8月の短編小説

8月の小説アイキャッチ 夏物語
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8月1日  花火の日

 江戸時代、飢饉や疫病の流行で大勢の人たちが命を落とした。
その慰霊や悪霊退散の願いを込めて、隅田川で花火が打ち上げられた。
それが、花火大会の始まりである。

「メチャ混みじゃん」

浴衣姿で団扇をあおぎながら夕子が言う。

「もう少し早く出ればよかったな」陽平は浴衣の袖で汗を拭う。

花火大会を楽しむために、久しぶりに高校時代の仲間が集まったのだ。

押し合いへし合いの雑踏の中で、五人は人混みに身をまかせていた。

「おい、みんなはぐれるなよ」泰介が言う。「この状況だと見つけ出すのは至難の業だぞ」

どこか遠くで緊急車両のサイレンが鳴っている。

「お財布も気をつけてよ。スリとかいるかもしれないし」

弥生が小さな身体をよじりながら言う。

その時最初の花火が打ち上がり、夜空に大輪の花が咲いた。

「おお!」と人々のどよめきが起きる。

心なしか人の流れが、速くなったような気がした。

人波が花火につられて動き始めたのである。

ぼくは仲間について行こうと思っていたが、人々の重圧に押されてついに離されてしまった。

「祐輔くん、こっち」

その時、人混みからぼくの手を引く白い腕が見えた。

「え?」

織江がぼくを群衆から引き出してくれたのだ。

ぼくも彼女の手を握った。

「ありがとう。助かったよ」

「ひとまずここを抜けましょう」

織江とぼくは横道にそれた。

「ひどいものね」

「うん。これじゃあ、警備員が何人いてもどうにもならない」

ぼくは陽平の携帯に電話を入れてみた。

「・・・だめだ。全然つながらないや」

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

「おい祐輔はどうした」陽平が言う。

「はぐれたみたいよ」夕子が周囲を見まわしている。

「しょうがねえなあ。祐輔少しは元気出たかな。ま、そのうちここに現れるだろ」と泰介が言う。

「でも陽平。なにが穴場よ。ここすごい人だかりじゃない」弥生が言う。

「穴場だとネットで配信されたときには、もうすでに穴場じゃねえんだよ」泰介がそしる。

「悪い」陽平が頭をかいた。

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

ぼくと織江は花火から離れた対岸に移動していた。

織江は下駄の鼻緒がきつくて、擦れてしまったようだ。

「ごめん。馴れないもの履くものじゃないわね」

河原にぼくらは並んで腰かけた。

こんなこともあろうかと、携帯用のビニールシートを用意していたのだ。

ぼくは財布から絆創膏を取り出して、彼女のほっそりとした足の親指に巻いてあげた。

「祐輔くんありがとう。気が利くね」

「そんなことないよ」

遠い夜空に、花火が鮮やかな色を残して次々と上がっては消えて行く。

「あのさ、さっき言いそびれちゃったんだけど、織江の浴衣姿とっても似合ってる」

「そう、ありがとう。よかった、祐輔くんにほめてもらって」

織江の白い頬がほんのり赤く染まった。

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

「ねえ、トイレめちゃ混んでるんですけど。20分待ちだって」

夕子が陽平に文句を言う。

「まじか。そりゃあ、花火どこじゃねえな。とりあえず並びながら花火見たら」

「なんか、ぜ~んぜんロマンチックじゃない」と弥生がふくれた。

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

「みんな心配してるかな」織江が花火をみあげながら言う。

「あいつらはそれなりに楽しんでるさ」

ぼくは織江の横顔をみつめる。

そしていつしかぼくと織江は手を重ねていた。

織江の頭がぼくの肩に乗る。甘い香りがした。

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

「もう終わりかも・・・」夕子がみんなを見る。

「よし、混み合う前に撤収しようぜ」陽平がみんなを促す。

「そうするか」泰介と弥生も腰を上げた。

帰路についたとたん、フィナーレの花火が上がり出した。

「げっフェイントかよ!」陽平が叫んだ。

全員唖然として振り返る。花火が人の頭の上に、ようやく半分見えた。

「クソ!やられた」

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

花火はフィナーレを迎えていた。

ぼくは織江の横顔しか見ていなかった。

「どうしたの?花火終わっちゃうよ」

織江が花火を見ながらつぶやいた。

「いいんだ。本物よりも織江の瞳の中の花火の方が綺麗だもの」

「ばかね」

織江の透き通るような白い肌を花火が青や黄色に染めている。

ぼくはいつまでも織江を眺めていたかった。

「今日はありがとう」と織江が言った。

「こちらこそ・・・」

ふいに織江がぼくの唇を奪った。ぼくの言葉をかき消すように。

(・・・出てきてくれてありがとう)

織江は消えてしまった。

今年の春、彼女は病気で亡くなっていたから。

8月2日  カレーうどんの日

「この中に犯人がいるというのですか」

ふたりの刑事がうどん屋の奥座敷に詰めていた。

モニターを見つめる吹石(ふきいし)に、真田(さなだ)が問いかけた。

「刺された安さんが最期に言った言葉だ」と吹石が言った。

「殉職された安さんが、何を言い残したんですか」

「犯人はカレーうどんを食べて来た・・・そこでこと切れた。指でVサインを作ってな」

「Vサイン。死の間際にですか。何のことです」

「わからんよ。しかし犯人はあの容疑者3人のうちのだれかに違いないんだ」

テレビモニターには、白いTシャツを着た3人の男が映し出されていた。

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

そもそもカレーうどんはを始めたのは、1904年(明治37年)に早稲田大学の近くにある蕎麦屋「三朝庵(さんちょうあん)」だと言われている。

当時は洋食がブームで、三朝庵は常連の学生たちを新しくできたカレーライス店に完全に奪われてしまっていた。
そこで店主の加藤朝治郎が考えたのが、鰹節と醤油の出汁でカレー粉を溶き、片栗粉でとろみをつけたうどんだったのである。

モニターに映し出された容疑者たちのTシャツには“三朝庵”のロゴがプリントされていた。

「よく三人ともそろいましたね」と真田が言う。

「そりゃあ、あの三人にしかビラを配らなかったからさ」吹石がお茶を口に含む。「本日14時、配布された三朝庵のTシャツを着て来店されたお客様に限り、三朝庵のカレーうどんを1時間10円で食べ放題」

「なるほど、それならぼくだって絶対に食べに来ますよ」

「だろう。やつらをよく観察するんだ。なにかヒントがあるはずだ」

ノッポの高井、チビの小池、デブの太田の三人がカレーうどんを美味しそうに食べ始めた。

高井はうどんを冷ますため、しきりに麺を上下させている。
カレーうどんはとろみがあるため、熱が冷めにくいから放熱しているのだ。

小池はふうふうと息をふきかけて、麺を一本一本箸ですくい上げて食べ始めた。

太田は熱さは気にならないらしく、うどんをそのまま頬張っている。
ちゅるちゅると麺を吸い取るときに、麺が跳ねてカレーの汁がTシャツに飛んだ。
しかし太田は気にする様子もなかった。

高井は少し時間を空けてから静かに食べ始めた。
その箸さばきは慎重であり、汁を飛ばすことを決して許さないという几帳面さが見て取れた。

小池は最初は麺を1本ずつすくっていたが、冷めてきたからだろう。
途中からラーメンを貪るように、豪快に何本もつまんで食べるようになった。
そのとき勢いあまって、汁の中に落ちた麺で汁が四方に飛び散った。
「失礼しました!」

「気をつけろよ」と高井は眉をひそめて、自分のTシャツに汁がかかっていないか気にしている様子だ。

太田はにやにや笑いながら食べ続けている。

1時間が経過して食べ放題は終了となった。

高井と小池は5杯、太田は7杯を平らげていた。

三人のうち、最後までTシャツが綺麗だったのは高井だけだった。

「吹石さん。これでなにが分かるんですかね」真田が振り返る。

「クソ。なにひとつ手がかりが掴めないままか・・・」吹石がくやしそうにモニターを食い入るように見つめた。

いつものルーティンなのだろう。高井はどんぶりに箸を揃えて置くと、店主に礼儀正しく挨拶した。

「どうも、ごちそうさまでした」

高井が深々と頭を下げた。そのときどんぶりの箸が彼の両手でテコのように回転してしまった。

空中に浮かんだ箸は、放物線を描いて高井のTシャツの胸に当たってしまった。

「あいつが犯人だ!」吹石が立ち上がった。

高井の胸に、2本の黄色い線が浮かび上がっていた。Vサインに見えた。

8月3日  はちみつの日

「このままあの人間たちに、大切な蜜を搾取されて黙っていろというのですか」

ミツバチマンションの集会所は騒然としていた。

「今こそ、独立すべきではないでしょうか!」と働きバチのマーサが叫んだ。

「ちょっと待って」議長のサリーが押しとどめる。「人間にだっていいところもあるわ。わたしたちが冬を乗り切るぐらいの蜜は残してくれるじゃないの」

「それを“生かさず殺さず”っていうんじゃないの」マーサが食ってかかる。

後ろの方からそうだそうだと相槌する声が聞こえる。

「女王様はどうお考えですか」サリーが最上段で寝そべっている女王を振り返る。

「わたしは現状で不満はありませんよ。でも出て行きたい者は勝手に出て行くがいいわ」女王は太った身体を動かしながら、長いまつ毛をマーサに向けた。「子供はいくらでも産まれて来ますからね」

「いえわたし達・・・女王様に逆らおうなど夢にも思っていません。先ほどの提案は取り下げさせていただきます」マーサは深々と頭を下げたのだった。

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

ハチの世界は女性社会である。

女王蜂ひとりに対して、約5万人のメスの働きバチが働いている。
彼女たちの仕事は掃除、育児、建築、守衛、食料(蜜と花粉)の調達である。

それに対して男たちは全体の1割程度しかおらず、いたって怠慢な生活を送っている。
仕事もせずに、ただエッチのことだけを考えて過ごしている。
しかもそれさえもせずにゴロゴロしていると、食事も与えられず、最後には追放されてしまうから情けないものだ。

「行くわよ」

マーサが離脱派の2万匹を連れて、マンションを出て行こうとしていた。

「ちょっとマーサ。本当に出て行くの」

サリーが心配して部屋から出て来た。

「なんだサリー。気がついていたの。悪いけど、わたしたち新天地を探してここを出る計画を立てていたのよ」

「女王蜂はどうするの?」

「実は一匹だけ匿(かくま)っていたのよ」

女王候補は王台という部屋に集められ、お互いに殺し合いをして最後に生き残ったひとりが栄えある女王の座を射止めることになっているのだ。

「マーサ、本当にだいじょうぶなの。危なくなったらいつでも帰ってきなさいよ」

「ありがとうサリー。無事を祈っていてね」

ミツバチの大群が、青い空に旅立って行った。

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

マーサたちは大きな樫木の木陰に新しい巣を構えた。

それはあのマンションよりも立派に見えるコロニーだった。

規則正しい六角形のハニカム構造は、どんな台風にもびくともしない耐久性を備えていた。

マーサたちは越冬に備えて、蜜や花粉をふんだんに貯めこんだ。

しかし順調なのはそこまでだった。

「ご苦労だったね。その蜜はわたしたちがそっくりいただくよ」

スズメバチの集団が蜜を横取りしにやってきたのだ。

マーサたちは勇敢に闘った。

ある働きバチがスズメバチに毒針を突き刺した。
ミツバチの針と内臓とはつながっており、命と引き換えの攻撃だ。

別のスズメバチがミツバチに襲い掛かる。

「みんな敵を囲み込むのよ!」マーサが叫ぶ。

するとあっという間にスズメバチを核にして、ミツバチが球体を作り上げる。
そして激しく羽を動かしはじめた。

「熱い!」スズメバチが悲鳴を上げる。
ミツバチの球体の温度は46度まで上昇し、スズメバチを息絶えさせることができるのだ。

しかし、スズメバチは集団で襲い掛かってきていたから、地面には次第にミツバチの死骸が増えていった。

「このままではまずい」マーサがそう言ったとき、大きな黒い影が巣を覆った。

熊が出現したのである。

熊はマーサたちの作りあげた巣を、まるでメロンでもたべるかのようにむさぼりはじめた。

今度はスズメバチが熊と格闘する番だった。

「退却!」生き残ったマーサたちはその場を離れた。
マーサたちの女王蜂はすでに亡くなっていた。

「はやくこっちへ」

マーサたちを迎えにきたのは、親友のサリーだった。

「サリー。あなただったのね、熊をスズメバチにけし掛けたのは」

「そうよ。あのままだったらみんな全滅しちゃったから」

「女王様、許してくれるかしら」

「だいじょうぶよ。こちらの女王様も先日お亡くなりになったの。新しい女王様がもうすぐ誕生するわ」

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

結局マーサたちはマンションに戻ってくることになった。

外敵から身を守るのと引き替えに、安定を取ることにしたのだ。

外で人間たちが何か話しをしていた。

「この土地も枯れて来たな」

「都市計画とやらで、良質な蜜の取れる花がめっきり減ってきてしまった」

「どうする」

「ここにいつまでもいてもな。地主に地代を取られるばかりで、ちっとも生活が楽になりやしない」

「そうだ、新天地を探しにここを抜け出そうじゃないか」

8月4日  ビアホールの日

 夏といえば、なんといっても生ビールだろう。

あの黄金色に輝く液体を、クリーム状の泡ごと、乾いた喉に流し込む快感はなにものにも替え難いものだ。

「いらっしゃいませ」

ぼくは大学生である。この夏からビア・ホールでアルバイトに励んでいた。

ビア・ガーデンとビア・ホールを間違えるひとがいるが、ガーデンは庭だから屋外、ホールは屋内の施設である。

特徴としては、ガーデンは季節限定でおつまみは簡単なものが多い。
それに対してビア・ホールは、天候や季節に関係なく提供できるので、本格的なビールや料理を楽しむことができる店が多いのだ。

