5月の短編小説

5月の小説アイキャッチ 春物語
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5月1日  すずらんの日

 すずらんの花言葉は『純粋』『純潔』『謙虚』である。海外では、すずらんの白い花は聖母マリアのベールに似ているということから、清純の象徴でもある。

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

「なるほど、それであなたはわたしにあなたの継母を検挙してほしいと?」

「そうなんです刑事さん。司法解剖をお願いしたいのです」

 わたしは父親が40歳の時に生まれたひとり息子である。母はわたしの出産後、産後の肥立ちが悪くそのまま他界してしまった。最近まで、父と二人きりで暮らして来たわたしにとって、80歳を手前にしての父の再婚には驚きを隠せなかった。しかも、その再婚相手というのが、よりにもよって自分よりも年下の女だったのだ。

 誰がみても遺産目当ての結婚だと思うだろう。父は不動産投資で多くの財を築いたビルのオーナーだ。総資産は数百億円を下らないと言われている。

風野かざのさん。お父さんの死因になにか不審な点でも?」

「父の健康状態は良好そのものでした。少なくともあの鈴子すずこという女と結婚するまでは」

「どういうことです?風野さんはご両親と同居しなかったそうですが」

 刑事は風野の目を見て尋ねた。

「はい。今は一緒に暮らしていません。わたしは独立していましたから」

「お父さんの仕事を継ぐ気はなかったのですか」

「行く行くはそうなったのでしょうが・・・・・・しばらくは絵画に集中したかったのです」

「画家としてですか」

「そうです。別居したのは父との軋轢あつれきから逃れるためでもありました」

「そうですか。それで、お父さんのお亡くなりなられた件で、あなたが気になった事とはいったい何なのですか」

「もし父たちと一緒に暮らしていたのなら、きっとわたしも父の変化には気がつかなかったでしょう。父が再婚してから時々顔を合わせるたびに、父が衰弱していくような気がしていたのです」

「日に日に衰弱していったと言うのですか」

「そうです」わたしは頷いた。「そして気がついてしまったのです」

「何にですか」

「庭一面にすずらんの花が咲いていることをです」

「すずらん」

「鈴子さんが植えたのに違いないと思います」

「以前はなかったというのですか」

「あったのかもしれませんが、気がつきませんでした」

「でも、それとお父さんが亡くなられたこととの結びつきは?」

「わたしも詳しく調べるまでは知りませんでした。はっきり言って驚きました。すずらんには青酸カリをはるかに上回る強烈な毒があるのです」

「ほう」

 わたしは刑事の目をみて言った。

「成人男性の致死量は、たった18gなのだそうです」

「18g・・・・・・」

「そうです。毎日少しずつでも父の食事に混ぜていたとしたらどうなると思いますか」

 刑事は首を振った。

「ううん。まだ信じられないな。あの大人しくて清純そうなご婦人が、そんなことをするなんて・・・・・・分かりました。ご子息のあなたがそこまで言われるのなら、司法解剖をしてみましょう。夫人にはわたしから形式的な検査とでも話しておきます」

「ありがとうございます。お願いします」

 これであの女の悪事も明るみに出ることだろう。

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

 翌日刑事が訪ねて来た。司法解剖の結果が出たというのだ。

「どうでしたか」

 刑事はばつの悪そうな顔をしてはにかんだ。

「司法解剖の結果、毒物は発見されませんでした。おかげで死因は特定できましたがね」

「なんだったのです」

「ちょっと言いにくいのですが、お父上は若いご夫人を本当に愛していらっしゃったのですね」

「それで」

「あなたも別居していなくなったし、あのお歳で毎晩頑張りすぎてしまったのでしょう」

「はあ?」

「いや羨ましい限りです」

 刑事もわたしも、鈴子の清純な顔を思い浮かべて、ふたりして顔を赤らめてしまったのだった。

5月2日  婚活の日

「本日の婚活パーティーは、いつもと趣向を変えまして、お互いに考えていることの逆を言い合うパーティーとなっております」

 司会がマイクに向かってそう宣言した。

「いつもと違う、逆ってどういうこと?」

近くにいた女性会員が不審そうな顔をする。

「はい、皆さまのアンケートによりますと、毎回恰好いいのはスタッフばかりで、集まるのはカスばっかり・・・・・・ウホン」蝶ネクタイの司会者が咳払いをした。「これは忌憚きたんのないご意見でございまして、わたしの私情は一切入ってございません・・・・・・。ええと、35歳以上の女がなぜか多い気がする・・・・・・と」

 男性陣からそうだそうだという声がする。

「年収800万円以上じゃないと話にならないのに、300万以下って何・・・・・・」

 男は金じゃないって言っていたくせにと男性会員皆が思う。

「長男だったら、分かるところに『長男です』とでも書いておいてくれないと後で揉めるもと」

 そんなの自分のせいじゃないし、直すこともできないじゃないか。まさか親を殺せとでも言うつもりか、と男性陣からブーイングが聞こえてきた。

「なんだいったい。婚活にきているのか、食べ放題に来ているのかわからんやつだ」

 会費分だけでも元を取ろうとする輩だな。

「ちょっとその恰好・・・・・・セクシーというよりふしだら・・・・・・」

 目の保養になるから楽しいけど、結婚となると話は別だ。

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

「それでは今から会場に逆流ガスを噴霧いたします。失礼して、スタッフはしばらくガス・マスクを装着させていただきます」

 司会者がそう言い終わると、空調からピンク色をしたガスが噴き出してきた。

「おいおい」

 会場から騒めきと戸惑いの声が上がった。しばらくすると、ピンクだったガスの色が黄色に変色していき、蛍光灯の明かりと混濁して、ほぼわからない状態になった。司会者やスタッフはマスクを外す。

「それではこのあとの1時間、テーブル番号順に5分間ずつコミニュケーションをお取りください」

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

「・・・・・・あのこんにちは。わたしは会社ではペーペーでして」

 社長風の男が隣にいた若い女性に声をかけた。

「あら素敵。興味津々ですわ。年収はいかほどですの」

 あまり乗り気でない女性が愛想笑いをつくりながら質問した。

「そうですね。1000万円ほどでしょうか」

 女は急に眼を輝かせた。

「あら少ない。それじゃ生活できないかもしれませんね」

 隣のテーブルでは男性が美しい女性を射止めようとしていた。

「ぼくは病院を経営していましてね」

 女はうっとりした眼差しを向けた。

「どうりで、みすぼらしい方だと・・・・・・」

 自称医院長はムッとはしたが、気を取り直して言った。

「あなたのようなひょうきんなお顔の方は初めてです」

「ありがとうございます。またお会いしたいですね」

 ふたりは敵意なのか情熱なのかわからない表情をして別のテーブルに移って行った。

 そんな中で、この二人の会話は少し違っていた。

「あなたはパイロットをなさっていらっしゃるのね。素敵だわ」

「ありがとう。あなたはここにいらっしゃると、まるで掃き溜めに鶴ですね。信じられないほどぼくのタイプなのです」

「そう言ってくださると悲しいわ」

「そんなに美しいのだから、彼氏とかいらっしゃるのでしょう」

「そうよ。わたしって凄くモテるから。それに、家に健康で起きたきりの父がおりまして、中々良い巡り合いがいっぱいなの」

「そんなの関係大ありですよ。家族あってのあなたじゃないですか。どんな援助でもさせていただきますよ」

「あら悲しい。会が終わったら、連絡はしないでくださいね」

 その様子を見ていたスタッフが、別のスタッフに耳打ちした。

「主任。見つかりましたよ。あの二人がどうやらお尋ね者の結婚詐欺師のようです」

5月3日  ゴミの日

 遥か銀河系の彼方より、エイリアンの集団が地球を侵略するためふたたび接近して来ていた。

「隊長。この前のフェイクの大砲には、まんまと一杯食わされましたね。モニターの録画を分析してビックリしましたよ」

「まったくだ。あのずる賢い地球人たちめ」

「あのちっぽけな島国をまた狙うんですか?」

「あたりまえだ。今度という今度は、容赦なく殲滅せんめつしてくれるわ。グヘヘヘ」

 エイリアンをのせたUFOの大群が、日本にむけて大気圏に突入した。次の瞬間。5号機が突然火を吹いた。

「何が起こったんだ!」

 それに続いて2号機と4号機が火だるまになって燃え始めた。

「どういうことだ」

「隊長。たいへんです。この星の軌道の周りには、宇宙地雷と思われるものが数万個も浮かんでいるようです!」

「何だって。その衝突速度は」

「毎秒10kmから15km。これは地球のライフル銃の10倍のスピードにも匹敵します」

「退却だ。いますぐ全機退避せよ!」

 そう、地球の軌道には使われなくなった人工衛星や打ち上げロケット、その廃材やこわれた破片などが数千万個も飛び回っているのである。

 この時エイリアンのUFOはその半数近くを失い、その後二度と地球に近づかなくなったという。エイリアンの隊長が最後に残した捨て台詞せりふが、地球の通信機器によって傍受され、その音声記録が今も残されている。

「・・・・・・くそう。外見と違ってなんて汚い星なんだ。ゴミぐらいちゃんと片付けとけよな!」

5月4日  ラムネの日

「ねえパパ。このビー玉どうやって入れたのかなぁ?」

 さわやかな五月さつき晴れの午後である。父と息子が公園のベンチでラムネを飲んでいた。

さとしも不思議に思ったか。実はパパも子供の頃、このガラス玉どうやって入れたんだろうって不思議に思ったんだよ。でも智、これはビー玉じゃないんだよ」

「ええ、これビー玉じゃん。ぼくの持ってるのと同じだよ」

「これはね、エー玉っていうんだよ」

「エー玉。なにそれ?」

「この玉はビンの栓の役目をしているだろ。だから完全な球体じゃないといけないんだ。それでA級品を使う。すこしでもいびつな玉は、B級品として捨てられる運命なんだよ」

「え、捨てられちゃうの。もったいないよ」

「そう思うだろう。だから駄菓子屋でビー玉という名で、子供のおもちゃとして売られているのさ」

「ああそうか。だから家にあるのはビー玉なんだね。だけど、どうやったらエー玉が瓶に入るのさ」

「ラムネの口は最初大きく開いているんだ。そこへ完全な球体のガラス玉を入れる。そうした後で熱を加えて口をすぼめるんだ」

「ふうん」

「ところで智、エー玉とビー玉のお話をしてあげようか」

「うん。どんなお話」

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 ある日、双子が生まれました。ふたりとも玉のように可愛い女の子でした。でも少しずつ違いがあったのです。

 姉の瑛子えいこは完璧な容姿を備えており、妹の美妃子びひこの方は、どことなく崩れた魅力がありました。ふたりの生まれた家は貧しかったため、生まれた子供達は里子に出されることになりました。瑛子は非の打ち所がない容姿と性格で、吉原の遊郭で花魁おいらん見習いとして出されました。そして美妃子は子沢山の農家に、子供の世話役として養子に出されたのです。

 性格のいい美妃子は、すぐに子供達がなつき、村一番の人気者になったそうです。そしてたくさんの子供の笑顔に囲まれて暮らす日々だったそうです。それに対して瑛子の方は、男衆からたいそう人気が出て「吉原にお瑛あり」と言われるぐらいの有名な花魁になりました。

 瑛子は一度だけ美妃子を見かけたことがあります。

 花魁道中の最中でした。美妃子は小さな子供達を連れて、道の隅から瑛子の姿を眺めていたのです。大輪の花のような唐傘をしたがえ、きらびやかな着物をまとい、黒い漆塗りの高下駄で、しゃなりしゃなりと歩くお瑛の姿はまさに天女のようでした。美妃子の瞳から流れ落ちる涙に、お瑛は長いまつ毛を揺らしてサインを送ったそうです。

 時代は移り、遊郭が法律で無くなることになりました。お瑛は地方の豪商の若旦那に見受けされることになったのです。

 その後、瑛子と美妃子が再開を果たしたのは、それから40年後のことです。二人は手を取りあって見つめ合い、いつまでも笑っていたのだそうです。

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「智。瑛子と美妃子、さてどっちが幸せな人生だったと思う?」

「パパ。このお話ぼくにはちょっと難しすぎるよ」

5月5日  子供の日

「もしも一生で一度だけ願いが叶う日があったとしたら、あなたは何をお願いしますか」

 週末の夜である。深山雄三みやまゆうぞうは行きつけの御食事処『みやび』でいつものようにお酒を吞んでいた。

「そうだなあ、子供の頃に戻ってみたいものだなあ」

「子供の頃に?」

 『雅』はカウンターしかなく、5人も座れば満席になってしまう小さな店だった。ちょうど同年代ということもあり、偶然隣り合わせになった50代の男と旧知の仲のようになり、久しぶりに話しが弾んでいたのだ。

「そう。この雅という店の名前はね、実はわたしの生き別れた母親の名前と同じなのですよ」

「へえそうなんですか。どんなお母さんだったんですか」

「いや、まだ幼かったんでおぼろげにしか記憶に残っていないのです」

「なるほど・・・・・・。どうです、ぼくに1時間だけ時間をいただけませんか。その願い叶えてあげられますよ」

「え。あなたも相当酔っぱらっているようだね」

 わたしは破顔した。

「もしそんなことができるのなら、是非お願いしたいものだ。満たされなかった思いのまま死んで行くのは寂しいからなあ。ね、お母さん」

 雄三は雅の女主人に話を振った。女主人は萎れたお婆さんだったが、いつも静かに微笑んで客の話しを聞いているのだった。

「では明日会社の方にお伺いさせていただきます」

 男はわたしの名刺をポケットにしまうと、勘定を済ませて店を出て行った。

「ふふ。酔っぱらいの友達が増えたみたいだ」

 雄三は徳利のお酒を盃に注いだ。

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 翌日雄三は子供の日で祝日だったが、会社の残務を片付けるために少しだけ出勤することにした。午前中に手際よく仕事を片付けた。そして会社の門を出る。そこに昨晩の男が待ち受けていた。

「こんにちは」

 男は快活に笑顔で挨拶をしてきた。昨夜とは違って、薄いブルゾンにジーンズというラフな格好をしている。

「あ、あなたは昨夜の」

吉田よしだです」

「まさか、あの話で?」

 雄三は狼狽うろたえた。まさか本当にわたしに会いに来るとは思ってもいなかったのである。

「さあ、ご案内します」吉田と名乗った男が歩き出した。「すぐ近くですので」

 もしも車に乗せられそうになったならば、猛ダッシュで逃げていたかもしれない。

 一軒の洋館に到着した。アンティークな家具が置かれた居間に通されると、吉田は上等なカップにコーヒーを淹れて出してくれた。

「ここにおひとりで住まわれているのですか」

「そうですね。賃貸ですけど、なかなかいい雰囲気でしょう」

「まあ、そうですね。ところで吉田さんはどんなお仕事をされているんです?」

「大手の製薬会社に勤めています。そこで新薬の研究なんかをしているんですが、ぼくの開発した新薬があまりにも効きすぎるので、一般発売は延期になってしまったんですよ」

「それはまたどんな・・・・・・」

「あなたの願いを叶えることができる薬です」

「どういうことですか」

「お母上を幼い頃に亡くされたあなたは、母親の愛情を受けることなく今まで過ごしてこられたのですよね」

「・・・・・・そうです。重い病いだったと聞いています」

「あなたはこのままだと母親の愛情を知ることなく死んでいくことになってしまう。でもわたしの薬を使えば、たった1時間だけですがあなたを幸せにすることができるのです」

「言っていることがよくわかりません」

「これからあなたに1時間だけ3歳の子供になっていただきます」

「ほんとうですか。でもわたしがひとりで子供になったからと言って何が変わるというのです」

「母親役はご用意してあります」

「しかし・・・・・・」

「実はすでにあなたは薬を服用しています。先ほどのコーヒーに混ぜてあったのです」

「そんな・・・・・・」

「変体したところで、こちらの洋服に着替えてください。3才児の洋服です」

「しかし君、お代は・・・・・・」

「お金はいただきません。お近づきの印ということで。ただ、この薬は一人の人間に対して1回しか作用しませんのでご承知おきください。
要するにこれが最初で最後のチャンスになります。ではのちほど」

