁に向かって蹴り飛ばしたのだった。
3月25日 電気記念日
「式典はかなり盛り上がっただろうな」
「それがさあ・・・・・・」
1878年(明治11年)日本で初めて、公の場で電灯が灯された。
式典が行われたのは東京虎ノ門にある工学大学の大講堂であった。会場には多くの著名人や財界人、文化人の紳士淑女が詰め掛けていた。
夕闇が迫ってきて、広い講堂にも蒼い影がベールを降ろしたように広がって来る。さらに日没ともなれば、会場内は漆黒の闇へと変化していった。暗闇の中で、人々のささやきと身動きする衣擦れの音だけが異様に響くのだった。
そして突如一斉にグローブ電池50個を使用したアーク燈が点灯された。暗闇が昼間のような明るさになったのだ。大きな拍手と共に、あちらこちらから咳払いが聞こえた。暗闇に隠れて抱擁を楽しんでいた紳士淑女があちらこちらにいたらしい。
そのときに報道陣が一斉にカメラのフラッシュを焚いた為、偶然にもいくつものスキャンダルがフィルムに収められてしまった。
それが後に写真週刊誌『フ〇ッシュ』の原点になったかどうかは定かではない。
3月26日 ベートーベン命日
「おいマリア。この子は天才だぞ」
飲んだくれの父、ヨハン・ベートーヴェンがシャックリをしながら言った。「育てかた次第ではわが家の救世主になるかもしれないぞ」
ヨハンは宮廷で歌うテノール歌手であった。まだ幼いベートーヴェンが、悪戯でオルガンを弾いていたのを、ヨハンは酔いつぶれた頭の片隅で聴いていたのである。
「あなた。子供に期待をかけすぎるのは良くないわ。子供に食べさせてもらう前に、あなたのお酒の量を減らしていただけると、少しは家計も楽になりますのよ」
妻のマリアは酒飲みの夫をたしなめる。食べるものに困ると、時々宮廷料理人の母に食料を分けてもらって生活する始末だったからだ。しかし、翌日からヨハンの猛烈なシゴキの日々が始まった。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
ヨハンの強烈なスパルタ教育に、内心反発しながらも、8歳のベートーヴェンはケルンでピアノ演奏会において鮮烈なデビューをはたす。そして12歳で本格的に作曲活動をはじめ、14歳になると宮廷のオルガン弾きに抜擢された。
14歳で一家の大黒柱か・・・・・・暗澹とした気分も、優しい母のためならと、若きベートーヴェンは自分が犠牲になることに耐えることができたのである。
彼の卓越した作曲能力と、正確無比な鍵盤さばきは評判となり、16歳になるとウィーンで当時絶大な人気を誇る作曲家モーツァルトに会える機会を得る。
「なんだこの黒いモジャモジャ頭の小僧は」
モーツァルトはギョロリとした眼をごつい体格の青年に向けた。
「異様にギラギラした目つきをして。背が低いくせに肩幅が広くて真四角なやつだな」とモーツァルトは内心思った。
ベートーヴェンも「この猿みたいに軽薄なひとが、本当にあの“神童”と呼ばれたモーツァルトなのか」といぶかしく思う。
「とりあえず君、何か弾いてみたまえよ」
モーツァルトが軽口をたたくと、ベートーヴェンは当たり障りのない自作のピアノ曲を数曲披露してみせた。
「うーん。悪くない。でもちょっと堅いかな。もうすこし崩すともっと良くなる」
そう言って、モーツァルトは今ベートーヴェンが弾いた曲を自分流にアレンジして、若きベートーヴェンに聴かせたのである。ベートーヴェンは思った。たしかに面白い。けど演奏にムラがあって、しかも滑らかじゃないな。
言葉にしなくてもモーツァルトはベートーヴェンの眼を見て全てを悟った。その後ふたりは二度と会うことがなかった。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
17歳になると、最愛の母マリアが亡くなってしまった。悲嘆にくれたベートーヴェンはエレオノーレという女性と恋におちる。どこか母に似ている女だった。そして18歳でボン大学に入学すると、ベートーヴェンは母マリアの面影を追い求めるように、次々と恋に溺れて行った。