ふつう学生が夏休みにアルバイトをするのであれば、ビア・ガーデンの方を選びそうなものだ。
だがぼくはビールの種類に興味があり、あわよくば冬休みにもアルバイトを継続できるビア・ホールを選んだ。

まだ客の入っていない時間だった。

「おい新人。そろそろビールの注ぎ方を覚えてみるかい」とちょび髭の店長がぼくを見た。

「え、いいんですか。やったあ」

店長はぼくをビールサーバーに連れて行った。

この店は通常の生ビールの他に、クラフトビールが3種類、黒ビールのサーバー1種類備えていた。

「いいか、最初一杯は泡ばかり出て来るから捨てていい。だからと言って飲むなよ」

「はい」

「ジョッキは斜め45度に傾ける」

「こうですか」ぼくはジョッキを傾けた。

「そう。その角度を保ちつつ、ジョッキの内側に添うようにビールを注ぐんだ。そしてビールの上面に泡を乗せていく要領で注いでいく」

「なるほど」ビールがジョッキの腹を伝って落ちて行く。

「なかなかうまいぞ。ビールの液面が上がってくるのに合わせて、ジョッキをゆっくり起こすんだ。ビールと泡の比率は7対3、悪くても8対2ぐらいだ」

「あちゃあ、これじゃあ6対4ですね。すみません」

「最初のうちはしょうがねえよ。ジョッキを立てるのが早すぎるんだ。できるまで何回でもやり直せ。失敗しても飲むんじゃないぞ」店長がぼくを睨む。「あ、それからお前。ちょっとイケメンだからって、客に手をだすんじゃないぞ。即刻クビだからな」

何てこと言うんだこの店長は。「了解です」

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

しばらくすると、ジョッキを両手に4杯持って運べるようになった。
もっとも、ベテラン社員は両手に6杯持って軽快に運こべるのだ。

仕事を続けていくと、次第にお客の顔も見れるようになり、常連客を見分けられるようになった。

そしてあろうことか、ぼくはある常連客の女性に恋をしてしまったのだ。

細身で長い髪、上品な物腰に厚すぎない化粧。

彼女は女性だけで来店することもあれば、男性のグループと一緒のときもあった。

会話からすると、レミと呼ばれているようだった。

「怜美さあ。おれとつき合ってくれよ。たのむよお」

その日は男性たちの中に女性は怜美がひとりだった。そのうちのひとりが彼女に猛アタックしはじめた。

「やめてよ。酔っぱらい」

彼女は苦笑しながら受け流していた。大人の女なのだ。

「じゃあさあ。おれはどう?」と別の男性が手を挙げた。

「問題外よ」

「そんなに冷たくしないでさあ。おれたち怜美ちゃんファンクラブを結成したんだぜ」

「そんなの聞いてないわよ。勝手にすれば」

「さきほど発足したばかりであります」別の酔っぱらいが敬礼をした。「怜美ちゃん。今日は、この中から真剣にひとり選んで欲しいんだなあ」

「どういうこと」

「そうでないと、おれたちはいつまでも張り合わなけりゃならないからさ。でもって、そいつと上手くいかなくなったら、次のメンバーと交代っていうことで」

「バッカじゃないの。わたしは誰ともつき合いません」

「選んでくれるまで今日は帰さないぞ」

「そうだそうだ!」

「いいわ」彼女はぼくの運んできたジョッキを受け取ると、ぼくと腕を組んだ。

え?

「実は彼がわたしの彼氏なの」彼女はぼくの目を上目づかいに見つめた「ね」

はあ?