 そう言うと吉田は奥の部屋に引っ込んでしまった。するとどうだろう。雄三の身体がみるみる縮んでいくではないか。

「おい、マジか」

 気が付くと雄三は大人の服をかぶった3歳児に変貌していた。雄三は急いで子供の服に着替えた。そして、そばにあった鏡に自分の姿を写してみた。そこにはたしかに子供の雄三がこちらを向いて立っていたのである。

 背後の扉が開き、女性が入ってきた。鏡越しに雄三と目と目が合った。雄三は振り向いた。そこに亡き母が立っているではないか。雄三はしばらく動けないでいた。長い年月、雄三はひとりぼっちだったのである。足が動かない。

「ゆうちゃん」母が優しく話かけてくれた。「ゆうちゃん元気だった?」

 母の声が雄三を突き動かした。雄三は思い切り母に抱きついた。

「おかあちゃん!おかあちゃん!おかあちゃん!」

 雄三の眼から涙がとめどなく溢れた。母役の女は雄三を優しく抱いてくれた。女優なのだろうか、母も両目から綺麗な涙を流していた。

「ゆうちゃんごめんね。寂しかったね。本当にごめんね」

 雄三は母の胸に顔をうずめて泣き続けた。そして母の胸の内で、安心しきった雄三は眠ってしまった。

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「よかったですね。息子さんを抱きしめることができて」

「ありがとうございます。吉田さんのおかげです」

 雅の女主人が頭を下げた。顔を上げると、老婆の目にはまだ涙の跡がくっきりと残っている。

「わたしはあの子を産んだ後、人をあやめて刑に服していました。親族はそれを雄三に隠すためにわたしを病死したことにしたのです。わたしもそれで良かったと思っています。でもこの歳になりますと、どうしても我が子をこの手に抱いてみたいという想いが日に日につのってきましてね」

「分かりますよ。ただご承知のように、あの薬はひとりにつき1回だけしか効力がありませんからね」

「だいじょうぶです。これでいつ死んでも後悔しないで済みます」

「それでは約束通り、雅さんが亡くなるまで呑み代は無料ということで」

 吉田は店を出て、空を見上げた。

 遠くで鯉のぼりが、まるで母と子供のように元気にはためいていた。

5月6日  コロッケの日

「とんかつソースをかけてお召し上がりください」

 給仕Aにより、王女のテーブルにほくほくと湯気の立った料理の皿が置かれた。

「あら、今日はコロッケなのね。おいしそう。わたくし、庶民の味が大好物なの」

「それはなによりでございます」

 給仕Aが下がろうとする。

「少々お待ちください!」

 給仕Bの声が部屋中に響く。宮廷の晩餐室は、天井が10メートルもあるので遠くまで声が響くのだ。

「ここはとんかつソースではなく、醤油がよいかと存じます」

「醤油だと」給仕Aが驚いた声を上げる。「それでは和食になってしまうではないか」

「さよう。サクサクとした衣とホクホクの甘い芋には、しょっぱい醤油がベスト・マッチなのでございます」

給仕Bが言う。

「そもそもコロッケは和食ではないだろうが」給仕Aが食い下がる。

「アメリカの料理でもありませんよ」今度は給仕Cが声を上げる。

「コロッケはフランス料理の“クロケット”から発祥した食べ物です。わたしのお勧めする食べ方は中濃ソースかタルタルソースです」

 給仕Bが不満げな顔を全面に出し給仕Cを睨みつける。

「バカなことを。タルタルソースはカニクリーム・コロッケに限るではないか」

「それではケチャップなどはどうでしょう」今度は給仕Dが声を上げる。

「そもそも、コロッケはB級グルメなのです。トマト・ケチャップこそ最適かと存じます」

「君たち、肝心なソースを忘れていないかね。わたしはウスターソースが一番だと思っているのだがね」給仕Eが憤然として言い出す。

「違います。カレーソースが一番です」インド人の給仕Fが口をはさむ。

「みんなよく聞いてくれ」まじめな顔の給仕Gが、両手を広げて給仕全員を見渡す。

「そもそもここをどこだと思っているのか。王国の宮殿ですぞ。王女にふさわしいソースがあるではないか。それこそがデミグラスソースなのである。王女さま、賢明なるご選択をどうぞ」

「さっきからつべこべうるさいわねぇ」

 そう言うと王女はコロッケを素手で掴み、サクッと口に入れた。

「せっかくのコロッケが冷めちゃうじゃないの。わたしは何もつけない派なの」

 ほんのり口の中にお芋の甘さが広がった。

「美味しい!」

5月7日  博士の日

 大学を卒業した人を“学士”という。大学院を卒業した人は“修士”だ。そして、さらにその上の最高学位が“博士はくし”なのである。

 博士号を取得するには条件が必要だ。大学院に5年以上在籍し、30単位以上を取る。それに加え最も高いハードルが、誰もやったことのない研究をして論文を書き、最終選考に合格する必要があるのである。

高坂たかさかさん。面会の方がお見えですよ」

 同僚の大学院生が声を掛けてきた。高坂は研究の手を止めて顔を上げる。

「誰?」

「さあ。外国の方ですよ」

「ふうん。わかった」

 高坂が受付に行くと、女性の事務員が待っていた。

「ぼくに来客がいらしていると聞いたのですが」

「応接室にお通ししました」

 高坂は応接室のドアをノックした。

「どうぞ」

 中から声がかかる。ぼくが入室すると、スーツ姿の二人の男性と、ひとりの女性がソファーから腰を上げて握手を求めて来た。

「ミスター高坂。お待ちしておりました。さあ、お座りください」

 顔半分髭に覆われた男が席を勧めてくれる。ソファーの真ん中に座っているということは、この座の中心人物なのだろう。

「わたし達は、ある国から使命を受けて参りました。あなたの論文は大変興味深い内容です」

「ありがとうございます」

「同行の二人はあなたと同じ研究者なのです」

 若い背の高い男性と、ブロンドの美しい顔の女性が微笑みながら頷いた。

「どうでしょう。我が国で研究を続けてみませんか?」

「はい?言われている意味がよくわかりませんが」

「単刀直入に申し上げましょう。日本にとって、あなたの頭脳は宝の持ち腐れと言っても過言ではありません。このまま博士号が取れないまま研究を続けるおつもりですか」

「いえ、ぼくの論文は現在審査を受けている最中です。だから結果はまだこれから出ると思います」

「甘いですね。今の日本の学界にあなたの入る隙間など、これっぽっちも残されていないじゃありませんか。
大学教授はみな自分の地位を確保するのに必死ですよ。よっぽど自分をヨイショしてくれる後輩にしか目をかけてくださらないと聞いています」

「・・・・・・」

わたしは何と答えてよいか迷っていた。

「それに、たとえ博士号を取られたとしても、他国と比較して日本の博士に対する処遇はとても低いです」とブロンドの美女が、潤んだ瞳でわたしを見つめて言った。
「それに、現地での生活はわたしがお世話させていただきますわ」

 女が微笑んで脚を組みなおす。彼女の豊満な胸につい目が行く自分が恥ずかしかった。

「あなたはアルバイトもせずに研究一筋でやられてきた人間だ」若い男性が真剣な顔を近づけて言う。「そんな社会性の欠片かけらもかじっていないあなたが、将来一般企業で働けるとお思いですか。これは日本を飛び立つ前の準備金です」

 男は小ぶりのアタッシュケースをテーブルに横たえると、パチンと音を立てて開いた。見たこともないような札束が整然と収められていた。

「快諾いただいた時点で、これはあなたの物になります」

 ぼくは生唾を飲み込んだ。確かにぼくたち研究員は、昼夜を問わず研究し続けているのでアルバイトなどをする余裕がない。おかげでいつも金欠である。運よく日本学術振興会の博士研究員に採択されたなら学費が半額免除になるというラッキーな人間もいるにはいる。だが、そうでないとかなり金銭的に苦しいのである。奨学金を借りるしかないのだ。将来研究だけに没頭して生きて行くには、博士号を取得して、大学の教授や助教授になるしか方法がないのである。

 髭の男が口を開いた。「わたしの国では、あなたを正式な博士として受け入れる準備があります。わが国の博士に対する評価は日本と比べようもないぐらいに高い。そして給与も十分に支払われることをお約束します」

「ぼくに国を売れというのですか?」

「国を売るのではありません。あなた自身を売るのです」

「とても良いお話をいただきありがとうございます」

 ぼくは自分でも知らない間に膝の上で拳を握りしめていた。そして萎れた花のように首を垂れた。

「・・・・・・でもお断りいたします。ぼくは乞食になってもいいです。最後までこの日本で研究を続けたいと思います」

「本当にそれでいいのかね」

「ぼくはこの国が好きなのです」

 その時、外国人たちの背後の扉が開いて、日本の男性たちが現れた。

「高坂さん。おめでとう合格です」

「はい?」

 どうやら学会のお偉方のようである。

「どういうことです」

 ぼくは訳がわからず質問した。

「我が国の優秀な人材の流出が深刻な問題になっているのは知っているね。今年から博士号取得に新しい規準を設けたのだよ。他国からの甘い誘いに乗ったら、即アウトだった。高坂くん、言っておくがこれは極秘だよ」

「もしもこの話を受けていたらどうなっていたのですか」

「残念ながら博士号どころか、一生地上に出ることができなくなっただろうよ。国から与えられた地道な研究を地下で強いられることになる」

「そんな」

「でも悲観することはない。それまでの記憶はすべて消されてしまうのだから。他国に優秀な頭脳を持って行かれるよりはよほどいい」

「ならば日本の研究者を、もっと評価していただいても良さそうなものじゃないですか」

5月8日  ゴーヤの日

「あなた、浮気してるでしょ」

 突然妻にそんな事を言われたら、あなたならどうしますか。わたしは狼狽うろたえてしまった。

「な・・・・・・何のこと?」

「しらばっくれてもだめよ。女の感は鋭いのよ」

「絶対そんなことないよ」

「いいから白状しなさい」

「だからそんなことないってば」

 妻はわたしの顔に見入った。

「わかったわ。それじゃあ、白状するまで今日からゴーヤ攻めね」

「ゴーヤ攻め?」

 ゴーヤとは苦瓜のことである。わたしはこの食べ物が大の苦手なのだ。翌日からわが家の食卓には、ゴーヤ料理ばかりが並ぶことになった。

 ゴーヤチャンプルー、ゴーヤの酢の物、ゴーヤ入りキムチ、ゴーヤの天ぷら、ゴーヤの肉詰め、ゴーヤの佃煮、ゴーヤのクリーム煮、ゴーヤのお浸し、ゴーヤの茶碗蒸し、ゴーヤの味噌汁・・・・・・など食卓はゴーヤ1色で埋め尽くされたのである。極めつけは、おつまみまでゴーヤチップスという念の入れようであった。

 さすがのわたしもこれには閉口した。しかし人間、慣れとは恐ろしいものだ。あんなに嫌いだったゴーヤの苦い味が、次第に病みつきになって行ったのだ。

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

「パパ。ゴーヤ食べれるようになったんだね」

「うん。これも千鶴子ちずこのおかげかな」

「ふうん。じゃあ、もっと好き嫌いがなくなるように、これからも千鶴子といっぱい会ってね」

「もちろんだとも」

 わたしは、前妻との間にできた子供と、月に1度こっそり会うのを楽しみにしていたのだ。本当は現在の妻に内緒にする必要はないのだが、なんとなく気が引けてしまい、言い出せないまま今日まで来てしまったのだ。

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

「あなた、まだ浮気してるんでしょ」

「いいや。浮気なんてしてないよ。なんでそんな事を言うんだ」

「これは女の感よ。最近ゴーヤを嬉しそうに食べてるのが怪しい」

「君の料理の腕が上がったからじゃないのか」

「そんなお世辞は通用しません。白状しないなら、明日からはパクチー攻めよ」

「パクチーだって!」

 わたしはパクチーが大の苦手なのだ。

 後に分かったことだが、現在の妻と娘が仲良く連絡を取り合っていたという事に、わたしは全く気がついていなかったのだった。

5月9日  アイスクリームの日

「姉を捜して欲しいのです」

 ここは横浜の馬車道にある古田探偵事務所である。この探偵事務所は古くからここにあるらしく、部屋は雑然として歴史を感じさせるオブジェがあちらこちらに飾られていた。柱時計は創業以来の年代物らしいが、一応は正確に時間を刻んでいるようだった。

 古田は岩崎園子いわさきそのこから今までの経緯の説明を聞いていた。

「それで、今回のご依頼はお姉さんの消息捜しということですね」

「はい。姉とはいいましても、父親違いの姉なのです。姉は私生児だったので」

「といいますと・・・・・・父親が誰かわからないということですか」

「その通りです。その件について母は何も話そうとはしませんので」

「お母さまはご健在なのですか」

「ガンで闘病中です。母は今でも姉のことが気掛かりでならないのです」

「お姉さんとはどういう経緯で別々に暮らすようになったのです?」

「当時の生活は貧しかったそうです。母は北海道に移民として労働派遣されることになりました。あの頃の移民の生活はそれは厳しかったそうです。それでまだ三歳だった姉を連れてゆくのを断念したのだと聞いています。わたしは母が北海道の移民時代に生まれた子供です。ですから姉とは一度も面識がありません」

「そうしますと、お姉さんは当時どこかへ預けられたのでしょうね」

 園子は頷いた。

「アメリカ人の宣教師夫婦の養女になったのです」

「宣教師さんのお名前は?」

「ジャクソンさんです。ですが、すでに教会は閉鎖になり、ジャクソン夫妻もアメリカに帰国したのだそうです」

「それじゃあ、お姉さんも一緒にアメリカに渡ったのではありませんか」

「ところが、そうではないのです。姉はジャクソン夫妻が帰国する前に孤児院に預けられたという噂がありますし、良からぬ人間に売り渡されてしまったという噂もあります」

「人身売買ですか?」

「あくまでも噂ですが」

「お姉さんのお名前は」

喜美子きみこといいます。今は小野おの喜美子と名乗っているのかもしれません」

「そうですか。それで、お姉さんの最後の足取りの手がかりになるようなものは何かありますか」

「この付近・・・・・・横浜馬車道で見かけたと、風の噂で聞いたものですから」

「なるほど、それでわたしの事務所をお訪ねになられたという訳ですね」

「はい」

 古田は足を組みなおした。

「ちなみにお姉さんを捜し出してどうなさるおつもりですか」

「母が亡くなるまでに一度会わせてあげたいのです。その後はわたしたち姉妹で生きて行こうと思います」

「わかりました。では岩崎さんの連絡先を教えてください」

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

 古田は精力的に働き、調査は順調に進んだ。

 その日の馬車道は天候に恵まれていた。休日なので大通りは歩行者天国となり、観光客で賑わっている。古田は園子に報告するため、待ち合わせの場所に向かっているところであった。