21歳になった。当時有名であったハイドンに弟子入りが許されたものの、多忙なハイドンからは何の指導も受けることが叶わなかった。その後有名になったベートーヴェンの演奏会のパンフレットに、ハイドンからプロフィールに“ハイドンの弟子”と書くよう指示がなされた。癇癪もちのベートーヴェンは「あなたに教わったことなど何ひとつない!」とこれを一蹴したという。
ハイドンをはじめ、この時代の音楽家は宮廷や貴族のためのものであった。ベートーヴェンは、父もハイドンも大嫌いだった。そこで無謀にも、ベートーヴェンは大衆のための音楽家を目指すようになった。当時としてはとんでもないクーデターのようなことをしたのである。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
ある日、友人で詩人のヘルマン・ヘッセと街を歩いていると、オーストリア皇后の一行と出くわした。
ヘッセは脱帽すると最敬礼をして行列をやり過ごそうとした。ところがベートーヴェンは何食わぬ顔で行列の前を堂々と横切って行ったのだった。“変人、無礼者、非常識、無精者”・・・・・・世間のベートーヴェンに対する世評は作品とは裏腹に次第に冷たいものへと変わっていった。
血は争えないものである。40歳を過ぎた当たりから、あんなに軽蔑していた父のように、安物の白ワイン『トカイワイン』を毎晩愛飲すようになっていた。
不幸は何の前触れもなく起こるものである。30歳から患いだした難聴がひどくなり、ベートーヴェンの耳はとうとう何も聞こえなくなってしまった。いや、煩わしい雑音が耳に入ってこなくなったと言ってもいいのかもしれない。そんな音の無い世界で、彼は、『エリーゼのために』『皇帝』『英雄』『運命』『田園』などを立て続けに発表して世間を驚かせたのである。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
聴覚を失ったベートーヴェンは交響曲第九番(合唱付き)の指揮を終えたとき、満場の拍手喝采にも気がつかなかったという。見かねた楽団員のアルト歌手が、ベートーヴェンを観客に振り向かせてくれた。
ベートーヴェンは聴衆に向かってニッコリと微笑んだ。やれやれ、聴こえない振りをするのも楽じゃない。ついうっかり振り向いてしまうところだった。
翌朝ベートーヴェンはいつもの通りコーヒーを飲もうと、ひとり分のコーヒー豆をキッチリ60粒数えていると、女中が笑顔でからかってきた。
「ご主人さま。いつまで聞こえない振りをなさっているおつもりですか。ご近所のご婦人があのひとは本当に耳が不自由なのかしらと疑ってましたわよ」
「うるさいな!」ベートーヴェンはそこにあった卵を女中に向けて投げつけた。この女中もちょっと母のマリアに似た女だった。
「そろそろここも引き払うか」
耳が聞こえることがバレそうになる度に、ベートーヴェンは引越しを繰り返してきた。生涯で60回も住居を変えたのはこのためなのだ。
晩年56歳のベートーヴェンは死の間際にこう言い残した。
「諸君、さあ喝采を。これで喜劇は終わりだ」
3月27日 さくらの日
春は多くの別れを生み、そしてまた多くの出会いを育む。桜はちょうどその境に、まるで全ての感情を吸い寄せたかのような、淡いピンクの花びらを咲かせるのである。
「行かないで・・・・・・」
その一言が言えなかった。
桜子にとって、輝は青春のすべてだった。全身全霊をこめて恋をしていたのだ。卒業式で桜子は思い切って輝に告白した。高校最後の想い出のつもりだった。輝はバスケットボール部のキャプテンで、下級生のあこがれの的であった。輝の学生服の金ボタンはすべて下級生にもぎ取られていた。
「ブルース・リーみたいね」
桜子はくすっと笑ってしまった。ボタンのない学生服が中国の人民服のように見えたのがおかしかったのである。
「いやあ」輝は顔を赤らめて頭をかいた。「桜子さん。これ」