ぼくは一斉に男性陣のブーイングを受ける羽目になった。

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

閉店後、ぼくが店から出ると彼女が壁にもたれて待っていた。

ぼくに気づくと彼女は手を振って近づいてきた。

ぼくは彼女に言った。「どうしてあんなウソをついたんですか」

「迷惑だった?」

「迷惑なんて・・・」

「じゃ、いっそ本当のことにしちゃえばいいじゃない」

「ちょっと待ってください。さっきも店長からこっぴどく叱られたんですよ」

「なんて」彼女はぼくの目をジッとみつめた。

「客に手をだしたんじゃねーだろうな」

「ごめんなさいね。でも・・・」

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

その後、怜美は二度と店に現れることはなかった。

なぜなら、家で毎日ぼくの帰りを待ってくれているからだ。

しかも怜美はただの客ではなかった。このビア・ホールを経営するオーナーの娘だったのだ。

8月5日  タクシーの日

 真夜中である。

その日小泉の運転するタクシーは、崖が切り立った海岸沿いを走っていた。

漆黒の闇の中、タクシーのヘッドライトだけが夜道を明るく照らしていた。

「こんな道じゃ客を拾うこともできやしない。早く駅に向かって終電を逃した客を探そう」

客を山奥の僻地(へきち)まで賃送した帰りであった。

そのとき視界の隅に何かが映って通り過ぎた。

「あれ?」

小泉がバックミラーを確認すると、ひとりの若い女性が立っていた。

髪が長く、白い服を着ていた。

小泉は車をバックさせ、路肩側の窓を開けた。

「お嬢さん。乗って行きますか?」

女性の青白い顔が微笑んだ。そしてゆっくりと頷いた。

小泉が後部の自動ドアを開けると、女はゆっくりと乗車してきた。

少し違和感を感じた。痩せているからだろうか。なぜか後部座席に人が乗った重量感というものが感じられなかったのである。

「どちらまで?」小泉はバックミラーを覗きながら言った。

女は消え入るような声で市街地の住所を教えた。

小泉は車を発進させた。

「お客さん。ラッキーでしたね。あんな場所じゃあ、タクシーなんて滅多に通りませんからね」

女は黙っている。

「それにしてもお客さん。どうしてこんな時間にあんなところにいらっしゃったんです?」

「ちょっと用事があったものですから・・・」

「用事ねえ。あのへんはよく事故があるから気をつけないと。この間も車が崖下に転落したばかりなんですよ」

「そうなんですか」

「運転手は助かったらしいんだけどね。同乗していた彼女が亡くなったって話ですよ。おお怖」

「・・・」

どうやら女はあまり話に乗ってくるタイプではなさそうだ。きっとスマホでもいじっているのだろう。

小泉は無理に会話をするのをやめ、運転に集中することにした。

タクシーは市街地に入り、女の言った家の前に到着した。

家には明かりが灯っていた。

「あの・・・お金を持ってきますから、ちょっと待っていてください」

女は家の中に入って行った・・・。

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

「あら、おかしいわね。朝子、タクシーなんてどこにもいないわよ」

「え、料金払うから待っててって頼んだのよ。どこにいっちゃたのかしら」

母と娘は周囲を見回した。

タクシーのいた場所は、雨も降っていないのに、なぜかそこだけが濡れていた。

8月6日  広島平和記念日

 1945年(昭和20年)8月6日午前6時30分。

アメリカの爆撃機B29『エノラ・ゲイ』は四国上空を航行していた。

モリス中尉とトーマス少佐が積載した兵器の安全プラグを慎重に抜き、点火プラグを差し込んだ。

「兵器の稼働処理完了!」モリスの声が船内に響き渡った。

ティベッツ機長はひとつ頷くと、おもむろにマイクを握った。

「諸君。我々が積んできた荷物は、世界ではじめて使用する原子爆弾である」

乗組員たちは、この時はじめてこの兵器の正体を知ったのである。

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

とその時、突如レーダースコープに正体不明の飛行物体が現れた。

「機長、味方ではないようです」

「まさか敵戦闘機じゃないだろうな。本機は急上昇する」

高度2000mを航行していたエノラ・ゲイは、すぐさま高度8000mまで上昇した。

レーダーの輝点は消えた。

「ふう、焦らせるな」ティベッツ機長は息をついた。「ゼロファイター(零戦)の生き残りかと思ったぜ」

「機長、もしかしてあれはフーファイターだったのかもしれませんよ」と副機長が軽口をたたいた。

フーファイターとは、当時パイロットたちから恐れられていた戦闘中に現れる未確認飛行物体(UFO)のことである。

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

「や、失敗。エノラ・ゲイのレーダーに捕捉されちまった」運転者のニックは頭をかいた。

ガイドのフィルがマイクを持って立ち上がった。

「皆さん、歴史を変えるような不始末ではありませんからご安心ください」

「それより、いっそこのタイムマシンで広島市民を先に避難させることはできないのかね」

観察者のひとりである紳士が言った。

「それも歴史を変えることになりますので、禁止事項に含まれます」フィルが答えた。

「14万人も犠牲者が出るのにかね」

「致し方ありません。それが人類の歴史なのですから」

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

午前8時15分17秒。

エノラ・ゲイから原子爆弾『リトル・ボーイ』が投下された。

上空から落ちて行くリトル・ボーイは最初横に流されていたが、次第に体勢を整えてまっすぐに落ちて行った。

そして投下されてちょうど43秒後、600m上空でそれは炸裂した。

核分裂が起き、強い光を発し、高熱と放射線が半径2kmを一瞬にして焼き尽くした。

その周辺部の建物も強烈な爆風によりほとんどが吹き飛ばされてしまった。

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

「みなさんご覧になりましたか。これが人類最大の汚点、ヒロシマへの原爆投下です」

「ひどいものだな」さきほどの紳士が言う。

「まるで地獄絵図じゃないか」背の高いブロンドの男性が目をそむけた。

「二度とこんな悲劇を起こしてはいけないわ」きつい視線の淑女が言った。

「同感だ。とにかく、国民が納得してくれるのを期待するしかない」と東洋人がつぶやいた。

フィルは満足したように何度も頷いた。

「誓って下さいね。あなた方は、これ以上のものを後生大事に今も保有しているのですから」

「きみのところが手放さないからこういうことになる」紳士が背の高い男に言った。

「いやお前のところこそ今すぐにでも放棄すればいいじゃないか」

「後だしジャンケンはだめよ。手放すときにはみんな一斉よ」

「こいつさえ抜け駆けしなければな」

東洋人が曖昧な笑みを作り、何のことか分からないという風に肩をすくめた。

「本日のツアーはこれにて終了です。それではみなさん、明るい未来に戻りましょう」

「たいへんです」その時なにやらニックが騒ぎはじめた。

「どうした」フィルが振り返ってニックを見る。

「帰る場所が・・・見当たらないんだ」

フィルは乗客たちを睨みつけた。「あんたらもしや・・・」

8月7日  鼻の日

「奈々子。芥川龍之介の『鼻』って小説知ってる?」

親友の由香利が訊いてきた。

「読んだことはある。鼻が大きくて皆からからかわれたのを、和尚さんが気の毒に思って小さくしてくれたって話だよね」

「そうそう。そしたら今までよりもっと陰湿ないじ目にあったっていう可哀想な話。でもさ、奈々子の場合逆だよね」

「どういうこと」

「だって、奈々子の鼻めちゃくちゃ低いもんね」

「あ、傷ついた。そういうのモラハラっていうんだよ」

「ごめんごめん。わたし親友だから言うんだけどさ、奈々子はもう少し鼻が高かったら完璧な美人さんなんだけどな」

まあ、たしかに由香利の言うことは一理ある。

つぶらな瞳、形のいいおでこに眉、小ぶりでぷっくらとした唇、色白で卵型の顔、艶やかな髪。
ただ鼻が低いので地味な平面顔に見えてしまうという自覚がある。

普段はハイライトとシェーディングを駆使して、無理やり鼻筋を作る。
いちど彼氏の壮太に「トリック・アートか!」と呆(あき)れられたことがある。

「その鼻がもう少し高くなったら、壮太くん、もっと奈々子のこと好きになるんじゃないかな」

「余計なお世話だ」

「わたしのお姉さん美容整形やってるんだ。紹介してあげるよ。騙されたと思って一度相談してみれば」

「ぜったいやだ」

「そんなこと言わないでさあ。お願い」由香利が手を合わせる。

「どうせお姉さんに頼まれたんでしょ。紹介料いくらもらえるのよ」

「うん・・・そんなのもらってないって」

「うそ」

「・・・2千円」

「ほんとは?」

「3千円」

「山分けなら行ってもいい」

「わかった。それで手を打つ。じつは今月ピンチなんだ」

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

週末。

親友に売られたわたしは、お姉さんの勤める美容整形の門をくぐっていた。

親友と似ても似つかぬ優しそうな彼女の姉、美里が迎え入れてくれた。

「奈々子ちゃんね。由香利から聞いてるわよ。ちょっとお顔をみせて」

美里はわたしを椅子に座らせると、めずらしい花瓶でもめでるかのように、顔の向きを前後左右に向けて観察しはじめた。

「ううん。なるほど・・・鼻って大切なのよね」と女医はひとり言のように言った。

「奈々子ちゃん。鼻が他人(ひと)にどんな印象を与えるか教えてあげようか」と美里はわたしの目をのぞきこんだ。

「はい・・・よろしくお願いします」

美里は長い脚を組んで説明しはじめた。

「まず大きい鼻を持ってるひとは自己主張が強く見えるものなの」

「根性があるってことですか」

「そうね。女性だったら、凛々しくて自立したキャリアウーマンって感じかな」

「お姉さんみたいな人ですかね」

「そうかも。で、次に長い鼻のひとは実際よりも年上に見えるひとが多いわね。逆に小さくて短い鼻のひとは若く見える傾向がある

「わたしはどちらかと言えば短い方だと思います」

「それからワシ鼻のひと。漫画の魔女みたいな鼻ね。これはちょっと意地悪そうにみえちゃうかも。でも若い頃は美人にみられるから得かもね」

「なんか女優さんにいそう。あとクラスの男子に団子鼻のひとがいるのですけど、どうですか」

「奈々子ちゃんも気がついていると思うけど、団子鼻のひとはひとに親しみを感じさせやすいの。でも知的には見えないのが玉に傷ってとこね」

「そうですか。彼は将来お笑いタレントになりたいって言ってたからちょうどいいのかもしれません」

「もっと向いているのはブタ鼻のひとね。ひとにコミカルな印象を与えることができるから・・・さてと、それで低い鼻のことなんだけど」

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

月曜日、わたしはマスクをして学校に行った。

最近のマスクは立体型が多い。
今までのわたしだったら隙間ができてかえってフィットしなかったが、今日は違っていた。

「おはよう」

さっそく由香利がわたしをみつけて声を掛けて来た。

「どうした。風邪でも引いた?」

「ちがう」

「美里姉さんに会ってくれたんでしょ。どうだったの」

「うん、まあ、こんな感じ」

わたしはマスクを外してみせた。

「え、なに。すごい美人じゃん!」と由香利が大きな声をあげた。

「えっなになに」その声を聞きつけたクラスメイトが、わたしの周りに集まりだした。

わたしの顔の中央には、すっきりとした鼻が出来上がっていた。

「ほんとう。アイドル歌手か女優さんみたい」

その日からわたしの生活が一変した。

教室の男子や男性教諭がわたしに優しくなった。下駄箱にラブレターが入っていることもある。

街で歩いているとチラチラと男性が振りかえる。ある時には声を掛けられることさえあった。

ただ、それに比べて周囲の女子たちがよそよそしくなったような気がする。

でも一番変わったのはボーイフレンドの壮太だ。

デートしていても、なんとなく不機嫌そうに見えるのだ。

「ねえ、わたし壮太くんを怒らせるようなこと何かしたかな?」

「え、なんで」

「なんか一緒にいてもつまらなそうなんだもん」

「そんなことないよ。たださ・・・」

「ただなによ」

「おれ、前の奈々子の顔の方が好きだったんだ」

「どうして」

「整いすぎてるっていうのかな。一緒にいてもなんか落ち着かないんだよ」

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

「いい、奈々子ちゃん。低い鼻のひとは顔が平面的で地味に見えるの。でもね、そのほかの顔のパーツによっては、全体のバランスが良くみえることだってあるのよ」

「そうなんですか」

「そうよ。奈々子ちゃんは今のままの方がいいっていう人が絶対いるはずよ。どこにも隙がない女性より、それは奈々子ちゃんの個性になるはず。ちょっと試してみようか」

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

「ふうん。わかった。じゃこれでどう」

わたしは付け鼻をもいだ。

「うわ!なんだそれ、作りものだったの?」

「うんそうだよ。騙してごめんね。でも嬉しかった」

「なにが」

「こんなわたしで良かったら・・・」

「え?」

「末永くおつき合いお願いします」

わたしは壮太に抱きついた。「鼻が低いってことは、キスだってしやすいんだぞ」

8月8日  末広がりの日

「どうだい。ここのフレンチの味は」

高級スーツに身を包んだ正雄がナイフとフォークを置いてわたしに尋ねた。

「ええ。とってもおいしかったわ」

わたしはワインをひと口飲んで答えた。

 その日、彼に高級レストランでフレンチのコースを食べに行こうと言われたときから、なんとなく予感はあった。

8月8日は“末広がりの日”だという。

中国や日本では、八は幸運を呼ぶ縁起のいい数字といわれているのだ。

だからこの日にプロポーズや入籍をするひとが多いという。

「ぼくたち、知り合ってもう2年になるね」

「そう、そんなになるのね。月日が経つのは早いわね」

「それでさ・・・」正雄はスーツのポケットから紺色の宝石箱を取り出してわたしの前に置いた。「魅真(みま)さん。ぼくと結婚していただけませんか」

(やっぱりね)

正雄は宝石箱の蓋を開けた。そこには輝く大粒のダイヤモンドが鎮座していた。

「これは」わたしは驚いた顔をして訊ねた。

「魅真が喜ぶと思って購入したんだ。以前ティファニーでこの宝石をまじまじ見ていただろう。あの姿が忘れられなくてさ。実は親父に泣きついてお金を借りたんだけどね」

正雄は恥かしそうに笑顔を作った。
彼の父親は資産家なのだ。

「いいかしら。あなたの気持ちはとっても嬉しいわ」わたしは彼をじっと見つめて言った。「でも、まずこれを売って、借金を返済してから話し合いましょう」

意外な返事に正雄は口を開けたまま固まってしまった。

「ごちそうさまでした」

わたしは席を立った。

あの宝石は先日わたしが店先でイミテーションとすり替えたものだ。

彼ったら、どっちにびっくりするかしら。

宝石が偽物だったこと?それともわたしが宝石ドロボーだったことかしら。

8月9日  バグの日

「またバグですか」

プログラマーの結城はSE(システムエンジニア)の笹木に訊ねた。

「どうやらそのようですね。クライアントがお怒りです」笹木はメガネを上げて結城のパソコンの画面をのぞき込む。

「バグって虫って意味ですよね。なんでバグっていうんですか」営業の三田が割り込んできた。「エラーとどう違うんですか」

笹木が三田に目を移す。「エラーというのは故障防止のための砦(とりで)、車のエアバッグみたいなものだ。バグはその故障を誘発する要因」

「余計訳わかりませんが」三田はお手上げというように肩をすくめた。

「ま、とにかく結城くん。今日中に修正を頼むよ」と言って笹木が部屋を出て行く。

「仕様書をコロコロ換えるのが悪いんだよ。今日中ってことは、今夜11時59分59秒までってことだな」結城がため息をつく。

「先輩。この会社って定時ってないですね」新人の宮崎が訊いてくる。

「あるわけないだろ。定時に上がるやつは逃亡者とみなされるから気をつけろ」

「そういえば、昔のインベーダーゲームの“名古屋撃ち”ってバグだったそうじゃないですか。ぼくはプログラマーがわざと裏技をプログラムしたのかと思ってましたよ」

「ああ、そういうのもあったな。残り一列で侵略されるという土壇場になると、敵の攻撃が無効になるっていうバグだろ」

「どうして“名古屋撃ち”っていうんですか」

「名古屋で発見されたっていう説と、あと一列で“終わり”と“尾張”名古屋をかけたって説がある」

「へえ。クライアントさん、少し位のバグなら許してくれればいいのに」

「ばか言え。さあみんな、仕事にかかるぞ」

こうして、このフロアのプログラマーは夜戦さながらの地獄に突入して行くのであった。

人々は無口になり、そして独りごとを言うようになる。

それがさらに続くと急に陽気になる者があらわれ始める。

そして、ひとりが倒れると、それにつられて次々と戦死者が出るのだ。朝はすぐそこに来ていた。

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

当時からすると、めまぐるしく技術は進歩していた。

AIの出現により、クライアントがどんな難題を持ちかけても、AIが設計仕様書を書きあげてくれた。

その仕様書に基づき、やはりAIが瞬時にしてプログラムを書き上げるのだ。

もちろんどんなバグだってAIが夜通しで処理してくれる。

プログラマーはAIにお願いして、定時に退社できるのだ。

「今日もたのんだよ、AIくん」

結城はプログラムを設定して帰宅しようとした。

するとパソコンのモニターになにやらプログラム言語が表示された。

結城は一応翻訳を試みてみた。

“こんなこと毎回できるわけねえだろ。この逃亡者!”

8月10日 やきとりの日

「ねがいましては・・・」

わたしはそろばんの講師をしている。

電卓が普及した今、そろばんなど必要なのかという声が聞こえてきそうだ。

しかもスマートフォンにも電卓ソフトが標準で入っている時代である。

しかしそろばんは頭も使えば、指も使う。
頭脳を活性化させるのには最適な道具なのだ。

わたしぐらいになると、頭の中にいつもそろばんが浮かんでいる。

「先生いまお帰りですか」声を掛けてきたのは、マンションの隣人、沢口美加子である。

夕暮れの街の明かりが、美加子の白い肌を浮き上がらせていた。

「ええ。授業が終わりましたので」

「塾の生徒さん多いんですか」

「ええまあ」実際のところはそんなに多くはないのだが、ちょっと見栄を張ってしまった。

「沢口さんは病院にお勤めなんでしたよね」

わたしたちは自然に駅に向かって歩いていた。

「ええ」

「看護婦さんなんですか」

「いいえ。こう見えてもわたし女医なんですよ」

「失敗しない女医さんですか」

「まさか」美加子はふだん知的に見えるが、笑うと可愛い顔になる。「あ、そうだ。昨日シチューを作り過ぎちゃったんです。これから家に食べに来ませんか」

「え、本当ですか」

ラッキーである。美人の手料理が食べられるなんて、何年ぶりだろう。

とその時、わしの視界にあるモノが入って来た。

赤く灯ったちょうちんだ。ちょうちんには“やきとり”と書いてある。

わたしは条件反射のようにそこで立ち止まってしまった。

「あの・・・沢口さん。ぼくはちょっとここに寄って行きますので」

焼き鳥屋の煙がわたしを誘っている。

「やきとりですか。おいしそう。わたしもご一緒していいですか」

「も、もちろんです」

わたしと美加子はやきとり屋台の暖簾をくぐった。

「いらっしゃい!毎日ご来店どうもありがとうございます」

いつもの店主が笑顔で出迎えてくれる。

わたしたちは作り付けの椅子に腰かけた。

注文しないうちに、ビールといくつかのやきとりが出て来た。

わたしのために用意してくれていたかのように。

「先生、毎日ここで食べてらっしゃるんですか」

「うん・・・まあね」

わたしは自分と美加子のグラスにビールを注いだ。

美加子はきちんと並べられたもも肉、ネギ間、つくね、せせり、皮を見つめる。

わたしは心なしか震える指で、ひと串つまむと美味しそうに食べ始めた。

「沢口さんもどうぞ」

もぐもぐしながら、ビールで流し込む。

「このタレがいいんですよね。醤油2、みりん2、酒1、砂糖1の黄金比率が絶妙なんです」

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

帰り道、ぼくと美加子はちょっといい気分になっていた。

ひとりで飲むより、連れがいた方がお酒が進むのだ。特に美人が隣にいたからだろう。

「先生はどうして毎晩あそこに行かれるのですか」

「さあ・・・どうしてかなあ。気がつくといつもあそこに座っているような気がします」

「無意識の条件反射ってことですよね」

「そうなりますかね」

「いちど診察したほうがいいかもしれません。わたし精神科医なんです」

「そうだったんですか。それじゃあこれからお願いしちゃおうかな」

「いいですけど・・・先生の頭の中には今、わたしとそろばんのどっちが映ってます?」

「ええと・・・」

そうかようやく謎が解けたぞ。

どうやらわたしの頭の中は、やきとりがそろばんの玉に見えていたようだ。

「着きましたけど」美加子がわたしを見た。「おご馳走になったお礼にわたしの部屋でお茶でもいかが?」

「ねがいましては・・・」

8月11日 ガンバレの日

 1936年(昭和11年)8月11日ベルリンオリンピックにおいて、NHKの川西三省(かさいさんせい)アナウンサーは「前畑がんばれ!」を23回も連呼した。

そしてこの声援に応えるかのように、前畑秀子選手は200m平泳ぎで、みごと日本女性初の金メダルリストに輝いたのである。

ちなみに前畑が一位でゴールしたときには、川西アナは「前畑勝った!」を12回連呼したそうである。

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

「現在“がんばれ”はNGワードに指定されているんだ」

髭をたくわえた太った紳士が、眼が細く短髪でやせ細った男と話しをしている。

「はあ」

「なぜだか分かるかね」

「いいえ」

「心の病が労災認定されたからさ」

「心の病・・・ですか」短髪の男は自分の胸を指さした。

「そうなんだ。がんばれは人をさらに追いつめることになりかねないのだ」

「追いつめる・・・」

「がんばるの語源はふたつある。知ってるかね」太った男は指で髭を整えながら言う。

「いいえ」痩せた男は首を振った。

「ひとつは“眼張る”・・・目を見開いて、あることを集中してやり続ける。もうひとつは“我(が)に張る”・・・自分の気持ちを曲げることなく最後までやり抜くことだ」

「なるほど」

「頑張ってるひとに対して、がんばれと言うのは相手に対して不快感を与えてしまいかねないのさ」

「不快感をですか」

「例えばだ、お前がすごくがんばってるとするじゃないか。あるいはもうヘトヘトだ」

「はい」

「そこへわたしが無神経にも『がんばれ!』なんて言ってみろ、“本当はすでにがんばってるのに”とか“ガンバレってどうやったらいいんだ”とか、“もうこれ以上無理だよ”なんて感情がふつふつと湧きあがってしまうだろう?」