 そのとき突然古田の背後で銃声が響いた。振り返ると老婆がひとり倒れている。状況からして路上でアイスクリームを売っていた販売員のようだ。

「どうしました!」

 古田は駆け寄り、傷の有無を調べた。胸に銃痕があった。老婆の手には拳銃が握られていた。とりあえずハンカチで止血し、野次馬に向かって救急車を要請した。そのとき背後から声がした。

「ダイジョウブデスカ?」

 外国人の老人が古田の隣にしゃがみこんだ。男性の背後で屈強な体格の外国人のふたりが、あたりを睥睨へいげいしている。

「お知り合いですか?」

 古田は老人を見た。

「タブン。シッテイル」

 警察と救急隊が駆けつけた。

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

 馬車道警察署の会議室に、園子とアメリカ人、それに古田が座っていた。会議室のドアの外には、体格のいい外国人が2人、直立不動で立っている。

「岩崎さん。残念ですが、あまり良い報告はできないようです」

 園子は黙って頷いた。

「こちらのアメリカ人は政府の要人の方だそうです。もっともその昔は宣教師をしていたそうですがね」

 園子はハッと息を飲んだ。

「ハジメマシテ。ジャクソントモウシマス」

 老人は頭を下げた。

「あなたが・・・・・・姉の・・・・・・」

 園子は何と言っていいのか分からなかった。

「岩崎さん。まずお姉さんの消息をお伝えします。彼女は9歳のときにお亡くなりになっていました。結核だったそうです」

「そうですか・・・・・・」

「ジャクソンご夫妻がアメリカに帰国することになった時には、すでにお姉さんは結核に冒されていたのだそうです。それで長い船旅は不可能でしたので、やむなく教会の孤児院へ預けられたというのが真相です」

「ゴメンナサイ」

 アメリカ人はふたたび頭を下げた。

「ジャクソンさんが今回日本に来られたのも、お姉さんのお墓に花を手向けたかったからだそうです」

「それなのに、なぜ母はあんなことを」

「たぶんわが子を売られたと勘違いして、ジャクソンさんに復讐しようと考えたのでしょう。
探偵仲間による情報だと、お母さまはジャクソンさんの来日に関する情報をかなり前から入手していたようです」

「病院を抜け出してまでやることでしょうか?」

「以前から計画していたようです。でなければ拳銃など用意できないはずですから」

「それにしてもどうして母はアイスクリーム屋に変装していたのですか」

「誰にも怪しまれないようにジャクソンさんに近づくためだったのでしょう」

 その時ドアが開いて、刑事が入ってきた。

「古田さん。拳銃はあるのに銃弾がどこにも見当たらない。何か心当たりがありませんか」

「岩崎かよさんは、証拠が残らないように完全犯罪を計画していたのかもしれません」

「どういうことですか」刑事が訊いた。

「氷の弾丸を使ったのです。アイスクリームを販売するには温度をマイナス18度以下に保たなければなりません。きっと氷で造った銃弾を、アイスの容器に忍ばせていたのだと思います。これがマイナス5度のソフトクリームだとそうは行かない。発射前に溶けてしまいますからね」

「母はどうして自分を撃ったのでしょうか」と園子が訊いた。

「ジャクソンさんをの当たりに見て気持ちが変わったのでしょう。この人はそんなことをするような人ではないと悟ったのに違いありません」

 古田は園子の肩に手を添えた。

「それとも、喜美子さんが目の前に現れたのかもしれない。大好きなお母さんがそんなことしちゃだめだよってね」

5月10日 コットンの日

「あいつら絶対なにか隠してると思わない?」

 ここは美佳みかの家のリビングである。午後の日差しが、大きな窓から緩やかに降り注いでいる。週末に美佳が女友達ふたりを呼んで、三人でお茶を楽しんでいるところである。

「美佳もそう思った?確かに最近なにか怪しいのよね」童顔の麻奈まあさが頷く。

「今夜もやつら三人でどこかに飲みに行くって言ってたね」眼鏡をかけた久美子くみこがケーキを頬張りながら訴える。

「まあ、わたしたちがこうやってお茶飲んでいるのと、同じと言えば同じなのかもしれないけどね」

「でもさ、最近はいくら訊いても、飲み会の内容が伝わってこないのよ」

 美佳は麻奈に同意を求めた。

「そうそう、ちょっと秘密めいてる。以前はそんなことなかったのに・・・・・・」

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

「いいか、奥さんたちに絶対バレないようにしろよ」

 今日も3人は居酒屋にいた。5月に入ると、雄司ゆうじ隆太りょうた昌平しょうへいの三人は頻繁に集まるようになっていた。

「これは俺たちだけの秘密だからな」

 長髪の雄司は、ノッポの隆太と丸顔の昌平に噛んで含めるようにそう言った。

「でもさあ、なんだか最近気づかれてきたような気もするんだよな」

 いつも微笑んでいるような顔をした昌平が言う。すでにビールで顔が赤くなっている。

「おまえは顔に出るからな。家でもマスクをしてたらどうだ」

 ノッポで髭を蓄えた隆太がほっけをつつく。

「ま、とにかくだ、この計画を知られたら今までの苦労が水の泡だ。慎重に事を運ぼうぜ」

 髪をかき上げながら雄司はビールを飲み干した。

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

 その日美佳は洗濯をしている際、雄司の上着のポケットから見慣れぬブック・マッチを発見した。“メンズクラブ古都”と書いてある。住所を見ると東京都千代田区丸の内だった。美佳はマッチをポケットにしまうと、携帯電話を手に取った。

「久美子・・・・・・そう美佳よ。今ね、雄司の上着から変なマッチを見つけたの」

「・・・・・・あらそう。じつは昌平の机にもメンズクラブの本が置いてあったのよ」

「本当?」

「本にメモが挟んであったの」

「何て書いてあった」

「今日の日付と午後6時」

「わかった。麻奈も誘って現場を押さえましょうよ」

「賛成。やつらの尻尾を捕まえてやるぞ」

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

 美佳と久美子と麻奈の三人は、揃って東京駅に降り立った。

「ねえ。メンズクラブってことはさ、女性の入店はお断りってことじゃないの?」

 麻奈はふたりの顔を交互に見る。三人とも洒落た格好をしてきていた。

「この時代に、そんな男尊女卑の象徴みたいな店があるかしら」

 綺麗に髪を結いあげて、タイトな緑のドレスを着こんだ美佳の真っ赤な唇が動いた。

「まさか風俗ってことはないわよね。高級売春宿みたいな」

 眼鏡をコンタクトレンズに変えた白いドレス姿の久美子が言う。

「丸の内で風俗なんてあるわけないじゃない。すぐそばに皇居と国会があるんだよ」

「それもそうか」

 三人はマッチの住所にたどり着いた。

「あれ・・・・・・ここだよね」美佳が看板を見上げる。

 店の表札は『コットンクラブ』となっていた。

「そうか。これは暗号かも」久美子が手を叩く。

「なんの?」白いブラウスと黒のタイトスカートの麻奈が訊く。

「だから、コットンてのは綿のことじゃない。だからコットンクラブはメンズクラブなんだよ」

「なーるほど。久美子冴えてるぅ」

「よし、中に入ろう」

 美佳たち三人は、ハンドバックから各々のサングラスを取り出すと、店のエントランスに入って行った。店は二階にあり、赤い絨毯が敷き詰められていた。壁には昔のニューヨークのナイトクラブらしい写真パネルが飾られている。ムードのある照明が別世界にいざなっているような感じだ。

「なんか映画館に入るみたいね」麻奈が笑う。

「ディズニーランドのアトラクションの入場口みたい」と美佳があたりを見回す。

 エントランスにはきっちりと制服に身を固めたスタッフが待ち受けていた。

「いらっしゃいませ。ご予約の方ですか」

「い、いえ予約は」

篠崎しのざき様、森田もりた様、板野いたの様ご一行様ではございませんか」

「は、はいその3人は・・・・・・」

「どうぞこちらへ」

 夫と勘違いしているのだろう。しかしそれはそれでちょうどいいかもしれない。妻たちに内緒でこんなところに来ているなんて・・・。

 その時、スポットライトが美佳たち3人に当てられたのだった。ハッピーバースデーの生演奏が流れる。

「ようこそいらっしゃいました。本日お誕生日の3名様がご到着です。皆様拍手を」

「ええ!」

 雄司たち3人が、シャンパングラスを両手に出迎える。3人ともタキシード姿だった。

「どういうこと?」

 美佳が驚いて雄司に訊く。

「こういうことさ。きみたち3人とも5月が誕生日だから何かやろうって決めていたんだ」

 雄司が答える。

「それにしても、ここまで誘導するのにどれほど苦労したことか」

 隆太がシャンパングラスを麻奈に渡しながらニッコリ笑った。

「そうそう。わざと怪しく行動したりしてね」

 昌平も微笑みながらシャンパングラスを久美子に手渡す。

「それじゃあ、みんなで乾杯だ。お誕生日おめでとう!」

 その夜3組の夫婦が、最高の料理とゴージャスな音楽のもてなしを堪能したのは言うまでもないことである。

5月11日 鵜飼開きの日

「ごらん。あれが岐阜名物の長良川の鵜飼いだ」

 暗闇の中、煌々と燃えさかる篝火かがりびが、暗い水辺を照らしている。一艘の小舟の先端に吊るされたかがり火は、ゆらゆらと揺れる。その揺れ動く水面に、何羽もの繋がれた鵜が所狭しと泳いでいる。その幻想的な風景が、一種の儀式でもあるかのように厳かに執り行われつつあった。

「そう。そしてわたしは、あんたの敵をおびき出す篝火の代わりだっていうわけね」

 由美ゆみは舟の舳先へさきに荒縄で縛られていた。

「そうだ。うちの組織にうまく潜入したようだがそうはいかん。俺の目はごまかせんぞ」

 サングラスの男が言った。

 由美はテロ組織を担当する公安警察のスパイだ。半年前、おとり捜査で組織の一員になることができたのだった。由美の素性がバレたのは、同じく捜査員だった兄が組織に捕まり、拷問の末に殺されそうになったところを助けに入ってしまったためだ。捜査に私情を持ち込むべきではない。捜査員として失格だ。テロ組織は由美の名を語り、偽情報を流した。単身証拠を掴んだわたしが、本部に救援出動を要請したことになっているのだ。

 篝火が由美なら、救出メンバーは食べられる鮎。それを狩るのが、この組織の殺し屋ヒットマンたちである。元締めは由美の前に座っているこのサングラスの男だ。

 しばらくすると、潜水服に身を包んだ仲間たちが、この船をめがけて潜水しながら近づいてきた。彼らはことごとくヒットマンによって、倒されていく。

「おお、おお。狩りはうまく行っているようじゃないか。鵜飼っていうのはこうじゃなくっちゃな」

「でもひとつ忘れてることがあるわ」

「なんだ」

「この船、もうすぐ沈むのよ」

 船底で小さな爆発音がすると、甲板に水が噴き出しはじめた。由美は縛られたまま、川に身を投じると、水中で縄をほどき、携帯酸素マスクを口に含んだ。

「馬鹿な!」

 男が立ち上がったその時、由美は男の足首を両手で掴み、水中に引きずり込んでいた。

 近くに浮かんでいた篝火を焚いた6艘の舟が一列に近づいて来ていた。潜水服の下に防弾チョッキを身に着けた捜査員たちが一斉に海中から船に乗り込む。そして泳いでいたヒットマンたちをぐるりと取り囲んだ。

「これこそが総囲み漁法というんだな」捜査員のひとりが呟いた。

 由美はサングラスの男が息絶える寸前まで、水上に上がったり潜ったりして男を苦しめてやった。

 由美は思った。きっと鵜も魚を飲んだり吐いたりするのは苦しいんだろうな。

5月12日 看護の日

風村かざむらさんの病室はこちらの個室になります」

 その日、看護婦長に付き添われて、ぼくは病院の個室に案内された。看護婦長はやせていて、看護婦というより修道女っぽい感じのする中年女性だった。

 何ごとも頑張りすぎるのはよろしくない。若くして会社を立ち上げた自分にとって、仕事こそが生きがいだった。休むことなく働いたおかげで、ぼくは胃を悪くしてしまった。今日から病院に検査入院することになったのだ。

 他人と一緒の部屋で寝起きすることが苦手なぼくは、多少無理をしてでも個室病棟こしつびょうとうのある大型総合病院で検査をすることにした。入院費用はかさむが、余計なストレスを抱え込むよりよほどいいと思ったのだ。

「失礼しまあす」

 明るい声がして、若い看護婦がバインダーを小脇にかかえて病室に入ってきた。

「風村さん。お熱をはかりましょうね」

 にっこりと笑うその看護婦の左胸に『吉崎よしざき』というネームプレートがチラリと見えた。色白で華奢なスタイルをしている。目がクリッとして大きい。髪は茶髪で短くカットしている。制服のポケットがパンパンに膨らんでいるのは、ペンやメモ帳、ガーゼやテープ、消毒剤などがごちゃごちゃに入っているからだった。

「はい、こちらでお願いしまーす」

 ぼくは頷いて、差し出された体温計を脇に挟んだ。

「吉崎かおると申します。風村さんの担当です。よろしくお願いしますね」

「こちらこそ。看護婦さん、お若いんですね」

 まるでアイドルみたいですねと言おうとしたがやめておいた。

「実はまだこちらに来て日が浅いんです」

「こちらというのは・・・・・・」

「昨日まで小児科だったんです」

「小児科ですか」

「あそこだと。お子さんは可愛いんですけど、出会いがないんですよね」

「出会いって、男性ってことですか?」

 なんか、大胆な発言をする看護婦である。ぼくは吉崎薫の顔を見た。

「・・・・・・」看護婦はぼくの腕を凝視したまま動かない。

「あ、ごめんなさい。ついクセで患者さんの血管を観察しちゃうんです」

「血管?」

「針が刺さりやすそうとか、刺さりにくそうとか」

「なるほどね」

 ぼくはなぜか安心して微笑んでしまった。

「風村さんはIT企業の社長さんなんですか?」

「まあ、一応そうですけど」

「じゃあおモテになるんでしょうね」

「そんなことありませんよ。看護婦さんぐらいの可愛い女性ならいつでも大歓迎なんですけどね」

「まあ、そんなこと言って。看護婦さんじゃなくて薫って呼んでいいですよ」

「やめてくださいよ。そんな風に呼べるわけないじゃないですか」

「じゃ吉崎さんでいいです」

 薫は頬をぷっと膨らませた。

「そんなに怒らなくても。・・・・・・じゃあ薫さん」

「はい」

 薫は明かりが点灯したかのように嬉しそうに答えた。

「薫さんぐらいの看護婦だったら、お医者さんが放っておかないでしょう?」

「あら、そんなことないですよぉ。医師と看護婦の恋なんて、テレビドラマの中だけの話ですよ。実際にそういう仲になることはほとんどないんです」

「どうしてですか?」

「若い先生はほとんど売れちゃってますし、お互い相手の能力とか嫌な面とか分かっちゃってるから」

「はあ、そういうものですか」

「退院したら、薫とデートしてくれませんか。彼女いらっしゃらないんでしょう?」

「ほんとうですか」

 なんかすごい展開になってきたぞ。その時ノックの音がした。

「風村さん。入りますよ」

 ドアが開くと眼鏡をかけた医者と看護婦が現れた。

「あ、それではわたしはこれで」

 そう言うと、薫はペコリと頭を下げて出て行ってしまった。出て行くときに、ぼくは彼女がチラッとウィンクしていくのを見逃さなかった。ぼくは心の中で小さく手を振った。

 医師が言う。

「それでは検温をお願いします」

「は?いまの看護婦さんがやってくれましたけど」

「看護婦?ああ、彼女はここの患者ですが、どうかされましたか。うちは精神科も併設しているのでね」

「!?」

 そこへ先ほどの修道女のような看護婦長がドアの隙間から顔をのぞかせた。

武島たけしまさんと小野田おのださん。そう言うあなたたちも精神病棟の患者じゃないの。いいから自分の病室に戻りなさい。風村さんごめんなさいね」

 ぼくはますます胃が痛くなってきた。

(そう言うあんたは、本当に婦長なのか?)