そう言うと、ズボンのポケットから金ボタンをひとつ桜子に差し出した。
「え」
「第2ボタン。これだけは死ぬ気で守り抜いた」
「わたしのために?」
輝は恥ずかしそうに頷いたのだった。しかし東京に就職が決まった輝と、地元の企業に勤めることになった桜子との間には知らず知らずの内に深い溝が生まれて行ったのだった。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
あれから2年が過ぎた。どちらかが離れてしまえば、恋は消滅する。ただ淡い想い出が残るだけだ。
その日の天気は快晴だった。桜子は、気晴らしに中央公園を歩いてみた。もう桜の花がほころび始めている。青い空にはぽつんと白い雲がひとつ浮いている。その雲の上に、輝の笑顔が浮かんでは消えていく。
「忘れよう」
桜子はぽつんとひとつ、小さなため息をついた。
ふと、大きな桜の木の下でお花見をやっている集団に目がとまった。そこには輝によく似た若い男がカラオケで歌いながら踊っている姿があった。
「輝?」
まさか、そんなことがあるわけがない。
「お姉ちゃん。一杯飲んでいきなよ」
桜子に気づいた、酔って赤い顔をしたおじさんが手招きをする。じっと見入っていたので、桜子が仲間に入りたがっていると勘違いしたのかもしれない。
「いえ、わたしは・・・・・・」
「お酒は二十歳になってからよ」
おじさんの隣に座っているおばさんが、酔ったおじさんをたしなめる。
「お姉ちゃんいくつ?」おじさんが桜子を見上げる。
「二十歳になったばかりですけど・・・・・・」
その時、大声で歌っていた輝に似た若者と目が合ってしまった。若者が一瞬驚いた顔をしたが、すぐにビールを煽ってまたマイクで歌い出した。お世辞にも上手な歌とはいえなかった。
桜子は「じゃ、一杯だけ」そういうとビニールシートの端っこにちょこんと座る。おじさんが大型の紙コップにビールを満たしてくれた。桜子はそれを一気に飲み干した。
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気がつくと、桜子はビニールシートの上で眠っていた。たいして飲めもしないのに、お酌されるままに飲んでしまったからだ。それというのも、輝によく似た若者を見て動揺してしまったせいである。桜だけに、気が錯乱していたのかもしれない、なんて・・・・・・やっぱりおかしい。
「あ、気がついた」
さきほどのおじさんが心配そうに桜子の顔をのぞき込んだ。「ごめんごめん。飲ませすぎちゃったかな」
宴会はとうに終わっていた。わたしは跳ね起きて、おじさんに頭をぴょこんと下げた。
「ごめんなさい。わたしそんなつもりじゃ・・・・・・」
「あ、これ君に渡してほしいって」
おじさんに小さな紙の手提げ袋を渡された。
「あいつは新人だからさ。片付けやら何やらで会社に戻らなきゃならないんだよ」
袋の中に小さな走り書きのメモが入っていた。
“桜子。ごめん。
じつは東京に行った後、すぐにこっちに戻ってきて農協に就職していたんだ。
(これは友達にも厳重に口止めしていた)
すぐには恥かしくて桜子に言えなかったんだ。
許されることならまたやり直したい。もしOKならこれを合図に使ってほしい。
そうしたら必ず声を掛けるから 輝”
都会で買ったものだろうか、口紅が1本同封されていた。淡い桜色の口紅だった。
3月28日 シルクロードの日
「またもや遣唐使が襲われてございます!」
長い廊下を走ってきた烏帽子を被った側近が、息を切らせて神武天皇に跪く。
「なに、またしても盗賊に宝物を略奪されたというのか」
天皇の掌に力が入り、ブルブルと震えた。持っている扇子が今にも折れそうである。
「いかがいたしましょうか」
「護衛を強化しなければならぬ」
「しかし陛下。今回も腕利きの侍を6人も随行させたにもかかわらず、またしても盗賊にしてやられたのですぞ」
「ううむ・・・・・・そうだ!あれならどうだ」
「あれと申されますと?」
「だから、あれだ」
「まさか・・・・・・あれでございますか」