「そうですね。心が病んでしまうかもしれません」

髭の太った男は短髪のやせた男の肩にやさしく手を置いた。

「いいか。これからはがんばり過ぎないことだ」

「がんばり過ぎないって・・・いったい」

「具体的には、いきなり頂上を目指さず、目標を小さく小刻みにすること。そしていくぶん速度を下げてみること。そして自分自身をほめてあげることだ」

短髪の男は頭を下げた。

「いろいろありがとうございます。なんとなく分かりましたが、それでこんな時、具体的にはどうお声を掛けてくださるのでしょうか」

「いい質問だ」太った男はにっこり笑った。「楽しんで行こうぜ!」

「あの・・・自分はこれから死刑執行に処される身なんですが、なにを楽しめとおっしゃるんで?」

8月12日 配布の日

「おい田中委員長、読んだか。こんなの前代未聞だよな」

同僚で労働組合副委員長の丸本がオフィスに入ってきて、ぼくに向かって例の用紙を突き付けた。

その用紙が配布されたのは、お盆休み前の暑い昼下がりだった。

我が社の一般社員200名全員に、リストラ候補推薦用紙が配布されたのである。

「どうやら人事部が社長の命令で極秘に暗躍していたらしい」ぼくは怒りに赤く染まった丸本の顔見た。

丸本が用紙を読み上げ始めた。

「これによるとだな・・・不況により我が社の業績は悪化の一途をたどっている。よって、苦渋の決断ではあるが、リストラを敢行する運びとなった。ついては、対象となる社員の名前を各自一名推薦していただくことにより、リストラをスムーズに推進したいと考える。ただし、自分自身の名前を記入した場合には無効とする。・・・だとさ」

「しかし、おかしくないか」ぼくは丸本に言った。「会社がリストラを実施する場合、まず自主退社を募るのが普通だろ」

「そこなんだよ田中委員長。この会社がずるいところは」

「どういうことだ」

「まず第一に自主退社を募集した場合には、退職金の上乗せをしなければならない。第二に会社として必要な人材が不本意に他社に流出してしまう恐れがある」

「なんてケチくさいやつらだ」

「だろう。ひどいもんだ」丸本副委員長は机をたたいた。「しかも提出期限は盆休み明けの出勤初日だというじゃないか」

「どうする?」

「考えがある。名付けて『リレーサークル作戦』だ」

「なんだいそれ」

「田中委員長。もはや組合執行部を招集して話し合っている時間がない」

「それはそうだ」

「だから、200人の組合名簿は各自が持っているはずだろ」

「うん」

「各自に自分の下の名前を書かせるんだ。一番下の組合員が一周まわって最上段の人間、つまりお前の名前を書いたら終了だ。そうすれば必ず各自に1票ずつ票が集まるってわけ。同率1票だから、組合員からリストラ者が出ることはないっていう寸法さ」

「すごいな丸本副委員長。よく考えついた。すぐに執行部に通達だ。ひとり残らずこの作戦に参加させることに意味がある」

「よし!」

ぼくと丸本はしっかりと握手を交わした。

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

盆が明けた。

労働組合のメンバーたちからリストラ者の名前が数名発表された。

驚いたことに、その中にぼくの名前もあったのだ。

「丸本副委員長。いったいどういうことだ」

「田中委員長・・・すみません。組合員に同姓同名がいるなんて思ってもいなかったんです。まさか田中一郎が3名もいたなんて」

8月13日 函館夜景の日

「『ハート伝説』って知ってる?」

ぼくは何度も八重子にアタックした。

その度に跳ね返されては沈没、跳ね返されては転覆を繰り返し、ようやく6度目のアタックで今回の函館デートに漕ぎつけたのだった。

「ハート伝説?なんだいそれ」

「さっきさ、旅館のおかみさんから小耳に挟んだんだけど、函館の夜景にはハートが隠れているんだって」

「へえ。そりゃまたロマンチックだなあ」

「うん。それでね、それを一緒に見つけたカップルは結ばれるっていうジンクスがあるんだって」

「ようし。絶対見つけてやるぜ!」

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

「すごい綺麗だねえ」八重子が目を輝かせた。

「だろう。函館山の夜景は日本三大夜景のひとつなんだぜ」

「あとふたつはどこなの」

「神戸の摩耶山と長崎の稲佐山の夜景なんだとさ」

「ふうん、次回はそこに連れてってくれる」

「いいとも」

「100万ドルの夜景とはよく言ったものね。どうして100万ドルの夜景っていうのかしら」

「最初に言ったのは神戸らしいんだけどね。夜景の地域の電気代を計算したら、ちょうど100万ドルだったそうなんだ」

「あら、意外と現実的なのね」

「まあね。さて、それではお目当てのハートを探してみようよ」

「うん」

ぼくらは必死にハートを探した。

探して探して探しまくった。

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

「ねえ・・・もうあきらめようよ」

充血した目で八重子が言った。

結局夜明けまで捜したが、ハートらしきものは見つからなかった。

その間、ぼくは八重子にキスも告白もできなかった。

伝説は終わった。

その後ぼくらはハートのこともあって、なんとなく疎遠になっていってしまった。

後にひとから聞いた話によれば、あれはハートの形ではなく、“ハート”という文字だったのだそうだ。

ぼくはリベンジを賭けて八重子に連絡した。

「あのさ、函館の夜景にはハートのほかに“好き(スキ)”も隠れてるらしいんだ。もう一度一緒に探しに行ってくれないかな(そしたら今度はプロポーズしたいのだけれど)」

8月14日 裸足の日

“わたしたち、しばらく距離を置いた方がいいと思うの”

恋人の雅美から突然メールが届いた。

突然のメールに驚いたことには間違いないが、思い当たる節がないこともない。

あれがばれたのかもしれない。

おれはすかさず返信を打った。

“おれが悪かった。
冷蔵庫のプリンを勝手に食べた。
なんて身勝手なことをしたのだろう。
雅美がいちばん大好きな食べものだってことを知っていたくせに。
どんなに後悔してもしたりない。だから許してほしい”

すると返信が届いた。

“勘違いです。わたし、そんなことでは怒りません”

なんと、そうだったか。やっぱり雅美の歯ブラシで歯を磨いたことに腹を立てているのに違いない。
こっそり使ったからバレていないと確信していたおれがバカだった。

おれはメールを打った。

“だよね。
雅美がそんなことで怒る訳ないよな。
きみの歯ブラシを使ったことは本当に悪かったと思ってる。
だけどあの日は早朝会議があったから仕方なかったんだ。
自分の歯ブラシが見当たらなかったんだよ。
今度もっといい歯ブラシ(馬の毛とか)買って返すから許してくれ”

すると雅美から返信が返ってきた。

“ええ、わたしの歯ブラシ使ったの?
知らなかった。
でも替えがあるから買ってくれなくていいよ。
さよなら、お元気で”

ちょっと待ってくれ。歯ブラシじゃないのか。

すると、やはり彼女の親友と浮気したのがバレていたのか。くそう、あんなに注意を払ったのに。砂子(さこ)の髪の一本でも残っていたのかな。あいつ金髪だから見つかったらアウトだってあれほど言ったのに。

おれはメールを打った。

“ごめん最初から分かっていたんだ。
砂子のことだよね。
あれは本当に事故だったんだ。
そんな気まったくなかったのだけれど、なんかそういう雰囲気になってしまって・・・いや、最後までは行ってないよ。
だからおれを信じてほしい。
おれの愛する女は雅美、お前だけだ。
だから別れるなんて言わないでくれ。
お願いだよ”

“さっきからなに言ってんの。
もう我慢できないわ。
ここはイタリアでもなければフランスでもないのよ。
そして今はジメジメした湿気の多い日本の夏なの。
素足で革靴はくのだけはやめてくれる。
臭くてもう死にそうなのよ”

8月15日 刺身の日

「お、今日は刺身か」

風呂から上がった夫が、うれしそうな顔をする。

「冴子。なぜ刺身を“切身”と言わないか知ってるかい」

「そんなこと考えたこともなかったわ」わたしは味噌汁を温めながら言った。

「そうだろう。刺身は魚を包丁で切って出す料理だから本来切身だよな」

「だって、昔から刺身っていうんだからいいじゃない」

わたしはしじみの味噌汁の入ったお椀をテーブルにならべた。

「その昔っていうのが江戸時代なんだ。あの頃はまだ武士の世の中で、切腹というものが存在していたから」

「切身は縁起が良くないってこと?」

「うん。だから刺身にしたんだってさ」

「関東でうなぎを背開きにするようなものね」

「まあそう言うことだな」

「いただきます」わたしは味噌汁をひと口飲んで箸を持った。「でもどうして外国にはお刺身がないのかしら」

「まずひとつは、日本は島国で海に囲まれてるから魚が新鮮だってこと。昔仏教で肉食が禁止されていた時期があったこと。刀を作る職人がよく切れる包丁を作っていたことがその理由と言われているのさ」

「あなたってずいぶん博識ね」

「だてに食品会社に勤めているわけじゃないからね。だけど外国でもイタリアには『カルパッチョ』があるし、韓国にも『フェ』という白身の生魚を食べる料理があるんだよ。いつか旅行に行って食べてみたいものだ」

(いつになることやら)

「うまい!」と夫が快哉を叫んだ。

そのとき、わたしの中で小さな殺意が芽生えていた。

夫はわたしの手料理では言ったことがないが、スーパーで買ってきた刺身に対しては素直に「うまい」と言うのだ。

夫はご飯を頬張っている。

「ん。どうかしたか」

8月16日  五山送り火(京都大文字焼き)

「伸ちゃん、ちょい待って」

加代の手がぼくの手をひっぱる。

京都五山送り火の日は、今年も大勢のひとでごったがえしていた。

「そないに急がんでも」

加代は牛乳瓶の底のようなメガネをかけていた。

生まれつきの弱視なのだ。メガネを外した彼女の素顔をほとんどの人が知らない。

「ごめん。急ぎすぎた」

ぼくは送り火の大文字を良い場所で見たかったので、いやがる加代を京都御苑に無理やり連れてきたのだった。

ぼくらは人波に押し流されて、なんとか清和院御門のそばまでたどり着くことができた。

夜の8時になろうとしている。いよいよ京都五山の送り火が始まる時刻だ。

ぼくと加代はそっと眼を瞑(つむ)る。

すると、ぼくと加代の魂が身体からするりと抜けだして天高く舞い上がった。

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

京都大文字焼きの大は、奈良時代、大文字山のふもとにある浄土寺が火災に見舞われたとき、天空に阿弥陀仏が現れて眩いばかりの光明を発せられた。
その光を空海(弘法大師)が“大”の字と見定めて儀式としたのが始まりだと言われる。

ぼくと加代は上空から、まず大の文字に火が灯るのを確認した。
この“”は、精霊の人形(ひとがた)を現している

その5分後に“妙法”に火が灯る。精霊が何無妙法蓮華経を唱え始めるのだ。

さらに“舟形”に火が灯された。三途の川を精霊が船に乗ってお渡りになる

次は“左大文字”だ。精霊は再び後ろ姿をお見せになる

最後に“鳥居”が現れる。精霊はこの鳥居をくぐって黄泉の国に帰られるのだ。

ぼくらは目を開けた。

目の前に大文字焼きが赤々と燃えている。

「伸ちゃん。綺麗やな」加代がにっこりと笑って大文字焼きを見ている。

「うん。加代、手を出してごらん」

「こう?」

「手でお椀を作って」

加代が両手で丸いお椀を作った。

ぼくは袂(たもと)から飲料水のペットボトルを取り出して、加代の作った手のお椀に水を注いだ。

「冷たおして気持ちええわ」

ぼくは笑った。「その水に大文字を映して飲み干してごらん。願いが叶(かな)うよ」

加代は言われた通りに水に、浮かぶ大文字を飲み干した。

次にぼくは袂から大ぶりの茄子を取り出した。茄子の胴には大きく穴が開けられている。

「今度はこの穴から大文字をみるんだ」

「なんか伸ちゃん注文がおおいなあ」加代は素直に言われた通りにする。

「目の病が治るって言い伝えがあるんだ」

「アホみたい。そないなわけあらへんて」加代が微笑みながら茄子の望遠鏡を覗いている。

大文字焼きはおよそ30分で消えて行った。

精霊さんも冥界に帰られただろう。

「じゃぼくらも帰ろうか」ぼくは加代の手を引いて帰ろうとした。

「ちょい待って伸ちゃん。ぼけてもうて良う見えへんで」

「どうした?」

加代はメガネを外した。「あ、これでようやく見えるようになったわ」

目の前に、加代の美しい素顔が現れた。

8月17日 パイナップルの日

「あの男だけは絶対に許せません!」

女はひどく激昂(げっこう)していた。「5歳の娘の腹をおもいきり拳(こぶし)で殴ったんですよ」

「ええ。確か失神なさったとか」

わたしは女の興奮を沈めるよう、極力ゆっくりした口調で答えた。

「ええそうです。あの軍曹には厳重な処罰をお願いしたいですわ」

「奥さん。“パイナップル現象”という言葉をご存知ですか」

「パイナップル現象?いいえ存じません」

「それでは奥さん。酢豚は好きですか」

「ええ、もちろん・・・将軍、それと今回の傷害事件とどういう関わりがありますの」

「この世には、酢豚にパイナップルが入っているという一点だけを取り上げて、酢豚はまずいと公言してはばからない人物がいるのです。しいては、その店自体がまずいと悪評をたてるやからもいるのです」