5月13日 カクテルの日

 そのバーを見つけたのはほんの偶然からだった。

 いつものように酒を呑み、夜の街を彷徨さまよっていると、遠くにポツンと灯りのともった店を見つけたのだ。場末の飲み屋街の裏路地のさらに横道に入った、暗い路地の突き当りにその店はあった。こんな場所に店があったとは知らなかった。

 申しわけ程度に作ったとしか思われない看板が、虚ろなわたしの目に入ってきた。『Bar twilight』

「twilight・・・・・・黄昏たそがれねえ」

 わたしは古めかしい小さな木戸を押し開けて中に入ってみた。薄暗い明かりの元に、5人も座れば満席になりそうなカウンターがあった。客はだれもいなかった。

 カウンターの向こうにはかなり年配と思われるバーテンダーがひとり、まるでオブジェかなにかのようにたたずんでいる。バーテンダーの背後の棚には、色とりどりの酒瓶が標本のように並んでいた。

「いらっしゃいませ」

 バーテンダーの口からゼンマイ仕掛けのおもちゃのような音声が流れた。わたしは、比較的居心地がよさそうな奥から2番目の席に座った。

「何にいたしましょう」

「そうだな。今日はちょっと気分が晴れないんで、晴々として、それでいて心にズシンとくる重厚な力のあるカクテルを作ってくれないか」

 バーテンダーにとって張り合いのない客とは、「なんでもいい」とか、「おまかせする」など主体性のない客だと聞いたことがある。少しでも彼らの創作意欲をくすぐるヒントを与えると彼らは喜ぶはずだ。

 バーテンダーは片方だけ口角を上げると、棚からアクアヴィットやクレムド・ド・マンダリン、それに冷蔵庫からライム・ジュースを取り出してメジャー・カップで調合し、シェーカーを振り出した。

 シェークは酒を混ぜ合わせるのが目的だが、ただそれだけではない。氷で急速に冷やすのと同時に、空気をほど良く混ぜ合わせるのである。適度に空気がまざることによって、強いアルコールの酒をマイルドに変身させてくれるのだ。シェークはやり過ぎてもいけないし、少なくてもいけない。ここがバーテンダーの腕の見せ所なのである。

「どうぞ」

 差し出された逆三角形のショートグラスの中に、赤銅色に輝く液体が入っていた。

「コペンハーゲンです」

 ひと口飲んで驚いた。今まで飲んだことのあるカクテルとは明らかに違う。深みがある。

「おいしいです」

 素直にバーテンダーに感想を告げると、彼は少しだけはにかんだ顔をして頷いた。その後わたしの心がすさんだときなどには、必ずその店に通うようになった。

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

 その晩は亡くなった妻を思い出してバーテンダーに想いをぶつけてしまった。

「妻との思い出をカクテルにしてくれないか」

 それは無理というものだろう。あまりにも漠然としたリクエストだった。バーテンダーはしばらくわたしを見つめていたが、ゆっくり頷くと、店の奥に消えていった。そして手に金色に輝くシェーカーとメジャー・カップを持って出て来たのだった。

 バーテンダーは、アップルジャック(りんごのブランデー)とライム・ジュース、グレナデン・シロップを黄金色のシェーカーに注ぎこんだ。

「亡くなった奥様にまつわるものとかお持ちじゃありませんか」とバーテンダーはわたしに言った。

「いえ、とくに何も」

「それでは、左手を出してください」

 バーテンダーはわたしの手の平をシェーカーの上にかざした。そしていつものようにシェークを始めた。規則正しい音が、時を超越しているような心地よいリズムに聴こえる。

 出来上がったカクテルは真っ赤な色をしていた。

「ジャック・ローズ」です。

 わたしはカクテルに口をつけた。ライムの酸味とグレナデン・シロップの甘みが、薔薇のようなすっきりとした風味を引き立てていた。戻ってくる、戻ってくる・・・・・・妻との思い出が、すべて目の前に戻って来るような不思議な感覚にとらわれた。

 なんだろう、この懐かしさは。わたしは今まさに妻と一緒にその場所にいた。妻が笑っている。わたしの左手と妻の右手がしっかり握られている感触があった。わたしはいつの間にか涙を流していた。ありがとう。ほんとうに・・・・・・ありがとう。

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

 翌日もわたしは『Bar twilight』に足を運んだ。どうしても昨晩のお礼をもう一度言いたかったからだ。ところがバーは灯りが消えていた。

 バーの入り口で途方に暮れていると、背後から女性が声をかけてきた。

「あの・・・・・・」

 振り向くと、見ず知らずの若い女性がそこに佇んでいた。

「今日はお店、お休みなんでしょうか?」

 女は不安げな顔をしていた。

「そうらしいですね。いつもはこの時間に開いているんですけど。今日はどうしたんだろう」

「そうですか・・・・・・」

「あなたもこの店の常連さんなんですか」

「ええ。でも仕方ないですわね、お休みだったら・・・でもおかしくないですか」

「なにがですか」

「この店、いつもよりもさらに古くなってるような・・・・・・」

 そう言われてわたしはもう一度店を眺めてみた。確かに古めかしい店だが、ここ数年使われていないかのような様相を呈していた。あちこちが痛んでいるし、窓には蜘蛛の巣が張っていた。

「ちょっと待ってください」

 わたしは店のドアを押してみた。鍵はかかっていなかった。バーカウンターの中にいた初老の女性が驚いて顔を上げた。

「あの・・・・・・今日はお休みなのでしょうか」

 わたしは店の中に静かに足を踏み入れた。さきほどの女性もわたしの後ろから恐る恐るついて来ている。

 初老の女性は何のことか分からないといった顔である。

「この店はもう三年前からやっていませんけど」

「え?どういうことですか。わたしは昨晩もここでお酒を飲ませていただいてるんですが。ほら、この写真のバーテンさんがいらっしゃったでしょう?」

 わたしは店に飾られた写真立てを指差した。

「そんなばかな。うちのひとは3年前に亡くなっていますのよ」

「亡くなられている・・・・・・」

 わたしは頭が混乱していた。この女性はあのバーテンダーの細君なのか。わたしは一部始終をバーテンダーの奥さんに話して聞かせた。そしてさきほど道で出会った女性も同様の証言をするのだった。

「そうですか。夫はきっと、あなた方に喜んでもらって満足したのでしょうね」

「もう彼はここには戻ってこられないのですかね」

「あのひとは、最後に自分の想いを込めたカクテルを作ってしまったんだと思います。さきほどカウンターにこれが転がっていました」

 細君が差し出したのは、あの黄金のシェーカーとメジャー・カップだった。

「このシェーカーの中に、わたしとあの人の結婚指輪が入っていましたの」

 わたしは、路上で出逢った女性と顔を見合わせてしまった。絶妙に空気が混じり合ったような感覚だった。

 わたし達は同時に微笑んだ。そこに新しい未来が見えたような気がしたからだ。

5月14日 温度計の日

戸川翔平とがわしょうへいくんだね。先ほどお父さんが交通事故にあわれてね、今病院に運ばれたんだ。早く車に乗って」

「おじさんは誰ですか」

「お父さんの会社の人だよ」

「知らないおじさんの車に乗ってはいけないと言われているので」

「困ったなあ。それじゃあ会社の社員証を見せてあげるから・・・・・・ほら、これだよ、見てごらん」

 翔平が車窓の外から、男の差し出した手帳を覗き込む。すると突然男の手が少年の襟首をつかんだ。そして、まるでワニが小動物を川に引きずり込むように、翔平は車の中に飲み込まれてしまった。

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

“誘拐事件発生。被害者は戸川翔平くん、小学2年生の男児。下校途中にさらわれた模様。容疑者の車は黒のセダン。誘拐当時の翔平くんの服装は・・・・・・”

 警察無線が頻繁に付近の警察官に対して捜査を促している。翔平の父、戸川駿介しゅんすけは犯人の電話を受けるため、自宅のリビングで捜査員たちに囲まれて待機していた。駿介と翔平は、父ひとり子ひとりの父子家庭だ。翔平の母は翔平を産んだ後、すぐに亡くなってしまった。

「犯人に心当たりはありませんか?」

「ありません。どうして翔平がこんな目に合わなければいけないんでしょうか」

「資産家であるあなたに目をつけたのでしょうね。たったひとりの家族なら、身代金をいくらでも吊り上げられるとでも考えたのかもしれません。卑劣な犯人です」

 その時電話のコール音が響いた。そこにいた全捜査員に緊張が走る。

「はい戸川です」

「子供は預かった。明日までに現金で2億円用意しろ。まさか警察に言ってないだろうが、逆探知が怖いからこれで一旦電話を切る」

「おい、翔平は無事なのか」

 すでに電話は切られていた。

「バカなやつです。刑事ドラマの見過ぎだな」刑事が鼻で笑った。

「どういうことですか」駿介が訊く。

「あ、これは失礼。今やデジタルの時代です。ここに電話を掛けてきた時点で、どこから犯人がかけたのか瞬時に分かってしまうのですよ」

「それじゃあ」

「はい。いま捜査員が犯人確保に向かっています」

 その時警察無線が入る。

“犯人が逃走。犯人が逃走。世田谷方面に向かって・・・・・・あっ!”

「どうしたんだ!」

“いま犯人の車とダンプカーが正面衝突しました。犯人の車は大破、炎上中です!”

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

 犯人の搬送された病院である。病室の前で駿介と刑事が話している。

「それで、翔平は」

「車には同乗していませんでした。犯人の家の家宅捜査を行いましたが、ここ数日帰宅していないことがわかりました。どこか別の場所に閉じこめられているのだと考えられます。犯人が意識を取り戻したところで聴き出します」

「そうですか」

「ところで、犯人をご存知だそうですが」

「だいぶ前に雇った従業員です。素行が悪かったので退職してもらったのを逆恨みしていたのだと思います」

「どんなお仕事をされていたのですか」

「科学薬品や器具を作る会社です。息子の翔平も科学が大好きで・・・・・・」

 父はそこまで言うと、息子のことを思い出して涙が止まらなくなってしまった。

「犯人が意識を取り戻しました」看護士が刑事に声をかけた。

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

「大変危険な状態です。質問は手短にお願いします」医師が刑事に忠告した。

 刑事は包帯で目しか見えない男に向かって顔を近づけた。

「翔平くんをどこに隠した。それを教えてくれ」

 男の目が笑ったように見えた。

「ああ、暖房もない・・・この寒空じゃ一晩もたないだろうなあ。可哀想に・・・・・・」

「なんだって。翔平くんがどこにいるのか言いなさい」

「刑事さん・・・・・・人生ってのは・・・・・・儚いもんだな」

 そう言うと男の心電図の山が一直線に変わってしまった。息を引き取ったのだ。

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

 この年は、各地で季節外れの大雪が降っていた。すでに夜8時を回っていた。

「都内ではなさそうだな。この季節、屋内ならいくら寒くても凍死するほどにはならないはずだ」

「長野ではないでしょうか」他の刑事が言う。

「なぜそう思う」

「戸川さんの会社を解雇されてから、犯人は点々と職場を変えています。地理感があって、雪深い場所だとしたら長野かと・・・」

「長野に犯人の勤めた会社があるのか」

「それが、すでに廃業した計器の製造工場が一棟あるだけです」

「廃業した・・・・・・。そこだ。その工場が怪しいぞ。現地の警察に連絡だ」

「それが、さきほど現地に確認しましたところ、あちらも今日は大雪で、今日中にはたどり着けないだろうとの連絡が入っています」

「なんだって。人命がかかっているんだぞ」

「戸川さん。我々も移動しましょう。ヘリを飛ばします」

「ありがとうございます。よろしくお願いします」

 駿介たちは一斉に席を立った。

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

 翔平は両腕を縛られたまま横たわっていた。外は吹雪のようだ。うなるような風の音が響いている。廃工場の中には暖房がない。シンシンと寒さが身にこたえて来る。明かりはロウソクが1本灯っているだけだった。隙間から入ってくる風で、炎がゆらゆらと揺れている。

 犯人は食料として、パンと水を用意してくれていた。そしてご丁寧に尿意を催したときの為に、洗面器をひとつ置いていってくれた。翔平は震える手をロウソクに近づけたが、少しも温かくはならなかった。外が寒すぎるのだ。

 このまま死んでしまうのかな。そしたらママに会えるのだろうか。でもそんなことしたら、パパが悲しむだけだ。なんとかしなくっちゃ。

 その時、背後でゆっくりと影が動いた。翔平は振り向いた。

「だれ?」

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

 警察の一行が『信州計器製作所』に到着したのは翌朝であった。

 一面銀世界の中を、雪上車を先頭にして警察車両と救急車、上空にはドクターヘリが出動していた。刑事たちは沈痛な面持ちで現場に急いでいた。小学二年生が、この環境下で生き長らえる可能性はかなり低いと考えられた。

 救助隊が重機とバーナーを使って重い扉をこじ開ける。朝の光が一筋の線となって工場内を照らし始めた。光の先に翔平がちょこんと座っていた。

「翔平。無事だったか!」

 父は走り寄って息子を抱きかかえた。刑事たちも笑顔でその周りを取り囲んだ。翔平の足元の缶から炎が立ち昇っていた。

「これ、翔平がやったのか」

 缶の周りに大量の温度計が割れて散乱している。

「翔平。温度計の赤い液が灯油だってよく知っていたな。しかもハンカチにしみ込ませて火をつけるなんて」

「うん。お髭のお爺さんが教えてくれたの」

「お髭のお爺さん?」

「よくわからないけど、いつも科学の教室に飾ってある絵のお爺さんが現れたんだよ。
灯油はそのまま火をつけても燃えないんだって。何かに染みこませて気化させないとだめだって言うんだ」

「温度計を発明した、あのガリレオ・ガリレイのことか」

「ぼくもいつかあんなお爺さんみたいになりたいんだ」

「お前ならきっとなれるよ。科学に愛された子だもの」

 父は息子を抱きしめた。強く、強く抱きしめた。

5月15日 ヨーグルトの日

「ねえあなた。腸の中には何種類の菌がいるか知っている?」

 そう出し抜けに、妻のゆう子はわたしに質問をぶつけてきた。

「数百種類」

「残念でした。千種類よ」

 ゆう子は満足げに答える。

「へえ、千種類も。それはすごいな」

「それじゃあ、あなたの腸内にいる細菌の数はいくつでしょう」

「またクイズかい。全く分からないよ。百万匹ぐらいかな」

「ブッブー。正解は百兆個よ」

「おいおい、そんなの誰が数えたんだよ。不可能だろう」

「知らない」

 ずいぶん適当な女である。

「それよりさ、お腹の中の菌て3種類いるって知ってた?」

「善玉菌と悪玉菌だろ」

「それじゃ2種類じゃない。もう1種類いるのよ」

「善と悪ともう一種類?どっちつかずなやつか。優柔不断菌とか」

「そう、あなたみたいなやつ。そうじゃなくて日和見ひよりみ菌ていうのよ」

 どうやらテレビのバラエティー番組で仕入れてきた知識なのだろう。今日のゆう子はやたらと知識をひけらせてくる。

「日和見菌か。まあどっちつかずだわな、それは」

「それでは、悪玉菌が多いとどうなるのでしょうか」

「またクイズかい。オナラが臭くなる」

「正解、ちょっと足りないけどね。悪玉菌ていうのは大腸菌とか黄色ブドウ球菌なんかのことなんだよ。放っておくと腸の中で腐って、腸内がアルカリ性になるから善玉菌が全滅しちゃうんだって。恐ろしいでしょう」