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全長6,400km。ユーラシア大陸を横切る交易路を“シルクロード”と呼んだ。中国の絹織物やペルシャの装飾品など様々なものが貿易により、文化の交流も含めて流通していたのだ。その東の終点が、日本の正倉院だったと言われている。
その日も日本に向けて、遣唐使が帰還の行進を続けていた。駱駝の行列は敦煌を出発し、長安を経て、いま洛陽を通過するところであった。
ここで一行は、いったん駱駝に水をやるため休息を取ることにした。すると前方に四頭の馬が現れた。馬上に武器を携帯している男たちが乗っている。左右を見渡すと、同じように四頭ずつの馬が平行してついてきてるのが見える。まさかと思い、背後を振り返ると、やはりそこにも騎乗の男たちがひたひたと近づいてきているのが見て取れた。
「囲まれたか」
四方を見ながら遣唐使のひとりが慌てはじめた。
「薄々感づいてはいたがな」と小柄な男が言う。
「本当か?」
遠巻きにした馬が、遣唐使の一団に急速に間合いを詰めて来る。盗賊の首領なのだろう。先頭の男が声高に叫ぶ。
「荷物を置いていけ。そうすれば命だけは助けてやる」
通訳が遣唐使に伝える。
「嫌なこったと伝えろ」小柄な男が通訳に言い放つ。通訳は一瞬うろたえたが、とりあえずそのまま伝えた。
「タオ ヤン スィ リィ」
盗賊のボスの獣のような目がキラリと光り、大声で手下に合図を送った。
「殺しちまえ!」
その声を聞いて盗賊たちは一斉に襲い掛かってきた。
次の瞬間、いくつもの地面が生き物のように盛り上がり、その手に持った鋭い槍の切っ先が盗賊たちの馬の腹や脚をことごとく抉っていた。驚いた馬たちは、馬上の盗賊たちを振り落として逃げるか、横倒しになってしまったのである。
起き上がった盗賊たちは、小柄な男に刀剣を振りかざした。しかし刀剣は空を切るばかりで、男はニヤニヤ笑っているではないか。しかも、小柄な男はひとりではなかった。同じ顔の男が2人に増え、さらに3人になり、最後には10人の同じ男がニヤついているではないか。
「妖術使いか。お前たちは何者だ!」
「わしか。わしは伊賀の忍者、服部半蔵だ」
そう言うと、10人の服部半蔵が一斉に手裏剣を投げ、次々と盗賊たちが倒れて行った。さらに砂の中から飛び出して来た忍者たちによって、逃げようとした盗賊たちは一人残らず縛りあげられてしまった。
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「さて、話してもらおうか」
服部半蔵は、高さ10メートルはあろうかという巨大なガマ蛙の背中に乗っていた。蛇に睨まれたカエルのように、盗賊の親分はガマに睨みつけられている。恐れをなした盗賊のボスは全てを白状してしまった。なんと盗賊を雇ったのは、宝物を売る商人たちだと言うのだ。高い値段で売ったものを、盗賊に盗ませて、また売るという悪事を繰り返していたのである。
その後、超人的な忍者たちの働きが多くの人に知られるようになり、それをヒントに後年、曲芸団がつくられるようになったという。それが『シルク・ド・ソレイユ』という名前かどうかは定かでない。
3月29日 作業服の日
3人集まれば文殊の知恵という。では5人集まったらどうなのか。
会議室には会社の役員5名、全員が顔をそろえていた。役員が5人しかいないのだから、たいして大きな会社ではないようだ。
「それでは、これからわが社の社運をかけた新商品の名前を決めたいと思います」
どうやら社長の隣に陣取っている総務部長のEが議長らしい。
「その前に、まずわが社の商品の特徴を箇条書きにしたらどうかね」腕組みをしながら、せっかちな性格のA社長が言う。
「そうですね」E部長が社長の発言を受けて頷く。「それでは、ひとり一つずつ新製品の特徴を言っていただきましょう」
「うむ、それではまず社長のわたしから」社長が胸を張って言う。「わが社の商品は“爽やか”が売りだ」