「なぜパイナップルが入っているのかはわたしも甚(はなは)だ疑問ですけれど」

「パイナップルには豚肉を柔らかくしてくれる酵素が含まれているのです。それに甘味が酢豚の味に深みを与える役目も果たしてくれています」

「将軍、話をはぐらかさないでください」婦人がまた詰問口調になってきた。

「物事の全体像を見ずに批判、批評を加えること。これがパイナップル現象です。ジョゼフ軍曹があのとき少女を気絶させなければ、250人の市民と50人の軍人の命は無かったでしょう」

「・・・・・・」

「あのときドイツ軍はすでに市街地にまで進軍してきていたのです。暗いビルの一郭(いっかく)に身を潜めて敵をやり過ごさなければ、その場で全員殲滅されていたに違いなかったのです。軍曹にとって、恐怖に泣き叫ぶあなたの娘さんを瞬時に沈黙させる方法はあれしかなかったのです」

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

「ご婦人は納得して帰ったかね」

将軍は部下のルイ少佐に問いかけた。

「はい将軍。マルタン婦人は泣きながらも納得していただけたようであります」

「そうか」

「お礼でしょうか。さきほどマルタン婦人からジョセフ軍曹宛にパイナップルの小箱が届けられたそうです」

「パイナップル?あの話が効いたのかな」

「それにしては、ずいぶんと小さな箱でしたが」

「おい!それは本物のパイナップルではないんじゃないか」

「といいますと・・・」

「バカ知らんのか。手榴弾のことを通称パイナップルというのだ!」

8月18日 約束の日

「生まれ変わっても、かならず一緒になろうね」

わたしたちはそう約束したのです。

敵の追手はわたしたち二人を、とうとう断崖絶壁まで追い詰めていました。

もう後がなかったのです。

足元をみると、荒れ狂う波が岩肌に当たっては砕け散るのが見えました。

あのまま捕まっていれば、わたしたち夫婦は引き離され、別々に処刑されたことでしょう。

敵の怒声と足音がすぐそこまで迫ってきていました。

「いいかい。この手を離すんじゃないよ」

「あなた。愛してるわ」

「愛してるよ」

わたしたちは抱き合い、最期の口づけを交わし、切り立った断崖から飛び降りたのです。

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

「なるほど・・・悲しい別れを経験したのですね」

男は机の上の調書に目を通す素振りをして、そっとハンカチで涙を拭った。

クーラーは効いていたが、それでも真夏の蒸し暑さに男はネクタイを緩めた。

そして徐(おもむろ)に顔を上げて女を見つめた。

「それであなたは現代に生まれ変わったと・・・」

「はい。そうです」女は汗ひとつかいていない。

「そして生まれ変わった夫と偶然再会したというわけですか」

「ええ。姿形は変わっていても、すぐに夫だとわかりました」

「だとしてもですね・・・教育委員会としては、男子生徒を誘惑した女教師を放っておくわけにはいかないんでね。先生、あなたは停職処分になります」

「貞淑な妻なのにですか」

「シャレてる場合ですか。あなた」男は苦笑しながら心の中でつぶやいた。

でもちょっと言えないな。わたしがあの時の追手のひとりの生まれ変わりだということは。

8月19日 バイクの日

「あなた、だいじょうぶ?」

妻に揺り起こされたとき、ぼくは全身汗びっしょりだった。

「また夢を見たの?」

「ああ・・・」ぼくは妻の細い肩を抱き寄せた。「ごめん。またうなされてた?」

「ええ」

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

ぼくたち夫婦は結婚を機にバイクを降りた。

なぜなら、結婚前に妻の兄がバイクで亡くなったからだ。

家庭を持つ身となったら、事故と隣り合わせのバイクは家族にとって不安材料以外のなにものでもない。

話しは変わるが、独身時代ぼくはかなり多くの女性にモテていた。

でもあの頃のぼくは女性よりもバイクに夢中だった。

女性に興味がないと思われたのか、今度は男性からも言い寄られる始末だ。

そんなある日、今の妻が目の前に現れた。女性ライダーだった。

カッコ良かった。

ヘルメットを脱ぐと、サラサラと長い髪が風になびいた。

ぼくは猛烈に彼女にアタックして、ようやくオーケーを貰った。

その後だ、彼女の兄が、バイクで事故に巻き込まれてしまったのは。

ぼくは結婚後、しばらくして悪夢にうなされるようになった。

目の前のバイクに乗ろうとすると、地面から伸びてきた蔦(つた)が手足に絡まって身動きが取れなくなってしまうのだ。

「くそ!」

ぼくが必死でもがいていると、いつも妻がぼくを揺り起こしてくれる。

「あなた・・・」

「だいじょうぶだ。また夢を見ていた」じっとり汗をかいていた。

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

「あなた。ちょっと来て」

その日はぼくたちの結婚記念日だった。

玄関の外から、妻がぼくを呼んだ。

「どうかした?」

ぼくが表にでると、そこにはバイクが2台並んでいた。

「どうしたのこれ」ぼくは思わずバイクに近づいた。

バイクは250CCのレトロなアメリカン・タイプだった。

「いいのよ。もう我慢しなくて」と妻が笑った。

「なんで」

「この間、わたしも夢を見たの。兄がもう許してやれっていうのよ」

「許す?」

「実は兄が交通事故で亡くなったって言ったけど、あれは嘘(うそ)だったのよ」

「嘘?」

「うん」妻はバイクにまたがってハンドルを握った。「兄は失恋したのよ。それで自分でね。バイクで崖に突っ込んで行ったってわけ。バカでしょ」

「なぜそんな嘘を。まさか・・・お兄さんが失恋した相手っていうのは・・・」

「あたしって言いたいの?そんな訳ないでしょ」

「だよね」ぼくは苦笑いした。

「ねえ。二人で昔みたいに田舎道をトコトコ走りましょうよ」

「いいね」

「驚かないで聞いてくれる。兄の失恋の相手って、実はあなただったのよ」

8月20日 蚊の日

 わたしの名前はジャクソン・カー。蚊である。

とある公園の水たまりで産湯を使い、現在最大の軍隊を率いている一大勢力の大将である。

たかが蚊じゃないかと侮(あなど)るなかれ。

あなたは人命を奪う殺人生物ベスト5を知っているか。

5位は年間1万人の犠牲者を出すワニなどがいる。

4位はあなたの身近にもいるだろう。
なんと犬だ。年間2万5千人が死んでいる。
狂犬病は恐ろしいぞ。

栄えある3位はヘビだ。毎年5万人が噛まれてあの世行きだ。

そして2位は何だと思う?
何を隠そう、お前たち自身だ。
戦争やテロで約50万人の人間が死んでいる。

さあ、もうお分かりだろう。
世界で最も人間を殺しまくっている生物。
年間70万人以上もの犠牲者を出すわれわれ蚊が、この世で一番恐ろしい生物なのだ。

「どうだ、恐れ入ったか。マラリアやテング熱をお見舞いしてやろうか」

「隊長。さきほどから何をおっしゃっているので」ペパー中尉が近づいて来る。

「いや、ひとり言だ。ところで次のターゲットは決まったのか」

わたしはホバリングをしてペパーと対峙した。

「あの、ベンチで昼間からビールを飲んでいる中年男性はどうでしょう」

「血液型は」

「B型です」

「そうか。願わくばO型が理想だが、まあいいだろう」

われわれ蚊軍団には、ターゲットにしやすい血液型があるのだ。

1番がO型、2番がB型、3番がAB型、最期がA型だ。

O型はボーっとしていて蚊に刺されても気がつかない奴が多い。そして気がついたとしても、まあいいや的な感じでわれわれに復讐しようとしないおおらかさが好印象だ。

B型は気が散っているやつが多いから、その隙にこっそり血をいただくことができる。

一番警戒しなければならないのは、執念深いA型の人間だ。あいつらは刺されたと知るや、どこまでもわれわれを抹殺しようとするから要注意だ。

「それに大将。やつは酒を飲んでいます・・・われわれにどうぞ刺してくれと言っているようなもんです」

アルコールを飲むと、身体から二酸化炭素が吐き出される。われわれはその匂いが大好きなのだ。

ベンチの男はたっぷりとわれわれの餌食になってしまった。

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

雨が降りはじめたので、われわれは近くのお寺の本堂に逃げ込んだ。

そこには袈裟を着た和尚がお経を唱えて座っていた。

眉も髭も真っ白な、痩せ細った坊主だった。

「お主たち、雨宿りか」

なんと和尚が振り向いたではないか。

「貴様、われわれがわかるのか」わたしは和尚を鋭い眼光で睨(にら)みつけた。

「御仏(みほとけ)に仕える身だからな。お主たちは、人間よりも強いのだろう」

「ほう。よく知っているな」

「“カ”を英訳すると“パワー”だからのう」

「おお和尚、いいことを言ってくれるじゃないか」

「あなた方には、いかなる者もかなわぬよ。降参じゃ。神仏と同じ扱いをさせていただくよ」

「なんと・・・神仏と同じ扱いとは好待遇だな和尚」

和尚はニッコリ笑うと、線香を焚きだした。

紫煙がゆらゆらとあたりに漂うと、和尚はふたたびお経を唱えはじめた。

「おお、なんという香(かぐわ)しい薫(かお)りだ。まるで黄泉の国にいざなわれるようではないか」

カーの軍隊は次々と眠りに落ちて行くのだった。「ありがたい。ありがたい・・・」

「煙(けむ)に巻くとはまさにこのことじゃ」和尚が片目を開けてつぶやいた。

和尚の点けたのは、線香は線香でも『蚊取り線香』だったのだ。

8月21日 噴水の日

 その公園には大きな噴水があった。

噴水は古代ローマでは、富の象徴だったそうだ。

今回わたしは噴水のほとりで待ち合わせをすることにした。

噴水はいい。

マイナスイオンが発生するから、リラックス効果がありストレス解消にもって来いだ。

とくにわたしのような仕事をしている人間にとっては打ってつけの場所だ。

しかも、噴水の水音は周囲の音を遮断してくれる。
盗聴される心配もないし、話に集中できるというのもだ。

わたしは噴水の縁に腰を掛け、新聞を読んでいる若者を見つけた。

連絡した通りだ。額に目印のメガネを架けている。

わたしは男の隣にゆっくりと座った。

「火を貸していただけませんか?」

若い男は怪訝そうな顔をしてわたしを見た。「すみません。タバコは吸わないもので」

「失礼した」合言葉も完璧だ。

わたしはまっすぐ、遠くの砂場で遊ぶ子供たちを眺めながら話をすすめた。

「いいか。今回のターゲットは17歳の女子高生だ」

「え」男は驚いた声を上げた。「あなたは・・・」

「こっちを見るな」

「はい」男は恐縮しているようだ。

「ターゲットが若いからと言ってあなどるなよ。武術の達人だ」

「そうなんですか。でも争わなければ別に問題ないと思いますが・・・」

「まあそうだな。今夜7時にこの住所の家でやってくれ」わたしはメモを渡した。「ひとりの時を狙うんだぞ」

「そうですね、家族がいると邪魔ですからね」

「やり方はきみに任せる」

「ありがとうございます」

「あと腐れないように頼む」

「そんな複雑な関係にはなりませんから」

「報酬はいつもの口座に振り込んでおく」

「はい。助かります」

「次回の依頼まではコンタクトを取ってくるな」

「は?了解しました」

「では行け」

若い男は立ち上がると、会釈をして公園から立ち去って行った。

すると別の男がわたしに近づいて来た。

「遅れてしまって申し訳ない」男は新聞を片手に持っている。

わたしはギョッとして男を見上げた。サングラスを額にかけた屈強な男がそこに立っていた。

「まさか・・・火を貸してくださらんか」

「あいにくタバコは吸わないんでね」

「おまえがヒットマン(殺し屋)なのか」

「はあ?」

「わたしは今までいったい誰と話していたんだ・・・」

「さっき公園を出て行った大学生のことか。あれは家庭教師のアルバイトだろう」

8月22日 チンチン電車の日

「わたくし当社が開発した『女性秘書型AIロボットQR104号』になります」

まるでマネキン人形が動き出したかのような美人ロボットだ。「よろしくお願い致します」と深々とお辞儀をした。

時代も進化したものだ。