「全滅したらどうなるんだよ」

「ガンのもとになる毒性の有害物質が増えるのよ。いい、だから今日からうちはヨーグルトを食べます」

「なんで」

「ガンになったら困るでしょう」

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

 その半年後、わたしは健康診断で大腸がんの兆候があると診断された。

 わたしはがんを患いやすい家系に生まれた。ゆう子の話を聞いて、外出先でも会社でもヨーグルトを頻繁に摂取するようにしていたのだ。それが災いしたのだった。よく調べてみると、ヨーグルトには脂質が含まれており、過剰摂取をすると分解、消化をするための二次胆汁酸が大量に分泌される。これが大腸に入ると腸内の悪玉菌が莫大に増殖して大腸がんを引き起こす原因になるというのだ。

「もう、過ぎたるは及ばざるがごとしって言うじゃない。ヨーグルトの適正摂取量は1日100gから200gなのよ。今日からこれを食べなさい」

 怒った妻がヨーグルトを差し出してくる。

「これだってヨーグルトじゃないか」

「人間の体はナチュラルキラー細胞っていうリンパ球がいつも全身をパトロールしているの。これはR-1菌といって、がん細胞を見つけ次第攻撃してくれる優れものなのよ。わたしがいない時でも、これがあなたを監視してくれるってわけ。どう?」

「なんか宣伝ポイけど、日和見の身としては、従わざるを得ないな」

5月16日 旅の日

八十村やそむらくん」

 誰かが八十村路通ろつうの家の木戸を叩いていた。

「だれですか、こんな夜更けに」

 木戸を開けるとそこに俳句の師匠が立っていた。松尾芭蕉まつおばしょうその人である。

「夜分申し訳ない。実は明日からの東北旅行の件ですが、同行者が変更になりました」

「え、そんな突然。何があったのです」

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

「旅費を工面させて頂く代わりと言っては何なのですが」

 杉山杉風すぎやまさんぷうはキセルに火をつけると芭蕉に向かって言った。

「この河合曾良かわいそらを同行させていただきたいのです」

 杉風の後ろに控えていた曾良が頭を下げる。杉山杉風は豪商である。今、杉風の奥屋敷に三人の男が座している。

「もともと曾良はわたしと同じ、芭蕉さまの弟子ですからな」杉風が言い含めるように言う。

「しかし、すでに八十村くんと旅のスケジュールを調整し終わったばかりでして」

「先生。そこをなんとかお願いしたいのですよ。それに、これは幕府の依頼でもあるのです」

「どういうことでしょうか」

「旅をしながら、伊達藩に謀反の疑いがないか偵察していただきたい」

「ええ。本当ですか」

「幕府は先生を隠れ忍者だと思っているのです」

「いえいえいえ。わたしはただ単に三重県伊賀市の出身というだけのこと・・・・・・勘違いするにもほどがあります」

「そう思わせておけば都合がいいじゃありませんか。幕府からも援助が得られますよ。
偵察といっても、周りの町人や農民たちに伊達家の噂話を聞いて報告していただければそれで良いのです」

「しかし」

「それにこの曾良が、事前に行く先々の有力者に先生の宣伝をいたします。その土地土地で名物など、ご馳走にもありつけますぞ。おいしい料理は旅をいっそう盛り立ててくれるのはご存知ですよね。それに夜は遊女を当てがうことだって・・・・・・ねえ」

 おもわず芭蕉は生唾を飲み込んだのであった。

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

「とうとう旅に出ることにしたよ」

 女の家である。女の名前は寿貞じゅていと言う。芭蕉の愛人である。

「あら、まさか女人と一緒じゃないでしょうね」

「ないない。河合曾良という若い俳人と一緒だよ。女っ気なんてこれっぽっちもありはしない」

「まあいいわ。でもいつか戻って来れるんでしょう。どのぐらい行ってくるの?」

「半年ぐらいだな」

「それじゃあ、旅費がたいへんね」

「100万ぐらいかかるかな。まあなんとかなるさ。スポンサーの杉山殿が融通してくれるよ」

 寿貞は芭蕉の首に手を回した。

「ふうん。じゃあ今生のお別れかもしれないわね」

(この当時の旅は命がけだったのである)

「そうだな」

 そのあと、お互いの唇がそれ以上の言葉をかき消した。

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

 人生は旅である。芭蕉は常々そう思っていた。

 松尾芭蕉は45歳になっていた。この年は西行の500回忌にあたる。西行の足跡そくせきを訪ねるのが旅の目的のひとつだ。

「紀行文を書こうと思っているのだが」と芭蕉が言う。

 曾良は芭蕉の顔を見た。

「紀行文ですか。旅本ですね。題名は決まっているんですか?」

「うん。『奥の細道』ってのはどうかな」

「なかなかいいじゃないですか。でも紀行文はちょっとつまらないですね。草双紙(エンターテイメント)で行ったらどうですか」

「どんな感じの」

「小説ですよ。読んだひとが感動するような。歩くのが大変だとか、宿がみつからなくて野宿しただとか。もっとも豪遊したなんて書いたりしちゃだめですよ。読者の反感を買うだけです。炎上してもつまらない」

「ふん。そんなものかね」

「そんなものですよ」

 山形の立石寺りっしゃくじに着いた。まだ夏には早いが、想像でこんな句を作ってみた。

しずかさや岩に染み入る蝉の声

 結構いけそうだ。

 最上川の濁流を見て、

五月雨さみだれをあつめて涼し最上川”と詠んだ。

 ただし、本にするときには”涼し”を“速し”に変更した。

 次に岩手の平泉町に到着した。

 源義経が派手に戦をした場所とは思えない。草が茫々ぼうぼうに広がる平地だった。

夏草やつわものどもが夢の跡“と一句詠んだ。

 旅の途中で新潟の夜の海を眺める。そこで一句。

荒海は佐渡によこたふ天河あまのがわ

 我ながらなかなかの名句である。旅は順調に進んでいた。

 伊達藩の調査報告書は、行く先々で伝達者に渡した。その時に旅費の補充もしたのだった。

『奥の細道』は大評判となった。もちろん毎晩のように繰り返えされた饗宴の内容を掲載することはしなかった。ただ”一つ家に遊女も寝たり萩と月“という句は余分であったかもしれない。

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

 東北旅行の5年後、松尾芭蕉は病に倒れた。長期に渡る旅の疲れが出たのであろう。どうやら潰瘍性大腸炎を患ったらしい。息を引き取った場所は大阪御堂筋の南御堂みなみみどうである。

 一生涯旅の空の下で過ごし、野の上で死ぬことを覚悟していた身であるにもかかわらず、布団の上で死ぬことはなんと幸福な人生なのだろうと語った。そして生涯、旅を愛して続けてきた芭蕉は、死の直前に次の辞世の句を詠んでいる。

旅に病んで夢は枯野を駆けめぐ

 享年51歳であった。

 しかるに、このときの亡骸が、忍者松尾芭蕉の変わり身の術であったとは誰ひとり知る由もなかった。彼はだれにも邪魔されることなく、その後もひとりで旅を続けた。

 芭蕉の句は、あの空に向かって今でも旅を続けている。

5月17日 高血圧の日

「あなたは血圧が高いでしょう」

「いいえ。さきほどの測定では正常だって言われましたけど」

 嶋宮麗子しまみやれいこは微笑んだ。確かにカルテには正常値が記入されている。50歳以上の二人にひとりは高血圧と言われている。確率は二分の一である。しかし、患者の顔をみただけで高血圧を診断することなど、いくら優秀な女医といえどもあり得ないことだった。

 麗子の父親は、彼女が中学二年のときに心筋梗塞で亡くなった。やはり高血圧によるところが大きかったのである。

 高血圧の原因は遺伝環境食生活ストレス寝不足などが考えられている。でも、実際は高血圧のほとんどは『本態性高血圧』と言われ、原因が分かっていないのが実情なのである。それゆえに医師としては、醤油や塩など味の濃いもの、インスタント食品、スナック菓子、清涼飲料水、外食を控えなさいというアドバイスぐらいしかできないのだ。ストレスや睡眠不足がなぜいけないのかと言うと、ストレスを受けると“ノルアドレナリン”という物質が分泌され、それが血管を収縮させて血流を阻害してしまうからである。

 麗子は父の死を境に、医師になることを決意した。高血圧の本当の原因を突き止めて、撲滅しようと考えたのである。

 ある日薬学にも通じる麗子が薬を調合していると、偶然出来上がった薬があった。とくに危険な原料を使ったわけではないので、試しに自分で服用してみると、高血圧の患者の顔がほんのり赤く見えることを発見したのである。

 これは麗子にとって、非常に役に立つ薬となった。というのも、高血圧の患者の中には”仮面高血圧“がかなり含まれているからだ。”仮面高血圧”というのは、日中は平常なのに、朝または晩になると血圧が上がることだ。要するに、日中に病院で測る血圧検査では見つけることができないのである。

 こういう患者は、自覚症状がないまま、ある日バッタリ倒れてしまう危険性がある。麗子は仮面高血圧の患者を見つけるスペシャリストと呼ばれるようになっていた。

 麗子はある日、ひとりの男性を診断した。彼は食あたりの症状で来院していたのだが、麗子の眼は仮面高血圧を疑っていた。

「念のために朝晩もう一度血圧を測ってみてください」

「家には血圧計がないんですが」

「そうですか。それでは夜間診療の時間にもう一度来られますか?」

「先生がいらっしゃるのですか」

「そうですね。今日は当番医ですからおります」

「わかりました。それではうかがいます」

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

 その夜、男は再度来院した。

 男をみて麗子は首をかしげた。顔の赤みがなくなっている。

「一応血圧を測ってみましょうね」

 男はだまって血圧測定を受けた。

「先生。ぼく知っていたんです」

「何をです」

「先生は高血圧を判断できる薬を使っていらっしゃるのですよね」

「まあ、どうしてそれを」

「ごめんなさい。知り合いの医師に内緒で教えてもらったんです。実は街で先生を見かけてからずっと先生を追いかけていまして」

「え」

「ストーカーだと思われたら困るのですけど」

 血圧は正常値を示していた。

「昼間は赤いファンデーションを塗っていたんです。先生にまた診ていただきたくて」

「今でも塗ってらっしゃるの?」

「いいえ、ぼくが赤く見えるのは、先生に見つめられているからです」

「ばかね。これから一杯飲みに行こうか?」

「え?初めて会ったぼくみたいな男を信用できるんですか」

「高血圧のひとは赤く見えるけど、たまに黄色く見えるひとがいるのよ」

「黄色・・・・・・ですか」

「高血圧じゃなくて、高潔なひとよ。言っておくけど、わたしの診断料は高いわよ」

5月18日 ことばの日

きたる5月18日の夜7時。

久しぶりに集まって食事会を予定しております。以下の中から各自食べたいものを選んで、返信ください。

①魚料理

②肉料理

③野菜料理

高森高校同窓会 幹事一同”

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

「おい、恭介きょうすけからこんなものが送られて来たんだけど」

 幹事のひとりのやすしが重そうな箱を運んできた。

「なにそれ?」

 同じく幹事の信行のぶゆきが箱のふたを開ける。中から綿のクッションの上に鉄製の弓矢らしきものが一本出てきた。

「何だと思う」

 靖が矢を持ち上げる。

「まったくわからん」

 仕方なく二人は恭介に電話をかけることにした。

「なんなんだよこれ」

「わかんねえのかよ」恭介があきれたように答える。「折れにくい矢だろうが」

「なに?」

「だから、おれ肉嫌にくいやって言ってるんだってば!」

「回りくど過ぎるだろう!」

5月19日 ボクシング記念日

“今度の週末は会えるのかなあ”

 千鶴ちずるからのメールだった。

 ぼくは今、ボクシングフライ級の日本チャンピオンを目指している。だから練習を優先させるため、千鶴とのデートの時間はどうしても減らさざるを得ないのだった。

 ぼくは返信を打った。

“ゴメン。来週の試合の準備があるんだ”

“ふうん。そうなんだ”

“ほんとうにゴメン”

“それじゃあ、しんちゃんのジムに遊びに行っちゃおうかなあ(笑)”

“え。ま、いいけど・・・・・・体験入会だったらジムは大歓迎だと思うよ”

“ほんとう。やった。千鶴がんばる”

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

 週末、千鶴は白いベレー帽にヒラヒラのワンピース姿でジムにやってきた。とてもボクシングを体験するような恰好ではなかった。

 多くの練習性が一瞬手を止めたが、またすぐにもとの練習に戻る。パンパンというサンドバックを打つ音。ブルンブルン動くパンチングボールがはじける音。高速で縄跳びをしている音などが混じり合う。でも彼らの視界の隅に、千鶴が入っているのは明らかだった。

 ぼくはとりあえず千鶴をトレーナーに紹介して、ロッカーで着替えさせた。千鶴は背負っていたリュックから、赤いトレパンのズボンと胸にひよこの絵が入ったTシャツを取り出して身に着ける。靴は学校の上履きに履き替えた。

 ぼくは千鶴をトレーナーに任せてスパーリングに戻った。

 千鶴はトレーナーの言われるままに、華奢な身体を使って細い腕を動かしていた。しばらくスパーリングをこなしていると、遠くでパンチのいい音が聞こえてくる。ギアヘッドを着けて、トレーナーのパンチングミットに向かって千鶴がパンチを入れていたのだ。その周りに練習生が集まっている。

「すげえパンチじゃん」

「ほんとに初めてかよ」

 などと言い合っている声が聞こえる。

「真。ちょっと来い」

 トレーナーがぼくを呼んだ。

「千鶴ちゃん、経験者でもないのにすごいパンチだぞ。お前いい練習生を連れてきたな」

「本当っすか」

 千鶴は恥かしそうにモジモジしている。

 実はパンチ力というのは、見た目のいかつさや筋肉質の体形とは必ずしも比例するものではないのだ。この世には一見ひ弱に見えて、すごいパンチを打つ者が存在するのだ。それが千鶴?