総務部長はホワイトボードに箇条書きを始める。
「爽やか・・・・・・と」
「はい」専務兼仕入部長のBが挙手した。「“しなやかな素材”を使っています」
「“すばやく着ることができます”それゆえ迅速に仕事にとりかかれます」常務兼営業部長のCである。
「はい。わたしも簡潔に」経理部長の紅一点D女史が手をあげる。「“清楚”です」
「それでは最後にわたしも」司会のEがホワイトボードに書き記す。
“袖も取り外しができてとても便利な商品です”
「・・・・・・よし、それじゃあそれで決まりだ」と社長のAが言い放った。
「え、それでって・・・・・・どれです?」総務部長のEが目をキョロキョロさせている。
「時間を無駄にするな。もうみんなの意見を総合して決めたのだ」
「・・・・・・と申されますと?」
社長はホワイトボードを顧みる。
「爽やか、しなやか、すばやく着れる、清楚、袖が取れる・・・どうだ、最初の文字が全て“さしすせそ“のサ行じゃないか。だから『作業服』で決まりだ。はい会議終了。諸君、仕事にかかりたまえ」
Eは心の中でつぶやいた。
(社長、それってタダの一般名称なのでは・・・・・・)
3月30日 マフィアの日
ふだん陽気なイタリア人も、理不尽な扱いを受ければ復讐の鬼になることがある。
マフィアというのは、『Monte alla Fancia Italia anela(すべてのフランス人に死を、これはイタリアの叫び)』の頭文字を並べたものである。
1282年にシチリアの教会において、夕べの祈りをささげていた市民に対し、フランス兵が市民の奥さんにちょっかいを出したのが事の始まりである。怒ったイタリア人が上記のスローガンを掲げてフランス兵を大虐殺する事件が起きたのだ。“マフィアを怒らせると怖いぞ”という定説が、イタリア裏社会組織の根底にあるのだ。
これは、そんなマフィアのボス同士の争いの中で起きた事件である。
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対立する片方のマフィアのボス、アレキサンドロが亡くなった。場所は花の都フィレンツェの郊外にある、石造りの一軒家の屋内である。アレキサンドロは、居間の中央でこめかみを銃で撃ち抜かれていたのだ。発射された銃は死体の右横に転がっていた。
「これは自殺ということになりますかね」
刑事のロレンツィオがリッカルド警部の背中に話しかけた。
「あり得んな。マフィアのボスが自殺なんてすると思うか」
リッカルドは部屋中をくまなく観察して回っている。
「でも警部。ドアも窓からも蟻一匹入る隙間もありません。どう考えてもこの家は完璧な密室じゃありませんか」
「ロレンツィオ君。この家は誰の所有物かね」
警部は絨毯を横から覗き込んだり、指でこすったりしている。
「はい警部。前のオーナーは海外に引越していて、今は空き家のようです」
「現在のオーナーは誰だ」
ロレンツィオは手帳を取り出して読んだ。
「エルドラド不動産です」
「そこの出資者はもしかしてレオナルドじゃないのか」
「おっしゃる通りです。アレキサンドロと対抗するマフィアのボスです。だからと言って、どこの不動産も多かれ少なかれ、どちらかと繋がりがありますからね」
「行くぞ」
「どちらへ」
「エルドラド不動産に決まってるだろ」
「了解しました」
刑事はため息をついた。
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「レオナルドさん。アレキサンドロを殺害したのはあなただね」
リッカルド警部はレオナルドのオフィスに来ていた。
「なんのことかな」
レオナルドはマホガニーのデスクに向かって仕事をしていた。上等な葉巻をくわえて上機嫌にリッカルドを眺める。レオナルドの両側には大男がふたり、ダークスーツに身を包んでまるで不動明王像のように立っていた。左胸が膨らんでいるのは、ホルスターに拳銃がぶら下がっているからだろう。
「ずいぶん大掛かりな密室トリックを仕掛けたようじゃないか」