今や秘書はロボットを採用する時代になったのだ。

「わたしは営業課長の相馬と言います。よろしく頼むよ」

「相馬課長・・・インプットされています。少年時代にアイドルのレコードを万引きして停学処分になった相馬克也さん」

「おいこら。そんな昔のことをほじくり返すな」

「失礼いたしました」AIロポットが微笑みをたたえながら会釈をした。

こいつなんでも知ってるようで恐ろしいな。

「なんと呼んだらいいのかな・・・QR104号じゃいくらなんでも」

「相馬課長の好きなクラブのホステスの名前はみゆき・・・」

「うるさい。それじゃあ、みゆきでいいやもう」

そうしておけば、寝言でホステスの名前を呼んだとしても、妻にいくらでも言い訳ができるというものだ。

「ありがとうございます。これからみゆきはあらゆることを勉強させていただきます」

「そうか、それじゃあ明日得意先にきみを紹介するから同行を頼むよ」

「お車ですか。AI搭載の電気自動車でしたら運転お任せください」

「チンチン電車だよ」

「チンチン・・・それはもしや卑猥な乗り物では?」

「違うよ。路面電車のことをチンチン電車って言うんだよ」

「なぜチンチン電車と言うのですか」

「それはだな。説が3つあるんだ」

「ご教授ください。インプットさせていただきます」

「警笛をチンチン鳴らしながら走るからという説」

「インプットしました」

「今はいないが昔は車掌が乗っていて、運転手にチンベルを使って合図を送っていた説」

「どのような合図でしょうか」

「ひとつ鳴らすと停留所が近い。ふたつ鳴らすと停留所で降りる乗客がいない」

「インプットしました」

「最期は1980年の上野博覧会で電車が登場するときに、チンチン音を鳴らして会場を盛り上げた説」

「インプット完了です。チンチン電車は全国にあるのですか」

「17都道府県にある」

「インプットしました。ありがとうございます。乗り方は自分で学習しておきます」

「よろしく頼むよ。充電は自分できるんだろう」

「もちろんです。それでは明日お会いいたしましょう」

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翌日、わたしはみゆきを連れて会社を出た。

相変わらずの晴天が続き、真夏の暑さが身にこたえた。

「みゆき。直射日光はだいじょうぶなのか」額の汗を拭いながら相馬が言う。

「UVカットコーティングしてありますので問題ありません」とみゆきは涼しい顔をしている。

ちんちん電車が停留所に入って来た。

「ここは専用軌道ではなく、車と電車が走る併用軌道なのですね」

「よく勉強してあるじゃないか」

「ありがとうございます」

わたしたちは2輛編成の2輛目に乗り込んだ。

電車の中はわりと空いていた。小さな子供が窓から外を見てはしゃいでる。

「?」

みゆきはなぜか椅子に膝を乗せた。

そして立ち膝になり、だらりと両手で窓枠にもたせかけ、窓の外を眺め出した。

「おい、何をしているんだ」わたしは小さな声で叱責した。

「座っていますが」

「バカか。それじゃあ電車に乗ってはしゃいでる子供みたいじゃないか」

「インプットしたチンチンの座り方です」

「それは犬のちんちんだろうが!」

「それは卑猥(ひわい)な言葉ですか?」

8月23日 油の日

 「ちょっと行って来らあ」留吉が油が入った桶を担いだ。

江戸時代、油は照明のほかに食用、理容など様々なものに使われていた。

だから油を売る行商人が繁盛したものである。

留吉はそんな行商人のひとりであった。

「どこへ行くんだい」と女房のお光(みつ)が留吉に声をかける。

「どこへって、商売によ」

「また隣のお富さんのところかい」

「そうだよ」

「やめときなよ。あんた、あそこのご主人とは水と油じゃないか」

「あいつとは金輪際くちをきかねえって決めたんだ。この時刻ならあいつはぜったい家に居ねえはずだ」

「まったく幼馴染のくせに。なんで仇同士みたいになっちまったのかねえ」

「そりゃあおめえ・・・」まさかお富を取り合ったとは口が裂けても言えねえ。

「それじゃあよ。ちょっくら行ってくらあ」

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「邪魔するよ」暖簾をくぐる。

「あら」とお富が縫物をしていた顔を上げる。「ちょうど良かった。そろそろ油が切れる頃だったのよ」

「分かってるって。だから来たんじゃねえか」

お富が奥から油用の大徳利を持ってきた。

留吉は柄杓(ひしゃく)で徳利に油を注ぎ始めた。

金色に光る油が、細い糸を引いて徳利に吸い込まれていく。

これが結構時間がかかる。こうなると当然お客と世間話が始まるのだ。

サボることを“油を売る”と言うのはこの事から始まっている。

留吉は内心お富のことが好きだったから、少しでも長くお富の顔を見ていたい。

細い油の糸を、さらに細くしてダラダラと会話を楽しむのだった。

「昨日はうちのとちょいと夫婦喧嘩しちゃってね」お富が小さく笑う。

「なんでまた」

「ふたりで横丁歩いているとき、若い女が通るたびにあのひと目線が泳ぐのよ」

「へえ、そう言えばおたくの旦那・・・」

「与助がどうかしました」

「今日も嘉納屋に入り浸りだってねえ」

「嘉納屋ですか」

「あそこのおせんていう若い女給仕にご執心だってもっぱらの噂だぜ」

「なんですって!」

「あいつは昔っからそういうところがあるやつでさあ・・・あ、おれからそんな話を聞いたなんてあいつにしゃべらないでくれよ」

「分かってるわよ!それにしても、あの唐変木・・・」

「お、終わったみてえだな。お代は月末に取りにまた来るからよ。じゃあな」

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「あんた、随分時間がかかったじゃないの」お光が留吉を睨んで言った。

「なんのこたあない。いつもの事だって」留吉は素知らぬ顔で言う。

「油売ってたんじゃないでしょうね」

すると隣の家が何やら騒々しくなり、しまいには亭主の悲鳴が聞こえはじめた。

「売ってたよ。油売りだもの。さらに火に油を注いでやったのさ」

8月24日 歯ブラシの日

「夏休みもあと少し。宿題は終わってるのかな」

ぼくは公園で顔見知りのおじさんに声を掛けられた。

「まあね。それよりおじさん歯科衛生士だったんだね」

先日歯医者でおじさんを見かけたのである。

「なんだと思ってたんだ」

「前に“DH”やってるって言ってたから、プロ野球の指名打者なのかと思ってたよ」

おじさんは苦笑いをした。

「それはDesignated hitterのことだろう。わたしはDental hygienistだ」

「男でもなれるんだ」

「もちろんなれるさ」

おじさんは胸を張っている。

「歯医者になれなかったから?」

「グサッ!そういう訳でもないよ。成り行きでなったんだ」

鋭いことを訊いてしまったかもしれない。

「ふうん」

「ぼくはさあ。いつも歯科検診でうまく歯が磨けていないって言われるんだよね」

「いつもどんな歯ブラシを使ってるんだい」

「最近、電動歯ブラシに替えたんだよ。自分で磨くと手が疲れるからさ」

「そうか。わたしの持論を言わせてもらえばだね・・・」

「おじさんの持論?」

「車に例えると、電動歯ブラシは“機械洗車”、歯ブラシは“手洗い洗車”だと思っているんだ」

「どう違うのさ」

「要するに、きみがとても高価な車に乗っているとする」

「フェラーリとかポルシェとか」

「そうだ。もし君がフェラーリに乗っていたら、どっちで洗う?」

「それは手洗いだよ。だって機械洗車だと細かい傷がつくって誰かが言ってたから」

「その通り。だからわたしは大事な自分の歯は、手で磨くことを推奨しているんだよ」

「持論でしょ」

「まあね」

「実際にはどうすればいいの?」

「簡単さ。歯磨きする前にまず濯(ゆす)ぐ」

「歯磨きしてからじゃなくて?」

「汚れやホコリがついたまま車を洗車したらどうなる?汚れが研磨剤になって、車に傷がついてしまうかもしれないだろう。だから先に濯ぐのがいいのさ」

「それも持論でしょ」

「そうだよ。次に大切なのは歯ブラシに歯磨き粉をつけすぎないこと」

「それもボディを傷つけないためなんだね」

「えらい、その通り。それに柔らかめの歯ブラシを使うことだ。ところできみは歯をどこから磨く?」

「どこからって・・・だいたい奥歯からかな」

「上下どっち」

「下」

「上から磨くの方いいと思うよ」

「なぜ」

「汚れが上から下に落ちるからさ」

「それも洗車理論?」

「そして前歯を起点に4分割して磨く。右上、左上、右下、左下と・・・できれば1区域ごと磨いては濯ぐを繰り返す」

「そこまでやるの。すごいねおじさんの理論は」

「洗車のノウハウは他にいろいろある。完全に再現すればするほど完璧なんだ」

「わかったよ。今日からぼくも洗車理論を完璧にやってみるよ」

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夏休みが終わり、ぼくは歯科検診を受けた。

おじさんがぼくの歯を診てくれたのだ。

「おや、だいぶ汚れてるね。きみ最期に歯磨きしたのはいつ?」

「おじさんの言われた通り、洗車理論を実践しているんだ」

「どんな理論」

「洗車に適した日ってのがあるって本に書いてあってさ」

「まさか・・・」

「日差しのない曇った日だから・・・三日前かな」

8月25日 即席ラーメンの日

「裁判長。3分間わたしに時間をください」

「いいでしょう」

※原告:告訴したのは夫 被告:告訴されたのは妻

検察官はポットを持ち上げると、用意していたカップ麺にお湯を注いだ。湯気が立ち上る。法廷内に一瞬カップ麺のかすかな香りが漂った。

フタを戻されたカップ麺は、いま法廷の中央に鎮座していた。

検察官が陳述を始める。

「よろしいですか。被告人の妻は、このお湯を注ぐ行為を料理だと言い放っております。ただ単に、こうしてお湯を注いだだけの行為に対してですよ」

「意義あり!」弁護人が声を張りあげた。

「どうぞ」裁判官は頷いた。

「被告はただお湯を注いだだけではありません。原告の言い分は“お湯を沸かす”という大切な行為をないがしろにするものであります」

「認めましょう」裁判官が促す。

検察官は陳述を続けた。「沸かしたお湯を、カップに注ぐ・・・この行為こそが料理だと被告は言っているのです。果たしてこの行為が、本当に料理と呼べるものでしょうか」

検察官がなにやら分厚い本を取り出して読み始めた。

「ここに一冊の辞書があります。
“料理とは、材料を切り整えて味付けをし、煮たり焼いたりして食べ物をこしらえること”とあります。
被告人はこのカップ麺に対して、材料に手を加えたわけでもなく、煮る焼くなどの調理をくわえたわけでもないのです。これは料理とは言えません」

「意義あり」弁護士が挙手をした。
「原告は“いま述べたことの後に“また、その食べ物のことを指す”という一文を故意に削除して発言したものであります。
このカップ麺は、あらかじめメーカーの食品工場において、材料を加工し、下ごしらえをした食品であり、立派な食べ物として成立していることは事実以外のなにものでもありません!」

3分が経過した。

検察官はおもむろにカップ麺のフタを剥がした。法廷内にカップ麺のおいしそうな匂いが漂い始める。

ざわめきが起こり、だれもが生唾を飲み込んだ。

「静粛に」裁判長の“ガベル”という木槌の甲高い音が、法廷に響き渡った。

裁判長は言った。「判決を言い渡します。本調停は、昼ごはんと称して夫に対しカップ麺を提供した妻の不義理を夫が告訴したものである。そうですね」裁判長が検察官を見た。

「はい。その通りです」

「それでは被告人。カップ麺のお湯をどのように注ぎましたか」

被告人の妻が言った。「ケトルでカップの内側の線まで入れましたが」

「よろしい」裁判長が頷いた。「料という漢字には“測る”、理という漢字には“納める”という意味があるため、料理は“測り納める”ということを指します。つまり、もともと料理は計測する行為を表しています」
裁判長は傍聴席を見渡した。
「ですから被告人がカップの線まで計測してお湯を入れたとなれば、これは立派な料理と言って差し支えないと認められます。
よって、被告人である妻は無罪」