「真。お前ちょっと受けてみろ」

 トレーナーに言われてぼくはミットを受け取った。

「千鶴。手加減せずに、思い切り打ってみろ」

 ぼくは千鶴の前にパンチングミットを構えた。

「ええ、なんか恥ずかしいよ」

「千鶴ちゃん、行けえ!やっちまえ」

 周りの練習生が囃し立てる。

「それじゃあ・・・・・・」

 千鶴の手が一瞬動いた。目にも止まらぬ速さで、8オンスのグローブがミットに向かって叩きつけられた。ぼくは衝撃を受けて後ろの壁に吹っ飛んだ。

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

 ぼくはトレーナーと一緒に、千鶴のセコンドに入っていた。フェイスガードタイプのギアヘッド、胸部ガード、子宮ガードを装着したほっそりとしたボクシング女子がそこに立っていた。

 世界女子ボクシング選手権のリングである。

 ぼくは世界チャンピオンになる夢をあきらめた。その代わりにあの日、千鶴を世界チャンピオンにすることに決めたのだ。

 2分間、10回戦のゴングが鳴り響いた。千鶴はフワリと踊り子の様にリングに飛び出して行った。

 それは一羽の鶴が、大空に向かって飛び立つみたいに見えた。

5月20日 電気自動車の日

「なるほど、強盗が押し入ったのですな」

 その夜、金持ちの家に警察車両が集結していた。

「それで、盗まれたものは何でしょうか?」

 大村警部は家主の社長に尋ねた。

「現金約100万円と貴金属、腕時計、それに車を奪って逃げられたのだ」

 夜だったので、家主はパジャマの上に上等なガウンを羽織り、葉巻をふかしていた。ぶくぶく太った体に、バーコードのような髪の毛が額に貼りついている。口髭だけがなんとか威厳を保っているように思われた。

「犯人を見ましたか。単独犯ですかそれとも複数でしたか?」

「黒っぽい服装をしておった。身長はあんたと同じぐらい。目出し帽をかぶっていたから人相はわからん。単独犯かもしれんし、外で見張り役がいたかどうかもわからない」

「ご家族は」

「家内は寝室で震えている。息子たちは夜遊びでまだ帰ってきとらんよ」

「盗まれた車の車種とナンバーを教えてください。緊急配備をします」

 家主は車種とナンバーを教えた。

「それなら遠くにはいけませんな。きっとすぐに見つかるでしょう」

「ほう、なんでかね」

「盗まれた車はEV(電気自動車)でしょう。EV車は航続距離が短いですからね。高速に乗ったところで、途中の給電所で順番待ちをしているところを捕まえますよ」

 そのとき署から連絡が入った。

「犯人は車を乗り捨てて、別の車に乗り換えたらしいです。これでますます捕まえやすくなりました」

「どういうことかね」

「今度はFCEV(燃料電池自動車)を盗んだそうですよ」

「それはどんな車なのかね」

「水素で走る車です。犯人はよっぽど環境保全を考えている人間のようですな」

「なんですぐに捕まえられると言い切れる」

「それは、水素ステーションなんて数えるぐらいしかないからですよ。待ち伏せしておけばすぐに御用になります」

「そうか。犯人はいいやつなのかバカなのか・・・・・・」

「息子さんたちに連絡を取ってくださいますか。すぐに帰宅するようにと」

「あの・・・・・・警部さん。あなた、もしかして」

「疑っているわけではありません。あくまでも可能性です。でも今ならまだ間に合うかもしれない。捕まる前に」

「なぜそう思うのです」

「犯人はガソリン車の音と、あなたの怒鳴り声が嫌いなのかもしれない。いつも乗っているのが静かなEVだったらなおさらです」

5月21日 リンドバーグ翼の日

 わたしは猛烈な睡魔と闘っていた。

 1927年5月20日の未明、わたしの単葉飛行機は、幾ばくかの食料と、水筒2本分の水、それに1700リットルのガソリンを積んで、ニューヨークを飛び立った。

 わたしの年齢は若干25歳だ。アメリカからパリへ大西洋横断無着陸飛行を試みたのだ。飛行時間はすでに33時間を超えていた。

「うう・・・・・・眠い。強烈な睡魔が襲ってくる」

 巨大なガソリンタンクが操縦席まで占領していたため、わたしはタンクの隙間から望遠鏡で前方を確認するしかなかった。しかし前方には雲が見えるばかりだった。

「負けてたまるか。成功すれば2万5千ドルの賞金と名誉が与えられるのだ」

 わたしは太ももをつねったり、水を飲んだりして、睡魔とのギリギリの攻防を繰り返していた。白い幕が下りて来るような感覚。遠のく意識・・・・・・。

「だめだ・・・寝てはだめだ」

 わたしは頭を左右に激しく揺り動かした。

 そのとき微かに街の明かりらしきものが遠くに見えて来た。わたしは叫んだ。

「翼よ、あれがパリの灯だ!」

「あ、それ当たりね」

 どういう訳か、向かいから声が聞こえた。

「え?」

「悪いな。国士無双・・・・・・役満だ。3万2千点」

 そうだ、わたしは『麻雀荘 パリの灯』で麻雀を打っていたのだった。わたしは一瞬のうちに夢を見ていたようだ。うっすらと目を開けて、点棒箱を見た。

 そう、間違いなくわたしは飛んでいた

5月22日 サイクリングの日

「サイクリングはストレス解消やダイエットにもって来いの趣味なのよ」

 良子は夫の幸男に言った。健康診断でメタボを指摘された幸男に対して、妻の良子が運動の提案をしているのである。

 ジムに通うには金銭的余裕がない。ジョギングすると膝に悪い。食事療法はつら過ぎる。あらゆる言い訳をこねて、幸男はダイエットを拒否してきたのであった。そこで妻が考えたのが、サイクリングである。

 サイクリングは自転車さえ用意すれば、あとは乗るだけでOKだ。ただし、何事も形から入りたがる夫は、ママチャリではなく、単にカッコいいという理由だけでタイヤの細い本格的なロードバイクを欲しがった。仕方がないので貯金を下ろし、ロードバイクとヘルメットだけは購入してあげることにした。これで夫の体脂肪を燃やしてもらえるなら、安いものである。

「それじゃあ、ちょっと近所を走ってくるよ」

 そういうと、幸男は近所の本屋や駄菓子屋を巡り、喫茶店でお茶を飲んで帰ってきた。

「あのね。自転車でそのへんをブラブラするのはサイクリングとは言わないのよ」

「え。ダメなの」

「それは自転車の散歩。“ポタリング”って言うの。ちゃんと目的地を決めて走るのがサイクリングなんだから」

「へえ。そうなんだ。どこまで走ればいいのかな」

「そうね。最初は50kmぐらいでいいかな。馴れてきたら100kmは目指してちょうだい」

「マジですか」

「マジです」

 そのうち夫はサイクリングに目覚めたのか、きっちりコースを走って帰って来るようになった。やはり、風を感じながら景色が動く爽快感は格別なのだろう。

 夫がサイクリングを始めてひと月経過した。ところが一向に幸男の体重が減ることはなかった。どこかでサボっていないか。良子の頭にそういう疑いがよぎったある日のことである。

「お疲れさま。あなた今日はどこを走ってきたの?」

「あ・・・うん。サイクリング道路を一周回ってきたよ」

 食卓の新聞を観ながら夫は答える。社会欄に空に虹が架かったカラー写真入りの記事が出ていた。

「そうそう。帰り道で大きな虹が出ていたよ。あれはすごかったなあ。虹に向かって走ってきたんだぜ」

「たしかサイクリング道路の帰り道は西のわが家に向かってくる一本道だったよね」

「そうだよ」

「あなた。来週からわたしもついて行くことにするわ」

「え、なんで」

「あなた毎週サイクリングと称して、まさかパチンコ屋にでも行ってるんじゃないでしょうね」

「そんなことないよ」

「いい、虹っていうのは太陽と反対側に出るの。午前中は西、午後は東に架かるのよ。だからあなたは今日サイクリング道路を走ってないってことになるわけ」

「ゴメンばれたか。これからはふたりで走ろうよ」

「最初からそう言えばいいじゃない」

5月23日 恋文の日

 妻が病気で亡くなって、明日で1周忌を迎える。

 妻には金銭的に苦労をかけてしまった。高額治療を受けさせてあげられなかったのである。突然の妻の死は、わたしの人生を大きく変えてしまった。心の中に大きな空洞ができてしまったのだ。何事もやる気がでない。いわば人間の脱け殻だ。

 そうは言っても、いつまでもクヨクヨしてもいられない。妻の荷物はすべて生前のままにしてあった。そろそろ片づけをはじめることにしよう。

 押し入れには洋服の数々、装飾品、趣味で集めた猫グッズなどがある。すると、奥から見たことがない小綺麗な菓子箱が出てきた。ふたを開けてみると、大量の手紙が入っていた。

 それはわたしが若い頃、妻の美紅みくに送ったラブレターだった。

 なんとも懐かしく、そして気恥ずかしい手紙の数々であった。あの頃は純粋だった。妻を振り向かせるのに必死だったのである。一通ずつ懐かしく読んでいくと、その中に見知らぬ手紙を発見した。

 差出人の名前はない。故人宛の手紙を読むことにいささか抵抗はあったが、好奇心の方がそれに勝った。手紙は美紅に対して切実な想いを伝える内容であった。

“拝啓 菅沼美紅すがぬまみく

突然のお手紙に驚かれたことと存じます。

初めてあなたとお会いしてからというもの、わたしの頭の中はあなたの事でいっぱいです。

ご無礼を承知でこの手紙をしたためております。

あなたが学校でわたしに送ってくれる微笑みだけが、今のわたしを元気にしてくれます。

ですから、これからも、あなたの屈託のない笑顔を少しでもいただければそれだけで幸せなのです。

もしご迷惑でなければ、喫茶MOREにて、ゲーテの詩集について語り合いませんか。敬具

あなたの永遠のファンY・Tより”

 無論わたしのイニシャルではない。喫茶MOREとは、わたしと美紅が通っていた大学の最寄り駅にある喫茶店だ。もちろんわたしも美紅と入ったことがある。

 わたしと美紅が付き合いはじめた頃、別の人物も美紅に想いを寄せていたということになる。この人物からの手紙はこの一通だけなのかと思い、箱の中を漁ってみると、同様の手紙があと2通見つかった。しかも2通とも別人からの手紙なのであった。ということは、当時妻はわたしを含め、4人の男性から言い寄られていたことになるではないか。わたしは混乱した。つき合っていた頃から今日まで、妻はそういう素振りを一切見せたことがない。

 わたしは妻の位牌を眺めた。

「美紅。おれと一緒になって後悔していないか。こいつらの内の誰かと結婚していたら、もっと幸せな人生が送れたかもしれない。どうなんだ」

 写真の中の美紅は、いつものように笑っているだけだった。

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

 わたしは古い友人を訪ねた。

 喫茶MOREは、昔と変わらずそこにあった。薄暗い店内に、ジャスが流れている。

 大学時代の旧友三郷みさとは、現在不動産会社に勤めているサラリーマンだった。

「なるほど。これが美紅さんの形見に混ざっていたラブレターか」

「卒業アルバムを確認したが、これらのイニシャルに該当する人物は特定できなかったんだ」

 しばらく手紙を読んでいた三郷が顔を上げた。

「懐かしいな」

「?」

「これはおれが書いたラブレターだよ」

「なんだって!」

「美紅さんに頼まれたのさ。筆跡を変えて3通書かされたよ」

「なんでそんなことを」

「なんで?キミを射止めるために決まってるじゃないか。美紅さんはなかなか振り向いてくれないキミに、このラブレターをちらつかせて気を引こうとしてたんだ。文面だってほとんど彼女が考えたんだよ」

「そういえばそんなこともあったような・・・・・・」

「あ、これ昨年美紅さんから送られてきた手紙。お前にあげるよ」

 三郷が内ポケットから美紅の手紙を取り出してテーブルに置いた。

「おれ、仕事があるからこれで失礼するわ。コーヒー代ぐらいはおごれよな」

 そう言って三郷は、店のドア鈴を鳴らして出て行ってしまった。

 わたしは妻の手紙を開けた。

“前略 三郷さま

お元気ですか。

正直言ってわたしは元気ではありません。

もうすぐ天に召されることになるでしょう。

その前に、お礼だけでも言っておかなければとペンを取った次第です。

主人と結婚できたのも、あなたの代筆の手紙が功を奏したからです。

女子大生の“憧れの的”を射止めることができてとっても幸せでした。

あなたは相変わらずモテないのに、本当にごめんなさいね。

わたし、本当はあなたの気持ちを知っていたのです。

それなのに、あんな手紙を書かせたわたしは、なんて残酷な女だったのでしょうね。

本当にごめんなさい。反省しています(わたしは天国にはいけないかも)。

結局主人はぶっきらぼうで世渡り下手で、出世もできませんでした。

だからずっと貧乏暮らしのままです。

でもちっとも不幸せではありませんでした。

お金があることが必ずしも幸せではないのです。

あの人といる時間が幸せだったのです。

主人との時間をありがとう。

ほんとうにありがとうございました。

わたしはもうすぐいなくなりますがお身体だけは大切に。

よい人生でした。  草々

天使のような悪魔より”

5月24日 伊達巻きの日

 仙台藩初代藩主の伊達政宗だてまさむねは言った。「馳走とは、旬の品をさり気なく出し、主人自ら調理して、もてなすことである

 政宗は厨房で料理に励んでいた。今日も客人にご馳走をもてなすためである。白身魚やエビをすり鉢ですり身にし、それに溶き卵とだし汁を擦りこみ、砂糖とみりんで味付けをする。それを今度は焼き上げて巻きすだれで筒型に整える。政宗の生涯の好物がこの卵焼きであった。

 政宗は幼少の時に天然痘を患い、右目が白濁して失明してしまった。それゆえ母の義姫よしひめは、長男の梵天丸ぼんてんまる(元服前の政宗)に対して、腫れ物を扱うように接していた。後年母が長男には目を向けず、次男の小次郎ばかりを寵愛したと伝えられたのはそのせいであろう。

 織田信長亡きあと、天下は豊臣秀吉の時代になろうとしていた。しかし小田原の北条氏は、かたくなに秀吉の傘下に入ろうとしなかった。

北条氏は言い放った。「猿を紐で引くことがあっても、北条が猿に引かれるということはない」

 それに対して、秀吉から伊達家にも小田原攻めの命令が下った。北条氏は一大勢力を誇る戦国大名である。それに対し秀吉は未知数とはいえ、織田信長を引き継ぐ智将と言われている。どちらにつくかで、伊達家の存亡が決まる事態であった。

 前代未聞の事件は、そんな最中に起きたのである。

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

 小田原攻め参陣に向けて、母の義姫が激励会を催した。

「さあ。今宵は精を存分につけて、明日からの戦にそなえるのです」

 政宗は、母の義姫に言われるまま、卵巻などの料理に手をつけた。ただし、極端に酒の弱い政宗は、酒は口にしなかった。

「んぐっ」その時政宗が腹を抱えて座布団から崩れ落ちた。「毒じゃ。毒を盛られた・・・・・・」

 政宗はそう言うと嘔吐して倒れた。その夜、政宗は医師により処方された解毒剤により一命だけは取りとめた。

 なんと実の母による謀反が起きたのだ。家督を小次郎に継がせるのが目的だったという。さすがの政宗も、実の母親を処刑するわけにもいかず、結局のところ弟の小次郎を手討ちにしてしまう。

 その事件の4ケ月後、母の義姫は山形の実家に逃げたという。

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

 伊達政宗と手討ちにされたはずの小次郎は、東京都あきる野市の大悲願寺山門にいた。

「小次郎よ。お主はこれより秀雄しゅうゆうと名乗り、この寺の住職になるのだ」

「兄さんは」

「秀吉に仕えるが、この世の中、いつ何時、命を狙われるか分かったものではない。もしものときにはお前が伊達家に戻って当主になればよい。一緒に戦場に出たのでは、いざというときに伊達家が滅んでしまう。われらには男の子がいないのだからな」