「密室トリック?」
「エルドラド不動産によると、あの物件の清掃はアレキサンドロがあそこで亡くなる前日に行われていた。
それにもかかわらず、現場の絨毯には土埃が見受けられたのだ。おかしいと思わないか」
「掃除屋がさぼったか、天井から昔のホコリが落ちたんだろうよ」
「レオナルドさん。あんた、空軍にもツテがあるらしいね」
「どこにだってあるさ」
「あの日、空軍のA129マングスタが全機出払っていた記録が残っている」
「マングスタ?」
「攻撃ヘリコプターさ。ターボシャフトエンジン2基を搭載した化け物みたいな出力のヘリだそうだ。
あんたはあの重たい石造りの家ごとそのヘリコプターで持ち上げて、死体と拳銃を居間に放りこんだのさ」
レオナルドの瞳の奥が一瞬、炎のように赤く燃えた。その時デスクの電話が鳴り出した。レオナルドは受話器を取る。
「はい・・・・・・」レオナルドがにやりと笑う。「警部、あんたにだ」
電話は警視総監からだった。捜査の打ち切りを宣告してきたのだ。
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ビルの前でロレンツィオ刑事が車で待機していた。
「どうでした?」
リッカルド警部は肩をすくめた。
「予想通り。あの野郎、警察幹部とも繋がっていやがった」
「くそう」ロレンツィオはハンドルを叩く。
リッカルド警部は車の助手席に乗り込むと、勢いよくドアを閉めた。そして車窓からレオナルドのビルに向かって大声を上げた。
「すべてのマフィアに制裁を!これはリッカルドの叫びだ!」
3月31日 オーケストラの日
「オーナー。春季コンサートの指揮を客員にさせるという話は本当ですか」
ここは楽団のオーナー室である。常任指揮者の宇山剣一郎はオーナーの杉﨑亮太に詰め寄っていた。
「ああ、その通りだ。今回のコンサートでは三神健治先生にお願いしようと思っている。少々値は張るがね。彼の女性人気は絶大なのだそうだ」
「それだけの理由で・・・・・・考え直していただけませんか」
「宇山君。これはもう決定事項なのだよ。公演のポスターもすでに発注済みなのだ」
「・・・・・・わかりました。失礼します」
宇山はオーナー室を後にした。
意外と知られていないかもしれないが、指揮者はオーケストラの一員ではないのである。宇山のように契約で常任指揮者を務めている者もいるが、今回の三神健治のようにフリーで有名オーケストラを渡り歩く人気指揮者もいる。もちろんたまに、常任も務めるが、自由に他のオーケストラも指揮できるよう有利に契約できる指揮者もいないこともない。
宇山は義理の姉に電話を掛けた。
「義姉さん。ちょっと話があるんだ・・・・・・」
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「義姉さんは三神健治の心理カウンセラーもやっているって聞いたんだけど、本当?」
宇山剣一郎は義姉の診察室にいた。
「やっているわよ。あなたみたいに神経擦り減らす指揮者って多いものね」
宇山美津子は一昨年兄が癌で亡くなったため、現在は未亡人である。すれ違いざまに大抵の男が振り向くぐらいの美人だ。
「可愛いい義弟を助けると思って、一生のお願いがあるんだ。三神健治を殺してほしいんだ」
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コンサートの朝が来た。宇山は電話を掛ける。2コールで相手が出た。
「はい、三神です」
「コンサートの朝食には、オレンジジュースとパンケーキが最適な組み合わせだそうですよ」
「・・・・・・」電話が切れた。
美津子が仕掛けた、マンションの窓から飛び降りろという暗示の言葉である。
2時間後、オーナーから電話が入った。
「すまない。今日のコンサートなのだが、急きょ三神の代わりに振ってもらえないだろうか」
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満場の拍手のあと、宇山剣一郎は指揮棒を持った。