どよめきが起こった。

「ただし、問題はいまこの目の前にあるカップ麺を、どうするかという点にあります」

全員の目がカップ麺に集中する。

「どうでしょう、本官がいただくわけにはいきませんか。なにしろ朝からなにも食べていないので」

検察官が立った。「裁判長。朝食はどうされました」

「ゆうべ家内と些細なことで言い争いをしましてね」

「なるほど・・・どうぞ、お召し上がりください」

「本裁判はこれにて閉廷とします。ああ腹へった」

8月26日 レインボーブリッジの日

「もう会えないのかい」

ぼくは受話器を握りしめた。

「ええ・・・ごめんなさい。さようなら」

彼女の返答は小刻みに震えていた。

「お願いだ。最後にもう一度だけでいい。会いたい。会ってちゃんとお別れを言いたいんだ!」

ぼくは必死に喰らいついた。「頼む。一生のお願いだ」

しばらく沈黙が続いた。そして彼女の声が聞こえて来た。消え入るような声だった。

「・・・分かったわ。よく聞いて欲しいの」

「なに」

「レインボーブリッジがあるでしょう」

「お台場の?」

「そう。明日の夜8時きっかりに、あなたは芝浦ふ頭口から遊歩道を歩いて来て。わたしはお台場海浜公園口から歩き出すから」

「ちょっと待ってくれ。あそこの遊歩道は南ルートと北ルートがあるはずだけど」

「そうよ。あなたとわたしが出逢える確率は2分の1。会えればいいけど、会えなければそれでおしまい」

「運命に従えってことかい」

「そうよ。運が良ければ会えるかもしれない。嫌ならこれでおしまいにしましょう」

「わかった。絶対に行くから・・・会いに行くから」

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

レインボーブリッジは上下二重構造になっている。

上は車専用の道路だ。下は真ん中が電車のゆりかもめ、その両側に車道、そして一番端が遊歩道になっている。

冬は午前10時から午後6時までだが、夏場の今は朝9時から夜の9時まで歩行できるはずだ。

ぼくはユキに会うために、芝浦ふ頭口からエレベーターで7階まで上がった。

風が吹きすさんでいる。

南か北か・・・ぼくは迷ったあげく、北ルートを歩き出した。
距離にして1.7km。片道30分の遊歩道である。

車が通るたびにはげしく揺れる。
橋脚の継ぎ目にトラックが通るたびに、列車が連結する時のようなはげしい金属音が鳴り響く。
ロマンチックな夜景と裏腹に、恐怖が現実味を帯びて襲い掛かるのだ。

橋の中間まで来たが、ユキは現れなかった。

「くそ!南だったのか」

ぼくは目の前が真っ暗になり、出口に向かって走り出した。

お台場まであと480mの地点で標識が目に入る。北ルートP31橋脚にある分岐点だ。

レインボーブリッジ唯一の南北交流点がここだ。

ぼくは階段を飛び降りるようにして下りていった。

巨大なレインボーブリッジが頭上に迫る。それをくぐって階段を駆け上がる。

「よし南ルートだ!」

ぼくは北ルートと並行して走る南ルートを芝浦ふ頭に向かって疾走した。

ぼくは息の続く限り走った。ユキに会いたい一心で。

すると遠く芝浦ふ頭口の出口あたりに、薄っすらユキらしい影が見え始めた。

「ユキ!」

ぼくの声は風に流されて、どこか遠くに飛んでいってしまった。

それでもなんとかユキに追いついた。

心臓が破裂しそうだった。肩で息をするしかない。

ユキが振り向いた。

「ノブユキなの?」

「ユキ!会いたかった。ごめんよひとりにして。あのときは帰って来れなかったんだ」

「ううん、いいのよ。最後に会えてよかった」

ユキはぼくの胸の中に飛び込んできた。

「ほんとうに行ってしまうの」ぼくはユキの顔を見つめた。

「長い間ありがとう。短い間だったけど、ノブユキと暮らせて幸せだった」

「ぼくもだ」

「家族を大切にね」

「うん。ユキのこと、いつまでも忘れないよ」

「ありがとう」

そう言うとユキは温もりだけを残して、水に溶いた絵具のようにかき消えてしまった。

ぼくは子供のように泣き続けた。

どこか遠くで静かに花火が上がりはじめる。
一輪の花火が、夜空に咲いては消えて行く。

人間と暮らした動物は、この世を去ると、虹の橋のたもとで飼い主がやってくるのを待っているのだという。

(アメリカの散文詩より)

8月27日 ジェラートの日

夜の闇にまぎれて、ひとつの影がうごめいている。

屋根から屋根に飛び移り、その動きはまるで敏捷な猛禽類を思わせた。

追手のサーチライトは懸命にその動きを追っていた。
しかしその光線は終始後手に回り、ついぞ影の正体を照らし出すことはできなかったのである。

「くそ!また逃げられたか。怪盗レオナルドめ」口髭をはやした警部が歯ぎしりして悔しがった。

「明日の朝刊でまた叩かれますね。間抜けな警察、またもや犯人を取り逃がす・・・か」と若い警官がぼやいた。

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「ちょうどよかったわ。藍子(あいこ)、真田さんに配達に行っておくれ」

わたしの家は八百屋である。

「ええ。またあ?」

わたしは役所に勤めているのでだいたい定時に家に到着する。

最近、帰宅早々配達をお願いされることが多くなった。

「お母さん。わたしだって疲れてるんだからね」

「そんなこと言ったって、真田さんは上得意先だよ」

「なんで。なんか貧乏くさいひとじゃない」

「あのひと、傷んだ果物やハンパ物を引き取ってくれるんだよ」

「藍子。真田さんに失礼なことを言うんじゃねえぞ」なにやら作業をしていた父が顔を上げ、会話に割って入ってくる。「なにやってるか知らねえけどよ。こちとら大助かりなんだよ」

「ふうん、分かった。いま着替えて来るから」

わたしはクタクタのTシャツに袖を通し、ダメージの入ったジーンズに履き替え、荷台に訳ありの果実の入ったダンボールを乗せて、年季の入った自転車に乗り込んだ。

「たのんだよ」

母が笑顔で送り出してくれた。

わたしは軽く手を振り返して、夕暮れの街へと滑り出して行った。

夕焼けの夏空に、大きな入道雲が黒く浮かびあがる。

沸騰した空気がそよ風に拡散されて行く。気持ちがいい。

真田の部屋はマンションの四階だ。

毎回果物の入った段ボールを持って階段を登るのがつらい。
果実の甘い香りが鼻をつく。箱の中でなにかコツコツ音がする。何?

チャイムを鳴らす。

室内で何かが転がるような音がしてドアが開き、眠気まなこの晃彦(あきひこ)が顔を出す。

「ああ藍ちゃん。きょうも配達してくれたの」

「はい伝票」わたしはサインをもらって早々に立ち去ろうとした。

「ちょっと、冷たいお茶でも飲んでいかない」

晃彦は毎回お決まりの文句で誘ってくる。

(失礼なこと言うんじゃねえぞ)父の言葉が頭をよぎる。

「いただこうかしら。遠慮なく」

「え?」晃彦の方が驚いた顔をした。

「おじゃまかしら」

「驚いたな。初めてリアクションいただきました。さあ入ってくれ」

晃彦はわたしを招き入れるように、大きくドアを開けた。

男のひとり暮らしの部屋は独特の匂いがした。

「そこのソファーでくつろいでくれる」晃彦が指さしたところに、かつてソファーだったと思われる物体が鎮座していた。「スプリングがへたって、ほぼ弾力がないんだけどね」

わたしは腰を下ろした。

晃彦は冷蔵庫から麦茶の入った容器を取り出して、2つのグラスに均等に注ぐ。
そのうちのひとつをわたしの前にさし出した。

「これからご出勤ですか」わたしはグラスを受け取った。

「まあね」

「真田さんはどんなお仕事をなさってるの。工場の夜勤とか、コンビニの店員さんとかかな」

「まあ、そんなところ」

「でも、それだと変だわ。こんなに果物使わないでしょう」

「そりゃそうだ」晃彦は笑っている。「今夜ぬけだして来れる?」

「どこへ?」

晃彦はテーブルの上にあったコースターになにやら書いて差し出した。

「ここにいるから」

コースターには見知らぬ住所が書かれていた。

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

わたしはどうでも良かったが、好奇心の方が打ち勝っていた。

話によると、晃彦の年齢はわたしよりも5歳離れていただけだった。

実はもっと歳が離れているのかとばかり思っていたのだ。

しかも、彼のボサボサの髪の毛の下に、意外にも端正な顔立ちが隠されていることも分かり少しだけ胸がときめいた。

そっと家を抜け出して、自転車にまたがる。

携帯の地図アプリに住所を入力してある。この通り進めばたどり着くはずだ。

しかしこの辺(あた)りはただの住宅街だったような気がする。

携帯の時間を見ると、すでに11時を過ぎていた。

遠くに明かりと人だかりが見えて来た。店があるのだ。

近づいていくとそのほとんどは外国人だということが分かった。

皆一様になにかを食べながら談笑している。

わたしは自転車を店の脇に停めると、店内に入って行った。

「よう、来たね」カウンターの中で晃彦がウインクをしてよこした。

「ここお店だったんだ」

「ジェラテリアっていうんだ」

「店の名前?」

「いいや。本場イタリアのジェラートを食べさせる店さ」

「ジェラートってアイスでしょう」

「初代ローマ皇帝が雪に蜜を混ぜて食べたのがはじまりと言われているんだ。アイスクリームとジェラートとはちょっと違うんだよ」

「どんなふうに?」

「アイスクリームは乳脂肪分が8%以上あるけど、ジェラートは4%から8%の間なんだ。空気の混合率がアイスクリームより少ないからさっぱりしている。南フランスの人は真夏には毎日食るデザートさ」

「そんなことより、どうしてこんな夜中に営業しているのよ」

「お姉えちゃん。昼間の暑いときに食べたらすぐに溶けちゃうじゃないか」気のいいお客のひとりがわたしに言った。

「なら冷房の効いたお部屋で食べたらいいじゃない」わたしも負けじと言い返す。

「おれたちイタリア人はそんな人工的な涼しさの中で、ジェラートを食べてもちっともおいしくないのさ」別の中年男性が笑う。

「藍ちゃん。このそばにイタリア大使館があってね、このへんはイタリア人が多いんだ。彼らは夕食のあとにジェラートを食べるのが習慣なんだよ」と言いながら晃彦はジェラートを次々と作っていった。