 そうなのだ。すべて政宗の演出した芝居だったのである。さらに政宗は続けた。

「これだけの騒動であれば、小田原攻めに遅れて参陣しても責められることはなかろう。その間に豊臣と北条のどちらかにつけばよいのだから」

 政宗の計算は当たった。政宗は形勢不利な北条氏を見限り、遅ればせながら豊臣軍に参陣したのである。そしてその時、わざと真っ白な死に装束を身にまとい、秀吉に対して遅参の詫びを入れて許されたのだった。

「伊達政宗よ。あと少しでも遅かったら、お主の首もつながっていなかったと思え」

 秀吉はそう言って破顔した。

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

 人生は芝居とパフォーマンスである。信長が本能寺の変を隠れ蓑にして、ヨーロッパに渡ったのち、伝令から後を引き継いだ秀吉に対し、信長からの密命が下された。

「自分がローマ法王になりヨーロッパを掌握するから、猿は中国を手中にせよ」というのである。

 要するに秀吉の日本における天下取りは、信長の世界征服の足掛かりに過ぎなかったのだ。豊臣秀吉は、中国(明)征服の基盤づくりとして、まず朝鮮に出兵することにした。1593年「文禄の役」である。

 徴収された兵の数は15万人にもおよんだという。軍勢を引き連れた大名たちは、一旦京都に集結した。そこから隊列を組み直し、秀吉の待つ名古屋城に参上するのである。

 出兵する軍隊の姿を一目見ようと、京都中の民衆が沿道に集まってきていた。

 仙台から馳せ参じたものの、残念ながら伊達軍は朝鮮出兵の主力部隊には選ばれていなかった。伊達家が謀反を企てているという噂が流れていたからである。そこで政宗は、秀吉への忠誠心をアピールするために、一世一代のパフォーマンスを演じることにした。

 伊達政宗の軍団が現れると、京都の人々は目を見張った。天から舞い降りたかと思わせるほど、世にも美しい兵士たちが行進してきたのである。紺色に日の丸をあしらった軍旗。黒で統一された具足。全員が朱色の脇差を差しており、そこには銀の装飾がほどこされていた。馬に乗った武者達の鎧には、金色の半月を描いた黒のマントがひるがえっている。
 そして大将の政宗は、背中に大きな金の家紋を描いた羽織を着ており、黒い袴に金糸模様の装飾が施されている。兜にはキラキラと輝く三日月の前立てが悠然と揺れていた。
 それらは決して派手になり過ぎない、上品でいて豪華な、秀吉の不評を買わないように計算し尽つくされた装いなのであった。それはまるで絵巻物をみているようであったという。

 これを観覧した秀吉はおおいに喜び、豊臣家に対する伊達家の忠義が確固なものになったのだった。

 この装いは後に、さらに意外な効果が表れることになる。この美麗な伊達軍の姿が後々、「おしゃれ」「いき」「カッコいい」ことを「伊達」と言うようになったのである。おせち料理を豪華に装う、伊達政宗の好物の卵巻きが「伊達巻き」と呼ばれるようになったのもこれに由来する。

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

 秋になると大悲願寺の境内は、みごとな白萩で覆いつくされていた。

 弟の秀雄和尚しゅうゆうおしょうと兄の政宗は白萩の中にひっそりと対峙していた。和尚の掌には、例の卵巻きを乗せた小皿が乗せられていた。秀雄は白萩を仰ぎ見ながら政宗にしみじみ語った。

「兄じゃ。この伊達巻きがある限り、伊達家の名前が、末代まで滅びることはござりませぬな」

「うむ」

 秀雄には兄がにウィンクしたように見えた。ただし政宗がもともと片目を瞑っているので、そう見えただけなのかもしれない。

5月25日 プリンの日

 今日は晴天、デート日和びよりである。

 ぼくは恋人のさよ子と、前から彼女が観たいと言っていたロードショーを鑑賞することにした。映画はだいたい予想どおりの展開で、とくに感情を揺り動かされることもなく終わった。

 ぼくらはポプラ並木を歩いていた。彼女は身体にピッタリフィットした、淡いクリーム色の、薄手のハイネックセーターを着ていた。そして細身の足がしなやかに伸びるスリムなジーンズ姿だ。

 五月のさわやかな風が彼女の髪を揺らしている。彼女を横目で見ていたら、なぜか無性にプリンが食べたくなった。

「喫茶店でお茶でも飲んで行こう」

「いいね」

「さっきの映画の感想はとくにないけど」

「そう?まあまあいい映画だったじゃない」

「続編がありますよ的な終わり方が好きじゃないね」

「続編たのしみ」

「続編が本編を上回る映画は数少ないんだぜ」

「たとえば?」

「『死霊のはらわた2』とか」

「あれは続編じゃなくて、リメイク作品じゃない」

「『ファイナルデスティネーション2』なんかも」

「ホラーばっかりじゃん。あたしは『ローマの休日』みたいなラブロマンスが好きなの」

 ぼくらは通り沿いのカフェテラスに入り、オープンテラスに席を取った。彼女は紅茶、ぼくはビールにプリンを注文した。

「ビールにプリン?意外な組み合わせね」

 ぼくはさよ子の胸のあたりをぼんやり眺めていた。

「うん。きみを見ているとどうしてもプリンが食べたくなっちゃってさ」

「・・・・・・ごめん。あたしって、罪な女なのね」

 さよ子は自分の豊満な胸を両手で隠した。

「さよ子の“プリン髪”、そのまま伸ばし続けると『貞子』になっちゃうぞ」

「きみ、ホラーの話から離れろよ」

 根もとだけ黒くなりはじめたさよ子の茶色い髪が、五月の風で静かに揺れているのだった。

5月26日 源泉かけ流し温泉の日

 わたしは温泉が大好きだ。時間ができるとひとりで温泉旅行に出かけている。日本中の温泉を制覇するのがわたしの夢である。

 とくにわたしの好みは、“源泉かけ流し温泉”である。源泉とは温泉が噴き出した場所のことで、常に新しく湧き出た湯を浴槽にあふれさせている温泉のことを言う。あふれた湯を再利用しないという、なんとも贅沢な温泉なのである。

 よく観光をして夕食どきに宿に着き、食後しばらくして温泉に入り、翌朝ひと風呂浴びて帰って行く旅人がいる。しかし、わたしはそんな勿体ないことはしない。

 チェックインはなるべく早く、その日一番に旅館に入りたい。そしてまずは温泉に浸かる。このとき長湯はしないのがコツである。ゆっくり温泉に浸かるのは、身体が温泉の成分に馴れてからにしているのだ。夕飯前に、さらにもう一回短時間湯につかり、夕食後にゆっくりと温泉に浸かるのがわたしの流儀である。

 ただし、食後にすぐに温泉に浸かるのは身体によろしくないので、窓を開け、ビールを飲みながら、外の風情などを楽しむ。温泉旅館の温泉は、夕食後が一番混み合うのでそこは避けるのである。団体の酔っぱらった客に混じっていては、せっかくの温泉気分も台無しになりかねない。

「さて、そろそろ温泉にじっくりと浸かるとしよう」

 夜も更けたので、わたしはコンタクトレンズを外した。宿には内緒だが、誰も入っていない温泉で、悠々浸かりながらちょっと泳いでみるのも楽しいものである。

 脱衣所で浴衣を脱ぎ、湯舟に向かうとすでに先客がひとり温泉に浸かっていた。わたしは洗い場で軽く体を流すと、湯舟に入った。男は頭に手ぬぐいをのせて、不動の体制で座っている。よほどの強者つわものと思われる。わたしが立てた温泉の波にも微動だにしない。

 わたしはすでに身体を温泉に馴らしてあるので、彼が出るまでゆっくり浸かることにした。ところが、10分経っても男は腰を上げようとしなかった。相変わらずの姿勢でゆったりと湯舟に使ったままだった。そして20分が経過しても状況は変わらなかった。

 どうなっているのだこの人は。わたしも温泉マニアとしては負けるわけにはいかない。30分経過しても出ないようであれば降参だ。わたしは風呂上りにいっきに飲みほすコーヒー牛乳のことに意識を集中して目を閉じた・・・・・・そしてそのままわたしの気は遠のいて行ったのだった。

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

 気がつくとわたしは湯舟の外に寝かされていた。下半身にタオルが一枚かけられている。どうやら湯舟で溺れたようである。

「どこの酔っぱらいだ・・・・・・」

 わたしの頭上で、誰かが話をしているのが聞こえた。

「タヌキの置物を湯舟に入れたやつは」

5月27日 百人一首の日

「きみ、和服が似合いそうだね」

 そう声を掛けてきたのは、メガネをかけた背の高い男だった。膝が擦り切れたズボンを履いている。早紀さきは大学キャンパスを歩いていた。

「うちのサークルに入らない?」

 お決まりのフランクなお誘い。この時期、各大学のサークルは新入部員の勧誘に余念がないのである。

「なんのサークルですか」早紀は長い髪をかき分けて訊いた。

「お茶とか飲みながら、みんなでわいわい騒ぐカードゲームのクラブだよ」

 早紀はこれまで空手に専念してきたので、文化部というものに多少の興味を持っていた。

「なんかゆるそうなサークルですね」

「時間があったら今から見学して行かない。君みたいな美人が来てくれたらみんな大喜びだ。ちなみにぼくは、部長の速見はやみっていうんだ」

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

 そこは畳敷きの部屋だった。

「日本の伝統文化ってやつさ」

 二人一組になり、並べられたカードに向かって前傾姿勢を取っている。読み手が和歌を吟じだすと、すかさず手が動き、ふだが飛んだ。

「速見さん。これは・・・・・・」

「百人一首だよ。今のは“払い手”といって、押さえるよりも素早く札を取る方法なんだ」

「多く札を取った方が勝ちということですね」

「まあそうなんだけど、厳密に言うと自分の陣地の札がなくなった方が勝ちになるんだ」

「自分の陣地?」

「百人一首の競技は100枚の札を全部使うわけではない。使うのはそのうちの半分で50枚。相手と自分が25枚ずつを、手持ち札として自分の陣地に配置するんだよ」

「あの3段になっている札が陣地ですか」

「そう」

「でもおかしくないですか。相手陣地の札を取ってしまったら、相手の札が減って行きますよね」

「早紀さんエライ。よくそこに気がついたね。相手陣地の札を取ったら、自分の陣地の札を1枚相手の陣地に移動する。これを“送り札”という」

「間違った札を取ってしまったらどうなります?」

「読まれた札が、陣地内にある札であればお手つきにはならない。陣地内にない50枚の空札の中から読まれた時にはお手付きになり、その場合にも送り札になるね」

「歌を知らなければ話にならないということですね」

「まあそうだね。上の句が詠まれた瞬間に下の句の札を捜さなければならないからね。だけど、和歌を覚えることはとても優雅な心を育ててくれるからお勧めだよ」

 心技一体が空手の極意ならば、百人一首も同じこと。早紀はこのサークルに入ることに決めた。

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

 あれから一年が経過し、早紀は圧倒的な力をつけた。

 その洗練された美しい払い手には、誰もが目を奪われるのであった。早紀が払うと、一陣の風が起こり、札が宙に舞う。彼女は空手の突きを、百人一首に応用したのだ。

「早い」

「今なにが起こった」

「ぜんぜん見えなかったぞ」

 周囲からそういう声が聞こえた。

「それに彼女の美しさと言ったら・・・・・・」

 誰もが早紀に憧れを持って見つめていた。

 競技かるたのプレースタイルはだいたい2つに分かれる。自陣を守る“守りかるた”か、敵陣を責める“攻めかるた”である。早紀のスタイルはどちらとも言えず、攻めにも守りにも強かった。

 人並はずれた早紀の記憶力は、札の配置にも工夫が施されていた。通常は同じ字で始まる下の句を、覚えやすいように固めて並べるのが普通である。たとえば“は”で始まる「はるの」「はなの」「はなさ」などは上段右に、“き”で始まる句「きみがためを」「きみがために」などは中断左に、一字で確定する“”などは下段右に配置するのだ。

 試合は開始前の15分は、札を暗記する時間に当てられる。当然のことながら自分が覚えやすい配置は、相手からも覚えられやすいのである。早紀の配置は、誰が見ても無造作に置かれているとしか思えない、バラバラな配置だったのだ。彼女は25枚の札を、自分にしか分からない歌になるように繋げていたのである。

 早紀の試合が始まると、会場には大勢の男性ファンが集まって来た。

「どうです速見部長。今日の早紀さんの感じは」

 百人一首では、反応(反射神経)のことを“感じ”と表現する。

「まずまずだな」

 会場の廊下は押し合いへし合いの状態である。

 上の句が詠まれる。すかさず早紀の指が反応した。バサッと一束の札が宙に舞った。

 払い手をするときには、正解の札以外に触れることを反則ではないかと勘違いするひとがいる。しかし百人一首では、当たり札周辺の札ごと外に弾き出すことが許されているのである。

 どよめきが起こった。

「早紀ちゃんかっこいい」という声援も聞こえる。

 係員が静かにするように注意をくわえた。しかし、この騒ぎは一向に収まりそうにない。早紀はすっくと立ちあがると、スタスタと廊下に近づき、集まっている男子たちを右手で一気に薙ぎ倒した。

「うるさいわねぇ。あなたが好きだって言ってるでしょう!」

 倒れた男どもの山に向かって早紀が言い放つと、何事もなかったかのように席に戻った。男性陣はきょとんとして顔を見合わせている。

 対戦相手の女子が小さな声でささやいた。

「早紀ちゃんの気持ちはわかったけど、あの払い出された中のいったい誰が本命なのよ」

5月28日 ゴルフ記念日

 ゴルフの世界4大メジャー大会といえば、

マスターズ

全米オープン

全英オープン

全米プロ選手権

の4つのトーナメントである。そして、この4つのメジャーで優勝することを『グランドスラム』と呼ぶのである。しかもこれを達成したゴルファーは今までに数人しかいない。

 主なところで言えば、球聖ボビー・ジョーンズ、帝王ジャック・ニクラス、サンドウェッジを発明したジーン・サラゼン、『モダンゴルフ』を書いたベン・ホーガン、”南アフリカの黒豹”と呼ばれたゲーリー・プレイヤータイガー・ウッズ(タイガーは愛称、本名はエルドリック・ウッズ)である。

 そして今まさに、グランドスラムを達成しようとしている人物がいた。トム・マッケンジーである。

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

 その日トムはある試合で優勝をかけてファイナル・ラウンドをプレイしていた。

 前半の9番ホールまで3アンダーと出遅れていたが、後半8ホールで5バーディ1イーグルを奪い、10アンダーはトップとの差をわずか1打に縮めていたのである。最後の18番ホールで絶好のバーディチャンスに着けた。この1メートルの下りのバーディパットを沈めればプレイオフに持ち込めるのである。

「トミー。下りのスライスラインだ。カップ半分左を狙って距離を合わせて行け」

 キャディのバッハが耳打ちした。

「いいや、ここは強くストレートに打つ。強い玉なら曲がらないさ」

「ただでさえ優勝争いをしているんだぞ。余計な力が入るからやめておけ」

「まかせておけって」

 トムは慎重にラインを読んで、ボールにヘッドを合わせた。そして打った。ボールはカップの縁をかすめ、はるか5メートルもオーバーして行った。返しのパットもはずし、さらに10センチのパットをはずして4パットのパーより2打も多いダブルボギーを叩いてしまった。