「?!」
動かない。指揮棒を持った手が、石のように固まってまったく動かないのである。団員たちが顔を見合わせ始めた。額から汗がこぼれ落ちる。
「いや、お待たせしました」
そのとき舞台の袖から三神健治が颯爽とその姿を現した。どっと拍手が沸きあがる。
「!」
続いてふたりの目つきの悪いスーツを着た男たちが現われて、宇山の腕を両側からかかえ耳元でささやいた。
「宇山剣一郎。殺人未遂の疑いで署までご同行願います」
後から分かったのだが、義姉の美津子と三神はすっかりいい仲になっていたらしい。だから高所恐怖症だった三神の住んでいるのがマンションの1階だったことも熟知していた。そして、宇山が拍手の音を耳にすると、指揮棒が振れなくなるよう暗示を掛けられていたのだ。
三神がマイクに向かう。
「プログラムを一部変更してお届け致します。まずは、オッフェンバックの『天国と地獄』から」
そう言うと三神は、何事もなかったかのようにサッと指揮棒を振った。
あとがき
最後までご覧いただきましてありがとうございます。
この物語はフィクションです。
登場人物、団体などはすべて架空のものです。
まれに似通った名称がございましても関係性はございません。
参考文献・サイト等
・ウィキペディア ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン https://ja.wikipedia.org/wiki/ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン 参照日:2023.8.8
・音楽サロン ベートーヴェンの年譜 pietoro.music.coocn.jp 参照日:2023.8.15
・GIBEON ベートーベンについて残された逸話と謎!耳の聞こえない作曲家の生涯 https://www.gibe-on.info/entry/ludwig-van-beethven 参照日:2023.8.15
・おいしい果実 デコポンはおいしい?まずい?みんなの評判・評価まとめ https://oishii-kudamono.com/dekopon-taste/ 参照日:2023.8.8
・ピクシブ百科事典 バウムクーヘンエンド https://dic.pixiv.net/a/バウムクーヘンエンド 参照日:2023.8.9
・DMMかりゆし水族館 サンゴについて https://kariyushi-aquarium.com/coral/overview/ 参照日:2023.8.11
・「HERE COMES THE SUN」George Harrison(The Beatles) 東芝EMI 参照日:2023.8.12
・TheGATE ホワイトデーお返しのお菓子が持つ意味って? https://thegate12/jp/article/473 参照日:2023.8.15
・異邦人 足の大きさが左右で違う 原因・治し方・靴選びと調整法 https://ihoujin.nagoya/foot-laterality 参照日:2023.8.21
・ORIGAMI-日本の伝統・伝承・和の心 水に関する日本の言葉50選|ことわざ・格言・四字熟語・慣用句 https://origamijapan.net 参照日:2023.8.23
・ウィキペディア マフィア https://ja.wikipedia.org/wiki/マフィア 参照日:2023.8.25
・ウィキペディア A129マングスタ https://ja.wikipedia.org/wiki/A129_マングスタ 参照日:2023.8.25
・ウィキペディア シルクロード https://ja.wikipedia.org/wiki/シルクロード 参照日:2025.8.26
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