「そうか。それで桃やイチジクやいろんなフルーツを使っていたのね」

「その通り」晃彦が手をたたく。

「お姉ちゃん。ここのピスタチオとチョコチップのジェラートは絶品だぜ。一度食べてごらん。本場にも負けない味だ」

「そうね。それじゃあ、桃とイチジクに生クリームをのせて」

晃彦がウインクをする。

「真田さん。あとそれにルビー色の氷をのせてくださる」

真顔の晃彦が、何か言いたげにわたしを見つめた。

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

「それで、宝石の密輸ルートは解明できたのかね」と髭の警部は藍子に言った。

「そうですね。どうやらアイスに混ぜて運んでいたようなんですけど・・・」

「アイス?」

「ジェラートです」

「それで怪盗レオナルドの正体が分かったのか」

「そこまではつかんでいません」

「そうか。引き続き捜査を続行してくれ」

「了解しました警部殿」

藍子は敬礼してドアを閉め、深くため息をついた。

まさか自分の父親が怪盗レオナルドだとは思ってもみなかったからだった。

8月28日 ヴァイオリンの日

「これが被害者だね」

岡部警部は床にうつ伏せに倒れている若い女性の遺体を調べ始めた。

女性の左腕の先には一挺(ちょう)のヴァイオリンが転がっている。

右手には弓が握られたままだ。

「触ってもいいかな」

「どうぞ」近くにいた鑑識官が答えた。

被害者はブルージーンズに七分袖の薄いクリーム色のタートルネックのセーターを身に着けていた。

「警部。この真夏にタートルネックなんておかしくないですかね」と部下の川野刑事が訊いた。

「川野。ここを見てごらん」

岡部警部は被害者のタートルネックをずらして川野に見せた。

「これは・・・キスマークですね」

「これだけの美貌だ。このお嬢さんにぞっこんなボーイフレンドが、一人や二人いてもおかしくないだろうよ」

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

「なるほど、あなたと女給(メイド)の篠宮さんが彼女の部屋の前を通りかかったときに、突然銃声が鳴ったというのですな」

岡部刑事は被害者の弟、上山田斗真(かみやまだとうま)に聴き取り調査を開始した。

「はい。姉の美那子(みなこ)は自室で来月のリサイタルで演奏するはずだったバッハの曲を練習していたのです」

斗真は悲しみをこらえるように口を長い指で覆った。

「それで思わずドアを開けて部屋に飛び込んだ。そしてお姉さんが倒れているのを発見したと・・・犯人の姿をご覧になりましたか」

「窓から逃げたのだとは思います。でもとっさの事だったので、なにも覚えていません」

「そうでしょうな。女給の篠宮さんも同じことを言っていましたよ。しかし残念ながら、窓にも庭にも犯人の指紋はおろか足跡らしきものも残っていませんでした」

「刑事さん。姉はなぜこんな目にあってしまったのでしょうか」

「いま捜査中です。どうやら盗まれた物もないようなので、物盗りの犯行ではなさそうです」

そこへ受給の篠宮節子がお茶を運んで来た。

「あ、ちょうどよかった、篠宮さん。ここの部屋の合鍵は誰が持っていましたか」

節子は斗真の顔を見た。

「ぼくが持っていましたが、それが何か」斗真が節子をかばうように言った。

「いえとくに。それ一本だけですか」

「そうですが、犯行当時、部屋の鍵はかかっていませんでした。それがどうしたというのですか」

「いや失礼しました。大したことではありません。一応お伺いしただけです」

「篠宮さん。もう下がっていいよ」斗真が言うと、節子は丁寧にお辞儀をして部屋から出ていった。

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

「どうしました」川野が岡部の顔を覗き込む。

「いや・・・なにか気にかかるんだ」

「遺産相続の件ですが、姉の美那子亡き後は斗真ひとりが相続人になるようです。しかも斗真はサラ金から借金をしていることがわかりました」

「どのぐらい」

「かなりの額です」

「ま、いいや。きみはそのまま斗真と被害者の男性関係、それから外部侵入者の線で捜査を進めてくれ」

岡部は手を振って出て行こうとする。

「警部はどちらに」

「音楽スクール」

「楽器でも習いに行くんですか」

「そう。ちょっとヴァイオリンをね」

「警部がですか」

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

「先生。ちょっと基礎から教えていただきたいのですが」

「どうぞ。岡部さんでしたっけ・・・それにしても、どうしてそんな恰好を?」

岡部はジーンズの上に黒いタートルネックのセーターを着こんで立っていた。

「すみません。夏ものがなかったもので、しょうがなく冬物を着てきました」

「まあ、それはどうでもいいですけど・・・暑くありませんか?」

「だいじょうぶです。少々暑いですけど」

「ただ、言っておきますけど、普通ヴァイオリンを弾くときにそういうセーターは身につけませんよ」

「どうしてですか」

「ヴァイオリンを構えてみてください」

「こうですか」

「そう、首に挟んで・・・そして弓を激しく上下に動かしてごらんなさいな」

「こうして・・・あれ」

「ほら、ヴァイオリンが滑ってしまうでしょう」

「本当だ」

「だからヴァイオリンを弾くときには首回りの開いている洋服でないといけません」

「練習でもですか」

「もちろんです」

岡部は周りの生徒を見回した。彼女たちの大半は、左アゴあたりには美那子と同じような痣(あざ)があった。

「そうだったのか。ありがとうございます。失礼します」

岡部は教室を駆け足で出て行った。

「あの岡部さん。レッスンは・・・」

岡部は川野に携帯電話をかけた。

「はい川野」

「川野か。あれはキスマークなんかじゃない。ヴァイオリニスト特有の痣だ」

「それじゃあ」

「彼女は犯行時ヴァイオリンを弾いていたんじゃない。その前に消音機つきのピストルで撃たれたんだ」

「でも斗真の証言だと、部屋の前で銃声がして演奏が止んだと」

「音楽データを部屋のオーディオにBluetoothで飛ばしたんだよ。そして銃声の音を再生と同時に音楽を止めたんだ」

「それじゃあ犯人は」

「女給の篠宮節子だ」

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

後の調べでは、節子の幼い頃、上山田財閥の借金により両親が焼身自殺をした経緯があったとのことである。

8月29日 焼肉の日

「なぜ世の中に焼肉屋が多いかわかるかね」

新しい焼肉屋をオープンさせたチョビ髭のオーナーが、メガネをかけた背の高い店長と話をしている。

「人気があるからじゃないですか」

「それはそうだが、一番のポイントはシェフを雇わなくていいからだ」とオーナーが目くばせをした。

「へえ。そうなんですか」

「フレンチやイタリアンや寿司屋なんかはシェフがいないと営業できないが、焼肉やお好み焼きなんかは基本的に客が調理してくれるだろう。店は頼まれたものをテーブルに運べばいいだけ。簡単だ」

「なあるほど」

「しかしだ。こう焼肉屋が増えたのでは競争が激化してしまう」

「それはそうですね」

「どうすればいいと思う」

「オーナー。安さと品質で勝負って言いたいんでしょう?」

「アホか。当たり前のことを言うな。これからの焼肉屋はハイブリッドの世界に入るのだ」

「ハイブリッド・・・なんか車みたいですが」

「驚くなよ。今回わたしの考案したのは、焼肉店とケーキ屋のハイブリッドなのだ」

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

「いらっしゃいませ」

店はパステルカラーで思いきり可愛い装飾で飾り立てられていた。
まるでおとぎの国のようである。

サラリーマン風のお客はきょろきょろして席に着いた。

「あの・・・ここ本当に焼肉屋なんですか?」

手には街で配ったサービス券が握りしめられている。

「そうですよ。メニューをどうぞ」ヒラヒラのフリルが付いたドレスを身にまとったウエイトレスがにっこりと笑った。

なるほど、たしかに焼肉のようだ。

「それじゃあ、カルビとロースを一人前。それと生ビールを」

「ごめんなさい。当店はビールは扱っておりません。ワインかシャンパンならございますが」

「ええ!焼肉屋なのにビールがないの。それじゃあ赤ワインのグラスでいいや」

「はい。赤ワインにハラミもいかがですか」

「ポテトもいかがですかみたいな言い方だね。じゃあそれも」

「ありがとうございます」

しばらくすると皿に乗った肉とワインが運ばれてきた。

サラリーマンはテーブルに設置された七輪の上にカルビやロースを置いていく。

肉が焼ける音と共に、おいしそうな匂いをまとった煙が立ち上る。

「ウエイトレスさん」

「はい」

「タレをください」

「失礼しました。いまお持ちします」

ウエイトレスが持ってきたものを見て男は仰天した。

「これはなんですか」

「黒いのはチョコレートソースで、赤いのはイチゴジャム、白いのは生クリームとマスカルポーネチーズを混ぜたソースになります」

「・・・・・・あの、塩とかコショウとかあったらいただけますか」

「あいにく当店にそのようなものはございません。あ、ハチミツならご用意できますが」

「はあ・・・そうすると白飯なんてもちろん置いてない?」

「はい。スポンジケーキかビスケッツならございます」とウエイトレスが自信満々に答えるのだった。

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

店を出たサラリーマンは、無性にビールと牛タンに白飯が食べたくなっていた。

見れば、道路の向かい側に赤い看板の焼肉屋があるではないか。

おもわず男は飛び込んだ。「ビールと牛タンをネギ塩で、それに白飯をくれ!」

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

「ほらな。入って来ただろう。これが新しい焼肉屋の形態だ」

「オーナー、勉強になります」

8月30日 冒険家の日

「どうして8月30日を冒険家の日っていうのかな」と多胡助(たこすけ)が優子に訊いてきた。

「それはね、過去に奇跡的に達成された冒険が、偶然の8月30日だったからよ」

「どんな冒険なんだろう」

「まずは1965年(昭和40年)同志社大学の遠征隊が、アマゾン川源流のボート下りに成功したの。そして1970年(昭和45年)植村直己がマッキンレー単独登頂に成功。1989年(平成元年)に堀池謙一が世界最小ヨットで、太平洋単独横断に成功。これらすべてが偶然8月30日だったのよ」

「へえどれも命がけの冒険だね」多胡助は感心して頷いた。

「そういう多胡助も毎日ボーッとしてないで、たまには冒険でもしてみたらどうなのよ。少しはまともな人間になれるかもしれないわよ」

「おいおい、それは酷い言い草だな。そもそも冒険の定義とは何?」

優子は満面の笑みを作って言った。「冒険とは、成功するかどうか分からないことを、勇気を出してあえて行うことを言う」

「ううん」多胡助は腕組みをして、しばらく空を仰いでいたが、なにか閃(ひらめ)いたように優子を見つめた。

「それなら既にやってるような気がする」

「何を」

「ぼくは“今日は何の日”をテーマにして、365日の短編小説を毎日書いてるんだ」

「それが冒険?」

「そうさ。誰だって一度は考えつくけど、実際にやろうと思う人はいないと思うよ。ある賢者は言った。『短編小説には手を出すな』ってね」

「どうして」

「短編とは言え、それを書く手間は長編とたいして変わらないんだ。その割に完成してからの実入りは少ないときている。バカバカしいから誰もやろうとしないんだ」

「ふうん。ところで多胡助、あれって小説だったの?」

「今までいったいなんだと思ってたんだよ」

「ううん・・・ただの暇つぶしなのかと。それが終わったらどうするの」

「そうだな。きみに果敢にアタックしてみようかな」

「多胡助くん。それは冒険とは言わないわよ」

「どうして」

「よく考えてみて・・・」

「?」

8月31日 I Love Youの日

 妻からLineメッセージが来た。

今日どこへ行ったとか、隣の夫婦が別れたとか、娘がだれと砂場でケンカをして泣いたとか。

そんな細々したことを書いてある。

ぼくの仕事の帰りが遅いから、暇をもて遊んでいるのかもしれない。

時計を見ると、8時を回ったところだった。

あとは明日にして、今日はこれで帰ろう。

ぼくはオフィスを後にした。

夜のオフィス街は蒸し暑かった。

昼間の熱気がまだ空気中に漂っているのだろう。

ぼくは電車に乗った。つり革につかまりながら、もう一度妻のLineを再読してみる。

おや、最後の数字はなんだ?

数字で831と打たれている。それ以外なにもない。

ぼくは検索エンジンで831と打ち込んでみた。

831とは、8文字の言葉を3つの単語で3つの数字に表現したものだという。
すなわち、I LOVE YOU(8文字3単語3数字)の意味なのだそうだ。

なんとシャイな女だ・・・ぼくは苦笑した。

帰宅すると妻が何食わぬ顔で「おかえりなさい。ご飯にする、それとも先にお風呂?」と訊いてきた。

ぼくは妻をそっと抱き寄せて、娘の前でも構わずにキスをした。

「どうしちゃったの。なにかあった」妻がうるんだ目をしてぼくを見た。

「これ」ぼくは携帯電話の画面を妻に見せた。

「あら、これ。このあいだ決めた、帰りに野菜(831)買ってきてっていう暗号じゃない」

 あとがき

最後までご覧いただきましてありがとうございます。

この物語はフィクションです。

登場人物、団体などはすべて架空のものです。

まれに、似通った名称がございましても関係性はございません。

参考文献・サイト等

浜松市エネフィーブログ 私生活の中のあるあるネタ集♪♪(花火大会編) https://blog..enegene.co.jp/know-how 参照日:2023.12.5

ウィキペディア カレーうどん https://ja.wikipedia.org/wiki/カレーうどん 参照日:2023.12.6

みんなのハチ駆除屋さん 【意外と知らない】ミツバチの生態と一生、不思議な習性を徹底解説! https://minhachi.jp/knowledge/mitsubachi-ecology.html 参照日:2023.12.7

ウィキペディア 広島市への原子爆弾投下 https//ja.wikipedia.org/wiki/広島市への原子爆弾投下 参照日:2023.12.10

グローバル ビューティー クリニック 鼻の形で見た目の印象は左右される!12の鼻タイプをご紹介!! https//global-beauty-clinic.com/column/no3 参照日:2023.12.11

ユキミの「ちょっと聞いてくれよ」 鼻が低い人あるあるって話 https://yukimi-kittan.blog.jp 参照日:2023.12.11

プログラマーの格言(盗作多し) https://www2.biglobe.ne.jp 参照日:2023.12.12

STUDY HACKER 頑張って「バカを見る人」と「見ない人」の決定的違い。“4つのコツ”で正しい頑張りができるようになる。 https://studyhacker.net/ganbaru-theory 参照日:2023.12.13

キタコイ 【函館】100万ドルの夜景に隠された「ハート伝説」知ってる?函館の夜景にまつわるアレコレを徹底解説! https://www.kitakoi.info/other/hakodate-nightview-2 参照日:2023.12.14

フィリラン なぜ外国人は生ものが苦手なのか?答えは和食文化にあった! https://foreignlang.ecc.co.jp/know/k00027 参照日:2023.12.15

京都をつなぐ無形文化遺産 京都のほぼ300文字講座 https://https://kyo-tsunagu.city.kyoto.lg.jp/gyoji/tsunagu300 参照日:2023.12.15

日本単独野営協会 最近蔓延している「パイナップル現象」について https://tandokuyaei.com/1953 参照日:2023.12.16

すえつぐ動物病院 人の命を奪った動物ワースト10! https://www.suetsugu-ah.jp/news/2020/01/10 参照日:2023.12.19

SHARP 蚊ってこんなものが好きだった!? https://jp.sharp/kuusei/trivia/ 参照日:2023.12.19

鉄道新聞 どうして路面電車のことをチンチン電車と呼ぶの? https://tetsudo-shimbun.com/article/question 参照日:2023.12.21

Speciale Magazine プロが教える手洗い洗車のやり方!自宅で洗車する時の方法やコツを写真付きで徹底解説! https://mag.speciale-shop.com/zitaku 参照日:2023.12.22

オリーブオイルをひとまわし 意外と知らない「調理」と「料理」の違いってなに? https:///www.olive-hitomawashi.com 参照日:2023.12.24

no+e23 レインボーブリッジの完璧な歩き方 https//note.com/shinsukeatodaiba 参照日:2023.12.25

子犬のへや 虹の橋~原文と日本語訳 https:///www.koinuno-heya.com/rouka/rainbow-bridge-poem.html 参照日:2023.12.25

BELCY 「831」という数字には恋愛的な意味が?隠語を使っておしゃれな愛のメッセージを https://belcy.jp 参照日:2023.12.25

著者紹介
杉村 行俊

【出   身】静岡県焼津市
【好きな分野】推理小説
【好きな作家】夏目漱石、村上春樹
【好きな作品】『三四郎』『ノルウェイの森』
【趣   味】ゴルフ、ギター等
【学   歴】大卒
【職   業】自由人
【資   格】宅建士、MOSマスター、情報処理2級、ITパスポート、フォークリフト、将棋アマ3段
【創   作】『365日の短編小説』

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