「クソ!」

 頭に血がのぼってトマトみたいに顔を紅潮させたトムは、18番ホールの脇にある池に向かってパターをぶん投げてしまった。

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

 その晩、ゴルフ場に隣接するホテルに宿泊したトムは、ホテルのレストランで親友のバッハと沈痛な面持ちで夕食を取っていた。

「わかってる。バッハの言いたいことは。悪かった」

「ちょっと頭に来たぐらいであれはないだろう。なぜおれのアドバイス通りにできないんだ」

「ごめん。本当に悪かったよ」

「今度あんなことをしたらキャディを降ろさせてもらうからな」

 バッハは大きな体躯を椅子にしずめた。

「そんなこと言うなよ。ここまで一緒にやってきたんじゃないか」

「頭を冷やせよ。おれは先に寝る」

 そう言うとバッハは客室に戻って行った。そこへ入れ替わりに背の高いキチンとした身なりの男が現れた。

「トム・マッケンジーさん。全米ゴルフ協会からの伝言です。本日の非紳士的な行為に対し、協会は貴殿に千ドルの罰金を科すことに致しました。一週間以内に振り込んでいただけますか」

 分かったというジェスチャーをしてトムは席を立った。レストランを出て外の空気に当たりたかったのである。

 18番の池の前に来た。あたりは薄暗く、池は底なし沼のように見えた。

「あーあ。ひどい目にあった」

 その時、池の底からブクブクと泡が浮かんできたかと思うと、水面に白いローブのようなものをまとった老人が現れた。

「ワインを飲み過ぎたかな」

 老人は長い白髪に豊かな白い口髭を生やしていた。そして、両手に3本のパターを持っている。

「トム・マッケンジーよ。お前の捨てたパターはこれか?」

 老人の右手には金色に輝くパターが握られていた。

「いいえ、違います。ぼくのはただのピン型のブロンズのパターです」

「それではこれか?」

 老人は銀色に輝くパターを差し出した。

「それも違います。ぼくの捨てたのはこんなに綺麗なパターじゃありません」

 老人はにっこり笑った。

「おおそうか。それではこのパターがお前のパターか」

 老人はトムが池に投げ捨てたパターを差し出した。

「そうです。それです」

「お前のおかげで、頭にコブができた。まあ、そんなことはいいとしよう。それよりも、お前はなんて正直な男なのだ。わたしは久しぶりに感動したぞ。褒美にこの金のパターを進ぜよう。このパターで打ったボールは、どんなにうねったグリーンでもイッパツでカップ・インできる魔法のパターなのだ」

「本当ですか」

「しかし、これを1回使うとだな、その反動で打った人間の大切なものをひとつ失うことになるからの。じゅうぶん考えて使わなければいかんぞ」

 翌朝、池の前で酔っぱらって昏睡しているトミーが発見された。しかし、手にはしっかり二本のパターが握りしめられていたのである。

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

 トムは翌年のマスターズで優勝を勝ち取った。その日、彼の飼っている愛犬が亡くなった。

 さらには全米オープンのタイトルを奪取した。今度はトムの愛車が事故に遭遇し、廃車となってしまった。

 そして全英オープンでもプレーオフの末に優勝した。彼の家が火事で全焼したのはその翌日だった。

 そして今、トムは全米プロ選手権の最後の18番ホールのグリーンにいた。

 15メートルの長い蛇行したパットを残していた。これを入れたら『年間グランドスラム』の達成である。『年間グランドスラム』とは、同じ年内で4大メジャーにすべて優勝することを言う。過去にこれを達成したのは球聖と言われたボビー・ジョーンズだけである。

 バッハの抱えるトムのゴルフバッグには、パターが2本入っていた。バッハは迷わず金色のパターを引き抜いてトムに渡した。トムは震える手でそれを受け取る。ギャラリーの中に、妻キャサリンの顔があった。神に祈っているのであろう。両手を合わせて目を閉じている。

 トムには分かっていた。これを使えば年間グランドスラムを達成できる。でも、今度ばかりは看過できない。つぎは妻キャサリンがこの世からいなくなってしまうのに違いない。

 トムはじっくり時間を取ってラインを読む。そして震える手でパターを構えた。

 彼はパターを打った。でもその瞬間、トムはホールとは正反対の方向に打ち出していた。

(外れろ!)

 トムの打ち出したボールは、一旦グリーンの縁で静止すると、少しずつ方向を変えて、蛇行するグリーンを右に左に転がりながら、ボールが停まるか停まらないかというギリギリのスピードで静止し、ホールにボール半分その姿を覗かせて停止した。

 ギャラリーから大きなため息が漏れる。

 するとしばらくして、静止していたボールが「コトン」という乾いた音を立ててホールに落下したのである。

 大歓声が沸き起こる。年間グランドスラムの達成である。

 わたしはなんということをしてしまったのだ。歓声と拍手の中で妻を見た。妻とバッハが笑っている。どういう訳か、妻の手には金色のパターが握られているではないか。

「トミー。悪かった。実はおれが昨夜、色を塗ってすり替えておいたのさ。グランドスラムなんかより、キャサリンのいない人生なんて生きていてもしょうがないって言ってただろ」

 ありがとう友よ。トムは妻を抱きしめて泣いた。

5月29日 至福の日

「ちょっと”ラバ“に行って参ります」

 同僚のCA(キャビンアテンダント)がそう言って席を立った。わたしは親指を立ててウインクした。

“ラバ”とは業界用語でトイレのことである。そして親指を立てるのはOKのサインだ。

 わたしたちは五月晴れの大空を飛んでいた。この便は、フランスから日本への直行便なのだ。

 貧困な家庭に育ったわたしは、テレビドラマに影響を受け、猛勉強の末にあこがれのCAになったのだった。わたしたちCAは、普通のOLに比較するとデートのスケジュールが立てにくい。その代わり、出会いの機会が圧倒的に多いのが特徴だ。うまくすると一流芸能人やスポーツ選手、一流企業マンなどと知り合うことができる。そしてゴールインした先輩をたくさん知っていた。大手企業の社員と合コンすることだって日常茶飯事なのである。

 今日もわたしはファーストクラスで、ある外国人の紳士と懇意になることができた。同僚の話では、彼は石油富豪の御曹司なのだそうだ。

「ありがとう。本当に親切にしていただいたね」

 御曹司は少しかわった発音でお礼を言ってくださった。

「こちらこそありがとうございます。ぜひ日本でよい旅を」

「あなたにお礼がしたい。お名前と住所を教えてください」

「いいえとんでもございません」

「そんなこと言わないで。至福のときをあなたにさしあげたいのです」

 わたしは困った顔をしながら、胸のポケットからメモを取り出すとそっと彼に手渡した。

「それでは到着まで今しばらくおまちください」

 わたしはそう言ってその場を後にした。

「到着までマル8分」

 同僚がわたしに教えた。CAは一桁の分単位の前には”マル“を着けるのが決まりなのだ。わたしは親指を立てて応えた。

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

 その日、仕事を終えて片手にCA御用達の”NaRaYa”製のリボンバックを持って家に帰ると、中東の御曹司から大量の荷物が届いていた。段ボール箱にして10個はあるだろうか。

 箱を開けるとそこにはブランド品だろうか、カジュアルな洋服が大量に収められていた。わたしは彼の言った言葉を思い出した。

しふくの時をあなたにさしあげたいのです」

5月30日 掃除機の日

 時として人間は画期的な発明をする。わたしもそのひとつであると自負している。

 近未来的お掃除ロボット『ウ~・マンボ』である。

 ありとあらゆるゴミ、バイ菌を除去するのがわたしの仕事だ。

「マンボ、寒気がする」

「マンボ、水をお願い」

「マンボ、お粥が食べたい」

「マンボ、熱を測ってちょうだい」

 お掃除ロボットは、つきっきりでご主人様の身の回りのお世話をする機能を持っている。ご主人様にまとわりつくゴミや菌を日々除去しているのである。そう、わたし達のおかげで、菌がめっきり減少した。そのおかげで人間は菌に対する抵抗力を失ってしまった。

 最近の新機能といえば、排出口から“超小型マイクロ・ロボット”を多数輩出して、人間の体内の掃除までしてしまうという念の入れようだ。

“そうだ、そろそろ充電しなければ”

 充電器でひと息ついたとき、わたしはいつも感慨深く思ってしまう。この世からバイ菌の巣窟をすべて除去してしまったという、一抹の寂しさからだろうか。

 そう、今は人間がこの世にひとりもいないのである。

5月31日 世界禁煙デー

「あなた。タバコは身体に悪いんだって。禁煙なさったら」

 妻がわたしに禁煙を要求してきた。

 そもそも、ハードボイルドを自任しているわたしに惚れたのは妻の方だったはずだ。それなのに、タバコは身体に悪いからやめろという。

「いきなりは無理だな。少しずつ本数を減らしてみるよ」

「だめよ。前にもそんなこと言って、結局やめられずじまいだったじゃない」

 妻は断固としてわたしにタバコをやめさせるつもりらしい。

「それじゃあ、もし禁煙に成功したらなんでも願いを叶えてあげる」

「本当か」

「もちろんよ」

「よし分かった。じゃあ今日から禁煙しよう・・・・・・と言いたいところだが、このひと箱がもったいないから、これだけ吸い終わったら禁煙だ」

「まあ。仕方ないわね。約束よ」

 だいたい理不尽なのは、散々今までタバコの宣伝をしていた国が、掌を返したように禁煙を推奨しはじめたことだ。いまでは飛行機内での喫煙は世界的に禁じられている。それでも空港の免税店ではタバコが大々的に売られているのも腑に落ちない。

 我々愛煙家は、日に日に肩身の狭い想いをしなければならなくなってきているのである。

 ひと箱のタバコは、その日のうちに煙になって消えてしまった。翌朝から地獄の日々がはじまったのである。

 まず朝、寝起きの際がつらい。そして新聞を読みながらコーヒーを飲んでいるときもつらい。始終手持無沙汰になる。通勤の車の中で、信号待ちなどをしているとついタバコを捜している自分に気づく。

 会社の休憩時間や昼食後がつらい。禁煙したのを知っていながらタバコをすすめてくる悪い友達がいる。しかも、これ見よがしにうまそうに人の前で吸いやがる。

 どこに行ってもタバコのにおいに敏感になっている自分に気がつく。家に帰ってテレビをつけるとドラマの中で主人公がタバコを吸っているとこちらも吸いたくなる。

 しだいにわたしはイライラし始めた。ガムなどを噛んでみたりする。めまいがし始める。頭痛がし始める。手が震えて来る。眠れなくなる。・・・・・・ニコチンの禁断症状だ。

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

 一ヶ月が経過した。

 今でも夜中にタバコを吸っている夢を見て飛び起きることがある。食べ物の味が異様においしく感じて来た。そのおかげで、少々太ってきてしまった。テレビでタバコの値上げのニュースを聞くと、ざまあ見ろと優越感が湧いて来る。

 禁煙ひと月で人間の身体は免疫力が回復するのだそうだ。

 しかし、今でも時々禁断症状が訪れる。コンビニのレジに並んでいると、前列のひとがタバコを購入しているとつい自分も買ってしまいそうになる。こういう日常の習慣行動がやばいのだ。

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

 そして、とうとう1年が経過した。これで肺機能が改善したことになるのだそうだ。やった。

「あなた。とうとう禁煙して1年が経ったわね。おめでとう!」

「おう。今回は自分で自分をほめてやりたい気分だよ」

「意思が強くなったのね。素敵よ。ご褒美は何がいい?」

「そうだな。タバコを1本吸わせてくれ」

 あとがき

最後までご覧いただきましてありがとうございます。

この物語はフィクションです。

登場人物、団体などはすべて架空のものです。

まれに、似通った名称がございましても関係性はございません。

参考文献・サイト等

Hana Saku すずらん(鈴蘭)の花言葉|花名の由来や種類、怖い意味や毒性はある? https://hanasaku-gift.com/language-of-flower/lily-of-the-valley-2 参照日:2023.9.24

・宇畑SORABATAKE 深刻化する「宇宙ごみ」問題~スペースデブリの現状と今後の対策~ https://sorabatake.jp/ 参照日:2023.9.26

ウイキペディア チャールズ・リンドバーグ https://ja.wikipedia.org/wiki/チャールズ・リンドバーグ 参照日:2023.9.26

macaroni アメリカ人に通じない!?コロッケは英語でなんというべき? https:macaroni-ni.jp/ 参照日:2023.9.27

no+e 私の考える博士課程の闇~私が覗いた深淵と先輩の嵌(はま)った沼 https:note.com/kura_and_chacha/n/ 参照日:2023.9.29

ASCII倶楽部 仕事帰りにニューヨーク気分♪「コットンクラブ」の生ジャズで“ブルージャイアント”な世界を堪能♡ https://ascii.jp/elem 参照日:2023.10.3

ナースプラス 看護師あるある25選!職業病や夜勤などシチュエーション別にまとめました https://kango.mynavi.jp 参照日:2023.10.4

「ポケットガイド カクテル」 深見悦司著 成美堂出版 参照日:2023.10.4

日本計量器工業株式会社 水銀温度計・赤液温度計・精密温度計 https://www.nikkeithermo.co.jp 参照日:2023.10.5

ウイキペディア 温度計 https://ja.wikiedia.org/wiki/温度計 参照日:2023.10.5

健達ねっと ヨーグルトの食べ過ぎで起こるデメリットや1日の摂取量をご紹介! https:/www.mcsg.co.jp/kentatsu 参照日:2023.10.6

和楽 松尾芭蕉は忍者だった?その生涯が代表作『奥の細道』5つのミステリーを徹底解剖 https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock 参照日:2023.10.6

e-ヘルスネット 高血圧 https://www.e.healthnet.mhlw.go.jp 参照日:2023.10.9

Quizlet おもしろい同音意義語単語カード https://quizlet.com 参照日:2023.10.9

ウィキペディア 女子ボクシング https://ja.wikipedea.org/wiki/女子ボクシング 参照日:2023.10.10

CA Media 【ANA編】CAあるある秘話をこっそり公開! https://ca-media.jp 参照日:2023.10.10

日本文化研究ブログ 伊達巻の意味と由来とは?卵焼きとの違いはなに? https://jpncultre.net/datemaki 参照日:2023.10.11

伊達政宗を学ぼう!出身や・子供・子孫出身や死因、名言など 伊達政宗が朝鮮出兵の際に残した功績は? https://www.masamune-data.com 参照日:2023.10.11

刀剣ワールド 実母による伊達政宗毒殺未遂事件の真相 https://www.token-world.jp 参照日:2023.10.11

和楽 実母による「政宗暗殺計画」その真相と伊達兄弟の謎を紐解く https://intojapanwaraku.com 参照日:2023.10.11

・Ameba 世界統一を目指した信長! 信長・光秀が計画した歴史 https://ameblo.jp/twocatsonedog7/entry-12581168901.html 参照日:2023.10.11

大津あきたの会 きほんルール|競技かるたについて https://akinotakai.net 参照日:2023.10.12

Medi Palette 禁煙による離脱症状とは?つらい症状を和らげる方法を詳しく解説! https://medipalette.lotte.co.jp 参照日:2023.10.16

著者紹介
杉村 行俊

【出   身】静岡県焼津市
【好きな分野】推理小説
【好きな作家】夏目漱石
【好きな作品】三四郎
【趣   味】ゴルフ、楽器
【学   歴】大卒
【資   格】宅建士、ITパスポート、MOSマスター、情報処理2級、フォークリフト、将棋アマ3段
【創   作】365日の短編小説

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春物語
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